「傷ついた人々への聖書の教え 日本におけるキリスト教の真実 57」
最近の投稿から教会で傷ついた(つまずいた)記事を書いたところ、ある牧師から、次のようなコメントがありました。
「躓(つまず)いた」の告白は「彼等を救い主キリストした」依存卑怯の狡い面があったからです。
「躓いた」の発言は「人依存の甘えをした」他人任せの非常に卑怯な言葉。
それがあった事を反省して、自分で神の言葉に立つ責任、生き方をして、素晴らしい人生を獲得すれば良い。
信仰とは「三一の神」に依存する事であって。「彼等に」依存する事では無いのです。
あなたの投稿には「彼等に依存した」卑怯がある。それを反省した「前向の信仰」が無い。「過去の恨み言」の発言しか無い。
過去に恨みを残しているようではまだ信仰とは言えない。
信仰とは過去を過去にaphiemiする事。置き捨てて置き去る事です。全てを「捨てて」イエスに付いて行く事。神に付いて行く事です。
引用以上
この牧師の意見は、まさに模範解答であり、大勢の牧師やクリスチャンたちが賛同することです。
※
それでは具体的に、現実を見ていきます。
私はもう10年位前から、クリスチャンになって素晴らしいことだけをブログ記事で発信していました。
ところが、キリスト教の教会でつまずいて、深く傷ついた人たちから激しくコメント欄で批判非難されたのです。
とにかく、幸せなクリスチャン生活をおくっているクリスチャンを許さない!間違っている!という感じでした。
同じくブログ記事を書いている他の牧師やクリスチャンたちは皆、腹を立てて、抗議したり、コメント削除したりしたそうです。
しかし、私自身も教会で深く傷ついた者でしたので、批判非難・暴言をすべて受け入れました。
すると、「ごめんなさい」という謝罪の声や、時間はかかりましたが、乱暴なことをいうのをやめて前向きなことに変わった人もいます。
それで、話を聞いているうちに、深く傷ついた人たちの立場でブログ記事を書き始めたのです。
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そうすると、次々に深く傷ついた人たちからメッセージを頂きました。
ある人は高校生の時に、大好きなおばあちゃんとお父さんを亡くしました。深い悲しみのどん底でした。
それで大学の近くのキリスト教会に導かれたのですが、そこで「イエス・キリストを信じていない人々は地獄へ行く」と聞かされて、精神が崩壊するほどのダメージを受けたのです。
また、教会の献金のことで、深く傷つける牧師によって、苦しんだ人もいました。
いずれも、教会の牧師やクリスチャンたちは、「深く傷ついたり、つまずく人が悪い、私たちは聖書の教えを正しく教えているだけなので、悪くない」と相手にしません。
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さて、世の中では、悪い人もいれば良い人もいる。という認識があります。
しかし、世の中で「良識人」として活躍している有名人、著名人、聖職者の人々、牧師や神父もそうですね。そういう人は基本的に良い人という認識があります。(例外はありますが)
牧師は、聖書から教えます。キリスト教的生活の規範の教えとして、ローマ信徒への手紙12章~15章から教えます。
「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
人は皆、上に立つ権威に従うべきです。
神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。
従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。 」
つまり、「善から離れず=上に立つ権威に従う」ということになります。
それで、教会の上に立つ権威である牧師が、聖書の教えによって、つまずかせるのですから、深く傷ついても至極当然です。
そして、つまずいたり、深く傷つく人たちは、神の定めに背く者としてさばかれます。
それゆえ、教会を離れることになります。
そうなれば、当然ながら、教会の牧師やクリスチャンたちを憎みますし、イエス・キリストを憎む人も多いです。
これは、神さまから離れさせる「魂の殺人」だともいえるでしょう。
※
一方、世の中では、今年、元国民的アイドルの性暴力問題が世間を騒がせています。
その事で弁護士で政治家の橋下徹さんがテレビのワイドショー番組でこれは失恋事案として、次のように言いました。
“当日”について、橋下氏は「ちょっと把握しています。皆、これ性暴力なの?って感じる人も多くなると思います」
「当日の状況を見てもらえれば、これだけ性暴力だとか、少なくともこれだけ社会的制裁を受けるような話ではないと感じる人も僕はすごく増えると思う」とも示唆。
さらに、橋下氏は「意に反するというだけで性暴力になってしまったら、あとから意に反してましたと言ったら、これは全部性暴力なんですか?」
引用以上
つまり、加害者は性暴力と認めていないようです。
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そして、週刊文春は被害者の方の極めて親しい友人の話を記事にしました。
「橋下徹さんの『失恋事案』発言が独り歩きして、誹謗中傷、脅迫が止みません。父親と同世代の方に恋愛感情など最初から1ミリもないのに。これ以上、二次加害が続くなら……」
さらに、週刊ポストに、元アナウンサーの渡邊渚さんの独占手記が掲載されました。次のように語っています。(ピックアップして伝えます。)
私もPTSDを患っているから、トラウマを抱える被害者たちの気持ちや状況が生々しく理解できて、心が締め付けられる。
加害者にとっては「たった一度、この人だけ失敗した」なんて思うのかもしれないが、被害者はそのたった一回で、たった一度の大事な人生をぶち壊される。
性被害に遭った時、抵抗できないだけでなく、加害者に合わせたり、感謝をほのめかすなどの言動をすることも珍しくない。
これは大きな危険に直面した時、生き延びるための神経系の自然な反応だと言われている。
死を覚悟するほどの恐怖を自分の身体一つで受け入れるしかない状況で、生きてその場から出ることが最重要事項になり、防衛のためにそういった行動に出るのだ。
そんな状況から生きながらえたとしても、恐怖や恥辱感でいっぱいで、その後の気持ちや思考にも影響が出る。
アンケートによると、気分が落ち込むだけでなく、「汚れてしまった」「自分に価値がない」「将来のことを考えられない」
「生きている実感や現実感がない」と感じる人も多く、自傷行為をした、また自傷行為をしたいと思った人の割合が合わせて20%を超えている。
さらに、人との付き合い方もわからなくなる。
治療が終わっても、ふとした瞬間、被害時に似た天気や匂い・食べ物・音を感じたり、また自分と似たような被害のニュースを目にしたりするたびに、身体に刻まれたトラウマが再び体験しているかのように鮮明に蘇ってくる。
「いっそ殺してほしかった」
そう思うくらい、永遠に救われることのない地獄を、被害者は彷徨い続けるのだ。
中には、その地獄から早く抜け出す人もいるが、それは性暴力の度合いが軽かったからではないことも改めて示しておきたい
性被害が話題になるたびに、世間の傍観者たちは口を揃えて「警察に行けばいい」と言う。
そんな人たちに私は「簡単に言うな」と言い返したい。警察に行くことがどれだけ勇気のいることか、想像してほしい。
性暴力は、被害者に大きな傷を負わせ、生きる気力も奪ったのに、加害者の大半が罰せられずのうのうとしていられる歪な犯罪だ。
捕まってないから、不起訴だから、無実ではない。
地獄のような経験をさせて人生を壊し、被害者の将来を歪めた事実は変わらない。
被害者の落ち度を血眼で探し、性暴力の定義を歪めてまで加害者を許そうとする社会に、いい加減終止符を打つべきだ。
性暴力は魂の殺人とも言われる。そう、殺人なのだ。
だから“あらゆる性暴力(殺人)は許さない”という当たり前を公言する大人が増えることを切に願う。
安全に過ごせて被害者が生まれない未来を作るために、私たちは声を上げ続けなければならない。
引用以上
☆
それでは、聖書の中で、イエス・キリストはどのように教えられているかを見てみましょう。
イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。
そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。
あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。
(ルカによる福音書17章1~3節)
*
イエスさまは、まず、つまずきをもたらす者は不幸である。
もし兄弟が、人をつまずかせる(傷つける)罪を犯したら、戒めなさい。と教えています。
ですから、まず相手に、「つまずきました。傷つきました。」と伝えることから始まります。
しかし、相手(教会の上に立つ立場の者・牧師、神父、宣教師、伝道師、信徒リーダーなど)が悔い改めません。
その場合、赦すことはできないのです。
なぜなら、イエスさまの教えは「悔い改めれば赦してあげなさい」ということだからです。
そうしなければ、加害者たちは増え続けて、被害者たちも増え続けるからでしょう。
現実にそうなっています。
◆
また、プロテスタント教会の牧師たちの教えで、つまずいたり、深く傷ついたりすれば、つまずいたり、深く傷つく人たちのほうが悪くなるということの一つに、同性愛者たちを罪とする教えがあります。
同性婚合法化の時に、キリスト教の牧師やクリスチャンたちが猛反対して、同性愛者の方々を断罪するので、驚いた人たちは多いですが、聖書の次の教えによるものです。
「それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、
同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。
( ローマ信徒への手紙1章26~27節)」
この聖書箇所から「同性愛は罪だと聖書はハッキリ教えています。」と断罪します。
すると、同性愛者と言われている方々は深く傷つき、神から離れたり、絶望して自殺しようとする人たちもいるそうです。
私は、この聖書箇所をよく調べました。その前の22節から読めば、
「自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。
そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。
神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。
それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。」
つまり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたという理由によって、
神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられたと教えています。
私は、東日本大震災が起きた後で支援活動に行きました。
すると、人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像などが至る所にありました。
すると、そこの村人の多くは同性愛者になっていることになります。
しかし、現実はそのような事になっていません。
つまり、このローマ信徒への手紙1章26~27節だけを切り取って、同性愛者と言われている方々を罪人に定めたりすることが「罪」だと思えます。
他の旧約聖書の箇所でも同性愛者は罪人だと定められていますが、同性愛者と言われている牧師やクリスチャンたちが、その聖書解釈と福音理解を発信していますが、罪人と定めることが「罪」だとわかります。
※
まとめると、イエスさまは、つまずきをもたらす者は不幸です。その者たちを戒めなさいと教えられました。
そのつまずかせる者たちを放置しておけば、加害者が増え続けて、被害者も増え続けるからです。
ですから、まず、つまずかせたり、深く傷ついたことを伝えることから始まります。
それで、悔い改めたら赦しなさいということです。
*
しかし、現在の教会の上に立つ者たちやクリスチャンたちは、二つに分かれます。
「私たちは正しい。つまずいたり、深く傷つく人たちが間違っている」と主張している大勢の人々
また、次のように説く人々です。
つまずいたり、深く傷ついた人たちに対して、
「彼等に依存した」卑怯がある。それを反省した「前向の信仰」が無い。「過去の恨み言」の発言しか無い。
過去に恨みを残しているようではまだ信仰とは言えない。
恨みを捨てて、キリストに従いなさい。
※
前述の渡邊渚さんの心からの叫びが思い起こされます。
「被害者の落ち度を血眼で探し、性暴力の定義を歪めてまで加害者を許そうとする社会に、いい加減終止符を打つべきだ。
性暴力は魂の殺人とも言われる。そう、殺人なのだ。
だから“あらゆる性暴力(殺人)は許さない”という当たり前を公言する大人が増えることを切に願う。
安全に過ごせて被害者が生まれない未来を作るために、私たちは声を上げ続けなければならない。」
渡邊渚さんのように戦ってくださる方は、すごく貴重です。
性暴力被害にあった多くの方々は、そのように戦うことはできませんが、その声を聞いてとても慰められます。
また、その声を真摯に聞く人たちは、自分が加害者にならないように努めるでしょう。
☆
クリスチャンの世界も同じです。
聖書の教えを曲解させてまで、つまずかせる者を赦したり、放置するような教えに、いい加減終止符を打つべきだ。
「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
(エフェソの信徒への手紙1章23節)」
そのような教会で、つまずきをもたらす者は不幸です。
もしも教会でつまずきをもたらす罪を犯せば戒めなさいと、イエスさまが教えられています。
そのように、つまずいた人たち、深く傷ついた人たちの声を伝え続けることもイエスさまの御心です。
つまずいたり、深く傷ついた人たちの多くは、声を出せず、神さまから離れていますが、その声を代弁してくださる方が存在することによって、とても慰められたり、神さまのほうにまた近づく可能性が生まれています。
また、その声を真摯に聞く人たちは、自分が加害者にならないように努めるでしょう。
ただ、聖書解釈と福音理解には違いがあります。
無教会の内村鑑三先生は、どちらも正しいとしたうえで、万人救済説を説いています。
私自身は、教会でつまずき、深く傷ついた人たちには、その声を代弁したうえで、様々な聖書解釈と福音理解があることを伝えるようにしました。









