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ルーク4のブログ

神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

「日本におけるキリスト教の真実 ㊼ 2025年7月に日本沈没とハルマゲドン預言について」

 

今日は緊急に2025年7月5日に日本の三分の一が大津波で沈没するという予言とエホバの証人のハルマゲドンの教えについて見ていきます。

 

数日前に私の友人が電話で「2025年7月5日に日本の半分は大津波で沈没する」という話を聞かされました。

 

友達は信じて、安全な長野県に行くそうです。

昨日の朝のワイドショーでも話題になっていました。

 

 

その話の元が次の通りです。文春オンライン2022年12月より引用

作者のたつき諒さん本人がインタビューで、1999年にマンガ家引退を決めた時からの話です。

 

「その後は結局、ネタ切れでマンガ家引退を決めました。担当だった編集長にその意思を伝えると「最後にうちで発表した作品をまとめて単行本にしよう」と言ってくれて、夢日記を元にしたマンガも収録されることになりました。

 

 単行本の表紙絵は、締切前日にはほとんど出来上がっていました。絵柄は女性の周りに数枚、白い紙を描き、そこに自分の夢日記の絵と文字を描き込んでいました。

 

ただ1枚だけ空白のままだったんです。何を描こうかギリギリまで悩みました。

 

 その夜、奇妙な夢を見ました。映画のスクリーンのような真っ白なところに文字が表示されたのです。

 

「大災害は2011年3月」

 

 目が覚めた時、「これを書いちゃおう」とひらめいて、空白だったところにこの文言を書きました。もしかしたらということもあり得るし、書かないで後悔するよりは、と思ったのです。それが引退前最後のペン入れとなり、『私が見た未来』の表紙絵が完成しました。

 

ちょうど1999年7月のことで、同月中に人類滅亡の日が訪れるとされた『ノストラダムスの大予言』が話題になっていましたが、それは意識していませんでした。

 

 ただ、編集者は嫌がっていましたね。「なんでこんな未来予知みたいなことを描いちゃったの。外れたらどうするの」と。

 

当時は2011年なんて10年以上先ですから、それまで覚えている人はいないはず、となだめましたが、ウーッと唸られてしまったのを覚えています。

 

マンガ家を引退した後は、コンピューターグラフィックや医療事務、建築関係など、だいたい1年単位でいろんな仕事をしてきました。

 

忙しい日々を送るうちに2011年3月を迎え、東日本大震災が発生しました。大きな揺れの中で「あの夢の年月どおりだ!」とは……全然思わなかったです。自分で書いたことさえ忘れていましたから。

 

 ですから、単行本の表紙の「的中」に最初に気づいたのは、私ではありません。

 

震災からそれほど経っていない頃に「夢が当たっていたとインターネットに載っていたよ」とか「一部の人が騒いでいるみたいよ」と人から聞いて思い出しましたが、「ふーん、そうなんだ」と受け流しました。その時はすぐに沈静化したようでしたし、そのまま忘れられていくだろうと考えていたのです。

 

 状況が変わりはじめたのは、2020年のことでした。

私は「やりすぎ都市伝説」(テレビ東京系列)というテレビ番組が好きなのですが、その番組を観ていたら『私が見た未来』が映し出されたのです。

 

表紙の予言が当たった、と紹介されました。表紙の一部が隠されてはいましたが、「私のマンガだ」とすぐにわかりましたし、予期せぬ出来事に衝撃を受けました。

 

 番組スタッフが私に事前連絡を取ろうとしても、連絡先はわからなかったと思います。本の発行元(朝日ソノラマ)は既になくなっていたからです。

 

 テレビの影響は絶大でした。放送後、甥や姪がスマホの画面を示して「こんなに騒がれているよ」と教えてくれました。彼らの子どもたちが中高生だったのですが、学校でも話題になっていたといいます。

 

ところが、騒ぎに乗じて、たつき諒のなりすましが現れました。

 

姪から「たつき諒を名乗ってデタラメなことを言っているやつがいるよ」と言われてネットを見てみると、私ならしないような発言を繰り返していました。

 

2021年には、写真週刊誌やオカルト情報誌などのメディアにも登場するようになりました。

 

偽者がいる以上、私が本人だという証明をしないといけません。ペンネームと本名の記載がある確定申告の書類と、生原稿をお見せして、納得してもらいました。

 

この出会いから、『私が見た未来』の復刻が急ピッチで動き出したのです。

 

2021年7月、『私が見た未来 完全版』の締切前に、また夢を見ました。1999年の時と同じように、映画のスクリーンのようなところに黒文字でこう表示されたのです。

 

「本当の大災難は2025年7月にやってくる」

 

 さらに今回は、震源地らしき海底がボコンと盛り上がる様子が夢に出てきました。この時、昔マンガに描いた夏の津波の夢は、実は東日本大震災ではなくこのことなのかな、と思いました。

 

東日本大震災の3倍はあろうかという大津波でしたから。

 

引用以上

 

 

知恵袋の回答に次のようなことが教えていました。

 

「たつき諒氏の2025年7月5日に関する大津波予言について、科学的観点から検証します。

 

この予言ではフィリピン沖の水深5000mに沈む水爆の爆発が津波の原因とされていますが、現実的な可能性は極めて低いと考えられます。ただし、爆発の条件を変えた場合の影響について以下のように整理できます。

 

水深5000mでの水爆爆発の可能性

水深5000mという深海では、爆発の衝撃波が水によって大幅に吸収されるため、水面までエネルギーが伝わりにくい。

 

米国の水爆実験データによると、深海爆発では津波の波高が爆発深度とエネルギー量に依存するが、大規模津波を発生させるには不十分な条件。

 

東日本大震災のエネルギーは広島原爆の31,000倍に相当し、100メガトン級爆発でもこの1/310に留まる。」

 

引用以上

 

 

毎日新聞の2024年7月1日の夕刊の記事です。

 

あの大予言の再来か。「2025年7月5日、地球に隕石(いんせき)が衝突する」。そんな説がネット空間で広がっている。

 

人類滅亡なら大変だ。残り1年のカウントダウンを前に、終末予言の真偽と広まる世相を、一家言ある専門家と真面目に考えてみた。

 

今回流布する説はこうだ。隕石は太平洋のフィリピン沖に落下。大きさは不明だが、衝撃で大津波も起き、日本をはじめ周辺諸国に被害が出るらしい。

 

引用以上

 

 

最近、報道番組では次のように報道されて騒ぎが拡大しています。

 

『私が見た未来』は元々、1999年に刊行されたコミックスで、その表紙に“大災害は2011年3月”と書かれており、後に東日本大震災と重なったことで「大震災を的中させた」と話題になった。

 

そのような経緯もあり「7月に日本に行くのは危険」「旅行中に大地震が起きたら、どこに避難すればいいのかも知らないから怖すぎる」と、香港では実際に日本行きの飛行機の予約が3割減少した。

 

 

この2025年7月の未曾有の大津波による日本沈没予言は、日本列島の三分の一の太平洋側は沈没します。

 

私が生活している大阪府はすべて沈没ですので、助かることはありません。

 

なので、この予言を信じれば、今月末までに避難して、安全な日本海側の高いところで7月を過ごさなければなりません。

 

 

さて、私はこの予言は信じてしまう人が多くなる要素が揃っていると思いました。

 

まず1999年7月に2011年3月に大災害が起きると予言して、見事に当てていること。

 

そして、予言をしたマンガ家のたつきさんが純粋な人のようだからです。

 

さらに、前回とまったく同じで締め切り前に夢で具体的に表示されたことです。

 

水爆の話や隕石の話は、勝手に誰かが付け加えたものですが、そういうこともあり、信じてしまう人は増加しています。

 

 

そして、この2025年7月の大津波による日本沈没の予言を信じるか、信じないかということですが、

 

私自身は信じていません。

 

と言いますのは、私は今年からよく、イエスさまからブログ記事に必要な聖書箇所をよく教えられるのです。

 

前回の「献金」に対する聖書箇所も教えられました。

 

それが、コリント信徒への手紙第二12章14~17節であり、

教会の自称使徒たちは、使徒パウロがだまし取っているという噂を流しました。

 

実際は、自称使徒たちが、教会のクリスチャンたちから「金銭」などを頂いていて、頂かなかったような顔をして高ぶり、既に大金持ちになっていることを、使徒パウロは指摘しています。

 

「こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。(コリント信徒への手紙第二11章13節)」

 

つまり、教会で「献金」を行なっている行為は、偽使徒、ずる賢い働き手ということを証明していることになります。

 

この聖書箇所による聖書解釈と福音理解を聖霊によって教えてもらったのです。

 

 

他にも何度も朝毎に教えて頂いた聖書箇所によって、プログ記事を書いています。

 

それは次の聖書の教え通りです。

 

「あなたがたには聖なる方からのそそぎ油があるので、だれでも知識を持っています。」

 

「 私は、あなたがたを惑わそうとする人たちについて以上のことを書いて来ました。

 

あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。

 

それで、だれからも教えを受ける必要がありません。

 

彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、—その教えは真理であって偽りではありません

 

—また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。

(ヨハネの手紙一2章20,26~27節)」

 

「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。

 

しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。

 

わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。

 

わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。 

(ヨハネによる福音書14章25~27節)」

 

 

今年の4月に神さまの導きで、信仰の友に絵本を描くことを提案しました。

 

その解き明かしも与えられたので、すぐに分かち合いたかったのですが、神さまからすぐにではなく、つまり4月ではなく、7月31日が示されたので、7月31日に決めたのです。

 

信仰の友もその日を大歓迎しました。

その信仰の友も大阪府で生活しています。

 

そして、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教えてくださるという信仰で生きています。

 

なので、今年の7月31日は大阪府の信仰の友のところへ行き、素晴らしい良き知らせを分かち合って、喜び合うことになっています。

 

ちょうど、日本沈没の予言は2025年の7月なので、7月31日には、その予言が正しいかがわかります。

 

 

さて、私自身は、人からの予言を信じることはなく、神さまが自分自身に教えてくださることを信じます。

 

そういう時に、エホバの証人の訪問がありました。

3度目に長老を連れて、やって来ました。(^^♪

 

エホバの証人といえば、ハルマゲドンでエホバの証人以外は皆、大災害で滅ぼされるという教えです。

 

震災や戦争が起こる度に「もうすぐハルマゲドンだ!」と歓喜するそうですね。

 

元エホバの証人の信者さんたちがSNSで発信しています。

 

次は、エホバの証人の長老さんとの聖書の教えのやり取りを伝えます。

 

すごく面白かったです。

 

そして、ハルマゲドン、大災害についてですね。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教の真実 ㊻ 教会と家族を築き上げることについて」

 

今回は異邦人の地に行って、教会を築き上げた使徒パウロの教えを見ていきます。

 

その異邦人のための教会を築き上げるために最も重要な教えが次の通りです。

 

「わたしはそちらに三度目の訪問をしようと準備しているのですが、あなたがたに負担はかけません。

 

わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。

 

子は親のために財産を蓄える必要はなく、親が子のために蓄えなければならないのです。

 

わたしはあなたがたの魂のために大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう。

 

あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか。

 

わたしが負担をかけなかったとしても、悪賢くて、あなたがたからだまし取ったということになっています。

 

そちらに派遣した人々の中のだれによって、あなたがたをだましたでしょうか。

(コリント信徒への手紙第二12章14~17節)

 

 

特にこの教えが教会と、また親子の関係を築き上げるための真髄であり、中核であり、土台です。

 

「子は親のために財産を蓄える必要はなく、親が子のために蓄えなければならないのです。

 

わたしはあなたがたの魂のために、大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう。」

 

その理由が「あなたがたを愛すれば愛するほど」ということです。

 

つまり「愛」が源です。

 

その源から愛の泉が湧きあがることが、

あなたがたの魂のために、大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう。という行ないになります。

 

その行ないによって、その人のうちに「愛」があることがわかります。

 

「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。

その中で最も大いなるものは、愛である。

(コリント信徒への手紙第一13章13節)」

 

 

それから、教会を築き上げる使徒は、教会のクリスチャンたちに負担をかけません。と断言しています。

 

また当然に、家族を築き上げる親は、子どもに負担をかけることはありません。ということでもあります。

 

この教えも教会と、また家族を築き上げるのに重要であり、大切であり、不可欠なことです。

 

 

それでは、異邦人の地における使徒パウロが教会を築き上げたことを見てみましょう。

 

コリントでの宣教活動です。

 

「その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。 ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。

 

クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。

 

パウロはこの二人を訪ね、 職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。

 

その職業はテント造りであった。

 

パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。」

 

「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。 わたしがあなたと共にいる。

だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。』

 

パウロは一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。

(使徒言行録18章1~4節&9~11節)

 

 

次はローマの宣教活動です。

 

「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、

全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。

(使徒言行録28章30節)

 

 

このように、パウロは、テント職人として働きました。

 

そして安息日にユダヤ教の会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていました。

 

それから、テント職人で働いた自費で家を借りて、そこが教会となりました。

 

 

気がついたと思いますが、ユダヤ教は会堂で礼拝しましたが、キリスト教の教会は、礼拝堂はなく、家に集まることでした。

 

異邦人におけるキリスト教は献金はなく、信徒に負担をかけないようにしたからです。

 

「また、彼らの家に集まる教会の人々にもよろしく伝えてください。(ローマの信徒への手紙16章5節)」

 

 

使徒パウロは異邦人の地で教会を築き上げるのに、献金を要求しませんでした。

 

しかしながら、エルサレム教会が危機的状況に陥ったのです。

エルサレム教会は、すべての持ち物と財産を捨て去ります。

しかし、その方法は、イエス・キリストを信じる人が滞れば、たちまち困窮します。

 

周りは敵だらけです。大祭司、律法学者、パリサイ人たちはキリスト教を滅ぼそうとしています。

 

また、病気を治す働きによって、必要な物が与えられますが、それも飢饉の時期になれば、人々は与えたくても与えられない状況になります。

 

 

そして、異邦人の教会の信徒たちが自分から進んで、聖なる者たちを助けるために献金を始めたことが次のように書かれています。

 

「わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、 聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。

 

この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。

 

あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。

 

だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。

 

進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。

 

他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。

 

あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。

(コリント信徒への手紙第二8章3~4、10~14節)

 

 

しかしながら、教会の自称使徒たちは、使徒パウロがだまし取っているという噂を流しました。

 

実際は、自称使徒たちが、教会のクリスチャンたちから「金銭」などを頂いていて、頂かなかったような顔をして高ぶり、既に大金持ちになっていることを、使徒パウロは指摘しています。

 

「こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。(コリント信徒への手紙第二11章13節)

 

 

このように、聖書が教える異邦人の教会(クリスチャンの集まり)を築き上げることとは、どういうことかを具体的に教えています。

 

さて、この聖書の教えを忠実に行っている教会は、どこにありますか?

 

私の経験では、残念ながら「そんな教会がどこにあるのか?」と答えるしかありません。

 

むしろ、「偽使徒、ずる賢い働き人が大勢いるではないか!」という訴えが聞こえてきそうです。

 

 

最後にエホバの証人の新世界訳聖書からも引用して伝えます。

 

「私がそちらに行く用意をしたのは,これで3度目です。このたびも私は負担を掛けないようにします。

 

私が求めているのは皆さんの持ち物ではなく,皆さん自身だからです。

 

子供が親のために物を蓄えるのではなく,親が子供のために蓄えるべきなのです。

 

私は喜んで皆さんのために尽くし,何もかも差し出します。

 

私は皆さんをこんなにも愛しているのに,それほどには愛されないのでしょうか。

 

たとえそうだとしても,私は皆さんに負担を掛けませんでした。

 

(コリント​の​クリスチャン​へ​の​第​二​の​手紙12章14~16節 新世界訳聖書)

 

親が子供のために蓄えるべきなのです。

 

私は喜んで皆さんのために尽くし,何もかも差し出します。

 

私は皆さんをこんなにも愛している

 

 

さてエホバの証人の、統治体、長老、巡回監督、親たちは、この聖書の御言葉に従っているでしょうか?

 

現実は聖書の教えと真逆で、元二世信者たちの相当めちゃくちゃ深く傷ついた犠牲の声であふれています。

 

 

次回は前述の聖書の教えを忠実に行った信仰者たちの証を見ていきます。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教の真実 ㊺ 聖書が教えるクリスチャンと献金について」

 

予想通りに、前回の「献金」についての記事に異議を申し立てる牧師やクリスチャンが多いようです。

 

なので、初めから聖書の教えを確認していきます。

 

「イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。

 

むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。

 

病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。

 

ただで受けたのだから、ただで与えなさい。 帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。

 

働く者が食べ物を受けるのは当然である。

(マタイによる福音書10章5~10節)」

 

このイエスさまの教えは、弟子たちはイスラエルの家を訪問して、「天の国は近づいた」と宣べ伝えて、無料で、病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いました。

 

すると、その家の人は喜んで、そのお礼に食べ物をくださるので、その食べ物を受けるのは当然ですと教えられました。

 

 

そして、「働く者が食べ物を受けるのは当然である。」という教えを、使徒パウロも教えて、実行しました。

 

「主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。 

 

しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。(コリント人への手紙第一9章14,15節)」

 

「ときに、プブリウスの父親が熱病と下痢で床についていたので、パウロはその家に行って祈り、手を置いていやした。

 

このことがあったので、島のほかの病人たちもやって来て、いやしてもらった。

 

それで、彼らはわたしたちに深く敬意を表し、船出のときには、わたしたちに必要な物を持って来てくれた。

(使徒言行録28章8~10節)

 

使徒パウロもマルタ島で家に行き、病人たちを癒したことによって、島の人々が喜んで、必要な物をくださったことがわかります。

 

 

使徒ではないのですが、クリスチャンのフィリポも同じく、サマリアの町で、悪霊を追い出し、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしたことによって、町の人々が喜んでいます。

 

「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。 フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。

 

群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。

 

実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。

 

町の人々は大変喜んだ。

(使徒言行録8章4~8節)」

 

 

まさに次の教え通りです。

 

「それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。

信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。

 

信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。 手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、

 

病人に手を置けば治る。』

(マルコによる福音書16章15~18節)」

 

「また、エルサレム付近の町からも、群衆が病人や汚れた霊に悩まされている人々を連れて集まって来たが、一人残らずいやしてもらった。(使徒言行録5章16節)

 

 

イエス・キリストを信じたクリスチャンたちは、イエスの御名によって、悪霊を追い出して、病人を治すことが出来ます。

 

すると人々は喜んで、必要な物をくださるのです。

 

それゆえ、クリスチャンたちは、持ち物や財産を貧しい人に分け与え、一人も乏しい者はいなかったのです。

 

そして、欠乏した教会を助けるための「献金」も行なえるのです。

 

「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。

 

神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。

 

「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。

彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。

(コリント信徒への手紙第二9章7~8節)」

 

 

現在の日本でも病人は苦しんでいます。

 

命にかかわる病気の人々は、病院で入院して、医者が、頭蓋骨に穴をあけたり、体を切り開いて、悪い箇所を切り取ったりします。

 

抗がん剤治療は苦しい治療です。

それで命が助かるかといえば、わかりません。

 

また、命にかかわらなくても、アトピー性皮膚炎や神経痛など何らかの病いで、苦しみながら生きている人が大勢います。

 

精神疾患では安楽死を望む人も少なくないようです。

 

また、ALSと診断されると、多くの患者は「死にたい」と訴えられるそうです。

 

認知症も家族を苦しめています。

 

東京都健康長寿医療センターの報告では、日本は世界一の長寿国であり、認知症と共に生きる高齢者の人口は今後も増加し、2025年には高齢者の5人に1人、国民の17人に1人が認知症になるものと予測されています。

 

 

さらに2020年からの新型コロナウイルスは、世界中の人々が不安と恐怖で満たされました。

 

感染すれば退社を余儀なくされたり、ワクチン接種を義務付けられたりしました。

 

そのワクチンは、合成RNAの分子をヒトの細胞に導入するという未知数のMRAワクチンでした。

 

そのMRAワクチン接種でも数多くの人々が亡くなったり、後遺症で苦しんでいることが訴えられています。

 

 

さて、現在の日本で、聖書が教えている通りのイエス・キリストを信じたクリスチャンたちがいれば、どうなるでしょう。

 

聖書に書かれている通りに、今の時代も同じで、病いを治してもらえれば、その病人も、病人を愛する人々と心配している人々は非常に喜んで、謝礼をくださるでしょう。

 

そうなれば、クリスチャンが住んでいる家に、多くの人々が押しかけて、我先に治してください!とパニックになります。

 

24時間、近所迷惑が続きますし、外出も困難で、寝ることができなくなり、聖書に書かれている通りに、天井を破って病人を侵入させることもあるでしょう。

 

また、金持ちが次々にやって来て、高額な契約金を提示しながら、衣食住を用意するから、こちらに住んで専属になるように言ってくるでしょう。

 

さらに、世界中の犯罪グループが躍動し、クリスチャンたちを誘拐して、「あらゆる病気を癒やすクリスチャンを専属にいかが」ということで、高額で取引されることもあるでしょう。

 

数年前に重病説が流れたどこかの国の独裁者が「今すぐにクリスチャンたちを拉致して来い!」と至上命令をくだすことも現実的です。

 

 

なので、日本政府は手を打ち、クリスチャンたちを皇族たちのように安全な場所に住まわせて、皇宮護衛官のようなクリスチャン護衛官を配置させることになるでしょう。

 

クリスチャンたちは、衣食住が与えられ、年収も相場は名医と同じように年収は何千万円となると思われます。

 

年金もかなりの金額が与えられるでしょう。

 

持ち家はもう住めないので、売り払い、貧しい人に分け与えます。マイカーも乗れないので売り払います。

 

月曜日から土曜日まで、政府が順番を決めた病人を治す働きをして、日曜日は過疎地域に建てられた礼拝堂で礼拝します。

 

町ではパニックになるからです。

 

しかし、その礼拝堂でも、順番を待てない病人を連れた人々が押しかけているので、礼拝が終われば、安息日でも病人を癒すことになるでしょう。

 

なので、他の曜日を休養日にして、休むしかありません。

 

余談ですが、温泉が好きなら、一生分の温泉招待券が贈られてくるでしょう。

 

もしも、福山雅治さんの大ファンということが知られれば、福山雅治さんのコンサートの特等席が用意されるでしょう。

 

プロ野球の阪神タイガースのファンなら、甲子園球場の特等席になります。

 

こういう余談も必要な私のようなクリスチャンのために書きました。((´∀`))

 

 

それから、何千万という年収やボーナスなどの金銭は不要になるので、聖書に書かれているように、貧しい人に分け与え、窮地に追い込まれた教会のための「献金」になります。

 

東日本大震災では、いくつもの礼拝堂がなくなりましたが、そういう未曾有の災害が世界のどこかで起きれば「献金」によって、教会を建て直すことができます。

 

 

なので、現在でも聖書に書かれているイエス・キリストを信じたクリスチャンたちがいれば、

 

聖書に書かれている通りに、持ち物や財産を捨て去って、貧しい人に分け与え、他の乏しくなった教会のための献金は現実的です。

 

 

しかし、現実に、現在は聖書に書かれている通りのイエス・キリストを信じたクリスチャンたちはどこにもいません。

 

新型コロナウイルスの襲来で露見しています。

 

クリスチャンは誰も新型コロナウイルスを治すことができないばかりか、次々と教会でクラスターを起こして、批判非難される始末です。

 

キリスト教の教会では、「病いを治す」と豪語している牧師や伝道師、宣教師、信徒たちがたくさんいますが、皆が沈黙しています。

 

もし、イエスの御名によって、新型コロナウイルスを治すことが出来れば、多くの人々がそのクリスチャンたちのところに押し寄せているでしょう。

 

しかし、そのようなことは、もう5年経ちますが、まったく見聞きしたことがありません。

 

それゆえ、ほとんどの教会が礼拝堂での礼拝を自粛して、オンライン礼拝を行ないました。

 

 

あのエホバの証人も家から家への戸別伝道は中断したそうです。

現在は再開したそうで、最近、私の家にも訪問に来ました。

 

そこで私が聖書の教えを熟知しているので、驚いていました。

 

それで、エホバの証人の新世界訳聖書も手に入れて、エホバの証人の聖書解釈と福音理解を調べましたが、プロテスタント教会と同じで聖書箇所を曲解しまくっていますね。

 

またの機会に、新世界訳聖書から曲解している教えを見ていこうと思います。

 

戸別伝道を強要して苦しませていることは、エホバ神も激怒しています。

 

 

話しは戻り、そもそも、聖書に書かれている通りに、イエス・キリストを信じたクリスチャンたちが病いを治すことが出来なければ、

 

財産や持ち物を捨て去ることも、貧しい人に分け与えることも、献金をすることも出来なくなります。

 

それなのに、教会の牧師や働き人のためや、その牧師の教会の維持費としての「献金」を要求することは、聖書の教えに反することになります。

 

なので、「聖書の教えに反することですが」という説明をして、献金を要求しなければならないでしょう。

 

それなのに、聖書の教えを曲解させて、これは聖書の教えによる「献金」として要求していれば、だまして金銭を盗んでいることになります。

 

教会において、人々からだまし取るくらい、金銭を相当めちゃくちゃ愛しているのです。

 

それゆえ、最後の審判では、イエスさまが大勢の「主よ」という者たちに「不法を行なう者ども、わたしから離れ去れ!」ということになると思われます。

 

 

それでは、現在の病いを治せないイエス・キリストを信じたクリスチャンたちは、どのようにすればよいでしょう?

 

聖書にはどうすればよいのか、使徒パウロが明確に教えています。

 

使徒パウロは、病人を治すことをせずに、教えることだけで、教会(クリスチャンたちの集まり)を建て上げています。

 

次回はその使徒パウロのような教会を建て上げている無教会のクリスチャンたちの証や、貧しい人たちのところで立ち上げている信仰者の証を見ていきます。

 

また、エホバの証人のことも記事にしていきます。

 

お楽しみに

次回へ続く

 

「日本におけるキリスト教の真実 ㊹ 献金についての教え」

 

前回記事で見てきましたように、初代教会のクリスチャンたちの中には、ひとりも乏しい者がいなかったのです。

 

なぜなら、地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからです。と聖書は明確に教えています。

 

つまり、神さまは、すべてのクリスチャンは平等にされて、皆が献金できるようにされました。

 

皆が献金できるようにされた上で「献金」についての教えが次の通りです。

 

9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。

 

それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

 

10 この献金のことについて、私の意見を述べましょう。それはあなたがたの益になることだからです。

 

あなたがたは、このことを昨年から、他に先んじて行っただけでなく、このことを他に先んじて願った人たちです。

 

11 ですから、今、それをし遂げなさい。喜んでしようと思ったのですから、持っている物で、それをし遂げることができるはずです。

 

12 もし熱意があるならば、持たない物によってではなく、持っている程度に応じて、それは受納されるのです。

 

13 私はこのことによって、他の人々には楽をさせ、あなたがたには苦労をさせようとしているのではなく、平等を図っているのです。

 

14 今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。

 

こうして、平等になるのです。

 

15 「多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなかった」と書いてあるとおりです。

 

16 私があなたがたのことを思うのと同じ熱心を、テトスの心にも与えてくださった神に感謝します。

 

17 彼は私の勧めを受け入れ、非常な熱意を持って、自分から進んであなたがたのところに行こうとしています。

 

18 また私たちは、テトスといっしょに、ひとりの兄弟を送ります。この人は、福音の働きによって、すべての教会で称賛されていますが、

 

19 そればかりでなく、彼は、この恵みのわざに携わっている私たちに同伴するよう諸教会の任命を受けたのです。

 

私たちがこの働きをしているのは、主ご自身の栄光のため、また、私たちの誠意を示すためにほかなりません。

 

20 私たちは、この献金の取り扱いについて、だれからも非難されることがないように心がけています。

 

21 それは、主の御前ばかりでなく、人の前でも公明正大なことを示そうと考えているからです。

(コリント人への手紙第二8章9~21節)

 

 

1 聖徒たちのためのこの奉仕については、いまさら、あなたがたに書き送る必要はないでしょう。

 

2 私はあなたがたの熱意を知り、それについて、あなたがたのことをマケドニヤの人々に誇って、アカヤでは昨年から準備が進められていると言ったのです。こうして、あなたがたの熱心は、多くの人を奮起させました。

 

3 私が兄弟たちを送ることにしたのは、この場合、私たちがあなたがたについて誇ったことがむだにならず、私が言っていたとおりに準備していてもらうためです。

 

4 そうでないと、もしマケドニヤの人が私といっしょに行って、準備ができていないのを見たら、あなたがたはもちろんですが、私たちも、このことを確信していただけに、恥をかくことになるでしょう。

 

5 そこで私は、兄弟たちに勧めて、先にそちらに行かせ、前に約束したあなたがたの贈り物を前もって用意していただくことが必要だと思いました。

 

どうか、この献金を、惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。

 

6 私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。

 

7 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。

 

8 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。

 

9 「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。

 

10 蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。

 

11 あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。

 

12 なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たち必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです。

 

13 このわざを証拠として、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、彼らに、またすべての人々に惜しみなく与えていることを知って、神をあがめることでしょう。

(コリント人への手紙第二9章1~13節)

 

 

この献金についての聖書箇所について「中原キリスト教会のエルサレム教会への献金」の記事から引用します。

 

「エルサレム教会は、当時非常に深刻な飢饉が繰り返し起きていたのも確かです。

 

ですからエルサレムの民衆は、お金持ちの大祭司たちを除けばみな生活が苦しかったのです。

 

その中でも、イエスを信じるユダヤ人たちはユダヤの相互扶助ネットワークからのけ者にされていたので、周囲の人たちから支援を受けられず、一層苦しい立場にいました。

 

エルサレム教会の苦境を伝え聞いたパウロは、なんとか飢饉に苦しむエルサレム教会を助けたいという思いがありました。

 

また、パウロは自分にはその義務があることを自覚していました。

 

パウロは、アカヤ地方の州都であるコリント教会の人たちに、マケドニア地方の教会、ピリピやテサロニケ教会の信徒たちはエルサレムのためにすごく頑張って献金しているとアピールしていました。」

 

引用以上

 

 

この「献金」について最も重要な教えは次の通りです。

 

「もし熱意があるならば、持たない物によってではなく、持っている程度に応じて、それは受納されるのです。

 

私はこのことによって、他の人々には楽をさせ、あなたがたには苦労をさせようとしているのではなく、平等を図っているのです。

 

今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるのです。

 

こうして、平等になるのです。

 

『多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなかった』と書いてあるとおりです。」

 

 

つまり、すべての教会が平等にされるために、教会のクリスチャンたちは「献金」をすることが聖書の教えです。

 

多く集まった教会も余るところがなく、少し集まった教会も不足することはなかったということです。

 

クリスチャンになれば、貧しい人はいなくなり、すべてのクリスチャンが平等に献金できるようになります。

 

そして、すべてのキリストの体である教会が平等になるように献金します。

 

これが聖書の教えであり、神さまの御心であります。

 

 

さて、次は現在のプロテスタント教会の「献金」についての教えを見ていきましょう。

 

「いのちのことば社」のホームページから

 

日常の「神学」 今さら聞けないあのこと、このこと

「第6回 献金と教会」

 

多くのクリスチャンにとって「献金」は、新しく教会に来た人に対して最も気を遣うことのひとつかもしれません。

 

「教会はお金儲けの場所ではないから、変に誤解されたくない」というのが大きな理由でしょう。

 

確かに教会の目的は、お金を儲けることではありません。

 

しかし、ほとんどの教会が、牧師の給与を含め、教会全般の運営を「献金」によってまかなっているのも事実です。

 

では、クリスチャンは「献金」についてどう考えるべきでしょうか。

 

まず大切なことは、お金を含め、人間が自分のものと思っているものすべては、もともと人間のものではないという認識を持つことです。

 

「地とそこに満ちているもの世界とその中に住んでいるもの それは主のもの」(詩篇24・1)と聖書に書かれているからです。

 

その上で神様は、私たち人間にそれらを管理する責任を与えてくださいました。エデンの園の管理がアダムとエバに任されたように(創世1・26〜29)

 

私たち人間は、地上にあるすべてのものを、自分のものとしてではなく、神様のものとして管理する立場にあるのです。

 

では、お金を含めた財産の管理者である私たちは、それをどう用いることができるでしょうか。

 

人間社会の常識では、管理者は自らが管理を任されている財産に対して、それが自分のものであるかのように手を付けることは許されません。

 

しかし神様は違います。神様は人間一人ひとりに管理を任せている財産の大半を、自分の必要のために使ってもいいですよと言われます。

 

その上で、しかし十分の一だけは私に返しなさいと言われるのです(レビ27・30、マラキ3・6~12)。聖書の神様は、なんと太っ腹なお方でしょう。

 

十分の一をささげるということに関して、キリストご自身もそれを「おろそかにしてはいけない」(ルカ11・42)と語っておられます。

 

しかし一方で、「わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、ミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている」(マタイ23・23)と語り、警鐘を鳴らしています。

 

律法学者やパリサイ人たちは、十分の一をささげることを忠実に守っていましたが、そのような自分の行いを人々の前で大いに自慢し、さらに守ることができない人々を見下していたのです。

 

現代のクリスチャンが「献金」に対して律法的になるとはどういうことでしょうか。

 

それはたとえば、以下のようなことかもしれません。「十分の一さえささげていれば安心だ」「残りはどう使っても自分の勝手だ」「十分の一をきちんとささげていることを、牧師や教会の人にぜひ知ってもらいたい」

 

「十分の一をささげているのだから、私には教会の中で発言権があるはずだ」「十分の一をささげていないクリスチャンは尊敬に値しない」。

 

このような考え方や態度は、当時の律法学者やパリサイ人の考え方や態度に共通しています。そして神様を大いに悲しませるでしょう。

 

では私たちは、どのような態度で「献金」をすべきでしょうか。パウロは以下のように語っています。

 

「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです」(Ⅱコリント9・7)。

 

キリストも、最も価値の低いレプタ銅貨二枚を献金箱に入れた貧しい女性に対し、「だれよりも多くを投げ入れました」と言われました(マルコ12・42〜44)。

 

「献金」に関して最も大切なのは、その額でも、厳密な割合でも、人からどう思われるかでもありません。ただ心から喜んで、感謝を込めて神様にささげるということなのです。

 

聖書には、「献金」の使い道に関する具体的な記述もあります。

 

旧約聖書の中には、十分の一のささげものを、レビ人を養うために使いなさいと書かれています(申命12・17〜19)。

 

レビ人は、土地からの収入源を持たず、祭司として神様に仕える部族でした。

 

現代の教会では、牧師や宣教師、またさまざまな形で神様に仕える人やグループを指すでしょう。

 

旧約聖書には同様に、寄留者、孤児、やもめといった社会の中の弱い人たちも、レビ人と一緒に養われるべきであると書かれています(申命14・28〜29)。

 

現代の多くの教会では、教会堂や土地の購入のために多額の「献金」が用いられます。

 

決して間違いではないと思いますが、「神様に仕える人々を十分にサポートしているか」また「地域社会の弱者をケアすることにも予算が用いられているか」といった問いかけを通して、献金の使い道を常に確認することも必要です。

 

引用以上

 

 

私自身、多くの牧師・伝道師・宣教師・信徒リーダーたちから、この献金についての教えを聞かされました。

 

ほとんどの教会が、牧師の給与を含め、教会全般の運営を「献金」によってまかなっているのも事実です。ということも現実に痛感しています。

 

つまり、その教会での「献金」は、その牧師の教会のものになり、その牧師の教会の運営のために使用されます。

 

それゆえ、献金を多く集めた牧師の教会は拡大していきます。

大きな礼拝堂、駐車場、枝教会、祈祷院というように

 

そして、献金額が毎月ほぼ同じような牧師の教会は、現状維持に四苦八苦しています。

 

さらに、献金が減少した牧師の教会は、縮小します。

または、閉鎖する牧師の教会も少なくありません。

 

まるで、キリストの体である教会は、世の中の競争社会と同じであり、弱肉強食の世界です。

 

 

世の中でも私の町の薬局も、広い駐車場があるスギ薬局は3店舗に増えて繫盛しています。

 

しかし、現状維持に四苦八苦している薬局もあります。

また、さびれた商店街にある薬局は閉店しました。

 

まったく、キリストの体である教会も、世の中の会社・店も同じく弱肉強食の世界です。

 

 

しかも、プロテスタント教会では、金持ちは金持ちのままで、貧乏人は貧乏人のままです。

 

貧富の格差があるままです。世の中とまったく同じです。

 

貧乏人は3食きちんと食べることができなかったり、夏は電気代が払えなくなるので冷房をつけられなかったり、散髪も衣服なども我慢することもあります。

 

金をそこそこ持っている牧師やクリスチャンたちは、3食きちんと食べて、夏は冷房が効いた部屋で寝て、散髪も衣服も我慢することもそんなにありません。

 

それで、教会では集まるごとに「献金」があります。

 

献金ができるクリスチャンたちは喜んで献金しています。

賛美をしながら献金する教会も多いです。

 

金を持っていない人は献金しなくてもよいのですが、その献金の時ほど、貧富の格差を痛感して、ものすごく惨めです。

 

しかしながら、キリストも、最も価値の低いレプタ銅貨二枚を献金箱に入れた貧しい女性に対し、「だれよりも多くを投げ入れました」と言われました(マルコ12・42〜44)。ということを教えられれば、無理をして献金することもあります。

 

すると、その月は光熱費が払えなくなるなど、さらに窮地に追い込まれていることも見聞きしました。

 

 

しかも、「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです」(Ⅱコリント9・7)という一部分だけを切り取っています。

 

毎度おなじみに話しをすり替えて、献金しなければならないように仕向けています。

 

さらに、ユダヤ教信者の旧約聖書の十分の一の教えによって献金額を増やしている教会がほとんどです。

 

 

さらに言えば、ルカの福音書11章42節の教えは次の通りに、わざわいのパリサイ人に対しての教えです。

 

「イエスが話し終えられると、ひとりのパリサイ人が、食事をいっしょにしてください、とお願いした。

そこえイエスは家に入って、食卓に着かれた。

 

だが、わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは、はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛はなおざりにしています。

 

これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もなおざりにしてはいけません。」

 

なので、異邦人についての教えではありません。

これは、前述のコリント人への手紙第二を読めばわかりますね。

 

 

さて、私は無教会のクリスチャンになって、聖書を学びなおしました。

 

献金の教えを知れば、キリストの体である教会の献金の使い道はどうすればよいかわかります。

 

 

もはや、お金に余裕がある牧師の教会は多くを持ち、お金が欠乏している牧師の教会は縮小したり、閉鎖するという弱肉強食の世の中と同じ教会に行くことはあり得ません。

 

イエスさまがよくご存じです。

 

それで、無教会のクリスチャンの立場で「お金」をどう管理していけばよいかを次に見ていきます。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教の真実 ㊸ お金と永遠の命について」

 

まずは「お金」についての聖書の教えを見ていきます。

 

「私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。

 

衣食があれば、それで満足すべきです。

 

金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。

 

金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。

 

ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。

 

しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。

 

信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。

 

あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。

(テモテへの手紙第一6章7~12節)

 

 

聖書は、金銭を愛することが、あらゆる悪の根であり、ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通したと明確に教えています。

 

まさにイスカリオテのユダがそうでした。

 

「弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」

 

彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。

(ヨハネの福音書12章4~6節)」

 

「そのとき、十二弟子のひとりで、イスカリオテ・ユダという者が、祭司長たちのところへ行って、こう言った。

 

「彼をあなたがたに売るとしたら、いったいいくらくれますか。」すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。

 

そのときから、彼はイエスを引き渡す機会をねらっていた。

(マタイの福音書26章14~16節)」

 

 

もしもイスカリオテのユダが、あらゆる悪の根である金銭を愛さなかったら、盗人にはならなかったし、主イエスをお金で売るという行為もしなかったでしょう。

 

しかし、金銭を愛したために、悪魔が入りました。

 

「イエスは彼らに答えられた。『わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。』

 

イエスはイスカリオテ・シモンの子ユダのことを言われたのであった。

このユダは十二弟子のひとりであったが、イエスを売ろうとしていた。

(ヨハネの福音書6章70~71節)」

 

 

このように金銭を愛することは恐ろしいことです。

イエス・キリストの弟子でありながら、悪魔が入ってしまうほどです。

 

それゆえ、イエスさまの次の教えがあります。

 

すると、ひとりの人がイエスのもとに来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」

 

イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちに入りたいと思うなら、戒めを守りなさい。」

 

彼は「どの戒めですか」と言った。そこで、イエスは言われた。

 

「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。

父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」

 

この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」

 

イエスは彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。

 

そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

 

ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。

 

それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです。

 

まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」

 

弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」

 

イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」

 

そのとき、ペテロはイエスに答えて言った。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」

 

そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。

 

(マタイの福音書19章16~28節)」

 

 

イエスさまは永遠の命を得るためにこのように明確に教えられました。

 

「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。

 

そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

 

使徒ペテロたちは、何もかも捨てて、主イエス・キリストに従ってまいりました。

 

 

そして、その後、初代教会が誕生するのですが、すべてのクリスチャンたちが、すべての持ち物を売り払って貧しい人たちに分け与えたことが次のように書かれています。

 

「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。

 

使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。

 

彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、

 

使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。

 

キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、

畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。

(使徒の働き4章32~37節)

 

 

つまり、イエス・キリストを信じて、イエスさまに従っているクリスチャンたちの教会は、すべてのクリスチャンが持ち物を売って、その金はおのおのに分け与えられました。

 

それゆえ、教会では貧しい人がひとりもいなかったのです。

 

当然に貧富の格差もありません。

さらに、金銭を愛する人もいないはずです。

 

しかし、金銭を愛する者がいたことが次のように書かれています。

 

「ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、

妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。

 

そこで、ペテロがこう言った。『アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。

 

それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。』

 

アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。

そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。

(使徒の働き5章1~5節)」

 

 

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

(エペソ人への手紙1章23節)

 

それゆえ、教会では、すべての人々がイエスさまに従って、持ち物を売り払って、貧しい人々に分け与え、金銭を愛することを捨て去りました。

 

それで、永遠の命を完全に得ていたのです。

 

そして、アナニヤとサッピラのように、金銭を愛している者は教会から排除されました。

 

 

聖書が教える教会は、貧しい人がひとりもいない。貧富の格差もなく、皆が平等にされるところであります。

 

世の中は貧しい人々のほうが多く、貧富の格差もあり、不平等の世界ですから、

 

そこがイエス・キリストの教会と世の中との大きな違いだということがわかります。

 

 

さて、現在に、そのような聖書が教えている教会は存在しているでしょうか?という話です。

 

私が知っている限り、どこにも存在していません。

 

もし存在しているなら、次のようになっています。

「ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。

そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。

(使徒の働き5章13~14節)」

 

 

現在のキリスト教の教会は、世の中とまったく同じく、貧しい人たちがいて、貧富の格差もあり、不平等です。

 

それゆえ、イエス・キリストを信じていない人々から尊敬されることはありません。

 

さらに「献金」について、毎度おなじみに聖書の教えを曲解させて、

 

いや、それ以上に大胆に曲解させて、金銭を愛するように仕向けているという恐ろしいことになっている教会が多いです。

 

次はさらにそのことについて見ていきます。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教の真実 ㊷ 聖書の恐怖の教えによって教会に縛る牧師たち」

 

私がプロテスタント教会の牧師やクリスチャンたちから「イエス・キリストを信じない人々は地獄へ行く」という教えを聞いた時は恐怖で頭が真っ白になりました。

 

それでクリスチャンになったので、自分は天国に行けるので一安心しました。

 

 

しかし、周りの愛する人々はイエス・キリストを信じていない人ばかりなので、いつも不安と恐怖の日々を過ごしていました。

 

さらに、不安と恐怖を倍増させる教えが、前回記事で伝えたヨハネの黙示録の二匹の獣と竜の話です。

 

「獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。

すべての者にその右手か額に刻印を押させた。

 

この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。」

 

いわゆる「大患難時代」という教えです。

 

しかも現在は、この二匹の獣と竜はいつ登場しても不思議ではないというのです。

 

そして、次の御言葉を教えられます。

 

「わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。

 

このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。 ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。(テサロニケの信徒への手紙一 4章15~18節)」

 

つまり、イエス・キリストを信じているクリスチャンたちは空中に引き上げられるので、獣や竜に殺されることはないというのです。

 

その牧師たちの教えによって、教会から絶対に離れてはいけないという気持ちを芽生えさせます。

 

真面目に礼拝や奉仕をして、献金もなるべく多く捧げて、獣と竜が出現して殺される前に、空中に引き上げられるクリスチャンでありたいと願っていたものでした。

 

 

しかし、プロテスタント教会から離れ去って、聖書を調べると、まったく、とんでもない教えだということが判明しました。

 

ヨハネの黙示録の教えをまとめると、

天使たちからの刻印を押された人々の数は十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた。

 

それから、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。

 

この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。

 

彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。

(ヨハネの黙示録20章4節)

 

そして、地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。(ヨハネの黙示録13章8節)

 

この獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者どもは、馬に乗っている方イエス・キリストの口から出ている剣で皆殺しにされます。

 

まるで、イエス・キリストは殺人鬼のようです。

 

その千年後に生き返らせて、命の書にその名が記されていないという理由で、火の池に投げ込まれます。

 

なので、ヨハネの黙示録が教えるイエス・キリストは、いけにえが超絶に大大大好きな印象を与えます。

 

そういう話です。

 

ですから、私はヨハネの黙示録の教えを取って食べたりしません。

 

 

ところが、プロテスタント教会はヨハネの黙示録の教えが非常に好都合なので、喜んで取って食べています。

 

ところが、非常に都合が悪い箇所もあるので、いつもの通りに取り除いたり、付け足したりして、すり替えます。

 

キリストと共に千年の間統治するには、首をはねられて殺されなければならないというヨハネの黙示録20章4節を取り除いて、

 

空中に上げられてイエスさまと会うというテサロニケの信徒への手紙一 4章15~18節を付け足して、すり替えます。

 

また、獣を拝む人々が命の書に名が記されていない人々という教えのヨハネの黙示録13章8節を取り除いて、

 

イエス・キリストを信じていない人々が命の書にその名が記されていない人々にすり替えるように教えます。

 

その、すり替えられた教えによって、イエス・キリストを信じていない人々を地獄行きに定め、

 

また、イエス・キリストを信じて、教会に根付いているクリスチャンたちは、空中に上げられて救われるという教えです。

 

そういう教えは、結果的にクリスチャンたちを教会から離れないように縛っています。

 

 

そのような、すり替えられていることを知らない私は、それでも、教会の牧師に深く傷つけられて、プロテスタント教会を離れ去りました。

 

そういうクリスチャンは多いです。

 

私の場合、3つの教会に所属していましたが、いずれも牧師や信徒リーダーたちに深く傷ついて、教会を離れ去りました。

 

最後は、以前から少年院を出所した少年たちを世話するNPO法人を立ち上げた牧師を手伝っていましたが、その教会に通うことになったのです。

 

しかし、担当の保護観察官からは保護観察所の支援で少年たちの家賃や光熱費が支払われていることを聞きました。

 

そして、弁護士からは生活保護を申請して、受給が決まったので、家賃や光熱費も支払えると聞きました。

 

また、いくつもの応援基金に応募して採択されて、4つのホームの家賃や光熱費などが支給されると聞いていました。

 

しかし、少年たちから話を聞けば、少年が働いた給料から家賃や光熱費を出して牧師が受け取っていると聞きました。

 

また、応援基金の4つのホームの助成金で支払っていて、生活保護の支給金から家賃や光熱費を牧師が受け取っているとのことです。

 

他にも金の流れのことで不自然なことがありました。

 

それで、その二重取り、三重取りの疑惑を牧師に問いただすと、牧師は激怒して、少年や青年たちにでっち上げられていると言いふらしました。

 

その後、青年から「世話になっている牧師を陥れたら黙ってないですよ」などと脅し口調の言い方は悲しかったですね。

 

その牧師のNPO法人は2022年の事業報告書を見れば正味財産が約3千万円とかなりの正味財産を築いています。

 

他のいくつものNPO法人の正味財産を調べて見ると、そんな3千万円という正味財産を築けられるわけがないことがわかりました。

 

今、思えば、金の亡者のような牧師に利用されるだけ利用されていただけで、不都合なことに気づくと、即刻クビにする。

 

私のような経験をした人は数多く、そういう金の亡者の牧師が少なくないことを知りました。

 

また、ホームレスの方々の生活保護を申請して、食いものにしている牧師たちがいるという報告もありました。

 

貧困ビジネスに手を出している牧師やクリスチャンたちが増えてきているそうです。

 

さらに、神学校を立ち上げて金儲けする教会の牧師も増えています。

 

そもそも、イエスさまは「ただ(無料)で受けたのだから、ただで与えなさい。(マタイによる福音書10章8節)」と教えられているのに、神学校を作って金儲けすることが当然のようになっています。

 

それから、プロテスタント教会では、ゴスペル音楽(福音を伝える目的の音楽)で金儲けすることも当然のようになっています。

 

私がプロテスタント教会に所属していた時、6つの教会でゴスペル教室を開催しましたが、4年ですべて閉鎖しました。

 

その時にタッグを組んでいたクリスチャン歌手たちとも疎遠になりました。

 

その時はサタンの働きによるものと判断していました。

 

しかし、プロテスタント教会を離れ去って、今、思えば、間違っていたことをしていたので、イエスさまが取り除かれたことがわかります。

 

イエスさまは「わたしの祈りの家を強盗の巣にするな!」と怒って、神の宮で商売をしている不届き者たちを追い出しました。

 

祈りの家である教会を金儲けのための強盗の巣にするな!ということです。

 

プロテスタント教会では、その教えを毎度おなじみに、すり替えて、教会を金儲けの場所として扱います。

 

もしも、私がプロテスタント教会の神学校に入れば、とんでもないことになりますね。

 

毎回の授業で「また、すり替えている」と何度も異議を申し立てることになるからです。

 

そもそも、授業料を支払う神学校など、イエスさまはどう言われるでしょう。

 

 

しかしながら、毎年、金銭面によって閉鎖する教会も後を絶たないので、金の切れ目が教会の切れ目という状況に、金の亡者のようになってしまう牧師が多いのも至極当然だと思うので、理解はできます。

 

しかし、そこで深く傷つけられるのは、信徒たちです。

特に貧しい人々が犠牲になっています。

 

次回は聖書が教える教会とお金についての教えを見ていきます。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教の真実 ㊶ ヨハネの黙示録を信じない信仰」

 

まずは、イエスさまご自身と使徒パウロが教える世の終わりから最後の審判までの流れを見ていきます。

 

世の終わりには、不法の者(滅びの子)が神の宮(第二神殿)の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。

 

そして、「大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。

 

あなたがたには前もって言っておく。 だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。

 

また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。(マタイによる福音書24章24~26節)

 

人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。 

 

洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。

そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。

 

人の子が来る場合も、このようである。

 

 そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。

 

だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。

(マタイによる福音書24章37~42節)

 

 

主の言葉に基づいて次のことを伝えます。

 

主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。

 

すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。

 

すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。

 

このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。 ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。(テサロニケの信徒への手紙一 4章15~18節)

 

 

このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。

 

善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。

(ヨハネの福音書5章28~29節)

 

※ つまり、生前に善を行なっていた者は、よみがえって永遠の命を受けて、生前に悪を行なっていた者は、よみがえって裁きを受けます。

 

 

わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

 

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』

 

しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

 

 

すると、「主よ。救われる者は少ないのですか」という人があった。イエスは、人々に言われた。

 

「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。

 

家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。

 

すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』

 

だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』

 

神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちが入っているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。

 

 

※ つまり「主よ」と言っている者でも、神の御心を行っている者は、先に死んでいた善を行なっていた者たちがよみがえってから一緒に空中に上げられて、いつまでも主イエスと共にいることになります。

 

しかし、「主よ」と言っているクリスチャンでも不法をなす者ども、不正を行なう者たちは、救われず、外に放り出されて泣き叫んだり歯ぎしりすることになります。

 

 

その時になると、不法の人が現れますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。

(テサロニケ人への手紙二 2章8節)

 

※ つまり、イエスさまの来臨時に、来臨の輝きによって、サタンの働きによる不法の者を滅ぼされます。

 

 

人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。

 

そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、

羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

 

そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

 

あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べ物を与え、わたしが渇いていたときに、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったときに、わたしに宿を貸し、

 

わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』

 

それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ。

 

おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませず、

 

わたしが旅人であったときにも泊まらせず、裸であったときにも着る物をくれず、病気のときや牢にいたときにもたずねてくれなかった。』

 

『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』

 

こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」

(マタイの福音書25章31~46節)

 

※ つまり、地上に残ったイエス・キリストを信じていない人々について、

 

最も小さき者が助けを求めている時に助けるような正しい人々は、世の初めから備えられた御国に入ります。

 

しかし、助けないような人々は永遠の刑罰に入ります。

 

以上が主イエス・キリストと使徒パウロが教えられた世の終わりから主イエスの来臨における最後の審判についてです。

 

 

また、イエスさまが大祭司カヤパたちの生存中に起きると明言された来臨についての御言葉が成就しています。

 

大祭司カヤパたちが生存中に来臨されたことによって、神への冒瀆を行なっていた者は大祭司たちだったことが明らかにされたのです。

 

しかし、イエスは黙っておられた。それで大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」

 

イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、

 

今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」

 

すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「神への冒瀆だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。

(マタイの福音書26章63~65節)

 

 

さて、今度は「ヨハネの黙示録」が教える世の終わりから最後の審判までの教えを見ていきます。

 

わたしはまた、もう一人の天使が生ける神の刻印を持って、太陽の出る方角から上って来るのを見た。

 

この天使は、大地と海とを損なうことを許されている四人の天使に、大声で呼びかけて、 こう言った。

 

「我々が、神の僕たちの額に刻印を押してしまうまでは、大地も海も木も損なってはならない。」

 

わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた。

(ヨハネの黙示録7章2~4節)

 

 

わたしが見たこの獣は、豹に似ており、足は熊の足のようで、口は獅子の口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と王座と大きな権威とを与えた。

 

この獣の頭の一つが傷つけられて、死んだと思われたが、この致命的な傷も治ってしまった。

 

そこで、全地は驚いてこの獣に服従した。 

 

竜が自分の権威をこの獣に与えたので、人々は竜を拝んだ。

 

人々はまた、この獣をも拝んでこう言った。「だれが、この獣と肩を並べることができようか。だれが、この獣と戦うことができようか。」

 

この獣にはまた、大言と冒瀆の言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間、活動する権威が与えられた。

 

そこで、獣は口を開いて神を冒瀆し、神の名と神の幕屋、天に住む者たちを冒瀆した。

 

獣は聖なる者たちと戦い、これに勝つことが許され、また、あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた。

 

地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。

 

耳ある者は、聞け。

捕らわれるべき者は、捕らわれて行く。

剣で殺されるべき者は、剣で殺される。

 

ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である。

 

わたしはまた、もう一匹の獣が地中から上って来るのを見た。この獣は、小羊の角に似た二本の角があって、竜のようにものを言っていた。

 

この獣は、先の獣が持っていたすべての権力をその獣の前で振るい、地とそこに住む人々に、致命的な傷が治ったあの先の獣を拝ませた。

 

そして、大きなしるしを行って、人々の前で天から地上へ火を降らせた。

 

更に、先の獣の前で行うことを許されたしるしによって、地上に住む人々を惑わせ、また、剣で傷を負ったがなお生きている先の獣の像を造るように、地上に住む人に命じた。

 

第二の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた。

 

また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。

 

そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。

(ヨハネの黙示録13章2~17節)

 

 

また、別の第二の天使が続いて来て、こう言った。「倒れた。大バビロンが倒れた。怒りを招くみだらな行いのぶどう酒を、諸国の民に飲ませたこの都が。」

 

また、別の第三の天使も続いて来て、大声でこう言った。

 

「だれでも、獣とその像を拝み、額や手にこの獣の刻印を受ける者があれば、 その者自身も、神の怒りの杯に混ぜものなしに注がれた、神の怒りのぶどう酒を飲むことになり、

 

また、聖なる天使たちと小羊の前で、火と硫黄で苦しめられることになる。

その苦しみの煙は、世々限りなく立ち上り、獣とその像を拝む者たち、また、だれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も安らぐことはない。」

 

ここに、神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である。

(ヨハネの黙示録14章8~12節)

 

 

そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。

 

わたしはまた、あの獣と、地上の王たちとその軍勢とが、馬に乗っている方とその軍勢に対して戦うために、集まっているのを見た。

 

しかし、獣は捕らえられ、また、獣の前でしるしを行った偽預言者も、一緒に捕らえられた。

 

このしるしによって、獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者どもは、惑わされていたのであった。

 

獣と偽預言者の両者は、生きたまま硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。

 

残りの者どもは、馬に乗っている方の口から出ている剣で殺され、すべての鳥は、彼らの肉を飽きるほど食べた。

(ヨハネの黙示録19章11,19~21節)

 

 

わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、天から降って来るのを見た。

 

この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、 底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。

 

その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである。

 

わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。

 

わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。

 

この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。

 

彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。

 

その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。

第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。

 

彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。

 

この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、 地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。

 

その数は海の砂のように多い。 彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲んだ。

すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。

 

そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる。

 

わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。

 

わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。

 

死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。

 

海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。

死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。

 

その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。

(ヨハネの黙示録20章1~15節)

 

以上がヨハネの黙示録が教える世の終わりから最後の審判における教えです。

 

 

こうして読み比べると、イエスさまと使徒パウロが教えていることとヨハネの黙示録の教えとはまったく違うことがわかります。

 

イエスさまと使徒パウロの教えは「聖霊」です。

 

「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。

 

聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

(エペソ人への手紙1章13~14節)」

 

しかし、ヨハネの黙示録の教えは、聖霊ではなく、天使が生ける神の刻印を額に押すことによって救われます。

 

つまり、「聖霊の証印」が「天使からの証印」にすり替わっているのです。

 

 

そして、生前に、獣とその像を拝む者たち、また、獣の名の刻印を受ける者たちは、白い馬に乗ったイエスさまの口から出る剣によって殺されます。

 

それから、その千年後の二度目の最後の審判において生き返らされて、「その名が命の書に記されていない」という理由で、火の池に投げ込まれます。

 

つまり、「地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。(ヨハネの黙示録13章8節)」という御言葉が成就します。

 

*

 

さらに、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。

 

この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。

彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。

その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。

 

という教えですので、来臨された主イエス・キリストと共に千年の間統治するクリスチャンは全員が、竜と獣に反抗して殺されなければなりません。

 

 

なんだろう、イエスさまと使徒パウロの教えとはまったく違い、ヨハネの黙示録は不安と恐怖ばかりが与えられる教えです。

 

また、どちらも信じることは不可能です。

 

さらに、絶望的なことが、ヨハネの黙示録のラストメッセージ(つまり、聖書のラストメッセージ)に次のように書かれています。

 

「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。

 

これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。

 

また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる。

 

以上すべてを証しする方が、言われる。『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください。

主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。

(ヨハネの黙示録22章18~21節)」

 

この教えが聖書の締めくくりです。

 

 

つまり、ヨハネの黙示録の教えの言葉から何か付け加えると、すべての災いが加えられます。

 

そして、ヨハネの黙示録の教えの言葉から何か取り去ると、命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれるというのです。

相当めちゃくちゃ超絶に激しく恐ろしすぎです!

 

 

しかし、イエスさまと使徒パウロの教えとまるで違うヨハネの黙示録の教えを信じるわけにはいきません。

 

どうすればいいのか?

 

すると、イエスさまに素晴らしい答えを頂きました。

それは聖書の最初の教え創世記に答えがありました。

 

「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。

神である主は人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。

 

しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』

(創世記2章15~17節)」

 

つまり、ヨハネの黙示録のイエスさまの教えとまったく違う教えは、取って食べてはならない。ということです。

 

神さまは取って食べてはならない善悪の知識の木を置かれたように、聖書の最後のヨハネの黙示録に、イエスさまの教えとはまったく違う取って食べてはいけない教えを置かれたということです。

 

このような聖書解釈と福音理解は、もしかすれば、世界でも私ひとりだけかもしれません。

 

同じ聖書解釈と福音理解をしている人がいれば、出会いたいものです。

 

 

ウィキペディアの「ヨハネの黙示録」について、次のように書かれていました。

 

「4世紀には、東方で、金口イオアンと他の主教たちの間で『黙示録』の聖書正典収録に関しての議論が巻き起こった。

理由は『黙示録』が難解であるため、その表現を都合よく解釈して悪用されることを恐れたためである。

 

シリアのキリスト教徒の間においても、『黙示録』は、モンタノス派が自らの正当化に利用したため排斥された。

 

9世紀にはコンスタンティノープル総主教ニケフォロス1世がその著書の中で、『ヨハネの黙示録』を『ペトロの黙示録』と共に「真性に疑問のある書物」であるとしている。

 

最終的には中世末期、正教会でも正典に加えられはしたものの、聖書の中で唯一奉神礼で朗読されることのない書となっている。」

 

ヨハネの黙示録の教えが、正当化に利用したために排斥されたこともあったのです。

 

 

念のために、プロテスタント教会、カトリック教会、正教会、聖公会を調べてみると、ヨハネの黙示録の教えを受け入れて教えていました。

 

プロテスタント教会の場合、ヨハネの黙示録の教えが絶対に必要不可欠な理由があります。

 

それは、前述のマタイによる福音書25章31~46節で教えられているイエスさまの最後の審判における判決理由が、イエス・キリストを信じていないという理由ではないからです。

 

それがプロテスタント教会の福音宣教の最大の妨げとなっています。

 

しかし、ヨハネの黙示録の二度目の最後の審判における判決理由が「その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。」ということです。

 

ここだけを切り取り、

 

「地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。(ヨハネの黙示録13章8節)」という御言葉を取り去ります。

 

そして、その代わりに「イエス・キリストを信じていない人々」ということを付け加えるのです。

 

すると、「ただイエス・キリストを信じる信仰によってのみ、罪人である私たちが義とされ、救われる。

それが私たちプロテスタント教会の信仰の根本です。」という教えが正当化されます。

 

また巧妙に、他の御言葉と私的解釈を施して、ヨハネの黙示録の言葉を取り去ったり、付け加えていることに気づかれないようにしています。

 

さらに、プロテスタント教会がヨハネの黙示録の教えが必要不可欠なのは「お金」の問題があるからです。

 

今回、最も長くなりすぎたので、次回はそのことについて書いていきます。

 

長くなったのは、御言葉をいつもより数多く引用したためですから、最後まで読んでもらえれば幸いです。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教の真実 ㊵ すり替えられたキリストの教え 滅びる人々について」

 

前回記事の「すり替えられていること」について見ていきます。

 

プロテスタント教会では「イエス・キリストを信じていない人々は滅びに向かっているのです」と断言する根拠として、次の御言葉を当然のこととして教えられます。

 

「13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。

 

14 いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。(マタイの福音書7章13~14節)」

 

この御言葉から、滅びに至る門から入って行く者は、イエス・キリストを信じていない人々であり、いのちに至る門を見いだした者がクリスチャンということに教えるのです。

 

 

ところがぎっちょんちょん

その続きには次のように教えています。

 

15 にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやってくるが、うちは貪欲な狼です。

 

16 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。

 

17 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。

 

18 良い木が悪い実をならせることはできませんし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。

 

19 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。

 

20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。

 

21 わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。

 

22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』

 

23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

 

 

さて、13~14節だけを切り取らずに、続けて読めば、にせ預言者たちによる「滅びに至る門」だということがわかります。

 

さらに、そのことをイエスさまが詳しく教えられているのが、次の御言葉です。

 

3 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。

 

「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

 

4 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。

 

5 わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。

 

15 それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)

 

16 そのときは、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。

21 そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。

 

22 もし、その日数が少なくされなかったら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、選ばれた者のために、その日数は少なくされます。

 

23 そのとき、『そら、キリストがここにいる』とか、『そこにいる』とか言う者があっても、信じてはいけません。

 

24 にせキリスト、にせ預言者たちが現れて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。

 

25 さあ、わたしは、あなたがたに前もって話しました。

 

26 だから、たとい、『そら、荒野にいらっしゃる』と言っても、飛び出して行ってはいけません。『そら、へやにいらっしゃる』と聞いても、信じてはいけません。

(マタイの福音書24章3~26節)

 

 

このイエスさまの教えを、使徒パウロは次のように詳細に教えました。

 

3 だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。

 

4 彼は、すべての神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。

 

5 私がまだあなたがたのところにいたとき、これらのことをよく話しておいたのを思い出しませんか。

 

8 その時になると、不法の人が現れますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。

 

9 不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、

 

10 また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。

なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。

 

11 それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。

 

12 それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。

 

13 しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。

 

主に愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。

 

 

使徒パウロは、この不法の人、すなわち滅びの子について、よく話しておきました。

 

なぜなら、不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われるからです。

 

それが「滅びに至る門から入って行く者が多い」ということだからです。

 

 

この「不法の人、すなわち滅びの子」は知能犯です。

ちょうど、創世記の初めにイブをだました蛇のように狡猾です。

 

あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴うことは、あの地上でのイエス・キリストの福音宣教を思い起こさせます。

 

しかし「偽り」であるサタンの働きによるものなので、イエスさまと同じ盲人が見え、耳の聞こえない人は聞こえという善の働きではなく、あくまでも不法が伴うものです。

 

あの、モーセとアロンに対抗したエジプトの呪法師のような、しるしと不思議だと思われます。

 

しかし、あらゆる偽りの力、しるし、不思議というものは、人々を神だと信じさせます。

 

 

さらに「滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われる」というのも魅力的です。

 

実は旧約聖書において、イスラエルの民は何度もイスラエルの神から他の神を崇拝するようになりましたが、その最大の理由が、他の神々は欲望を満たす神だからでした。

 

罪を犯すなというイスラエルの神から、罪を犯したい放題の神のほうが魅力的です。

 

 

イエス・キリストは地上での福音宣教において、次のように教えられました。

 

「兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」

 

「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。

 

もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。

(マタイの福音書5章22~29節)」

 

「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。

 

つまずきを与えるこの世はわざわいだ。つまずきが起こるのは避けられないが、つまずきをもたらす者はわざわいだ。

 

もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちに入るほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。(マタイの福音書18章6~8節)」

 

 

しかし、にせキリストである「不法の人、すなわち滅びの子」はその真逆の教えです。

 

「どんな罪も赦される」という教えのもと、人に暴言を言い放っても、情欲を抱いても、強姦しても、小さき者に虐待・性的虐待を行なっても、神であるキリストは赦しているという教えです。

 

それゆえ、にせキリストを信じる者たちは不法を行なうようになります。

 

 

また、イエスさまは同じことを次のように教えられています。

 

「イエスは、町々村々を次々に教えながら通り、エルサレムへの旅を続けられた。

 

すると、『主よ。救われる者は少ないのですか』という人があった。イエスは、人々に言われた。

 

『努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。

 

家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。

 

すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』

 

だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』

 

神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちが入っているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。』

(ルカの福音書13章22~28節)」

 

 

つまり、にせ預言者たち、にせキリストである「不法の人、すなわち滅びの子」を信じた者たちが、不正を行なうようになり、滅びに至る門から入る者たちです。

 

 

さて、現在のイエス・キリストを信じていない人々は、どうでしょうか?

 

イエス・キリストの教えは知らないけれど、人に対して「バカ者」などの暴言を吐いて傷つけることは大きな罪だと教えています。

 

また、性犯罪において、情欲を抱き続けたことが原因にあることが多いので、情欲を抱き続けないように自制が求められています。

 

もちろん、性犯罪は魂の殺人と言われるほどの重犯罪で逮捕されて、刑務所に入れられます。

 

そして、小さき者に対する虐待・性的虐待も最大級の重犯罪で、逮捕されて刑務所に入れられます。

 

つまり、現在のイエス・キリストを信じていない人々は、イエスさまの教えに賛同する人たちです。

 

 

次の聖書の教えも感動する人が多いでしょう。

 

互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。

 

「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。

 

愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。

(ローマ信徒への手紙13章8~10節)

 

ですから、前述の滅びに至る門から入る人々は、イエス・キリストを信じていない人々ということにはならないことがわかります。

 

使徒パウロは何度も教えたように、にせ預言者たち、にせキリストを信じる者たちです。

 

 

ところが、プロテスタント教会の教えは、何がなんでもイエス・キリストを信じていない人々を地獄行きにしなければなりません。

 

なので、にせキリストである「不法の人、すなわち滅びの子」について、知能犯で惑わす者ではなく、その真逆のことを教えているヨハネの黙示録の教えを選択しています。

 

ヨハネの黙示録の教えは次のように教えています。

 

「それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。

 

また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。

 

また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。

 

ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。

(ヨハネの黙示録13章15~18節)」

 

この教えは戦慄を覚えます。獣の像を拝まない者をみな殺しにして、獣の刻印を受けていない者は生きていけないようにするという最大級に残虐非道です。

 

このように、にせキリストである「不法の人、すなわち滅びの子」は狡猾な知能犯ではなく、最大級に残虐非道な者だと洗脳することによって、滅びに至る門から入る者についての教えとは違うように思わる手法です。

 

それで、「滅びに至る門から入る者たちはイエス・キリストを信じていない人々のことです。」と断言できるようにしています。

 

かなり長くなったので、次回もイエスさまの教えとヨハネの黙示録の教えとの決定的な違いなどを見ていきます。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教の真実 ㊴ まったく違うキリスト教と十字架に敵対する者について」

 

改めて申しますが、私は無教会派のクリスチャンとしての立場で、個人的に聖書の御言葉だけで聖書解釈と福音理解を発信しています。

 

前回記事では、ダマスコ近くで、イエスの弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えていサウロ(使徒パウロ)とイエス・キリストとの出逢いの聖書箇所から、次のように解釈しました。

 

「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」

 

ということは、脅しと殺害の意に燃えているサウロのままで、イエスさまは怒ることもなく、地獄行きを宣告することもなく、悔い改めさせることもなく、信じさせることもなく、もうすでに弟子になっている者とされていました。

 

そのことについて使徒パウロは次のように語っています。

「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。

それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。

(テモテへの手紙第一1章13節)」

 

この使徒パウロの告白は、十字架につけられたキリストの次の御言葉が成就したことがわかります。

 

「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』

(ルカによる福音書23章34節)」

 

これが私個人の、ダマスコ近くでの恩寵体験を通して与えられたパウロにおける信仰と希望という聖書解釈と福音理解です。

 

 

さて、今度はプロテスタント教会の聖書解釈と福音理解を見ていきます。

 

前々回で紹介したプロテスタント教会が誇る日本キリスト教団の「佐古純一郎」名誉牧師が、 NHKの番組「こころの時代」とNHK出版の著書において「新約聖書を語る」というタイトルで、最も多くの日本人に教えられたことが次の通りです。

 

「いちばん大事な点は、神はお創りくださった私たちが一人も滅びないように願っていてくださるということです。

 

『滅び』というのは、私たちの感覚では、地獄に行くこと、と考えていいと思います。

 

『ローマの信徒への手紙』七章でパウロは、『善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっている』ということを、

『わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか』(二四節)と、

『死に定められた体』というところまで突きつめていきます。

 

この『死に定められた体』は『地獄行き』と言い換えてほとんど違わないと思います。

 

神は罪人としかいいようのない、この私をなお、滅びないように願っていてくださる。

神の側から言えば、『死に定められた体』としかいいようのない人間が一人だって滅びないようにというのが、お創りくださった神の愛の御心なのです。」

 

 

この佐古純一郎名誉牧師の教えは大きな反響があったそうです。

 

さらに佐古純一郎名誉牧師の教えを知りたいという人たちのために、佐古純一郎名誉牧師の著書「ダマスコの回心 使徒パウロ」があります。

 

まさに、ダマスコ近くでサウロとイエスさまとの出逢った時のことの教えを一冊の本にして教えているものです。

 

それでは、佐古純一郎名誉牧師の聖書解釈と福音理解を見ていきます。

 

「『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。……』これは明らかに、復活し給うたイエス・キリストご自身のお言葉、呼びかけとしか考えられませんね。」

 

〈中略〉

 

《わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。

 

わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。》(フィリピの信徒への手紙第三章9~11節)

 

これがダマスコの恩寵体験を通して与えられた、パウロにおける希望です。

 

私たちはパウロのダマスコ体験のような神秘的な劇的な形でイエス・キリスト様を信じる信仰に入ったわけではありませんね。

 

そういう方もいらっしゃるかも分からないけど、だけども同じじゃないですか。

 

私たちは、キリストとその復活を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したい。

これ以外に私たちの信仰はないんだし、希望はないんです。

 

〈中略〉

 

もう私もこのパウロの希望を、希望とする以外ない。

私はだんだんイエス・キリストの十字架とご復活の福音以外は、なんだか塵あくたのように思えてならない。

 

パウロはアテネからコリントへ行くとき、もう十字架のキリスト以外は知るまいと覚悟して行ったというんだけど、私たちも、十字架とご復活のイエス・キリスト様以外はあんまり知らなくてもいいんじゃないかね。」

 

引用以上

 

 

さて、このように、私個人の聖書解釈&福音理解と佐古純一郎名誉牧師の聖書解釈&福音理解はまったく違うことがわかりますね。

 

私は次のように続けて読むことが重要です。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」

 

しかし、佐古純一郎名誉牧師の場合は途中で打ち切ります。

『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。……』

 

 

そして、私はダマスコの恩寵体験を通して与えられた、パウロにおける信仰と希望は「テモテへの手紙第一1章13~16節」しかないと判断しています。

 

しかし、佐古純一郎名誉牧師はダマスコの恩寵体験を通して与えられた、パウロにおける希望としているのが、「フィリピの信徒への手紙第三章9~11節」です。

 

それゆえ、著書「ダマスコの回心 使徒パウロ」において、テモテへの手紙第一1章13~16節はまったく出て来ません。除外されています。

 

これは、著書「新約聖書を語る」において、この『死に定められた体』は『地獄行き』と言い換えてほとんど違わないと思います。

 

神は罪人としかいいようのない、この私をなお、滅びないように願っていてくださる。という教えに帰結させなければならないからです。

 

また、「ただイエス・キリストを信じる信仰によってのみ、罪人である私たちが義とされ、救われる。

 

それが私たちプロテスタント教会の信仰の根本です。」というプロテスタント教会の信仰の根本にも帰結させています。

 

そのプロテスタント教会の信仰の根本を否定する聖書箇所は相当めちゃくちゃ都合が悪いので、当然にテモテへの手紙第一1章13~16節は無視したいのですが、

 

しかしながら完全に無視することは出来ないので、その箇所においては何らかの機会で「字義通りに解釈してはいけない」などと、曲解させて教えるしかないのが、プロテスタント教会の苦しいところでしょう。

 

ちなみに、佐古純一郎名誉牧師がどう解釈しているのかはわかりません。

 

 

さらに、私も佐古純一郎名誉牧師も「十字架のキリスト」は教えていますが、まったく解釈が違います。

 

 

さて、佐古純一郎名誉牧師が、ダマスコの恩寵体験を通して与えられた、パウロにおける希望としているのが、「フィリピの信徒への手紙第三章9~11節」ですが、実は前後を読めば、まったく違う真実が隠されています。

 

フィリピの信徒への手紙第三章1~3節です。

 

「同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。

 

あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。

切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。

 

彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。」

 

つまり、佐古純一郎名誉牧師の聖書解釈と福音理解では、フィリピの信徒への手紙第三章を9~11節だけを切り取り、

 

あたかもイエス・キリストを信じていない人々は律法から生じる自分の義ですが、イエス・キリストを信じるとキリストへの信仰による義となる。という解釈にしています。

 

その教えによって、「ただイエス・キリストを信じる信仰によってのみ、罪人である私たちが義とされ、救われる。というプロテスタント教会の信仰の根本」に帰結させています。

 

 

ですが、ここで使徒パウロがもう一度教えていることは、

あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。

その犬どもが律法から生じる自分の義を教えて、滅びに導いている。

しかし、わたしたちはキリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。という教えです。

 

 

さらに、その続きの教えが次の通りです。

 

「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。

 

彼らの行き着くところは滅びです。

彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。 しかし、わたしたちの本国は天にあります。

(フィリピの信徒への手紙第三章18~20節)」

 

 

つまり、イエス・キリストを信じたクリスチャンたちはキリストの十字架を負う者たちです。

 

しかし、犬ども、にせ預言者たち、にせキリストたちは十字架に敵対する者たちです。

 

そして、羊のなりをして、クリスチャンの中に入り込み、多くのクリスチャンたちを滅びの門から入らせて、滅びに導くということです。

 

ですから、イエス・キリストを信じていない人々は、十字架に敵対する者たちではないことがわかります。

 

イエス・キリストを信じていない人々が、クリスチャンの中(キリスト教会)に入っていますが「未信者・求道者」扱いです。

 

まずは「イエス・キリストを信じなさい!」という話になるので、

多くのクリスチャンたちを滅びの門から入らせて、滅びに導くことは絶対に不可能です。

 

 

なので、プロテスタント教会の「イエス・キリストを信じれば罪が赦されて義とされるので救われる。つまり天国に行く。

 

しかし、イエス・キリストを信じない人々は罪人のままで、義とされていないから救われない。つまり地獄へ行くのです。」という教えは、聖書がそのように教えているわけではなく、

 

「イエス・キリストを信じていない人々は必ず地獄へ行かなければならない」という答えを勝手に作り出して、

 

それに都合のよい聖書の御言葉を切り取って、その答えに帰結させるように仕立て上げる。

 

さらに犬ども、にせ預言者たち、にせキリストたちのことをイエス・キリストを信じていない人々へすり替えて教えていることが多く見受けられます。

 

 

さらに、プロテスタント教会はヨハネの黙示録の教えが大好きです。

 

しかし、そのヨハネの黙示録の教えはイエスさまの重要な教えをことごとく否定しているのです。

 

長くなったので、次回はイエスさまが教えられるにせ預言者たち、にせキリストについての教え、さらに、ヨハネの黙示録について見ていきます。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教の真実 ㊳ イエス・キリストを信じない人々はあわれみを受ける」

 

最近、ブログ記事を楽しみにしてくださる方が増えてきましたので、意気に感じて書いています。

 

前回の投稿記事のつづきです。

 

サウロは、イエスさまの弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えていましたが、ダマスコの近くまで来たとき、突然、イエス・キリストが姿はなく現れました。

 

そして、サウロ(のちの使徒パウロ)に、次のように告げられたのです。

 

「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」

 

 

サウロは訳が分からなかったでしょう。

 

サウロはファリサイ派(新共同訳・新改訳ではパリサイ人)です。

 

イエス・キリストは地上で福音宣教をされていた時に、次のように宣告されました。

 

「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。

 

そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。

 

こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。

 

先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。

 

蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。 

(マタイによる福音書23章29~33節)」

 

 

サウロはまさに、先祖が始めた悪事の仕上げをしているわけです。

 

なので、もしもイエス・キリストが現れたなら

 

「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか!」という神の御怒りと地獄行きを再び宣告されると思います。

 

ところが、ぎっちょんちょん

 

現実に現れたイエス・キリストは怒ることもなく、地獄行きを宣告することもなく、悔い改めさせることもなく、信じさせることもなく、

 

クリスチャンたちに対する脅かしと殺害の意に燃えているままのサウロに対して、すでにイエスの弟子になっているかのごとく、次のように命じられました。

 

「立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」

 

 

このダマスコ近くでのイエス・キリストとの出逢いについて、使徒パウロ(サウロ)は次のように教えています。

 

「私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。

 

なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。

 

私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。

 

それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。

 

私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。

 

『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。

 

私はその罪人のかしらです。

 

しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、

 

まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。

 

どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。

(テモテへの手紙第一1章12~17節)」

 

 

使徒パウロが言う「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。

それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。」ということは、

 

十字架につけられたキリストの次の御言葉が成就したことがわかります。

 

「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』

(ルカによる福音書23章34節)」

 

そして、使徒パウロが、クリスチャンたちの殺害の意に燃えている時に、あわれみを受けたのは、

 

「イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。」ということでした。

 

 

つまり、クリスチャンたちは、イエス・キリストを信じていない人々に対して、この上ない寛容を示すことが、イエスさまの御心ということになります。

 

それゆえ、使徒パウロは「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。

 

できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。 (ローマ信徒への手紙12章17~18節)」ということも教えています。

 

 

ですから、中村哲医師がイスラム教徒の人々のためにモスクやマドラサ(イスラム教の神学校)を建設しても、御言葉を行なっていることがわかります。

 

また、世界中では、イスラム教で有名なのがタリバンの過激な戦闘員たちです。

 

タリバンは、イスラム教の神学校「マドラサ」で学んでいた学生が中心となって結成された組織です。

 

その後タリバンは、裕福で資金的に余裕があったビンラディン容疑者側からの資金的な支援を得たとされています。

 

それゆえ、世界の人々は、イスラムに嫌悪を示していました。

 

 

座談会「中村哲先生のスピリットを継承する」記録 より引用します。

 

谷津 :中村先生がモスク造ってるときに、ずっとそばで撮影していたんですけども、

 

そのときに中村 先生にインタビューして「皆さん、喜ばれたでしょうね」みたいなことを聞いたら、

 

「これで自由になった」っておっしゃったというんですね。

 

そのときは、「自由になった」っていう意味が、なかなか分からないじゃないですか。

 

「これで自由になった」って、意味が分からなかったんで、

中村先生にその後よくよく聞くと、イスラム教徒とあるだけで、蛇蝎のごとく嫌われるとか、

 

世界中がイスラムフォビアっていうんですが、イスラムに嫌悪を示すっていうのが、広まってしまったんですね、ヨーロッパとかで。

 

そういう中で、イスラム教徒であることが、あたかも悪いことであるかのような、ある種のプレッシャーっていうのをみんな感じている中で、

 

中村先生はそういうとこまできちんと見抜いて、モスクってのを建ててるんだと思って。

 

要は、クリスチャンである中村先生が、モスクを造ってくださったっていうことに対する、彼ら(イスラム教徒)の感謝の言葉が「自由になった」って、そこはすごく深いんだと思うんですね。

 

引用以上

 

 

無教会派のクリスチャンの中村哲先生は、イスラム教徒というだけで、世界中の人々から忌み嫌われている状況を痛感されました。

 

その最も小さき者たちに、イエスさまの御言葉に聞き従って、この上ない寛容を示す行動を起こされたようにも思えます。

 

もしも、中村哲先生がプロテスタント教会のクリスチャンであれば、モスクやマドラサを建設することはなく、

 

イスラム教徒たちは地獄へ行くのだから、キリスト教に改宗させることを行なっていたことでしょう。

 

それは、プロテスタント教会のクリスチャンたちは、世界中の人々よりもイスラム教徒を忌み嫌っていることになります。

 

 

ですから、聖書に聞き従えば、クリスチャンたちは、イエス・キリストを信じていない人々に対しては、この上ない寛容を示すことが、神さまの御心だと言えるでしょう。

 

しかし、この真逆の教えをさせるのが、羊のなりをしてやって来る「にせ預言者」たちです。

 

使徒パウロは、ピリピ人への手紙3章において次のように警告しています。

 

「どうか犬に気をつけてください。悪い働き人に気をつけてください。肉体だけの割礼の者に気をつけてください。」

 

「 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。

 

彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」

 

 

キリストの十字架の教えは「愛と赦しとあわれみ」です。

 

しかし、キリストの十字架の敵として歩む者たちの教えは「怒りと憎しみ」を植えつけることです。

 

多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいて、彼らの最後は滅びです。と聖書は教えているのです。

 

しかし、その教えをキリストの十字架の敵ではなく、イエス・キリストを信じていない人々が滅ぶというように教えている牧師が大勢いるのが現状です。

 

 

つまり、イエス・キリストを信じていない人々に対してはこの上ない寛容を示すことが、神の御心なはずです。

 

しかし、にせ預言者たちは羊のなりをしてキリスト教の中にいるわけです。その実態はキリストの十字架の敵です。

 

その「にせ預言者」たちの滅びの門から入っていくクリスチャンたちが多いのです。

 

そのにせ預言者たちの滅びの門に入って行く人々の最後は滅びだということを聖書は教えています。

 

その教えを「イエス・キリストを信じない人々が滅びの門から入っていて滅びる」と、すり替えてしまえば、にせ預言者たちの教えが正当化されてしまいます。

 

また、ヨハネの黙示録の教えもそうですね。

 

イエスさまの重要な教えとはまったく違う教えがいくつもあります。

 

しかし、そのまったく違う教えを信じてしまうと、イエスさまの教えを否定するようになります。

 

長くなったので、次回からそのことについて、見ていきます。

 

つづく