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ルーク4のブログ

神様がクリスチャンに与える愛、夢、希望、信仰の証を中心に書いています。

「傷ついた人々への聖書の教え 日本におけるキリスト教の真実 57」

 

最近の投稿から教会で傷ついた(つまずいた)記事を書いたところ、ある牧師から、次のようなコメントがありました。

 

「躓(つまず)いた」の告白は「彼等を救い主キリストした」依存卑怯の狡い面があったからです。

 

「躓いた」の発言は「人依存の甘えをした」他人任せの非常に卑怯な言葉。

 

それがあった事を反省して、自分で神の言葉に立つ責任、生き方をして、素晴らしい人生を獲得すれば良い。

 

 信仰とは「三一の神」に依存する事であって。「彼等に」依存する事では無いのです。

 

あなたの投稿には「彼等に依存した」卑怯がある。それを反省した「前向の信仰」が無い。「過去の恨み言」の発言しか無い。

 

過去に恨みを残しているようではまだ信仰とは言えない。

 

 信仰とは過去を過去にaphiemiする事。置き捨てて置き去る事です。全てを「捨てて」イエスに付いて行く事。神に付いて行く事です。

 

引用以上

 

この牧師の意見は、まさに模範解答であり、大勢の牧師やクリスチャンたちが賛同することです。

 

 

それでは具体的に、現実を見ていきます。

 

私はもう10年位前から、クリスチャンになって素晴らしいことだけをブログ記事で発信していました。

 

ところが、キリスト教の教会でつまずいて、深く傷ついた人たちから激しくコメント欄で批判非難されたのです。

 

とにかく、幸せなクリスチャン生活をおくっているクリスチャンを許さない!間違っている!という感じでした。

 

同じくブログ記事を書いている他の牧師やクリスチャンたちは皆、腹を立てて、抗議したり、コメント削除したりしたそうです。

 

しかし、私自身も教会で深く傷ついた者でしたので、批判非難・暴言をすべて受け入れました。

 

すると、「ごめんなさい」という謝罪の声や、時間はかかりましたが、乱暴なことをいうのをやめて前向きなことに変わった人もいます。

 

それで、話を聞いているうちに、深く傷ついた人たちの立場でブログ記事を書き始めたのです。

 

 

そうすると、次々に深く傷ついた人たちからメッセージを頂きました。

 

ある人は高校生の時に、大好きなおばあちゃんとお父さんを亡くしました。深い悲しみのどん底でした。

 

それで大学の近くのキリスト教会に導かれたのですが、そこで「イエス・キリストを信じていない人々は地獄へ行く」と聞かされて、精神が崩壊するほどのダメージを受けたのです。

 

また、教会の献金のことで、深く傷つける牧師によって、苦しんだ人もいました。

 

いずれも、教会の牧師やクリスチャンたちは、「深く傷ついたり、つまずく人が悪い、私たちは聖書の教えを正しく教えているだけなので、悪くない」と相手にしません。

 

 

さて、世の中では、悪い人もいれば良い人もいる。という認識があります。

 

しかし、世の中で「良識人」として活躍している有名人、著名人、聖職者の人々、牧師や神父もそうですね。そういう人は基本的に良い人という認識があります。(例外はありますが)

 

牧師は、聖書から教えます。キリスト教的生活の規範の教えとして、ローマ信徒への手紙12章~15章から教えます。

 

「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。

 

人は皆、上に立つ権威に従うべきです。

 

神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。

 

従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。 」

 

つまり、「善から離れず=上に立つ権威に従う」ということになります。

 

それで、教会の上に立つ権威である牧師が、聖書の教えによって、つまずかせるのですから、深く傷ついても至極当然です。

 

そして、つまずいたり、深く傷つく人たちは、神の定めに背く者としてさばかれます。

 

それゆえ、教会を離れることになります。

 

そうなれば、当然ながら、教会の牧師やクリスチャンたちを憎みますし、イエス・キリストを憎む人も多いです。

 

これは、神さまから離れさせる「魂の殺人」だともいえるでしょう。

 

 

一方、世の中では、今年、元国民的アイドルの性暴力問題が世間を騒がせています。

 

その事で弁護士で政治家の橋下徹さんがテレビのワイドショー番組でこれは失恋事案として、次のように言いました。

 

“当日”について、橋下氏は「ちょっと把握しています。皆、これ性暴力なの?って感じる人も多くなると思います」

 

「当日の状況を見てもらえれば、これだけ性暴力だとか、少なくともこれだけ社会的制裁を受けるような話ではないと感じる人も僕はすごく増えると思う」とも示唆。

 

 さらに、橋下氏は「意に反するというだけで性暴力になってしまったら、あとから意に反してましたと言ったら、これは全部性暴力なんですか?」

 

引用以上

 

つまり、加害者は性暴力と認めていないようです。

 

 

そして、週刊文春は被害者の方の極めて親しい友人の話を記事にしました。

 

「橋下徹さんの『失恋事案』発言が独り歩きして、誹謗中傷、脅迫が止みません。父親と同世代の方に恋愛感情など最初から1ミリもないのに。これ以上、二次加害が続くなら……」

 

さらに、週刊ポストに、元アナウンサーの渡邊渚さんの独占手記が掲載されました。次のように語っています。(ピックアップして伝えます。)

 

私もPTSDを患っているから、トラウマを抱える被害者たちの気持ちや状況が生々しく理解できて、心が締め付けられる。

 

 加害者にとっては「たった一度、この人だけ失敗した」なんて思うのかもしれないが、被害者はそのたった一回で、たった一度の大事な人生をぶち壊される。

 

性被害に遭った時、抵抗できないだけでなく、加害者に合わせたり、感謝をほのめかすなどの言動をすることも珍しくない。

 

これは大きな危険に直面した時、生き延びるための神経系の自然な反応だと言われている。

 

死を覚悟するほどの恐怖を自分の身体一つで受け入れるしかない状況で、生きてその場から出ることが最重要事項になり、防衛のためにそういった行動に出るのだ。

 

 そんな状況から生きながらえたとしても、恐怖や恥辱感でいっぱいで、その後の気持ちや思考にも影響が出る。

 

アンケートによると、気分が落ち込むだけでなく、「汚れてしまった」「自分に価値がない」「将来のことを考えられない」

 

「生きている実感や現実感がない」と感じる人も多く、自傷行為をした、また自傷行為をしたいと思った人の割合が合わせて20%を超えている。

 

 さらに、人との付き合い方もわからなくなる。

 

治療が終わっても、ふとした瞬間、被害時に似た天気や匂い・食べ物・音を感じたり、また自分と似たような被害のニュースを目にしたりするたびに、身体に刻まれたトラウマが再び体験しているかのように鮮明に蘇ってくる。

 

「いっそ殺してほしかった」

 

 そう思うくらい、永遠に救われることのない地獄を、被害者は彷徨い続けるのだ。

 

 中には、その地獄から早く抜け出す人もいるが、それは性暴力の度合いが軽かったからではないことも改めて示しておきたい

 

性被害が話題になるたびに、世間の傍観者たちは口を揃えて「警察に行けばいい」と言う。

 

そんな人たちに私は「簡単に言うな」と言い返したい。警察に行くことがどれだけ勇気のいることか、想像してほしい。

 

性暴力は、被害者に大きな傷を負わせ、生きる気力も奪ったのに、加害者の大半が罰せられずのうのうとしていられる歪な犯罪だ。

 

捕まってないから、不起訴だから、無実ではない。

 

地獄のような経験をさせて人生を壊し、被害者の将来を歪めた事実は変わらない。

 

被害者の落ち度を血眼で探し、性暴力の定義を歪めてまで加害者を許そうとする社会に、いい加減終止符を打つべきだ。

 

 性暴力は魂の殺人とも言われる。そう、殺人なのだ。

 

だから“あらゆる性暴力(殺人)は許さない”という当たり前を公言する大人が増えることを切に願う。

 

安全に過ごせて被害者が生まれない未来を作るために、私たちは声を上げ続けなければならない。

 

引用以上

 

 

それでは、聖書の中で、イエス・キリストはどのように教えられているかを見てみましょう。

 

イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。

 

そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。

 

あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。

 

(ルカによる福音書17章1~3節)

 

 

イエスさまは、まず、つまずきをもたらす者は不幸である。

 

もし兄弟が、人をつまずかせる(傷つける)罪を犯したら、戒めなさい。と教えています。

 

ですから、まず相手に、「つまずきました。傷つきました。」と伝えることから始まります。

 

しかし、相手(教会の上に立つ立場の者・牧師、神父、宣教師、伝道師、信徒リーダーなど)が悔い改めません。

 

その場合、赦すことはできないのです。

 

なぜなら、イエスさまの教えは「悔い改めれば赦してあげなさい」ということだからです。

 

そうしなければ、加害者たちは増え続けて、被害者たちも増え続けるからでしょう。

 

現実にそうなっています。

 

 

また、プロテスタント教会の牧師たちの教えで、つまずいたり、深く傷ついたりすれば、つまずいたり、深く傷つく人たちのほうが悪くなるということの一つに、同性愛者たちを罪とする教えがあります。

 

同性婚合法化の時に、キリスト教の牧師やクリスチャンたちが猛反対して、同性愛者の方々を断罪するので、驚いた人たちは多いですが、聖書の次の教えによるものです。

 

「それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、

 

同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。

( ローマ信徒への手紙1章26~27節)」

 

この聖書箇所から「同性愛は罪だと聖書はハッキリ教えています。」と断罪します。

 

すると、同性愛者と言われている方々は深く傷つき、神から離れたり、絶望して自殺しようとする人たちもいるそうです。

 

私は、この聖書箇所をよく調べました。その前の22節から読めば、

 

「自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。

 

そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。

 

神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。

 

それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。」

 

つまり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたという理由によって、

 

神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられたと教えています。

 

私は、東日本大震災が起きた後で支援活動に行きました。

 

すると、人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像などが至る所にありました。

 

すると、そこの村人の多くは同性愛者になっていることになります。

しかし、現実はそのような事になっていません。

 

つまり、このローマ信徒への手紙1章26~27節だけを切り取って、同性愛者と言われている方々を罪人に定めたりすることが「罪」だと思えます。

 

他の旧約聖書の箇所でも同性愛者は罪人だと定められていますが、同性愛者と言われている牧師やクリスチャンたちが、その聖書解釈と福音理解を発信していますが、罪人と定めることが「罪」だとわかります。

 

 

まとめると、イエスさまは、つまずきをもたらす者は不幸です。その者たちを戒めなさいと教えられました。

 

そのつまずかせる者たちを放置しておけば、加害者が増え続けて、被害者も増え続けるからです。

 

ですから、まず、つまずかせたり、深く傷ついたことを伝えることから始まります。

 

それで、悔い改めたら赦しなさいということです。

 

 

しかし、現在の教会の上に立つ者たちやクリスチャンたちは、二つに分かれます。

 

「私たちは正しい。つまずいたり、深く傷つく人たちが間違っている」と主張している大勢の人々

 

また、次のように説く人々です。

 

つまずいたり、深く傷ついた人たちに対して、

 

「彼等に依存した」卑怯がある。それを反省した「前向の信仰」が無い。「過去の恨み言」の発言しか無い。

 

過去に恨みを残しているようではまだ信仰とは言えない。

恨みを捨てて、キリストに従いなさい。

 

 

前述の渡邊渚さんの心からの叫びが思い起こされます。

 

「被害者の落ち度を血眼で探し、性暴力の定義を歪めてまで加害者を許そうとする社会に、いい加減終止符を打つべきだ。

 

 性暴力は魂の殺人とも言われる。そう、殺人なのだ。

 

だから“あらゆる性暴力(殺人)は許さない”という当たり前を公言する大人が増えることを切に願う。

 

安全に過ごせて被害者が生まれない未来を作るために、私たちは声を上げ続けなければならない。」

 

渡邊渚さんのように戦ってくださる方は、すごく貴重です。

 

性暴力被害にあった多くの方々は、そのように戦うことはできませんが、その声を聞いてとても慰められます。

 

また、その声を真摯に聞く人たちは、自分が加害者にならないように努めるでしょう。

 

 

クリスチャンの世界も同じです。

 

聖書の教えを曲解させてまで、つまずかせる者を赦したり、放置するような教えに、いい加減終止符を打つべきだ。

 

「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。

(エフェソの信徒への手紙1章23節)」

 

そのような教会で、つまずきをもたらす者は不幸です。

 

もしも教会でつまずきをもたらす罪を犯せば戒めなさいと、イエスさまが教えられています。

 

そのように、つまずいた人たち、深く傷ついた人たちの声を伝え続けることもイエスさまの御心です。

 

つまずいたり、深く傷ついた人たちの多くは、声を出せず、神さまから離れていますが、その声を代弁してくださる方が存在することによって、とても慰められたり、神さまのほうにまた近づく可能性が生まれています。

 

また、その声を真摯に聞く人たちは、自分が加害者にならないように努めるでしょう。

 

ただ、聖書解釈と福音理解には違いがあります。

 

無教会の内村鑑三先生は、どちらも正しいとしたうえで、万人救済説を説いています。

 

私自身は、教会でつまずき、深く傷ついた人たちには、その声を代弁したうえで、様々な聖書解釈と福音理解があることを伝えるようにしました。

 

「イエス・キリストは好きだけど、クリスチャンたちは嫌い 日本におけるキリスト教の真実 56」

 

イエス・キリストの思想にも洞察を深め、非暴力運動によってインド独立の父と言われているマハトマ・ガンジーは「私はイエス・キリストは好きだがクリスチャンは嫌いだ」と言ったことが有名な話です。

 

実は、この日本でも同じことをいう人は意外に多いです。

 

私と私の弟や友人たちもキリスト教会に導かれましたが、その教会の牧師や伝道師、信徒リーダーたちに深く傷ついて、教会から離れました。

 

私は「イエスさまは大好きだけど、教会の牧師や信徒リーダーたちは二度と会いたくない」となりましたが、弟や友人たちは「どちらも大嫌い」と拒絶しています。

 

その影響で、母親はクリスチャンになることを拒絶したままで、昨年12月に亡くなりました。

 

 

さて、その原因を個人的に分析したのを伝えていきます。

 

かなり長くなるので苦手な人や個人的に私の意見が嫌いな人たちはスルーしてください。

 

一言でいえば、同じイエス・キリストを信じる人々の集まりの教会でも聖書解釈と福音理解がまったく違うことです。

 

私や私の弟、友人たちが導かれた教会は「プロテスタント教会」です。

 

「ただイエス・キリストを信じる信仰によってのみ、罪人である私たちが義とされ、救われる。

 

それがプロテスタント教会の信仰の根本です。」

 

そのプロテスタント教会の中でもエキュメニカル派と呼ばれる約16万人の信徒数の「日本キリスト教団」があります。

 

その教団の中でもNHK番組などで最も大いに用いられた「佐古純一郎名誉牧師」の教えは、大きな反響があり、そのNHK出版から出版された著書「新約聖書を語る」の中で、次のように語っています。

 

「いちばん大事な点は、神はお創りくださった私たちが一人も滅びないように願っていてくださるということです。

 

『滅び』というのは、私たちの感覚では、地獄に行くこと、と考えていいと思います。

 

先ほど述べた『ローマの信徒への手紙』七章でパウロは、『善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっている』ということを、

 

『わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか』(二四節)と、

 

『死に定められた体』というところまで突きつめていきます。

 

この『死に定められた体』は『地獄行き』と言い換えてほとんど違わないと思います。

 

神は罪人としかいいようのない、この私をなお、滅びないように願っていてくださる。」

 

引用以上

 

つまり、プロテスタント教会の教えは、すべての人間は地獄行きに定められている。

 

神は、そのままでは地獄行きの運命の人間(罪人)を地獄へ行かせないように、御子イエス・キリストにすべての罪を背負わせて、十字架上で死に渡されて、三日後に復活された。

 

このことを信じた人たちは「義」とされて救われる。という教えです。

 

それゆえ「義」とされない人々は救われず、イエス・キリストを信じずに死んでしまえば、地獄に行き、永遠に炎の中でもがき苦しみます。

 

 

プロテスタント教会には福音派があります。アメリカでは信者数が最も多いと聞きました。

 

韓国ではプロテスタントといえば「福音派」という感じがします。

 

私自身は福音派に長年、いくつもの教会を変わりながら所属していまして、この「福音派」では、「天国か地獄か」という福音宣教が多い印象が強いです。

 

生駒聖書学院を卒園した牧師の教会では、路傍伝道のYouTubeを教会で視聴して、道行く人々に「あなた方は地獄へ行きますよ!」と絶叫したクリスチャンを「聖霊に満たされてるわ~♡」と褒め称えました。

 

その時、牧師の次男が「きちがいや!」と何度も吐き捨てましたが、牧師は「あれは聖霊様の力やで」と説得していました。

 

私自身は、隣人に向かって「地獄行き」を宣告するのは「悪霊の力」としか思えませんでしたが、牧師と牧師婦人、信徒たちが「聖霊様の力です!」と一致する教会の中では、合わせるしかありませんでした。

 

 

また、イエス・キリストを信じない人々が地獄の火に投げ込まれる絵が飾られていたり、地獄を教える教会も少なくありません。

 

その地獄を知って「神の愛がわかった」というクリスチャンも多いです。

 

「地獄は美しい!」「地獄も神が創造された!ハレルヤ!」などと、

 

毎日、地獄の絵を見て、主イエス・キリストに感謝を捧げるクリスチャンたちもいます。

 

 

その福音派の中で最も信徒数が多いのが約2500人以上の「大和カルバリーチャペル」と言われています。

 

大和カルバリーチャペルの「大川従道」主任牧師の著書「永遠と復活」の中で次のように語っています。

 

「罪が赦される唯一の方法が『イエス・キリスト』を地上にいる間に信じることで、それなくして死んでいった人たちは、天国に行くことができない。つまり地獄へ行くのである、と教えてきました。」

 

ところが、大川従道主任牧師は、そういう教えに心の奥底では納得することができずに、躊躇されていたそうです。

 

そして、ペテロの第一の手紙4章5節などから、人間は死んだらよみに行き、イエスは、よみでも宣教されたことを見出されました。

 

それゆえ「私は聖書をもとに、私の人生をかけて、そして70年の信仰にかけてはっきりと宣言します。

彼らは地獄へなど行っていません。

 

なぜなら、聖書にそのようには書かれていないからです。」と教えていました。

その「セカンドチャンス論」を大胆に教えていくことが使命となったようです。

 

 

次に「カトリック教会」の教えです。

 

カトリックの場合、宗教研究者や無宗教の人たちが発信しています。

 

何年も前からYouTubeなどで、キリスト教が日本で普及していないのは、ザビエルが論破されたからという教えが拡散されています。

 

ザビエル宣教師が信じる神を信じれば天国へ行くが、信じなければ地獄へ行く。という教えを日本人たちが聞いて、

 

「先祖が地獄に行くなんて、あなたたちの神は無慈悲だし、無能だ!全能の神がどうして救ってくれないんだ!」と論破されたのが、キリスト教が日本で普及しない理由だというのです。

 

この教えを何人ものユーチューバーが作って、それぞれ127万回視聴、67万回視聴などと、いずれも大きな反響で賑わっています。

 

 

また、文学博士の菊地章太教授の著書「日本人とキリスト教の奇妙な関係」では、シドティ宣教師と新井白石の詮議を記した西洋紀聞を取り上げて、次のように書いています。

 

「シドティはさらに最後の審判について語った。白石はそれを聞いて思う、そうした教えがあることを知らない者がいるとしても、とがめる理由などないはずだ。

 

それなのに、最後に誰も彼も滅ぼしてしまうとはどういうことなのか。『いかむぞまた、これを生じこれを養ふ大父大君とは称ずべき』と、かつはあきれ、かつはいきどおったのだ。」

 

引用以上

 

この時代のカトリック教会は、「教会の外に救いなし」という教えでした。

 

その教えに従順な宣教師たちと、日本に対して臨機応変な教えをしたヴァリニャーノ宣教師たちがいました。

 

現在は第二バチカン会議において、教会の外にも救いの手をのばす教えを付け加えたのです。

 

それは「カトリック教会の回心」と言われています。

 

 

そのカトリック教会改革の牽引力となったのが、神学者「カール・ラーナー」師です。

 

カール・ラーナー師の神学は、「人間の本質が、神の啓示に向かって開かれていることという事である限り、換言すれば人間が霊であるかぎり、人間はキリスト者であろうとなかろうと、啓示の光に照らされている。」

 

つまり、イエス・キリストを信じない人たちは「無名のキリスト者」ということなのです。

 

その教えに対して「非キリスト者を無名のキリスト者とみなすことは思い上がりだ!」という批判非難の声があります。

 

しかし、ラーナー師の教えは御言葉にあります。

その一つは

「教会は非キリスト者に対して、パウロと同様の態度で相対するのであるとして、パウロの『あなたたちが知らずに拝んでいるものを、私はあなたたちにしらせてあげよう。』という福音であるべき。

 

こうして、人はあらゆる非キリスト教的宗教や、非キリスト者に対して、寛容で慎み深くありえるのです。」ということです。

 

 

さらに、日本で最も愛されているクリスチャンと思える「マザーテレサ」の福音理解を伝える粕谷甲一司祭の著書「キリスト教とは何か①」の中にはこのように教えています。

 

マザーテレサが飢え死にしそうなところへ行かれた時に

自分の子どもが飢えているのに、もう一軒の飢えている子どものことを頼んだという。

 

ああいう心はどこから来ると思いますか、とわたしに聞くのです。

 

「彼らはヒンズー教徒ですよ。よく祈るのです。」

 

だからマザー・テレサは、そういう大きな心、きれいな心というのは祈りから来る、神さまから来る。

 

その神さまは、キリスト教専属の神さまではなくて、そういう心すべてに通じる神さまなのだという。

 

引用以上

 

神さまはキリスト教専属ではなく、すべてに通じているという福音理解です。

 

それゆえ、マザーテレサは死にゆく人々を介抱して、それぞれの宗教にあわせて最期を看取ってあげました。

 

 

さらに日本のカトリック教会では、晴佐久昌英司祭というカリスマ司祭が現われました。

 

晴佐久司祭は次のように教えています。

 

今、私は、「キリストの十字架と復活は、天の父の無限の愛の現れであり、すべての人はそれによってすでに救われている」という普遍主義的な福音を明確に宣言する司祭として、多くの人から支持されています。

 

福音を聞いて、自らがすでに救われていることに目覚めると、大きな喜びと真の自由がもたらされます。

 

「救われていることに目覚めて、救われる」のです。

 

そうして救いを実感した人たちの中には、キリストの教会との一致を求めて、洗礼を受ける人も多くいます。

 

つまり、「洗礼を受けたから救われる」のではなく、「救われていることに目覚めて洗礼を受ける」のです。

 

前任の教会では、6年間で500人以上に洗礼を授けました。おそらく、今、日本で最も多くの洗礼を授けている司祭だと思います。

 

引用以上

 

 

この晴佐久司祭の「すべての人は、キリストの十字架と復活によって、すでに救われている」という普遍的な教えは、無教会の内村鑑三先生の万人救済説と同じです。

 

私はアフガニスタンで殉教された中村哲先生の著書で、初めて内村鑑三先生の聖書解釈と福音理解を知りました。

 

中村哲先生はプロテスタント教会で洗礼を受けましたが、儒教徒のままのクリスチャンでいたいので、内村鑑三先生の教えによって本当のクリスチャンになったと著書の中で語っています。

 

それゆえ、キリスト教会の人たちから批判非難されても、無教会(無所属)のクリスチャンの立場で、イスラム教のモスク(礼拝堂)や神学校をいくつも喜んで作られました。

 

内村鑑三先生は次のように普遍的救済・万人救済説を説いています。

 

テモテ前書第二章三、四節にいわく、これは良きことなり、われらの救い主なる神のみこころにかなうことなり。

 

すなわち彼は「万人が救われて」真理をさとるに至らんことを欲したもうとのこと、これなりと、

 

またコリント前書十五章二十二節は左のごとくに読むべきである。

 

アダムにありてすべての人の死ぬるごとく、キリストにありて「すべての人は生くべし」と。

 

この場合において、前半部が万人堕落説を教うるに対し、後半部は万人救済説を伝う。

 

人類全部が第一のアダムの罪によりて死にしがごとく、人類全部が第二のアダムすなわちキリストによりて生くべし、すなわち救わるべしとのことである。

 

前の「すべて」は人類をさし、後の「すべて」は信者をさすとの説明は立たない。

 

引用以上

 

他にも、万人救済説の証明をいくつもの聖書箇所から教えていますが、ここでは以上にします。

 

 

無教会の内村鑑三先生の弟子が矢内原忠雄先生です。

 

無教会派初めは集まる場所がなかったのですが、内村鑑三先生に有志の方が「今井館」を提供してくれました。

 

そこに通われたのがサザエさんの著者「長谷川町子」さんでした。

 

長谷川さんは母親と聖公会に通っていましたが、教会はどこでも同じだろうと、近くの教会へ行くように指示されて、下宿の隣にあるプロテスタント教会に行くことになりました。

 

しかし、長谷川さんはプロテスタント教会の教えが嫌でたまらなかったのでしょう。

 

著書「サザエさん うちあけ話」のなかに描写した絵と共にこのように書いています。

 

「このうらめしいメソジスト教会に、私は泣く泣く、先生・奥さまのお伴をして毎週かようハメとなりました。」

 

しかし母親が矢内原忠雄先生と親しくなったことで、母と姉妹で「無教会のクリスチャン」となって、インタビューや対談などで「私は無教会なんです」と無教会のクリスチャンであることを強調されていました。

 

 

その「今井館」の無教会キリスト教会は、現在、荒井克浩伝道者があとを継いでいますが、「無教会の変革」を行ないました。

 

これまでの贖罪信仰から義認信仰へと変わり、イエス・キリストの復活を否定する教えになったのです。

 

現在、日本ではノンフィクションライターの「最相葉月」さんの著書「証しー日本のキリスト者」が、大手の出版社「角川書店」から2023年1月に発売されて、

 

日本中の人たちがキリスト教とクリスチャンを知るための史上最高のツールとして用いられるようになりました。

 

その本の最後に紹介されているのが、無教会の荒井克浩伝道者の「無教会の変革」の教えです。

 

「証しー日本のキリスト者」から引用します。

 

『 筆者が参加したイースターの日、荒井は(※ 「無教会派」の伝道者は「復活者の傷あと」と題する説教を行った。

 

それは荒井自身がたどり着いた信仰の転換、贖罪信仰との決別ともいうべき宣言だった。


 本書に登場するキリスト者の多くが語るように、贖罪信仰とはキリスト教、特にカトリックと一部のプロテスタントでは要ともいえる教理である。


 主イエスは私たちの罪を贖うために十字架に掛けられ、殺された。

 

私たちはイエス・キリストの死によって、自らの罪が赦された、つまり、イエスの死は贖罪の死であると、そう教えられてきた。


 子どもたちが集う日曜学校でも、イエスの死によって、私の罪が赦されたと教えられる。

 

「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(コリント二5・21)


 罪と何のかかわりもない方とは、イエス・キリストのことである。無教会主義の創始者である内村鑑三もまた、これをもってイエスの死を贖罪の死と見ていた。


 コロナ下で繰り返し自分の信仰を問い質した荒井は、識者の書物に問い、聖書に立ち戻った末に一つの地点にたどり着いていた。

 

それが伝道集会の冊子「十字架の祈り」に掲載された、「贖罪信仰との決別」と題する宣言だった。

 

荒井曰く、十字架の死はイエスが人々を救うために計らった贖いの死ではない。パウロも贖いとは書いていない。

 

イエスが神のみ旨を歩んだ結果、殺害された死である。そこに栄光はない。

 

「神御自身が罪人として十字架につけられた」、すなわち、「神が罪となった」というだけである。


 イエスは十字架の上で、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)」と叫び、絶命した。

 

それは、神を信じられなくなった者の叫びである。つまり、イエスは不信仰者となって死んだのだ、と。

 

そして、荒井は次のように書いた。


〈イエスは弱かったのである。敗者である。しかし神はその弱さに立たれたのである。

 

イエスの十字架の死はどうしようもなく弱いことの証明であったが、その愛なる生き方ゆえに、その弱さに「然り」を与えたのである。

 

パウロにとっての復活のイエスはそのような弱い「十字架にかけられたままのキリスト」であった。無力な弱者キリストであったのである。


 復活者キリストは、立派な贖罪の死の後の輝く復活者では全くない。


 私はパウロの信じる無力で弱いキリストを信じる。同時に本当は弱さそのままであったイエスを、強者に仕上げた贖罪信仰を憎しみに近い形で放棄するのである。

 

「私の『神が罪となる』というとらえ方は、私の実存に喰い込んでいるものであり、これは贖罪ではないものです。

 

神はひたすら人間と同じ罪人となる、そこにおいて神が罪人である人間を受け入れる、というものです。そこにおいてしか、人間の存在の根本からの救いはないと信じています。


 神は天上に鎮座している方ではなく、じつは初めから人と共に地におられる存在でした。

 

それを、天上のものとしてしまったのは、贖罪信仰をはじめとする人間の作り上げた信仰です。

 

人間は処女懐胎を作り、イエスを神格化し、三日後に輝く復活を作り、神の支配を作り、栄光の神を作り上げました。

 

作り上げた神を偶像として信じるに至ったのです。それがおそらくは現在のキリスト教の概要でしょう。

 

神をすべての権威、栄光、上座から引きずり降ろさねば、私たちの信仰は死んだものとなります」

 

引用以上

 

無教会の荒井克浩伝道者は、イエス・キリストの復活を作り話だと結論付けました。

 

著者は同じ考えの信仰者の教えを続いて書いています。

 

「新約聖書学者の田川建三によれば、マルコ福音書の現存最古で最重要とされる紀元四世紀の写本には、復活したイエスが自ら顕現したという記述はなく、それが現われるのは五世紀以降の写本であるという。

 

そのことをもって、復活は嘘だ、創作だ、ファンタジーだとみなすのは簡単である。

 

そうではなく、ではなぜ、後世のキリスト者は三日目の復活を加筆したのかを問うてみたい。」

 

引用以上

 

その著書「無教会の変革」を最相氏は次のように絶賛されています。

 

信仰は条件闘争ではない。


私は全国のキリスト者の声を聞くうちに、贖罪信仰がいかに信者を追いつめてきたかを知った。

 

そんな中、荒井克浩先生の信仰の変化は暗闇に差す光だった。

 

信じれば救われるのではなく、すでに救われている。それが信仰の出発点なのだ。」最相葉月氏推薦!

 

 

また、俳優で歌手のディーンフジオカさんの活躍を通して、インドネシア人のクリスチャンの信仰を知ることが出来ました。

 

インドネシアでは必ず6つ(イスラム教、キリスト教、ヒンズー教、仏教、儒教、その他)のうちの宗教を持つことが義務づけられています。87%はイスラム教、約10%がキリスト教です。

 

それでどの宗教でも死後は安心できますが、無神論者は地獄へ行くと考えられています。

 

6つの宗教の信者は仲が良く、他の宗教との結婚もまったく問題がなく、例えば、イスラム教徒とキリスト教徒の結婚も祝福されます。

 

 

私自身はヘレン・ケラーさんの自伝を読んで、死後の世界を知ることによって、イエスさまを本当に信じることが出来ました。

 

今までは、プロテスタント教会の教えによって、半信半疑だったのです。

それは本当にイエス・キリストを信じてなかったということです。

 

現在のプロテスタント教会・カトリック教会・正教会の聖書には排除されていますが、イエスさまの時代は死後の世界を知る書が聖書にありました。

 

現在の聖書を見ても、死後の世界は、イエスさまを信じて義とされたクリスチャンは天に上げられて、素晴らしい天界・第三の天で、イエスさまと共に永遠に住みます。

 

しかし、イエスさまを「主」というクリスチャンでも不義を行なう者たちは外に出されて、そこで泣きわめいて歯ぎしりする場所に住みます。

 

イエス・キリストを信じていないけれど、最も小さき者のひとりが助けを求めている時に助ける人々は、天地創造の時から用意されている国を受け継ぎます。

 

そして、助けない人々は悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入ります。

 

そして聖書の中の聖書は次の御言葉です。

 

「もし、わたしが父の業(嘆きと悲しみは喜びと楽しみに変わる。死んだ愛する人たちとまた逢える)を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。

 

しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。

 

そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。

(ヨハネによる福音書10章37~38節)」

 

人間が死ねば、体から魂が出て行きます

 

「すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。」

 

モーセは、だいぶ以前紀元前16世紀または紀元前13世紀に死にましたが、モーセとわかる姿で、ペテロたちの前に現れました。

 

その聖書の教えから、体は滅びても、魂は永遠で、ものすごく前に死んだ後でも、モーセのように、わかる姿で復活します。

 

 

そのためにはイエスさまの復活が必要不可欠です。

 

キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。

 

死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。

 

そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。

 

更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。

 

なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。

 

死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。

 

そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。

 

そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。

 

この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。

 

しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。 

 

死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。

(コリント信徒への手紙第一15章12~21節)

 

 

さて、前述のように、イエス・キリストを信じている人でも、様々な聖書解釈と福音理解があるわけです。

 

まだまだ色々とありますが、この辺で打ち切ります。

 

それで、教会に導かれた人は、その教会の指導者の教えを本当のキリスト教の教えだと信じるわけです。

 

プロテスタント教会に導かれれば、すべての人間は地獄行きに定められた罪人であり、イエスさまはその罪を背負われて死なれて3日後に復活されたことを信じれば、義とされて救われると教えられます。

 

また、カトリック教会の晴佐久司祭の教会ならば、すべての人はすでに救われていると教えられます。

 

そして、無教会の荒井伝道者の教会ならば、イエス・キリストは不信仰者の罪人として死に、十字架につけられた弱い姿でおられる。復活はしていないと教えられます。

 

 

このような違いがあるのに、イエス・キリストを信じている者同士が、互いに愛し合い、同じくびきを負えるでしょうか?

 

「兄弟に向かって腹を立てる者は、誰でもさばきを受けなければならない」というイエスさまの教えを尊重して、それぞれ顔を合わせることなく、別々の道を歩むほうがベストだと思います。

 

私自身は最近の投稿記事でもありましたが、コメント欄で「あなたは間違っている」「異端(イエス・キリストを信じていない)」という批判非難を浴びています。

 

もう毎度おなじみです。牧師もいます。

 

このようなクリスチャンたちと同じ天国に行くのは、絶対に嫌だと痛感し続けています。

 

結局は、イエス・キリストを信じていることではなく、同じ聖書解釈と福音理解をしているか、していないかということになるのです。

 

 

そして、イエス・キリストを信じていない人たちを見てみましょう。

 

母親の葬式は、私の聖書解釈と福音理解による葬儀を行ないました。

 

その福音理解を歌にして歌いました。

 

参列者は皆、イエス・キリストを信じていませんでした。

親戚は浄土真宗ですし、無神論者が多いと思います。

 

しかし、皆さんが理解して、受け入れてくださいました。

 

そして「今まで経験したことがない告別式だったけど、素晴らしかった。」と絶賛してくださいました。

 

イエスさまは言われました。「わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。」

 

 

キリスト教会では、その教会の指導者たちの教えに従順に聞き従う者は「クリスチャン」になります。

 

しかし、イエス・キリストを信じていても、その教会の指導者たちの教えを信じられない者は「敵」となっていることを痛感しています。

 

また、指導者の教えを信じることが出来なければ、本当にイエス・キリストを信じることは出来ないと思います。

 

けれども、イエス・キリストを信じていない人々が、聖書の教えを聞いて、イエスさまに好感を持っています。

 

その人々はイエスさまとクリスチャンたちの味方なのです。

 

ただ信じるまでに至らないのは、もし信じたらクリスチャンみたいになるのは嫌だなという理由で、信じない人々も多いのです。

 

「不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。


キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。信者と不信者が何を共有しているでしょう。」という御言葉がありますが、

 

現在のキリスト教会では事実上、その指導者の教えに不信感を持つクリスチャンたちは不信者となり、イエス・キリストを信じていない人々も不信者となるという感じがします。

 

私や私の弟、友人たちは、そのような教会を離れて、イエス・キリストを信じていないけれど、味方になってくださる人々とくびきを共にしていると思います。

 

先月に亡くなった母親もそうですね。

 

そして、イエスさまは死後の世界で一緒に暮らす備えられた国を用意してくださっているという御言葉に確信を得ました。

 

クリスチャンたちとは、それぞれの聖書解釈と福音理解があり、違っていれば、くびきを共にすることは無理があるけれど、同じ聖書解釈と福音理解を持つ者同士が、くびきを共にしていけば良いと思います。

 

これで終わります。

 

一気に書かないと伝えずらいので、一気に書きましたが、ああしんどかった(^^♪

 

 

「教会から離れていくクリスチャンたちについて 日本におけるキリスト教の真実 55」

 

私がプロテスタント教会に所属している時によく聞いた証が、クリスチャンホームのクリスチャンで、小学生までは家族と教会に通っていたけれど、中学や高校、または社会人になってから教会から離れたというケースです。

 

教会に行くよりも、クラブ活動であったり、友達や恋人と遊びに行ったり、大学や社会人になれば飲みに行く、合コンのほうが楽しいという理由でしょう。

 

「推し活」が最高の楽しみというのもあります。

 

どうして、そういう事になるのかというと、イエスさまの愛を体験していないことが最大の理由だと、個人的には推測しています。

 

 

例えば、世界文化遺産のホームページの「大浦天主堂」には、次のように書かれています。

 

日本の開国により来日した宣教師と潜伏キリシタンは、2世紀ぶりに大浦天主堂で出会った(「信徒発見しんとはっけん」)。

 

 その後に続く大浦天主堂の宣教師と各地の潜伏キリシタン集落の指導者との接触によって転機が訪れ、

 

カトリックへ復帰する者や、引き続き禁教期の信仰を実践する者、神道や仏教に改宗する者に分かれ、「潜伏」は終わりを迎えることになった。

 

引用以上

 

 

「潜伏キリシタン」は、解放された後、3つに分かれました。

① カトリックへ復帰するキリシタン

② 引き続き「仏教徒」として生活するキリシタン

③ 神道や仏教に改宗する者

 

この②と③になったキリシタンと元キリシタンの証を読みましたが、よく理解できました。

 

あの激しく壮絶なキリシタン弾圧(迫害)において、イエスさまは沈黙されました。

 

殉教した信仰者たちは霊の目でイエスさまや聖母マリアさまや天使と共にいたという証があります。

 

しかし、それほどの信仰がないキリシタンたちにとって、イエスさまは沈黙したままで、救いの手はなかったのです。

 

そして、潜伏したキリシタンの命を救ってくださったのは仏教徒や神道の他宗教の方々でした。

 

匿っていることが発覚すれば、殺される可能性がありますが、自分の命をなげうって、

 

命が狙われている最も小さき状況のキリシタンたちに住む場所を与え、食べさせ、飲ませ、着るものを与え、病気の時には看病してくださいました。

 

しかしながら、カトリック教会の教えは「教会の外に救いなし」という教えです。

 

他宗教に救いはありません。偶像崇拝になります。

 

その仏教や神道の方々は命の恩人であり、その大きな愛を体験しています。

 

ですが、他宗教に救いはないという教えです。

 

そして、イエス・キリストは沈黙していた。という認識です。

不信感もあったと思います。

 

なので、カトリック教会の教えを受け入れることができずに、仏教徒のままで、または神道や仏教に改宗されたのだと思いました。

 

 

現在も同じことがいえるかもしれません。

 

「エホバの証人」の場合、聖書のエホバ神を信じた者たちは救われて、エホバ神を信じなければ、ハルマゲドンで滅ぼされるという聖書解釈と福音理解だそうです。

 

それで、多くの人々を救うために、熱心に戸別訪問をします。

そのためには大学進学や就職を諦めて奉仕活動に励みます。

 

この世には頼らずに、必ずエホバ神が必要をすべて満たしてくださると確信して。

 

しかし、その結果、エホバ神は沈黙していました。エホバ神は助けてくれません。

 

至極当然に、高齢になると窮地に追い込まれて、生活保護を受ける信者が多いのだそうです。

 

元エホバの証人の信者が口をそろえて発信していますが、「結局は拒絶している「この世」に助けられて生きることができる。それをエホバが助けてくれたと喜んでいるのは、お笑いです。」

 

 

私自身の経験ですと、毎日、熱心に「私の愛する人々がイエスさまを信じますように」と祈り続けてきました。

 

教会では、「イエス・キリストを信じなさい。そうすればあなたの家族も救われます。」という御言葉が教えられて、本当に救われました。という証が次々となされています。

 

しかし、私の場合は、ひとりも救われることはありません。

 

さらに、前回記事で伝えた通りに、教会の救いの教えや、献金、また、教会の牧師たちに深く傷ついて、教会で仲良くなった友人たちが皆、教会を離れました。

 

今、思えば、私の愛する人々が、ひとりも救われることがなくて良かったと思います。

 

どうして、最も小さき者のひとりが助けを求めている時に、助け手を差し伸べて、食べさせ、飲ませ、着させて、看病してあげる人々が、

 

「イエス・キリストを信じていないから義とされていない」という理由で地獄に行き、永遠にもがき苦しむのか?

 

その後「そんな神なら信じない!」と断言された無教会の内村鑑三先生の教えに共感しました。

 

また、イエスさまが救ってくださったという経験はあまりありませんでした。

 

私は音楽制作の仕事をしていまして、NHKホールでゴスペルコンサートを開催した時ぐらいかなという感じです。

 

どこにも行き場のない児童養護施設を卒園した子を信仰によって引き取った時も、親や友達に借金して終わってしまいました。

 

教会の牧師やクリスチャンたちは渋々、一回「献金」してくれて終わりました。

 

しかし、キリスト教とは関係のない誰かに助けられたと言う経験はたくさんあります。

 

母親には随分と助けられました。両親が亡くなって、両親が残したもので老後の心配がなくなりました。

 

本当は、イエスさまから与えられる知恵による音楽制作などの働きで、老後の心配をなくしたという証を両親にすることを毎日切願していたのです。

 

また、結婚相手を母親に紹介するという祈りも聞かれませんでしたが、それは未信者とは結婚してはいけないという教会の教えに束縛されていたからでした。

 

まったく、イエスさまの教えを曲解しています。

 

そして、ブログ記事やFacebookクリスチャングループを通して、たくさんの信仰の友と出会えることを期待したのですが、まったく逆でした。

 

聖書解釈と福音理解のことで批判非難を浴びたり、「あなたはプロテスタント教会の神学を学びなさい!」と押しつけてきます。

 

もうキリスト教の人たちと関わるのは危険だと痛感しました。

 

「互いに愛し合いなさい」と教えておきながら、まったく違う聖書解釈と福音理解を信じていると絶対に赦さない!となります。

 

結局は「私の聖書解釈と福音理解に賛同するものは、互いに愛してあげましょう。」という傲慢さが本性です。

 

その間に、キリスト教とは関係のない人たちとは、仲良しの人が増えました。

 

私の聖書解釈と福音理解に自然に共感してくださいます。

 

そのような事があり、あの潜伏キリシタンの仏教徒のままのキリシタンたち、神道や仏教に改宗した元キリシタンたちのことがよく理解できるようになりました。

 

 

また、イエスさまに本音をいえば、

 

イエス・キリストを礼拝するよりも、大好きな友達や恋人と遊んでいるほうが喜びがある。

 

熱狂的なファンの阪神タイガースの応援をしている時のほうが、推しのアイドルのコンサートに行ったほうが、喜びがある。

 

しかし、イエスさまを礼拝したり、賛美したいとはあまり思わない。

 

そのような不従順なクリスチャン、またはそういう時期があったクリスチャンは多いと推測しています。

 

それは、祈りが聞かれなかったり、イエスさまは沈黙されているので、その虚しさがあるからだと思います。

 

ようするに、イエスさまの愛を体験することがなかった。

 

それは、神さまがあわれむために不従順の状態にしたからと思えます。

 

その他にも理由があるでしょう。神さまはそのことをものすごく理解されています。

 

 

現在のクリスチャンも潜伏キリシタンと同じようにタイプが分かれるでしょう。個人的には、4つのタイプがあると思います。

 

① イエスさまと関わる時間が最も至福の時というクリスチャン

 

② イエスさまと関わる時間も愛する人との時間も同じくらい大切だというクリスチャン

 

③ 励まし合ったり、助け合ったりする自分の愛する人との時間が大切で、イエスさまと関わる時間をもたないクリスチャン

 

④ 人も神もあまり信用できないので、関わりをもちたくないというクリスチャン

 

この4つのタイプのクリスチャンが、そのまま死ねば、同じ天国に行けるとは思えません。

 

それは前述の潜伏キリシタンの3つのタイプも同じですね。

 

前々回の記事に書きましたが、現在のカトリックとプロテスタントと正教会の聖書には排除されていますが、イエスさまの時代の聖書には死後の世界を教える書がありました。

 

その書には、それぞれに相応しい備えられた場所に行くことを教えています。

 

それは、イエス・キリストを信じない人々も同じです。

 

現在の聖書をよく読めば、イエスさまも同じように教えられています。

 

同じ天国に行かないほうが感謝です。

 

私自身は、先に亡くなってしまった愛する人たち(イエス・キリストを信じていない人々)と再会する場所を切願しています。

 

イエスさまは、その祈りを推奨されています。

 

それは、どうして「イエス・キリストを信じますように」と熱心に祈り続けたことが、現世では聞き入れられなかったかという答えとなりました。

 

そして、聖書解釈と福音理解の違いで批判非難したり傷つける牧師やクリスチャンたちとは会わなくていいという教えは平安です。

 

人が、神さまに不従順だからといって、神は怒ったりしていません。

 

神さまがすべての人を不従順の状態に閉じ込めたからであり、最後はあわれむためと教えていますから。

 

使徒パウロは、そのことをイエスさまから教えてもらって、神の富と知恵と知識の深さを知りました。

 

「あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。

 

それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。

 

神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。

 

ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。

 

(ローマ信徒への手紙11章30~33節)」

 

「天国に行きたくない人々について 日本におけるキリスト教の真実 54」

 

前回記事の続きです。かなりの長文になりました。長文が苦手な人は前回同様にスルーしてください。

 

また、聞いたことがない聖書解釈と福音理解となりますが、前回の説明不足の補足として書いています。

 

ヘレン・ケラーさんは

「クリスチャンでない者はすべて罰せられる、と心の狭い人たちから聞かされてきて、私の魂は当然反発を感じていました。」と言われた続きにその理由を次のように語っています。

 

「というのも、異教徒であっても彼らなりに真理を見いだし、その真理に殉じて生きて死んでいったすてきな人たちを私は知っていたからです。」

 

さらにヘレンさんは次のように指摘されました。

 

「そしてごらんなさい!今では、兄弟愛という理想に向けて断固たる勇気を示しているのは彼ら”異教徒”なのです。

 

一方の私たちキリスト教国はどうかと言えば、次の戦争(第二次世界大戦)にそなえて殺し合いの効果的な手段の開発に知恵を絞っている始末です。

 

まことに、聖書の字義的解釈による古い天国や地獄は溶け去ってしまっても、主の”聖言”はとこしえにそびえ立つものなのです。」

 

引用以上

 

 

現在では、ヘレン・ケラーさんが指摘された時代以上に、キリスト教国は悪くなっています。

 

現在の核保有国は9か国ですが、そのうち4か国はキリスト教国(クリスチャン人口が最も多い)です。

 

核は世界に1万2520個ありますが、そのうち1万1649個(全体の約93%)をキリスト教の国が保有している有様です。

 

そのうち世界で唯一原爆投下を二度も決行したアメリカは5244個の保有です。

 

 

また、聖書に書かれていることだけで、キリスト教を判断すれば、十字架を背負って御霊に属するクリスチャンたちは、ユダヤ人たちから迫害されて、惨殺されました。

 

しかし、決して、ユダヤ人たちを迫害したり、殺したりしませんでした。

 

ですが、聖書に書かれていない、その後のキリスト教・クリスチャンたちはどうでしょう。

 

横手聖書やすらぎ教会の投稿記事「イスラエルの回復」から引用します。

 

「しかし、キリスト教が驚異的なスピードで伝播していくと、ユダヤ人はみな悪魔の子であるという誤った反ユダヤ思想が定着していく。

 

初期キリスト教の指導者たち自らが反ユダヤの尖峰に立っていた。

 

11世紀に入り、目に余る悲劇が待ち受けていた。先ずはカトリック教会の十字軍である。

 

十字軍はエルサレムを回教徒の手から奪還する運動であったが、十字軍は旅の先々で、実はユダヤ人をも罰しようとした。

 

彼らはユダヤ人を見つけると、ユダヤ人にキリスト教徒になるか死を選ぶかの選択を迫った。信仰を強制され、洗礼を拒めば、概して即座に処刑されたという。

 

第一次十字軍から第三次十字軍まで、こうしたことが繰り返され、虐殺と強制改宗が行われた。強制改宗を拒み、集団自殺もあったという。

 

そして、十字軍によらない悲劇も、ヨーロッパ各地で繰り広げられた。中世において、ユダヤ人は人間の姿をしていても実際はそうではない、悪魔の落とし子、反キリストの化身という人間観が浸透していた。

 

16世紀になっても、カトリックの公文書にはこうある。「ユダヤ人がキリスト教徒の子どもを殺害し、殺した子どもの血を吸うのは、キリスト教世界に対するユダヤ人の永遠の敵意のしるしである」。

 

ユダヤ人の儀式殺人の虚言は20世紀まで続いた。

 

16世紀に入ると宗教改革が起こり、プロテスタントが登場する。ドイツのマルチン・ルターが良く知られている。

 

彼の「聖書に帰れ」の運動は良かったが、反ユダヤ主義は残念ながら、カトリックを継承してしまった。

 

このことにおいては、聖書に帰れなかった。ルターはユダヤ人に対する態度を硬化させ、反ユダヤ主義の先鋒に立つことになる。

 

その流れで、20世紀に入り、1938~1945年、歴史に残るユダヤ人の大量殺人「ホロコースト」が起こる。ヒットラーとナチスドイツによる大虐殺である。

 

引用以上

 

 

このように、聖書に書かれていない時代に入り、イエス・キリストを信じたキリスト教徒たちが、大勢のユダヤ人たちを迫害して、惨殺していったのです。

 

聖書の時代の使徒とクリスチャンたちは、びっくり仰天していることでしょう。聖書の預言にもありません。

 

カトリック教会の十字軍が聖地エルサレムを奪還した時、イエス・キリストを褒め称え賛美しました。それでその地にエルサレム王国を建設し、キリスト教徒も多数移住した。

 

至極当然に、ローマ教皇の権威は絶大なものとなりました。

 

しかし、十字軍運動には,神とキリストに名を借りた大虐殺や残虐行為がつきものでした。

 

それゆえ、悲惨な結果で終焉します。

 

 

イスラエルが1948年に建国されましたが、核保有国となり、ガザ地区やイランへの爆撃で、一般市民や子どもたちが犠牲になったこともあり、非難されています。

 

PRESIDENT オンラインの記事から引用します。

 

まず、イスラエルの論理を端的に要約する一文から紹介します。

「誰かが殺しに来たら、立ち向かい、相手より先に殺せ」

 

かなり強烈な印象を受ける一文ですが、これはユダヤ教の聖典のひとつである「タルムード」の一節、「サンヘドリン」篇72章1節の文章です。

 

当然、原典はヘブライ語ですが、つまり「殺やられる前に殺れ」という意味です。

 

イスラエルの首相や閣僚などの政治指導者、そして軍や情報機関の幹部は、ある意味でこの論理をもとに行動しているとも言えます。

 

引用以上

 

 

次は「異教徒」を見てみましょう。

 

使徒パウロたちがエペソの町で福音宣教を行なった時、次のように町中が騒動になりました。

 

「大女神アルテミスの神殿も顧みられなくなり、

全アジヤ、全世界の拝むこの大女神のご威光も地に落ちてしまいそうです。」

 

そう聞いて、彼らは大いに怒り、「偉大なのはエペソ人のアルテミスだ」と叫び始めた。

(使徒の働き19章27~28節)

 

その聖書に書かれている時代の「大女神を拝む異邦人」は愚かな考えに従って歩み、 知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れていて、

 

そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りませんでした。

 

それゆえ、情欲に迷わされ、滅びに向かっています。

 

それから、隣人に対して真実を語らず、偽っていました。

ずっと怒っていて、悪魔が入り込んでいました。

 

また、盗んで生活をしていて、悪い言葉を言い放っていました。

そして、無慈悲でした。

 

さらに、悪意に満ちて、憤り、怒り、わめき、そしりが当然の行為になっていました。

 

新約聖書の時代の全アジヤ、全世界の異邦人たちはこのように、この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。

 

肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。と聖書に教えられている通りです。

 

まさに、全アジヤ、全世界の拝むこの大女神を崇拝する異邦人たちは、悪魔が支配している世界で、悪霊に従って生きていたことを聖書は明確に教えています。

 

 

さて、現在の「異教」はどうでしょう?

 

新約聖書の時代の異教とは真逆で、ヘレン・ケラーさんが言われる通りに、今では、兄弟愛という理想に向けて断固たる勇気を示しているのは”異教徒”なのです。

 

日本の宗教で最も信者数が多いのは「浄土真宗」です。

 

聖書の教えをそのまま取り入れていることがいくつもあります。

 

浄土真宗とは、老若男女差別なく、すべての人が救われる本当の仏教を明らかにされたものです。

 

西光寺の住職は次のように教えます。

 

私たちの教えを「他力本願」とまとめたりしますが、これは、自分の望みを他人まかせにして生きる、といった意味ではありません。

 

阿弥陀如来の本願にまかせて、私たちの浄土往生と成仏を信じて生きること、これが大切なことなのです。

 

 

次はイエス・キリストを信じていない人々についてです。

 

前回記事と同じですが、見ていない人たちのために繰り返します。

 

イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。

 

イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。

 

人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。

 

わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。

 

しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」

 

こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。

 

すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。

マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

 

しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。

 

そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。

 

このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」

 

この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。

(ヨハネによる福音書11章39~48,53節)

 

 

死んだラザロが生き返った時、ユダヤ人の多くはイエスを信じました。

 

しかし、信じない人々は、イエスを殺そうとたくらんだのです。

 

イエスさまの福音宣教は次の通りでした。

 

「見よ、あなたたちの神を。

敵を打ち、悪に報いる神が来られる。

神は来て、あなたたちを救われる。」

喜びと楽しみが彼らを迎え

嘆きと悲しみは逃げ去る。

愛する人の死は最大の嘆きと悲しみです。

 

イエスさまはその人々の嘆きと悲しみを喜びと楽しみに変えられました。

 

その業によって、イエスさまを信じました。

 

ところが、人々の嘆きと悲しみを喜びと楽しみに変えるイエス・キリストを信じない人々は、イエスを殺そうとしました。

 

そのことについて、イエスさまが次のように教えられました。

「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。

悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。(ヨハネによる福音書8章44節)

 

 

そして、現在のイエス・キリストを信じない人々は、この新約聖書の時代のイエス・キリストを信じない人々とは真逆です。

 

人々の嘆きと悲しみを喜びと楽しみに変えられる神さまを受け入れる人が圧倒的に多いでしょう。

 

このような神さまがいるなら夢のようです。

 

このラザロの話のように、愛する人の死は最大の嘆きと悲しみであります。

 

ある日、突然に「死」の日が来ます。

 

私自身でいえば、母の死も突然でしたので、ものすごく後悔しています。

 

また、親戚や友人のお子さんが未成年で、ある日突然に亡くなったことを聞いた時も、ものすごく後悔しました。

 

愛する人を亡くした人たちの願いは、たった一つだけ

「また、逢いたい」

それだけを願います。

 

 

主イエス・キリストの教えが、まさにその願い通りだということが次の通りです。

 

「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。

 

しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。

 

そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。

(ヨハネによる福音書10章37~38節)」

 

この教えは、神さまの究極の愛の教えです。

 

もしもイエスさまが、業(死んだ愛する人と逢わせること)を行なっていなければ、イエスさまを信じなくてもよいのです。

 

しかし、イエスさまを信じなくても、死んだ愛する人とまた逢えることを信じなさい。

 

そうすれば、神さまを知り、悟ることができるという教えです。

 

私は、このイエスさまの教えが、クリスチャン人口が1%弱の「日本」において最も大切な教えであると確信したので、聖書の中の聖書にして、宣べ伝えています。

 

 

このイエスさまの究極の愛の教えを、浄土真宗はアレンジしたと思われるのが、前述のこの教えです。

 

「阿弥陀如来の本願にまかせて、私たちの浄土往生と成仏を信じて生きること、これが大切なことなのです。」

 

この教えが多くの日本人に受け入れられて、日本で最も信者数の多い宗教となりました。

 

 

そして、現在のキリスト教の教えです。

 

イエス・キリストを信じれば救われる(永遠の命を持つ)という教えです。

 

カトリック教会の「教会の外に救いなし」という教えは次の御言葉通りです。

 

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない。

(ヨハネによる福音書14章6節)

 

 

プロテスタント教会では次の通りに教えます。

ヨハネ3章16節の御言葉は、「聖書の中の聖書」と呼ばれる箇所です。それは、聖書をコンパクトにコンパクトにしていくと、最後はこの3章16節の御言葉になると言われるからです。

「黄金の言葉」と呼ばれたり、「小さな聖書」とも呼ばれます。


「 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

(ヨハネによる福音書3章16節)」

 

すると、至極当然にイエス・キリストを信じなければ、救われないということになります。

 

私はこの「イエス・キリストを信じれば救われる」という教えを、ヘレン・ケラーさんと同じで、心から信じることはできませんでした。

 

無教会の内村鑑三先生は「そんな神など信じない!」と断言しています。

 

私の場合は、私の愛する人々は、イエス・キリストを信じていないからであります。

 

また、信じれば救うという排他的で独善的な神さまは本当の神とは思えないからでした。

 

 

それから、使徒パウロは、異邦人の教会で「お金」を頂くのは「偽使徒」だと断罪しています。

 

偽使徒は、教会で金銭を頂いていない顔をして、頂いていて、大金持ちになっていました。

 

使徒パウロは教会での「献金」は、貧しい人たちの負担になるので反対していましたが、マケドニアの諸教会の信徒たちが、エルサレム教会の迫害の中で苦しむ聖徒たちを支えたいと、熱心に献金を願ったのです。

 

それで、使徒パウロは、教会同士を「平等」にするために、「献金」を「ひとり、ひとり、いやいやながらでもなく、強いられてでもなく、心で決めた通りにしなさい」と教えました。

 

ですが、現在のキリスト教会は、使徒パウロの時代の「偽使徒」が行なっている献金を旧約聖書の教えなどを持ち出して大胆に平然と行っています。

 

それゆえ、教会の貧しい人たちの負担となり、深く傷ついたり、金銭トラブルなどで、多くの人たちが「教会の金銭問題」でつまずいています。

 

また、献金が多く集まった教会は、偽使徒と同じく大金持ちになっています。アメリカや韓国ではメガチャーチと呼ばれています。

 

こういう現在のキリスト教会の実態は、使徒パウロの異邦人の教会とはまるで違います。

 

それは、教会で知り合って、仲良くなった人たちも同じ思いでした。

 

なので、救いの問題、金銭問題、また、牧師や牧師婦人、伝道師、宣教師、信徒リーダーに深く傷ついて、皆、教会を離れました。

 

私の弟や高校の同級生たちも教会から離れて、クリスチャンたちとは縁を切り、イエス・キリストを神だと信じなくなりました。

 

 

教会から離れて行って、イエス・キリストを信じなくなった人たちは、天国に行きたいとは絶対に思いません。

 

なぜなら、教会の牧師やクリスチャンたちと同じ天国には死んでも行きたくありませんから。

 

また、イエス・キリストを信じれば天国という教えは、先に死んでしまった愛する人、我が子、親はイエス・キリストを信じていなかったので地獄ということになります。

 

それなら、「私も地獄に行って、愛する人、我が子、親と一緒に苦しみます。天国など絶対に行きません!」と言われる人は多いです。

 

 

私自身は教会から離れて、アフガニスタンで殉教された中村哲先生を通して、無教会の内村鑑三先生を知り、無教会のクリスチャンになって、独自の聖書解釈と福音理解を発信していくことに導かれました。

 

そして、ヘレン・ケラーの死後の世界を教えを知って、聖書の教えはイエス・キリストを信じて義とされたクリスチャンは地上から上げられて天界に行く。

 

イエス・キリストを信じなくても、最も小さき者のひとりが助けを求めている時に助ける人々は、備えられた御国に行くと、イエスさまはきちんと分けて教えられていることに気づきました。

 

そのことによって、天国に行きたくない人々への聖書解釈と福音理解を伝えています。

 

日本人の多くは、クリスチャンが教えるような天国に行って、神さま(イエス・キリスト)と永遠に共に暮らすことは願っていません。

 

ただ、人間はいつか死ぬ。死ねば、愛する人たちとまた逢いたい。また、あの世で一緒に暮らしたいと願っていると思います。

 

イエスさまは、わたしを信じなくても、死んだ後でも愛する人とまた逢えることを信じなさい。と教えました。

 

その聖書解釈と福音理解を伝えさせて頂いています。

 

「死後の世界について 日本におけるキリスト教の真実 53 」

 

前回の続きで、ヘレンケラーさんの聖書解釈と福音理解を伝える前に、聖書の奥義を知らなければなりません。

 

第二神殿の時代、初代教会の時代の聖書には「死後の世界を教える書」がありました。

 

主イエス・キリストは、その書から来臨と最後の審判について教えています。

 

ですが、今日のキリスト教教会は、この重要な「死後の世界を教える書」を聖書から排除したのです。

 

正教会の聖書77巻、カトリックの聖書73巻、プロテスタントの聖書66巻

そのいずれの聖書にも排除されています。

 

なので、その書の名称を使えば「異端」と決めつけられるので、名称を「死後の世界を教える書」とします。

 

 

主イエス・キリストの最も重要なことについては、旧約聖書の教えが必ず成就しています。

 

〈来るべきメシヤ(救世主キリスト)はあなたですか?〉

 

「見よ、あなたたちの神を。

敵を打ち、悪に報いる神が来られる。

神は来て、あなたたちを救われる。

そのとき、見えない人の目が開き

聞こえない人の耳が開く。

そのとき

歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。

口の利けなかった人が喜び歌う。

 

荒れ野に水が湧きいで

荒れ地に川が流れる。

7熱した砂地は湖となり

乾いた地は水の湧くところとなる。

喜びと楽しみが彼らを迎え

嘆きと悲しみは逃げ去る。

(イザヤ書35章4~10節)

 

 

〈十字架につけられたイエスキリスト〉

 

わたしの神よ、わたしの神よ

なぜわたしをお見捨てになるのか。

わたしは虫けら、とても人とはいえない。

人間の屑、民の恥。

わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い

唇を突き出し、頭を振る。

 

「主に頼んで救ってもらうがよい。

主が愛しておられるなら

助けてくださるだろう。」

わたしは水となって注ぎ出され

骨はことごとくはずれ

心は胸の中で蝋のように溶ける。

口は渇いて素焼きのかけらとなり

舌は上顎にはり付く。

あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。

 

犬どもがわたしを取り囲み

さいなむ者が群がってわたしを囲み

獅子のようにわたしの手足を砕く。

骨が数えられる程になったわたしのからだを

彼らはさらしものにして眺め

わたしの着物を分け

衣を取ろうとしてくじを引く

(詩編22章1~19節)

 

 

〈来臨されたキリストと最後の審判〉

 

現在のキリスト教の聖書から排除された「死後の世界を教える書」の〔69章26~29節〕

 

彼ら(聖者たち)は大いに喜び、ほめ称え、栄光を帰し、崇めた。

  人の子の名前が彼らに啓示されたからである。

 

彼はその栄光の座に座り、裁きの権能が人の子に与えられた。

  彼は罪人どもを消し去り地の面から追放する。

 

その時からは、朽ちるものは一切なくなる。

  人の子が現われたからである。

彼が栄光の座に座ると、あらゆる邪悪は彼の前から消え去る

 

 

そのとき山々は牡山羊のようにおどり

丘は乳を心ゆくまでのんだ仔羊のようにとびはねる

天のすべての天使の顔は喜びにかがやく

大地はよろこび

 

義人はその上に住み

選民はその上を歩く

(死後の世界を教える書51章4~5節)

 

 

義人と選民はその日に救われ

もはや罪人と不義な者の顔を見なくなる

 

諸霊の主は彼らの上にとどまり

彼らはかの「人の子」とともに食し

とこしえに彼とともに寝起きする

(死後の世界を教える書62章13~14節)

 

 

義人の秘密が明かされ、罪人が審かれるとき、不信の者が義人と選民の前から追放されるとき、

 

私は霊魂の主の翼の下に彼等の住所を見た。彼の御前にある義人、選民達はことごとく火の光のように輝き

(死後の世界を教える書38章3)

 

 

あなたがた義人と選民はさいわいだ、栄光があなたがたに与えられるから

 

義人は日の光の中を歩み、選民は永遠の生命の光のうちに生きる

(死後の世界を教える書58章2~3節)

 

 

この「死後の世界を教える書」の教えは、最後の審判において、「義人」と「選民」は救われます。

 

さらに「義人」はその上に住み、「選民」はその上を歩きます。

そして、「罪人」と「不義な者」の顔を見なくなります。

 

 

イエスさまは、この死後の世界を教える書の教えをさらに具体的に教えられました。

 

イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。

 

すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ

 

そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。

 

しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。

 

あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。

 

そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。

(ルカによる福音書13章22~29節)

 

 

そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。

 

人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

 

「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。

 

人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。

 

そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。

 

そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。

 

だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。

(マタイによる福音書24章36~42節)

 

 

主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。

 

すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。

すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、

 

それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。

 

このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。

ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。

(テサロニケの信徒への手紙4章15~18節)

 

 

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。

 

そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、 羊を右に、山羊を左に置く。

 

そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。

 

お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

 

そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

 

それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。

 

お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』

(マタイによる福音書25章31~43節)

 

 

このように、イエス・キリストを信じている「義人」は空中で主イエス・キリストと会うために引き上げられて、いつまでも主イエスと共に暮らします。

 

そして、イエスを「主」と慕うクリスチャンの中に大勢の「不義を行なう者」がいます。

 

その大勢の不義を行なうクリスチャンたちは、外に投げ出されることになり、そこで永遠に泣きわめいて歯ぎしりするのです。

 

また、「アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たち」は、「死後の世界を教える書」における「聖者」になるでしょう。

 

そして、最も小さい者のひとりが助けを求めている時に助ける人々は「死後の世界を教える書」における「選民」になります。

 

その真逆に、最も小さき者のひとりが助けを求めている時に見捨てる人々は、「死後の世界を教える書」における「罪人」です。

 

 

つまり、イエスさまも、死後の世界を教える書と同じく「義人」、「選民」、「不義を行なう者」、「罪人」、「聖者」とそれぞれ分けて教えていることが明確にわかります。

 

イエス・キリストを信じて従っているクリスチャン(義人)は空中に引き上げられて、第三の天・天界に住みます。

 

イエス・キリストを信じていないけれど、最も小さき者のひとりが助けを求めている時に助ける人々は、天地創造の時から用意されている国を受け継ぎます。

 

それゆえ「選民」になります。

 

その「選民」は数えきれないと教えています。

 

この日本は、クリスチャン人口約1%弱ですので、イエス・キリストを信じていない人々が約99%です。

 

それゆえ、イエス・キリストを信じていない私が愛する人々、皆さんの愛するイエス・キリストを信じていない人々は「選民」になります。

 

「義人(クリスチャン)」と「選民(ノンクリスチャン)」の死後に住む世界は違います。

 

「義人」の住居は次の通り天界です。

 

「そこに私の目は見た。彼等の住居はみ使い達と共にあり、彼等の安住の地は聖者達と共にあり、彼等は人の子等の為にとりなし、乞い願い、祈っている。

 

彼等の前には義は水のように流れ、憐れみ地の面におく露のごとく、彼等の世界ではこのような有様が永久に続くのである。」

 

「選民」の住居は現在と同じく地上になります。

 

「わたしはまた乾いた大地を変えて祝福とし、そこにわたしの選民を住まわせる。

しかし、罪と過誤を犯す者にはその上を歩むことを許さない。」

 

そして罪人は地獄に行き、不義を行なう大勢のクリスチャンたちは苦しみの場所が住居です。

 

 

このように、「死後の世界を教える書」の教えを知れば、イエスさまと使徒パウロたちが教えていることが具体的に理解できます。

 

しかし、現在の聖書は「死後の世界を教える書」を排除しているために、「イエス・キリストを信じて義とされた人々」と「イエス・キリストを信じていない罪人」の二択の教えになっています。

 

つまり、「イエス・キリストを信じた義人は、救われて天国へ行く」

 

しかし、「イエス・キリストを信じない罪人は救われず、滅びる(地獄行き)」ということになります。

 

カトリック教会の場合、第二バチカン会議において、そこに「救われない」というこの主張は、自分の過ちによらずにキリストやキリストの教会を知らない人々には当てはまりません。という教義を付け足しました。

 

そこで、「教会の外に救いなし」という教義はカトリック教会の伝統であり絶対であるのに、どういうことか?と混乱と争いが起きています。

 

第三バチカン会議が行われるとすれば、また元に戻るかもしれません。

 

 

ヘレン・ケラーさんは

「クリスチャンでない者はすべて罰せられる、と心の狭い人たちから聞かされてきて、私の魂は当然反発を感じていました。」と語っています。

 

そこへ、死後の世界を教えるスウェーデンボルグの教えによって、イエス・キリストを信じることができたのです。

 

ヘレン・ケラーさんの自伝「私の宗教」の中で、次のように語っています。

 

「スウェーデンボルグの描写によれば、天界というのは、たんにすてきな想像を寄せ集めた世界ではなく、住むことのできる実際的な世界です。

 

忘れてはならないことは、死というのは生命の終わりなのではなく、とても重要な経験の一つにすぎないということです。

 

近くにいる人であれ、遠く離れている人であれ、私が地上で愛した人たちはすべて私の想念の大いなる静寂の中に生きていて、

それぞれの個性、それぞれの流儀と魅力を保っています。

 

孤独を慰めたければ、私はいつでもその人たちを身近に呼び寄せることができます。

 

もし、それを妨げるような障害があったら、私の心は張り裂けてしまうことでしょう。

 

スウェーデンボルグは、来世とはたんに想像できるだけでなく、望んでそこに行けるところである、としています。

 

この世に生きている人たちは、やがて別離と悲しみを引き連れた死の脅威に出会うことになりますが、

その人たちに対する彼のメッセージは、神のみもとから吹き出す甘美な息吹きのように人々の心に吹きわたります。」

 

引用以上

 

 

私自身、スウェーデンボルグの天界と地獄の教えをYouTubeで拝聴しましたが、「死後の世界を教える書」と一致している教えは面白いので受け入れて、一致しないところは信じていません。

 

今月は、世間を騒がしている日本沈没の予言の月でもあり、震度6弱を観測した悪石島の住民が全員無事のニュースもありました。

 

2011年に起きてしまった東日本大震災から、人間の死について考えることになったという声が増えています。

 

こうして、聖書の死後の世界を教えることは最も重要なことだと思います。

 

そのことをヘレン・ケラーさんは教えてくれました。

引き続いて、聖書から死後について見ていきます。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教の真実 52 キリスト教の中の争いについて」

 

暑さ本番になりましたね。お互いに熱中症に気をつけてが挨拶ですね。

 

さて、私のブログ記事をFacebookの個人のタイムラインにも投稿しているのですが、その投稿をFacebook上の友達が、あるクリスチャングループにシェアしてくださったのです。

 

そのコメント欄には予想通りに、私の教えを「異端」と決めつける人がいました。

 

ただ、聖書の御言葉をそのまま引用して、字義どおりに解釈しているだけでも「異端」と定められます。

 

 

記事の主旨は、次の通りです。

 

聖書を読めば、イエスの父(エホバ神・ヤハウェ・イスラエルの神)の御心は、御子イエス・キリストを遣わして、人々の嘆きと悲しみを喜びと楽しみに変えることだということがわかります。

 

そして「人間」のほうは、大きく2つに分かれます。

 

① 人々の嘆きと悲しみを喜びと楽しみに変えてくださる方こそ神さまが遣わされたメシヤ(救世主キリスト)だと信じる人々

 

② 人々の嘆きと悲しみを喜びと楽しみに変えるイエス・キリストはメシヤ(救世主キリスト)ではない!殺してしまえ!という悪魔の欲望を満たす人々(ファリサイ派の人々たちなど)

 

この②の人々は「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。

 

ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。」

 

 

イエスさまは、この②の「わたしたちの父はアブラハム」と言って、イエス・キリストを殺そうとする人々が地獄へ行くと教えています。

 

金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。

 

この金に執着するファリサイ派の人々に、イエスさまは次のように教えました。

 

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

 

この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。

 

やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。

 

金持ちも死んで葬られた。 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。

 

そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』

 

しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。

 

お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。

 

金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』

 

アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』

(ルカによる福音書16章19~31節)

 

 

当時の貧しい人々で主(神さま)を信じている人は「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ」と、来るべきメシヤ(救世主キリスト)であるダビデの子を待ち望んで、主に助けを求めていました。

 

主は流された血に心を留めて

それに報いてくださる。

貧しい人の叫びをお忘れになることはない。

憐れんでください、主よ

死の門からわたしを引き上げてくださる方よ。

御覧ください

わたしを憎む者がわたしを苦しめているのを。

(詩編9章13~14節)

 

ですが、この貧乏人ラザロは金持ちの門前で、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていたので、主(神さま)ではなく、金持ちに助けを求める人でした。

 

しかし、この金持ちは父がアブラハムと信じていても、門前で助けを求めている貧しい人ラザロを助けませんでした。

 

そして、モーセと預言者が教えることについては次の通りです。

 

モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。

 

彼が語りかけることには、何でも聞き従え。 この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』

(使徒言行録3章22~23節)

 

 

まさに②の人々のことであることがわかります。

ですが、この地獄へ行く人にも救いがあります。

 

使徒パウロもファリサイ派の人々であり、以前は、イエスとクリスチャンたちを殺す人でありました。

 

その、イエスさまを十字架につけて殺した人たちへの救いの教えが次の通りです。

 

実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。

 

正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。

 

しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

 

それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

 

敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。

(ローマ信徒への手紙5章6~10節)

 

 

しかし、これをプロテスタント教会の教えでは、人間は2つに分かれている。

 

イエス・キリストを信じて義とされた救われた人々と、イエス・キリストを信じていないので、義とされず、救われない人々です。

 

それゆえ、プロテスタント教会の牧師たちは、この貧乏人ラザロをイエス・キリストを信じている人。

 

つまり、イエス・キリストを信じている人は死後に慰めを受ける。

 

そして、金持ちをイエス・キリストを信じていない人と断言して教えています。

 

つまり、イエス・キリストを信じていない人は死後に炎の中でもがき苦しむ。と教えます。

 

 

このように、まったく違う教えですので、私の教えを聞いた人は曲解させていると思います。

 

そして、プロテスタント教会の牧師やクリスチャンたちからすれば、私の教えは「異端」の教えになるでしょう。

 

 

また、プロテスタント教会の中でも、絶えず争いがあります。

 

イエス・キリストを信じて、義とされなければ救われないのだから、金持ちと貧乏人ラザロの聖書箇所などによって、地獄行きを強調する教えの牧師・伝道師・宣教師・クリスチャンたちと、

 

地獄行きを教えることを控える牧師・伝道師・宣教師・クリスチャンたちがいます。

 

「どうして、人々に地獄を語らないんだ!」「地獄行きの教えよりも神の愛とあわれみの教えだけで十分です」などなどと言い争います。

 

そして、福音派では最も信徒数の多い大和カルバリーチャペルの大川主任牧師たちが「セカンドチャンス論」を論じ始めました。

 

すると、数多くの牧師やクリスチャンたちが立ち上がり「異端の教えだ!」と、聖書の教えから反証して論破しています。

 

 

また、コメント欄では、カトリック教会については次のように「カトリック教会のカテキズム」から引用して教える人がいました。

 

「教会の外に救いはない」

 

846 教父たちがしばしば繰り返したこの主張を、どのように解釈すべきでしょうか。これを肯定形にすれば、救いはすべて、頭であるキリストからそのからだである教会を通して来ることを意味します。

 

聖なる教会会議(公会議)は、「聖書と伝承に基づいて、この旅する教会が救いのために必要であると教えます。

 

なぜならキリストのみが仲介者であり救いの道であって、そのキリストはご自分のからだすなわち教会の中で、わたしたちにとって現存するものとなるからです。

 

しかもキリストは、信仰と洗礼の必要性を明白なことばをもって教えることによって、人々がちょうど戸口を通してのように、洗礼を通してその中に入る教会の必要性をも同時に確認されました。

 

したがって、カトリック教会が神によってイエス・キリストを通して必要不可欠なものとして建てられたことを知っていて、しかもなおその教会に入ること、あるいは教会の中に終わりまでとどまることを拒否するとすれば、このような人々は救われることはないでしょう」(教会憲章16)

 

847 「救われない」というこの主張は、自分の過ちによらずにキリストやキリストの教会を知らない人々には当てはまりません。

 

「本人の側に落ち度がないままに、キリストの福音ならびにその教会を知らずにいて、なおかつ誠実な心をもって神を探し求め、

 

また良心の命令を通して認められる神の意志を、恩恵の働きのもとに、行動をもって実践しようと努めている人々は、永遠の救いに達することができます」(教会憲章14)

 

848 「本人の側に落ち度がないままに福音を知らないでいる人々を、神はご自分だけがご存じの道で信仰──それなしには神に喜ばれることはできない──へ導くことがおできになるとはいえ、

 

〔すべての人に〕福音をのべ伝えるという必須の義務と聖なる権利とを教会は持っています」(教会の宣教活動に関する教令7)

 

引用以上

 

 

さて、このカトリック教会のカテキズムの「救い」についての教えを読んで、理解することができるでしょうか?

私はさっぱりわかりません。

 

まずは「救いはすべて、頭であるキリストからそのからだである教会を通して来ることを意味します。」と教え、

 

一方では「救われない」というこの主張は、自分の過ちによらずにキリストやキリストの教会を知らない人々には当てはまりません。と教える

 

まるで、二律背反のように思えて理解ができません。

 

 

それゆえ、この理解不能な「救い」の教えによって、カトリック教会の中で壮絶な争いが起きているのも至極当然だと思います。

 

カトリック教会に晴佐久昌英神父という「すべての人はすでに救われています。」という万人救済論を思わせる教えの神父が現われました。

 

晴佐久神父の福音理解は次の通りです。

 

そもそも、洗礼は救いの条件ではありません。

すべての人は、御父の愛と御子の恵みにおいてすでに救われているのですから。

 

すべての人を救えない神を「父」と呼ぶことにも、無条件に救うことのできないイエスを「救い主」と信じることにも意味はありません。

 

神はすべての人を我が子として抱きしめていますし、イエスの十字架はその愛の完全な現れです。

 

そのような、すでに今ここにある普遍的な救いを、私は「天の救い」と呼んでいます。

 

引用以上

 

この晴佐久神父の普遍的主義の教えによって、1年で84人の受洗者など、多くの人々がカトリック信者になっています。

 

 

ところが、晴佐久昌英神父の教えを「異端」と言っている神父やカトリック信者も少なくないそうです。

 

そして、カトリック新聞には次のような投稿があったことを晴佐久神父が次のように教えていました。

 

 「私は、自分がカトリックであることをとてもうれしく思います。

 

以前は『教会の外に救いなし』と教えられていたけれども、第二バチカン公会議は、そのことを認めながらも、

 

その教会の範囲を広げて、教会には境目がなく、すべての人がその中に含まれていると教えました。

 

神はすべての人の救いを望んでおられます。これは素晴らしいことではありませんか。

 

私たちは改心してもまた罪を犯しますが、イエスの十字架により救われます。もし誰かが地獄へ行くべきだとしたら、まずこの私でしょう。

 

でも、神はこの私を救ってくださるし、同じようにすべての人を救ってくださいます。これこそカトリックです。

 

私は、日本中、世界中にこの福音を伝えたい。聖霊がその確信を与えてくださるから」と。

 

 そう紹介した後でですね、しかしその司祭は、こう言ってるんですよ。

 

 「もしそうだったら、誰でもうれしく思うでしょうが、世の中の悪と罪の現実をどう説明する、

 

また人が神を拒むことを否定するのか。もし、皆同じだとしたら、地獄は閉鎖される。

 

が、イエスが言われた『主よ、主よという者が皆、天の国に入るのではない』、また、左に置かれた者に『永遠の火に行け』、

 

さらに『信じて洗礼を受けるものは救われる、信じないものは罰を受ける』ということばをどう解釈するか。聖書の改訂版を出すべきでしょうか。

 

その説教の後、この考え方は今、日本に広がっていて人気があると言われて、私はショックを受けました」

 

引用以上

 

 

つまり、カトリック教会もプロテスタント教会も「救い」についての教えで混乱して、争いが絶えず行われている状況です。

 

近年は激しいバトルになってきました。

 

教会の中で、「救い」についての聖書解釈と福音理解の違いによって、兄弟に対して腹を立てることが多く。

 

「異端だ!」と決めつけたり、

「どうして、あのバカな聖書解釈と福音理解になるのか!本当に愚か者だな」という牧師や神父の嘆きを聞くことも少なくありません。

 

 

有名な山上の垂訓では、イエスさまは、イエスさまを信じてつき従って来た群衆と12弟子たちに次のように教えられました。

 

「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

 

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。

 

しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。

 

兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

(マタイによる福音書5章20~21節)

 

 

以上のような現実によって、私は個人的な意見として、人間をイエス・キリストを信じて救われた人と、イエス・キリストを信じていないので救われていない人に分けることが争いの元凶だと思っています。

 

イエス・キリストを信じていないという理由で救われないという教えで、つまずき、献金など他の理由も重なって、プロテスタント教会を離れた人は大勢います。

 

私もその一人ですので、教会を離れて行った人へブログ記事を書いています。

 

三重苦のヘレン・ケラーさんも同じように思っていました。

 

長くなったので、次こそは、そのヘレン・ケラーさんの聖書解釈と福音理解を見ていきましょう。

 

それは死後の世界についての教えにつながります。

その教えは次の御言葉も必要になるでしょう。

 

「まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。

 

ある程度は、それを信じます。というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。

(コリント信徒への手紙第一11章19節)」

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教の真実 51神さまを信じることについて」

 

まず最初に、前回記事でカトリック教会やプロテスタント教会は聖書の教えをことごとく曲解させていると言いました。

 

そのことについて詳しく説明をさせて頂きます。

 

まずは、神さまを信じることについて、聖書の教えを見ていきます。(前回をさらに深堀します)

 

イエス・キリストは次のように教えられました。

 

バプテスマのヨハネが自分の弟子たちを遣わし、

「あなたが,来ることになっている方ですか。それとも,ほかの方を待つべきでしょうか」と尋ねた時に、イエスは、イザヤ書に預言されたことが成就したことを答えられたのです。

 

「神が来てあなたたちを救う

その時,目が見えない人は見えるようになり,

耳が聞こえない人は聞こえるようになる。

 

その時,足が不自由な人は鹿のように跳びはね,

口が利けない人は歓声を上げる。

 

荒野に水が湧き出て,

砂漠平原に川が流れる。

彼らは歓喜にあふれ,

 

悲しみや嘆きは逃げ去る

(イザヤ書35章4~6、10節)」

 

そして、ユダヤ人たちにこのように宣言されました。

 

「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。

 

しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。

 

そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。

(ヨハネによる福音書10章37~38節)」

 

この教えの続きに、死んだラザロを生き返らせる話があります。

 

イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。

 

マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。

 

マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」

 

イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。

 

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

 

マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 

墓は洞穴で、石でふさがれていた。

 

イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。

 

イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。

 

人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。

 

わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。

 

しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」

 

こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。

 

 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。

マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

 

しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。

そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。

 

このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」

この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。

(ヨハネによる福音書11章20~27,39~48,53節)

 

 

ここで着目すべきことです。

マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。

 

また、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」と言いました。

 

ところが、マルタは、すぐにラザロが生き返り、嘆きと悲しみが喜びと楽しみに変わることは信じていませんでした。

 

そこで、イエスは「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われたのです。

 

 

そして、ファリサイ派のたちも、マルタと同じく、救世主メシアが来ると信じていました。

 

メシアが来て立てる王国が、神の国です。パリサイ人たちは、イエスに神の国はいつ来るのか、と質問しました。(ルカによる福音書17章20節)

 

また、ファリサイ派の人たちも、マルタと同じく、死者の復活を信じていました。

 

「パウロは、議員の一部がサドカイ派、一部がファリサイ派であることを知って、議場で声を高めて言った。

『兄弟たち、わたしは生まれながらのファリサイ派です。死者が復活するという望みを抱いていることで、わたしは裁判にかけられているのです。』

 

パウロがこう言ったので、ファリサイ派とサドカイ派との間に論争が生じ、最高法院は分裂した。

サドカイ派は復活も天使も霊もないと言い、ファリサイ派はこのいずれをも認めているからである。

(使徒言行録23章6~8節)」

 

 

マルタもファリサイ派の人々も、メシヤ(救世主キリスト)が来られることを信じて、終わりの日の死者の復活を信じていました。

 

しかし、イエスは「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。

 

しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。」と言われたのです。

 

つまり、メシヤ(救世主キリスト)を信じることではなく、死者の復活を信じることでもない。

 

ただ、人々の嘆きと悲しみを喜びと楽しみに変えるという父(エホバ神・ヤハウェ・イスラエルの神)の業を信じることが、神さまの御心だということがわかります。

 

そして、嘆きと悲しみの人々に、神さまの御心は、嘆きと悲しみを喜びと楽しみに変えられることを宣べ伝えるのです。

 

 

人々の人生において、最もこれ以上ない嘆きと悲しみは「愛する人たちの死」です。

 

神さまは「死んで終わりではないよ、また逢うことができる。そのことを信じますか?」と教えていることが前述のイエスさまの教えで明確にわかります。

 

その父(エホバ神・ヤハウェ・イスラエルの神)の業「あなたの嘆きと悲しみは喜びと楽しみに変わります」ということを信じる人々は救われます。

 

 

ラケルとその周りの人々は、ラザロが生き返ったことで、信じました。

 

しかし、ファリサイ派の人々たちは「このままにしておけば、皆がイエス・キリストを信じるようになる。」と殺す計画をしました。

 

つまり、人々の嘆きと悲しみを喜びと楽しみに変える働きをストップさせるのです。

 

人々が助けを求めている時に見捨てるという「人々を憎んでいる」ことが、悪魔から出た者たちの特徴だということがわかります。

 

「なぜなら、互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです。

 

カインのようになってはなりません。彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました。なぜ殺したのか。自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです。

 

だから兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚くことはありません。

わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。

 

愛することのない者は、死にとどまったままです。

兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません。

 

イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。

(ヨハネの手紙第一3章11~16節)

 

なので、この悪魔から出た者たちが救われるためには、イエス・キリストを信じる以外に方法はありませんでした。

 

聖書は、人々が助けを求めている時に見捨てるという悪魔から出た者たちに対して、何度も警告しているのです。

 

 

そして、前回記事で紹介したように、イエス・キリストご自身が教える最後の審判における判断基準が次の通りです。

 

「最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」

 

「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。こうして、この者どもは永遠の罰を受ける。」

 

イエス・キリストを信じたか、信じなかったかということではありませんでした。

 

 

日本はクリスチャン人口が約1%弱と言われています。

 

つまり、約99%はイエス・キリストorエホバ神・ヤハウェ・イスラエルの神を信じていないのです。

 

私の愛する祖父母、父母、兄弟、親戚、友達、恩人、尊敬する人々は誰も信じていません。

 

それゆえ、最後の審判で、イエス・キリストorエホバ神・ヤハウェ・イスラエルの神を信じたか、信じたかではなかったので、本当に安らぎが得られました。

 

まさに、次の御言葉通りです。

 

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

 

わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。

そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。

 

わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

(マタイによる福音書11章28~30節)」

 

 

それでは、カトリック教会の教えを見ていきます。

 

カトリック教会のイエズス会のフランシスコ・ザビエル宣教師が日本の山口で福音宣教を行なった時のことが次のように報告されています。

 

「 山口の信者は、その洗礼の前に、デウスの全善(JOG注: 全能)に就いての重大な疑問に襲われた。

 

それは、デウスは私達が来るまで、決して日本人に啓示をお与えにならなかったから、全善ではないということであった。

 

 又私達の教えているように、デウスを礼拝しない者は、地獄に堕ちるとすれば、デウスは祖先に対して無慈悲である。

 

何となれば、デウスは教について何も識らない祖先が、地獄に堕ちることを許したからである。」

 

引用以上

 

つまり、カトリック教会の教えは「教会の外に救いなし」ということであり、そのことについて「けがれなき神の家族」のブログ記事で次のように教えます。

 

「聖書は、教会が決定的に必要だと言っています。

 

ヨハネの福音書14:6でイエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、誰も父のもとに行くことはできない」と言っておられます。

 

わたしたちは皆、それを知っています。そして、キリストだけが不可欠なのではなく、「教会を通して語られるキリスト」もまた必要なのです。

 

イエスはこう仰せになります。

「あなた方に聞く者は、わたしに聞き、あなた方を拒む者は、わたしを拒むのである」

(ルカ10:16)

 

「あなた方」は教会の人(リーダー)。これは重要です。なぜなら、教会は、「全てにおいて全てを満たす彼の充満(エフェソ1:23)」だからです。

 

次のスライドを見てみましょう。キリストは教会です。教会は、世におけるキリストであり、全能の神はこう思し召しになりました。

 

「神の多種多様の知恵が、教会を通して、今や知らされるためであ(る)」

(エフェソ3:10)

 

「彼が教会に耳を傾けることを拒むならば

あなたにとって彼を異教徒や徴税人のように扱いなさい。

まことに、わたしはあなたに言う

あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ

あなたが地上で解くことは、天でも解かれる」

(マタイ16:19、18:18、ヨハネ20:23)

 

基本的にここで主が言っておられることは、天は教会に従わなければならない、ということです。

 

教会が、あなたは解放されたと言うならば、天も、あなたは解放されたと言うのです。・・・。イエスは、天は教会に従わなければならないと言っているのです。

 

ですから、「教会が何と言っているかなど、わたしには関係ない」とは言えないのです。

 

引用以上

 

つまり、カトリック教会の「教会の外に救いなし」という教えも、それに当てはまる聖書箇所があります。

 

ですが、その聖書箇所だけを切り取って、教えれば、イエス・キリストを信じていない人々は救われないことになります。

 

 

それは、プロテスタント教会の教えも同じです。

「ただイエス・キリストを信じる信仰によってのみ、罪人である私たちが義とされ、救われる。

それが私たちプロテスタント教会の信仰の根本です。」

 

この信仰の根本が正しいとされる代表的な御言葉は次の通りです。

 

「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。(ヨハネによる福音書3章36節)」

 

「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名(イエス・キリスト)のほか、人間には与えられていないのです。(使徒言行録4章12節)」

 

このような聖書箇所を恣意的に切り取って、教えれば「イエス・キリストを信じていない人々は救われない」という教えが完成します。

 

 

しかしながら、カトリック教会の教えもプロテスタント教会の教えも、ついでにエホバの証人の信者以外は皆、ハルマゲドンで滅ぼされるというエホバの証人の教えも、

 

神さま(イエス・キリスト・エホバ神)を信じていない大勢の人々が聞けば、嘆きと悲しみを与える教えです。

 

先に亡くなった愛する人たちは、神さま(イエス・キリスト・エホバ神)を信じていなければ、滅ぼされる。または地獄に行くと思わせるという最大級に嘆きと悲しみを与える教えです。

 

また、救われるための重荷を背負い、安らぐことはないです。

 

つまり、前述の来られるべきメシヤ(救世主)が行われる父(エホバ神・ヤハウェ・イスラエルの神)の業(人々の嘆きと悲しみを喜びと楽しみに変えること)を信じなさい。

 

それゆえ、重荷を負う者は休ませてあげて、安らぎを得ます。という教えとは真逆です。

 

そういう意味で、ことごとく曲解させていると言いました。

 

 

その事に気づいたクリスチャンたちが世の光となっていました。

 

その中の一人が三重苦の聖女と言われた「ヘレン・ケラー」さんです。

 

カトリック教会とプロテスタント教会とエホバの証人が重要視しているのが「ヨハネの黙示録(新世界訳聖書ではヨハネへの啓示)」です。

 

イエス・キリスト御自身が教える最後の審判では、神さまを信じていない人々を地獄行きには出来ないので、ヨハネの黙示録が教える最後の審判を恣意的に切り取って、最大限に活用しています。

 

 

ヘレン・ケラーさんは自伝「私の宗教」の中で次のように語ります。

 

「火の池に投げ込まれる者たちの無限の責め苦と、キリストがその本質は愛であると言明された”神”とを、いったいどのように結びつければよいのでしょうか?」

 

「私の心が、バイブル(聖書)に対するこうした当惑と不満にとらえられていたとき、もっとも愛する友人のひとり、ジョン・ヒッツ氏が私の人生に登場してくれました。」

 

そして、カトリック教会やプロテスタント教会の教えを真っ向から否定する「真のキリスト教」の教えによって、真理の光によって闇が照らされることを体験されたのです。

 

さらに、あの「近代医療統計学および看護統計学の始祖ならびに近代看護教育の母」フローレンス・ナイチンゲールさんも同じでした。

 

長くなったので、次回へつづく

 

 

「日本におけるキリスト教の真実 ㊿ 聖書が教える神さまと人間について」

 

前回記事で気づかれたと思いますが、イエスの父(エホバ神・ヤハウェ・イスラエルの神)の望まれることは、御子イエス・キリストが行われることによって、人々の嘆きと悲しみを取り去って、喜びと楽しみを与えることでした。

 

「見よ、あなたたちの神を。

敵を打ち、悪に報いる神が来られる。

神は来て、あなたたちを救われる。」

 

喜びと楽しみが彼らを迎え

嘆きと悲しみは逃げ去る。

 

イエスは天を仰いで言われた。

「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。

 

わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。

 

しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。

あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」

 

こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。

 

すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。

マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

(ヨハネによる福音書11章41~45節)

 

 

イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。

 

その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。

主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。 

 

そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。

 

イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。

 

すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。

 

人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。

イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。

(ルカによる福音書7章12~17節)

 

 

このように、聖書が教える「神さまの御心」は人々の嘆きと悲しみを喜びと楽しみに変えることでした。

 

そして、人々も嘆きと悲しみを喜びと楽しみに変えてくださる方こそ「エホバ神・ヤハウェ・イスラエルの神が遣わされたメシヤ・救い主イエス・キリスト」だと信じることができたのです。

 

 

しかも、着目すべき点は、マリアの弟ラザロといい、やもめの母親の息子といい、周りの人々は、隣人(他人)に行なわれたことですが、自分自身のことのように受けとめて、神を賛美して、イエスを信じたことです。

 

つまり、人間は、隣人(他人)が嘆き悲しんでいるのを知ると、「神さま助けてあげてください。」と願うのです。

 

そのような人間は、当然のように、隣人(他人)が助けを求めていると助ける行為をするのです。

 

 

しかし、その一方で、隣人(他人)が嘆き悲しんでいるのを喜びと楽しみに変えてくださるイエス・キリストを殺そうとする人々がいました。

 

つまり、隣人(他人)が助けを求めている時に見捨てる人々です。

 

その人々にイエス・キリストは次のように宣告されました。

 

蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。

 

だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。

 

こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。

 

はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」

(マタイによる福音書23章33~36節)

 

 

彼ら(ユダヤ人たち)が答えて、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。

 

ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。

 

アブラハムはそんなことはしなかった。 あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」

 

そこで彼らが、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」と言うと、

 

イエスは言われた。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。

 

なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。

 

わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。

 

あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。

 

悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。

 

しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。

(ヨハネによる福音書8章39~45節)

 

 

また、そのことについて次のように説明をされました。

 

イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。

 

毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。

 

だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。

 

人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。

彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。

 

そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

(マタイによる福音書13章37~43節)

 

 

そして、イエス・キリストが十字架上で死なれて三日後によみがえられて、昇天されて、御父(エホバ神・ヤハウェ・イスラエルの神)の右の座に着かれて後、来臨されます。

 

その最後の審判が次の通りです。

 

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。

 

そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、 羊を右に、山羊を左に置く。

 

そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。

 

お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』

 

それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。

 

お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』

 

こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

(マタイによる福音書25章31~36,41~43、46節)

 

 

さて、聖書を読めば、イエスの父(エホバ神・ヤハウェ・イスラエルの神)の御心は、御子イエス・キリストを遣わして、人々の嘆きと悲しみを喜びと楽しみに変えることだということがわかります。

 

そして「人間」のほうは、大きく2つに分かれます。

 

① 人々の嘆きと悲しみを喜びと楽しみに変えてくださる方こそ神さまが遣わされたメシヤ(救世主キリスト)だと信じる人々

 

② 人々の嘆きと悲しみを喜びと楽しみに変えるイエス・キリストはメシヤ(救世主キリスト)ではない!殺してしまえ!という悪魔の欲望を満たす人々

 

 

そして、最後の審判における判断基準が次の通りです。

 

「最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」

 

「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。こうして、この者どもは永遠の罰を受ける。」

 

 

しかし、この聖書の教えをことごとく曲解させて、まったく違う教えに変えているのが、カトリック教会であり、プロテスタント教会です。

 

片柳神父のブログのカトリック教会入門講座には次のように教えています。

 

「カトリック教会は現在に至るまで、カトリック教会の伝えるイエスの教えこそが、神の救いに至る唯一完全な道だと主張しています。

 

このことを難しい言葉では教会の唯一絶対性の主張と言います。

 

こんなことを言うと日本の社会では嫌われてしまうに決まっていますが、キリスト教信者にとってはとても大切な教えです。

 

「教会の外に救いなし」という言葉があります。

 

教会の外の世界は悪にまみれた世界であって、教会の中にとどまるときにだけ救われることができるという意味で使われてきた言葉です。

 

引用以上

 

 

つまり、カトリック教会の教えでは人間は2つに分かれている。

 

教会の外の悪にまみれた世界の人々と、教会の中の救われた世界の人々です。

 

 

そして、プロテスタント教会のほうは次の通りです。

 

「ただイエス・キリストを信じる信仰によってのみ、罪人である私たちが義とされ、救われる。

それが私たちプロテスタント教会の信仰の根本です。」

 

つまり、プロテスタント教会の教えでは人間は2つに分かれている。

 

イエス・キリストを信じて義とされた救われた人々と、イエス・キリストを信じていないので、義とされず、救われない人々です。

 

 

カトリック教会もプロテスタント教会も根本的に同じです。

 

イエス・キリストを信じて教会の中にいる人々は救われます。

しかし、イエス・キリストを信じない世の中の人々は救われない。

 

 

ついでに「エホバの証人」の教えも、エホバの証人の信者は救われるが、エホバの証人の信者でない人々は滅ぼされるという教えです。

 

 

さて、カトリックもプロテスタントもエホバの証人も、聖書が教えていることと、まったく違いますね。

 

何度も繰り返しますが、聖書の教えは、神さまの御心は人々の嘆きと悲しみを喜びと楽しみに変えることです。

 

そして、人間は2つに分かれています。

 

神さまは、人々の嘆きと悲しみを喜びと楽しみに変えてくださると信じる人々です。

そのような人々は、最も小さき者のひとりが助けを求めている時に助ける人々です。

 

もう一方は、人々の嘆きと悲しみを喜びと楽しみに変える神さまを殺してしまう人々です。

そのような人々は、最も小さき者のひとりが助けを求めている時に助けない人々です。

 

このように、聖書が教えていることを正しく教えていれば、教会の中はより安全な場所となるはずです。

 

 

しかしながら、その聖書の教えとはまるで違うことを教えていれば、教会の中は危険な場所となるのは至極当然でした。

 

カトリック教会の中では、恐るべき事件が発覚しました。

 

「カトリック教会の性的虐待事件」は、21世紀に入ってローマ・カトリック教会を揺るがすことになった、聖職者による児童への性的虐待問題です。

 

世界中で報告されて、その加害者の神父の数と被害者の数は想像を絶するほどです。

 

アメリカでは米CNNテレビが、「神父4450人が疑いがあると報道し、件数は約11000件に上る」と報じました。

 

「その報告書は、フランスのカトリック教会で、1950年から2020年にかけて、少なくとも2900人から3200人の聖職者が、未成年者に対して性的虐待を行ったと推計しています。」

 

世界中の被害を受けた多くの児童たちにとって、世界中のカトリック教会の中に救いなしでした。

 

 

また、プロテスタント教会も同じで、「米最大のプロテスタント教派で性的虐待、被害者700人以上」

 

「ドイツのプロテスタント教会で1946年以降、少なくとも聖職者ら1259人が未成年者ら2225人を性的虐待していたことが分かった。」などなどと、

 

世界中のプロテスタント教会の中での性的虐待が次々と露見しています。

 

日本も同じです。

 

発覚しているだけでも、日本のキリスト教会の聖職者の犯罪率は、仏教の聖職者よりも高い犯罪率です。それも氷山の一角だと報道されていました。

 

性的虐待に限らず、聖書の教えでは、偽使徒が行なう「教会の中での献金」によって、深く傷つく人々は多く、教会内での金銭トラブルも絶えることはありません。

 

 

三重苦で知られるヘレンケラーさんは著書「私の宗教」で次のように語っています。

 

「クリスチャンでない者はすべて罰せられる、と心の狭い人たちから聞かされてきて、私の魂は当然反発を感じていました。」

 

ヘレンケラーさんの話を聞くと、「教会の外に救いなし」と教えるカトリック教会や「イエス・キリストを信じる人は救われるが、信じない人々は滅びに向かっている」と教えるプロテスタント教会に反発を感じて、イエス・キリストを信じることはできなかったと思いました。

 

しかし、カトリック教会やプロテスタント教会の教えを否定する教えによって、イエス・キリストを信じることができたのです。

 

次回はそのヘレンケラーさんが教えるキリスト教について、見ていきます。

 

 

これから、聖書が教える神さまと人間について、その聖書通りのままを教えることが神さまの御心です。

 

神さまは、人々の嘆きと悲しみを喜びと楽しみに変えられることが聖書の教えです。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教の真実 ㊾ エホバの証人とプロテスタント教会の正体」

 

エホバの証人とプロテスタント教会は「聖書の教えがすべて」です。

それでは、まず「エホバの証人」の聖書解釈と福音理解を見ていきます。

 

 

エホバの証人のホームページから「エホバは契約の神」という教えには次のようなことが書かれています。

 

エホバは,イスラエル人を組織して一つの国民とされました。崇拝と市民生活を統制する律法を与えました。

 

また,幕屋(後にはエルサレムの神殿)と幕屋で神聖な奉仕を行なう祭司の一団とを与えました。契約を守るとは,エホバの律法に従うこと,そして特に,エホバだけを崇拝することを意味しました。

 

そうした律法の核心を成す十戒の第一条は,「わたしはあなたの神エホバ,あなたをエジプトの地から,奴隷の家から携え出した者である。あなたはわたしの顔に逆らって他のいかなるものをも神としてはならない」というものでした。―出エジプト記 20:2,3。

 

ユダヤ人がメシアであるイエスを退けたとき,エホバも彼らを退けました。(使徒 3:13-15。ローマ 9:31–10:4)

 

結局,エホバは,アブラハム契約の全面的な成就をもたらすために新たな取り決めを設けました。―ローマ 3:20。

 

アブラハム契約が全面的に成就するよう,エホバはどんな新たな取り決めを設けましたか。

 

その新たな取り決めとは新しい契約のことです。エホバはこれを予告し,こう言っておられました。「『見よ,日がやって来る』と,エホバはお告げになる,『わたしはイスラエルの家およびユダの家と新しい契約を結ぶ』。

 

……『これこそ,わたしがそれらの日の後にイスラエルの家と結ぶ契約だからである』と,エホバはお告げになる。『わたしは彼らの内にわたしの律法を置き,彼らの心の中にそれを書き記す。そして,わたしは彼らの神となり,彼らはわたしの民となるであろう』」― エレミヤ 31:31-33。

 

これこそイエスが西暦33年のニサン14日に話の中で言及された新しい契約です。

 

その時イエスは,その約束された契約が,ご自分の弟子たちとエホバとの間で,ご自分を仲介者として結ばれようとしていることを明らかにされました。

(コリント第一 11:25。テモテ第一 2:5。ヘブライ 12:24)

 

この新しい契約を通して,アブラハムに対するエホバの約束は,一層栄光ある永続的な成就を見ることになりました。

 

引用以上

 

 

このエホバの証人の聖書解釈と福音理解では、現在の人々にとって「イエスは,その約束された契約が,ご自分の弟子たちとエホバとの間で,ご自分を仲介者として結ばれようとしていることを明らかにされたこと」が最も重要な教えになることがわかります。

 

それでは、そのエホバ神の仲介者としてのイエス・キリストと弟子たちの福音宣教を「聖書の教え」から見ていきます。

 

 

エホバの証人の新世界訳聖書から引用します。

 

「イエスは,12弟子に指示を与え終えると,周辺の町で教えて伝道するために,そこから出掛けていった。

 

ところで,ヨハネは牢屋の中でキリストの活動について聞き,自分の弟子たちを遣わし、イエスに尋ねた。

 

「あなたが,来ることになっている方ですか。それとも,ほかの方を待つべきでしょうか」。

 

イエスは答えた。「行って,見聞きしている事柄をヨハネに報告しなさい。

 

目が見えなかった人は見,足が不自由だった人は歩き,重い皮膚病の人は治り,耳が聞こえなかった人は聞き,死人は生き返り,貧しい人には良い知らせが告げられています。

 

私に疑いを抱かない人は幸せです」

(マタイの福音書11章1~6節)

 

 

イエスは、イザヤ書に預言されたことが成就したことを答えられたのです。

 

神が来てあなたたちを救う

 

その時,目が見えない人は見えるようになり,

耳が聞こえない人は聞こえるようになる。

 

その時,足が不自由な人は鹿のように跳びはね,

口が利けない人は歓声を上げる。

 

荒野に水が湧き出て,

砂漠平原に川が流れる。

 

彼らは歓喜にあふれ,

悲しみやため息は逃げ去る

(イザヤ書35章4~6、10節)

 

 

さらに、イエスは弟子たちにもその権威を与えました。

 

「イエスは12弟子を呼び寄せ,邪悪な天使に対する権威を与えた。それらを追い出し,あらゆる病気や不調を治すためである。(マタイによる福音書10章1節)

 

そのイザヤ書に預言されたことをイエスと弟子たちは行なっているのに信じないユダヤ人たちがいたことが次のように書かれています。

 

 

ユダヤ人たちがイエスを取り巻いて,こう言いだした。「いつまで私たちを迷わせるのですか。あなたがキリストなら,はっきりそう言ってください」。

 

イエスは答えた。「私は言いましたが,あなた方は信じません。

 

父の名によって私が行っている事柄を見れば,私が誰かは明らかです。

 

しかしあなた方は信じません。私の羊ではないからです

 

私が父の望むことを行っていないなら,私を信じてはなりません。

 

しかし行っているなら,たとえ私を信じないとしても,その行いを信じなさい。

 

そうすれば,父と私が結び付いていることが分かり,さらによく分かるようになります」。

(ヨハネによる福音書10章24~26,37~38)

 

 

このイエスの教えで特筆すべきことを繰り返します。

 

「イエスは、私が父の望むことを行っていないなら,私を信じてはなりません。

 

しかし行っているなら,たとえ私を信じないとしても,その行いを信じなさい。

 

そうすれば,父と私が結び付いていることが分かり,さらによく分かるようになります。」

 

 

そして、多くのユダヤ人が、そのイエスが御父(エホバ神)が遣わされたことを証明する奇跡によって、信仰を持ったことが次のように書かれています。

 

 

イエスは天を見上げてこう言った。「父よ,私の願いを聞いてくださり,感謝いたします。

 

いつも聞いてくださることは知っていますが,周りに立つ人々のために言っています。あなたが私を遣わされたことをこの人々が信じるためです」。

 

イエスはそう言い終えると,大声で叫んだ。「ラザロ,出てきなさい!」

すると,死んでいたラザロが,手足に布を巻かれたまま出てきた。

 

顔にも布が巻かれていた。イエスは言った。「ほどいて,歩けるようにしてあげなさい」。

 

こうして,マリアの所に来ていたユダヤ人の多くが,イエスがしたことを見て信仰を持った。

 

しかし,ある人たちはパリサイ派の人たちの所に行って,イエスがしたことを話した。

 

そのため,祭司長とパリサイ派の人たちはサンヘドリンを招集して,こう言った。

 

「この男が多くの奇跡を行っているが,私たちはどうすべきだろうか。

このまま放っておいたら,皆が彼に信仰を持ち,ローマ人がやって来て,私たちの神殿も国民も奪い去ってしまう」。

 

その場にいた人たちはその日以来,イエスを殺そうとして相談した。

(ヨハネによる福音書11章41~48、53)

 

 

しかしながら、イエスを殺そうとするパリサイ派の人の中でも信じる人がいたのです。

 

パリサイ派の人で,ニコデモという男性がいた。ユダヤ人の支配者の1人だった。 この男性が夜にイエスの所に来て言った。

 

「ラビ,私たちは,あなたが教師として神のもとから来たことを知っています。

 

神が共にいない限り,あなたがするような奇跡は行えないからです。」

 

そのイエスが行なった奇跡を見て、神の元から来たことを信じたニコデモに、イエスは次のように教えました。

 

「神は,自分の独り子を与えるほどに人類を愛したのです。

そのようにして,独り子に信仰を抱く人が皆,滅ぼされないで永遠の命を受けられるようにしました。」

(ヨハネによる福音書3章1~2,16)

 

 

以上のように聖書は教えています。

 

この教えは、エホバの証人が教える「エホバは,イスラエル人を組織して一つの国民とされました。」というイスラエルのユダヤ人への福音宣教の教えです。

 

それゆえ、イエスは次のように指示をされました。

イエスはこの12人に次の指示を与えて遣わした。

 

「異国の人々の所に行ってはならず,サマリア人の町に入ってはなりません。

 

いつも,イスラエル国民の迷い出た羊の所に行きなさい。

 

行って,『天の王国は近づいた』と伝道しなさい。 病気の人を治し,死んだ人を生き返らせ,重い皮膚病の人を癒やし,邪悪な天使を追い出しなさい。

ただで受けたのです。ただで与えなさい。

(マタイによる福音書10章5~8節)

 

 

このイエスの教えで、異国となる「日本」で最も重要な教えは、小学生でも気づくことですが次の通りです。

 

「異国の人々の所に行ってはならない」

 

 

さて、以上のように聖書の教えを見てきました。

 

エホバの証人の信者とプロテスタント教会の信者は気づいたと思います。

 

このイスラエルの地でのイスラエルの民での福音宣教の教えを異国である現在の日本に対する教えにしているのが、エホバの証人であり、プロテスタント教会です。

 

イエスが、イスラエル国民の迷い出た羊と異国の人々への教えはまったく違うので「異国の人々の所へ行ってはならない」と教えているのに、その教えに反逆しています。

 

それゆえ、聖書の教えとはまったく違う、支離滅裂で相当めちゃくちゃ訳が分からない教えの新興宗教のような教えになっています。

 

 

何度も繰り返しますが、イエスは、「私が父の望むことを行っていないなら,私を信じてはなりません。

 

しかし行っているなら,たとえ私を信じないとしても,その行いを信じなさい。

 

そうすれば,父と私が結び付いていることが分かり,さらによく分かるようになります。」と教えました。

 

 

それなのに「エホバの証人」はどうでしょうか?

 

エホバの証人たちは家から家への訪問伝道を強制的に行わせて、何を教えているのでしょう?

 

そして、エホバの王国会館で何を教えているのか。

 

「ハルマゲドンで、エホバの証人の信者以外は滅びる」と教えます。

 

その教えは「エホバ神を信じていない人々」にとって、悲哀にあふれ、悲しみやため息に襲われるという教えです。

 

 

今度はプロテスタント教会です。

 

「プロテスタント教会」は、

 

イエスが行なった奇跡を見て、神の元から来たことを信じたニコデモに教えた「独り子に信仰を抱く人が皆,滅ぼされないで永遠の命を受けられるようにしました。」という一部分だけを切り取って曲解し、

 

「イエス・キリストを信じれば永遠の命を受けるが、イエス・キリストを信じなければ滅ぼされる。つまり地獄へ行く」という教えを作り上げました。

 

他の聖書箇所も一部分だけ切り取って曲解させて同じように教え、次のように結論付けます。

 

「ただイエス・キリストを信じる信仰によってのみ、罪人である私たちが義とされ、救われる。

それが私たちプロテスタント教会の信仰の根本です。」

 

その教えは「イエス・キリストを信じていない人々」にとって、悲哀にあふれ、悲しみやため息に襲われるという教えです。

 

 

そのエホバの証人とプロテスタント教会の教えとは真逆に、

イエス・キリストの福音宣教は、イザヤ書に預言されていることが成就します。

 

イエス・キリストを信じていない人々は、イエスが御父(エホバ神・ヤハウェ・イスラエルの神)から遣わされて行なう奇跡によって、あらゆる病いはいやされて

 

「彼らは歓喜にあふれ,

悲しみやため息は逃げ去る」

 

これがイエス・キリストの福音宣教です。

 

 

イエス・キリストは、「私が父の望むことを行っていないなら,私を信じてはなりません。」と教えています。

 

しかし、プロテスタント教会では「イエス・キリストを信じない人々は救われない。滅びる」と教えます。

 

そして、エホバの証人は「エホバの証人の信者以外は皆、ハルマゲドンで滅ぼされる」とおしえます。

 

まったくイエス・キリストの教えとは違います。

 

 

そして、現在の異国の人々への福音宣教は奇跡はなくても

 

20世紀や21世紀になっても、異国の人々のところで、イエス・キリストの福音宣教があるところ、「彼らは歓喜にあふれ,悲しみやため息は逃げ去る」という証があります。

 

異邦人への福音宣教に任命された使徒パウロの教えから、奇蹟を行なわない福音宣教となります。

 

エホバ神(ヤハウェ・イスラエルの神)を信じていない異国の人々には、奇蹟を行なわない福音宣教も行われています。

 

次の機会にその証について見ていきます。

 

つづく

 

「日本におけるキリスト教の真実 ㊽ エホバの証人とプロテスタント教会の教えは危険?」

 

私は長年、プロテスタント教会に所属していましたが、多くの人々が非常につまずく「イエス・キリストを信じない人々は地獄行き」という教えと、教会で行われる「献金」は、いつも不信感を抱いていました。

 

そして、無教会のクリスチャンになって、聖書を徹底的に調べると、プロテスタント教会の神学・聖書解釈と福音理解は聖書の教えを曲解しまくっていることが判明したのです。

 

聖書の一部分だけを切り取り、都合のいい聖書箇所の一部分を組み合わせたり、関係のない旧約聖書の教えを組み合わせるのが常とう手段です。

 

それゆえ、前後を読めば「あれ、おかしいなぁ」「話がすり替わっているぞ」というオンパレードです。

 

そのことについて、定期的に発信していきます。

 

 

さて今度は、最近、三週連続で訪問してくれる「エホバの証人」の教えを見ていきます。

 

まず、元エホバの証人の方々が皆、非常につまずいていた「家から家への訪問伝道」のことですが、エホバの証人のホームページには次のように説明しています。

 

『エホバの証人はどうして家々を訪問するのですか』

 

イエスは追随者たちに,「すべての国の人々を弟子とし」なさいと告げました。(マタイ 28:19,20)

 

初期の弟子たちを遣わした時には,人々の家に行くようにと指示しました。(マタイ 10:7,11-13)

 

イエスの死後,1世紀のクリスチャンは引き続き,「公にも家から家にも」音信を伝えました。(使徒 5:42; 20:20)

 

わたしたちは,そうした初期クリスチャンに倣っています。戸別伝道は人々に会って話す良い方法です。

 

引用以上

 

 

さて、この聖書箇所の一部分だけを切り取って、まだバプテストを受けていない時や子供の時から強制的に「家から家の訪問伝道」を使命として行わせているのですが、その聖書箇所の前後を見てみましょう。

 

すべて、エホバの証人の新世界訳聖書から引用します。

 

「16 ところで,11人の弟子はガリラヤに向かい,イエスが会うために指定していた山に行った。(マタイ28:16)」

 

「5 イエスはこの12人に次の指示を与えて遣わした。『異国の人々の所に行ってはならず,サマリア人の町に入ってはなりません。

 

6 いつも,イスラエル国民の迷い出た羊の所に行きなさい。

7 行って,『天の王国は近づいた』と伝道しなさい。

 

8 病気の人を治し,死んだ人を生き返らせ,重い皮膚病の人を癒やし,邪悪な天使を追い出しなさい。ただで受けたのです。ただで与えなさい。

 

11 どんな町や村に入っても,ふさわしい人を探し出し,去るまではその人の所に滞在しなさい。

12 家に入る時には,家の人たちにあいさつをしなさい。

 

13 その家がふさわしいなら,あなたたちの願う平和がそこにとどまるようにしなさい。しかし,ふさわしくないなら,その平和を自分のもとに戻らせなさい。

(マタイ10:5~8,11~13)」

 

 

「12 また,使徒たちはその後も民の間で多くの奇跡や不思議なことを行った。皆ソロモンの柱廊によく集まっていた。

 

13 弟子たちに加わる勇気がある人はいなかった。それでも人々は弟子たちを褒めるのだった。

 

14 そして主を信じる者が,男性も女性もますます増えていった。

 

15 人々は病人を大通りに連れ出して小さな寝床や敷物に横にならせ,ペテロがそばを通る時にせめてその影が病人の誰かに掛かるようにした。

 

16 また,エルサレム周辺の町から大勢の人が,病気の人や邪悪な天使に苦しめられている人たちを連れてきた。その人たちは一人残らず治された。

(使徒5:12~16)

 

「18 長老たちが来ると,パウロはこう言った。『アジア州に足を踏み入れた最初の日から私が皆さんの間でどう行動したか,皆さんはよく知っています。

 

19 涙を流し,ユダヤ人たちの陰謀による試練に遭いながら,ただただ謙遜に主のために一生懸命働きました。

 

 20 ためらうことなく,有益なことを何でも皆さんに話し,人々の前で,また家から家へと,皆さんを教えました。

21 神に対する悔い改め+と私たちの主イエスへの信仰について,ユダヤ人にもギリシャ人にも徹底的に知らせました。

 

22 そして今,見てください,私は聖なる力に促されてエルサレムに旅をしています。』

(使徒20:18~22)」

 

 

どうですか?

弟子たちは、家から家への訪問伝道によって、病気の人を治し,死んだ人を生き返らせ,重い皮膚病の人を癒やし,邪悪な天使を追い出しました。

 

それゆえ、人々は弟子たちを褒めました。

大勢の人々が弟子たちの所へ希望と平安を抱いて来ました。

 

また、使徒パウロは、ユダヤ人たちの陰謀による試練に遭いながら、聖なる力に促されて旅をしました。

 

 

それを、弟子たちのように多くの奇跡や不思議なことが出来ないのに、使徒パウロのように聖なる力に促されていないのに、家から家への訪問伝道を行なえばどうなるでしょう。

 

大勢の人々はエホバの証人の突然の訪問に迷惑しています。

 

ある現役エホバの証人の人が二年前にYouTubeで「新型コロナウイルスで中断していた恐怖の家から家への訪問伝道が始まります。家から家への訪問伝道は、嫌がらせの種を蒔いている」と断言していますし、

 

また、家から家への訪問伝道を行なった元エホバの証人の方々が、精神的苦痛を訴える声であふれています。

 

その現状は、聖書の教えを知れば、至極当然でしょう。

 

 

さて、最近、私の家に訪問に来だしたエホバの証人の姉妹が、30代に見える「長老」を連れて来ました。

 

その長老に、まず最初に前述の「家から家への訪問伝道」は聖書の一部分だけ切り取って、聖書の教えを曲解させているということを伝えました。

 

すると長老は、余裕しゃくしゃくに「一部分だけ切り取っていると言われましても、そんなことよりも最も重要な教えがあります。

 

30分かかりますが、お時間はよろしいでしょうか?

神​の​王国​は​1914​年​に​支配​を​始め​た​ことです。」と言いました。

 

私は「1914年に支配???」とびっくりしました。

 

そして、その長老は、エホバの証人のマニュアル通りの説明を始めたのです。

 

以下はよりわかりやすいようにエホバの証人のホームページから引用します。

 

まずは、ダニエル 4​章​に​記録​さ​れ​て​いる​預言​です​ね。バビロン​の​王​ネブカドネザル​が​見​た​夢​の​こと

ダニエル 12​章​9​節​に​注目​し​て​ください。

 

ここ​に​は,「これら​の​言葉​は​終わり​の​時​まで​秘め​られ,封印​し​て​おか​れる」と​書か​れ​て​い​ます。ですから,これら​の​預言​は,はるか​後代​の「終わり​の​時」に​なっ​て​初めて​理解​さ​れる​こと​に​なっ​て​い​まし​た。

 

聖書​に​よれ​ば,ネブカドネザル​は,7​年​間,正気​を​失っ​て​い​て,王​と​し​て​支配​する​こと​が​でき​なかっ​た​ん​です。しかし,七つ​の​時​が​終わる​と,正気​を​取り戻し,再び​支配​を​始め​まし​た。

 

何​より​も​まず,その​預言​そのもの​に​ヒント​が​あり​ます。ダニエル 4​章​17​節​に​よれ​ば,この​預言​は,「至高​者​が​人間​の​王国​の​支配​者​で​あり,ご自分​の​望む​者​に​それ​を​与え……る​と​いう​こと​を,生ける​者​が​知る​ため」の​もの​でし​た。

 

聖書​時代,エルサレム​で​支配​する​イスラエル​の​王​たち​は「エホバ​の​王座」に​座す,と​言わ​れ​て​い​まし​た。 

 

 神​の​代理​と​し​て​民​を​統治​し​た​の​です。ですから,そう​し​た​王​たち​の​支配​権​は,実​の​ところ​神​の​支配​権​の​表明​でし​た。

 

しかし,当時​の​王​たち​の​大半​は​神​に​従わ​ず, 臣民​の​大半​も​その​悪い​例​に​倣い​まし​た。そう​し​た​不​従順​ゆえ​に,西暦​前​607​年,神​は​イスラエル​が​バビロニア​人​に​征服​さ​れる​まま​に​され​まし​た。

 

その​時​以降,エルサレム​に,エホバ​を​代理​する​王​は​存在​し​なく​なり​まし​た。そういう​意味​で​神​の​支配​が​中断​し​た​の​です。

 

それで,西暦​前​607​年​が,七つ​の​時​の,つまり​神​の​支配​の​中断​期間​の​始まり​でし​た。七つ​の​時​が​終わる​と,神​は​ご自分​を​代理​する​新しい​支配​者​と​し​て,この​度​は​天​に​いる​ある​者​を​任命​なさい​ます。

 

先​ほど​読ん​だ,ダニエル​書​の​幾つ​か​の​預言​が​成就​する​の​は,その​時​です。気​に​なる​の​は,七つ​の​時​が​終わっ​た​の​は​いつ​な​の​か,と​いう​点​です。それ​が​分かれ​ば,神​の​王国​が​いつ​支配​を​始め​た​か​も​把握​でき​ます。

 

七つ​の​時​の​終わり​が​1914​年​と​いう​こと​です。

 

 

それから私は長老に「どうして、1914年になるのか?新約聖書とどう関係があるのか?」と質問しました。

 

すると、長老は自信満々に「ルカの福音書21章24節」から説明を始めました。

 

よりわかりやすくエホバの証人のホームページから引用します。

 

1914年が重要な年であることを裏づけるどんな証拠があるでしょうか。

ルカ 21章24節に記されているように,イエスはこう述べました。「エルサレムは,諸国民の定められた時[「異邦人の時」が満ちるまで,諸国民に踏みにじられるのです」

 

では,神の支配はいつどのように「諸国民に踏みにじられる」ようになったのでしょうか。それは西暦前607年に生じました。

 

その年に,エルサレムはバビロニア人に征服されました。「エホバの王座」は空位となり,ダビデの家系の王統は中断されました。(列王第二 25:1-26)

 

 

そこで私はルカの福音書21章24節の前後を読んで「あれ、おかしいなぁ、この聖書箇所は、西暦前607年のことではなく、紀元70年(67年の説あり)のエルサレムにおける第二神殿崩壊の預言のことです。」と言いました。

 

「20 エルサレムが陣営を張った軍隊に囲まれるのを見たなら,その時,荒廃が近づいたことを知りなさい。

 

21 その時,ユダヤにいる人は山に逃げ始めなさい。都の中にいる人はそこを出なさい。田舎にいる人は都に入ってはなりません。 22 なぜなら,これは処罰が下される期間であり,書かれていること全てが実現するのです。

(ルカの福音書21章20~22節)」

 

「さらに、ルカの福音書21章を初めから読めば、明確に西暦前607年のことではなく、紀元70年(67年の説あり)のエルサレムにおける異邦人による第二神殿崩壊のことだとわかります。」と読みだすと、

 

長老は慌てて「もういい!」と感情的になって、聖書を読むのをストップさせました。

 

 

それで長老は「そこの聖書解釈は平行線になるので、今度は、ヨハネへの啓示12章を開いてください。」と言いました。

 

そしてエホバの証人のマニュアル通りに、次のように説明しました。

 

啓示 12章6節と14節を見ると,三時半が「千二百六十日」に相当することが分かります。

 

ですから「七つの時」はその2倍,つまり2,520日間続くことになります。

 

しかし,異邦諸国家は,エルサレムが倒壊してから2,520日後に,神の支配権を『踏みにじる』ことを終わらせたわけではありません。

 

ですから,この預言がそれよりずっと長い期間を扱っていることは明らかです。民数記 14章34節とエゼキエル 4章6節には,「一年に対して一日」という記述があり,これに基づいて計算すると,「七つの時」は2,520年になります。

 

その2,520年は西暦前607年10月に始まりました。

 

それは,エルサレムがバビロニア人の手に落ち,ダビデの家系の王が王座を追われた時です。

 

その期間は1914年10月に終わりました。その時,「諸国民の定め られた時」が終わり,イエス・キリストは神からの任命を受けた天の王として即位されました。

 

 

長老は、さすがに今度は反論できまいと、気を取り直して、自信満々に説明していました。

 

しかし、私がヨハネへの啓示12章の前後を読んで、またまた「あれ、おかしいなぁ」と発言したのです。

 

6 女は荒野に逃げた。そこには神が用意した場所があり,彼女は1260日の間養われることになる

 

13 地に投げ落とされた竜は,男の子を産んだ女を迫害した。 14 しかし,女は大きなワシの翼を与えられ,荒野にある自分の場所に飛んでいった。

 

蛇から離れたその場所で,一時と二時と半時の間養われることになる。

 

5 野獣には,大きなことや冒瀆的なことを語る口が与えられ,42カ月の間行動する権威が与えられた。

 

 6 そして野獣は口を開いて神を冒瀆した。神の名と住まい,天に住む者たちを冒瀆したのである。

 

このヨハネへの啓示12章の前後を読めば、1260日(三年半、当時は360日で計算)、42か月(三年半)、一時と二時と半時(三年半)

 

いずれも「三年半」です。

 

1260日はそのままの通り「1260日」です。

 

一時と二時と半時は、そのままの通り「三年半」です。

 

蛇と野獣が迫害する42か月(三年半)=一時と二時と半時(三年半)の期間を養われると聖書は明確に教えています。

 

文章力を学んだ小学生でも理解できるでしょう。

 

 

ですが、エホバの証人の説明は次の通りです。

 

「啓示 12章6節と14節を見ると,三時半が「千二百六十日」に相当することが分かります。ですから「七つの時」はその2倍,つまり2,520日間続くことになります。」

 

この説明は非常に荒唐無稽で、支離滅裂です。

 

どうして、こんな聖書解釈になるのか、わけがわかりません。

 

そのことを長老に言うと、動揺して、慌ただしく帰ろうとしました。

 

こちらは、まだ10分も経っていないし、続きの聖書箇所も知りたかったのですが、もう長老には無理のようでした。

 

どうせ「あれ、おかしいなぁ。前後を読めばまったく違いますよ。」ということの繰り返しになることを察知しているのでしょう。

 

 

それで、長老に「また来てください。エホバの証人はプロテスタント教会の教えとまったく同じで、聖書箇所の一部分だけ切り取って、都合のいい聖書箇所と組み合わせたり、旧約聖書の教えを組み合わせて、相当めちゃくちゃで支離滅裂な教えにしているのです。

 

私がきちんとした聖書の教えを教えますから。わからないところは聞いてください。」と言いました。

 

 

エホバの証人もそうですが、聖書の教えで、非常につまずくことはあり得ないことです。

 

聖書の教えを曲解しまくっているから、非常につまずくのです。

 

次回は、ハルマゲドンについて見ていきます。

 

つづく