「日本人と万人救済 生前にキリストを信じなくても救われる福音宣教 ⑥」
9月になっても35℃を超えて熱帯夜ということで、夏バテ対策を始めながらなんとか続きの記事を書いています。
さて、前回記事では、明治天皇が万人救済を教えている内村鑑三に講義を受けていて、その後、天皇家と宮内庁に深い影響を与えたという明治天皇のお孫さんの話を伝えました。
ここで「万人救済」と聞けば、プロテスタント教会では「異端」と思いますので、そのことについての聖書解釈と福音理解を解説していきたいと思います。
*
日本基督神学校の校長を務めたプロテスタント教会福音派の重鎮「堀越暢治」牧師は、著書「日本人の心とキリスト」の中で、どうして人間が地獄へ行くのかを聖書から次のように教えています。
「神道は人間の本性を善とみ、聖書は悪とみます。どちらの人間観に立つかによって、私たちの生き方や宗教の在り方に大きな影響を与えるので、このことは極めて大切なことです。
聖書が言うように人間の本性を性悪の立場(性悪説)をとれば、人間のいかなる努力も拒絶されてしまうことになります。聖書はすべての人を『失格者』としています。(全的堕落)」
また、主イエスは人間の心の中にあるものについて、次のように教えています。
『人から出るもの、これが、人を汚すのです。
内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、
これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。』(マルコ七・二〇ー二三)
このように、神道とキリスト教との人間観は全く正反対です。
神道は内は清い、外が汚れているといい、聖書は外を清めても内が汚れているというのです。」
引用以上
*
つまり、プロテスタント教会では、聖書の教えから、人間の本性を性悪の立場(性悪説)をとっています。
なので、すべての人間は、イエス・キリストを信じて義とされない限り、地獄へ行ってしまうという聖書解釈と福音理解になります。
それゆえ「神の義」とは、神は人間の罪を赦されないことです。
なので、生前にイエス・キリストを信じずに死んだ「罪人のままの人間」を悪魔とその使いのために用意された地獄に入れて、永遠に炎の中でもがき苦しめるということが「神の義」ということになります。
※
次に万人救済を教える無教会の内村鑑三先生の教えを見ていきます。
内村先生は、人間の本性は「性善」と「性悪」を併せ持つと教えています。
人間の本性に「性善」がなければ、どうして神の御子イエス・キリストが人間となられたのかを説明できませんから。ということです。
人間の本性は悪魔のような「性悪」だけではない、神のような「性善」があるという聖書解釈と福音理解です。
*
その、人間の本性は「性善」と「性悪」を併せ持つということと「性悪=全的堕落」についての聖書箇所を見ていきます。
「すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。『いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。』
イエスは答えられた。『わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。
しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。
わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。 わたしは彼らに永遠の命を与える。』
ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。
すると、イエスは言われた。『わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。』
ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒瀆したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。
(ヨハネによる福音書10章24~28、31~33節)」
*
ここで、二つのタイプの人間がいるとイエスさまは明確に教えています。
「わたしの羊」と「わたしの羊ではない」という二つのタイプです。
「わたしの羊」は神の御言葉を聞き分けることができます。
つまり「神は愛です。」「隣人を愛しなさい」という御言葉を受け入れることができます。
一方、「わたしの羊ではない」という人たちは、イエスを殺そうとします。
そのことについての詳細が次の御言葉です。
「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。『わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。』
すると、彼らは言った。『わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。』
イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。
あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。
だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。
わたしの言葉を受け入れないからである。
わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」
彼らが答えて、『わたしたちの父はアブラハムです』と言うと、イエスは言われた。『アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。
ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。
アブラハムはそんなことはしなかった。
あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。』
そこで彼らが、『わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です』と言うと、
イエスは言われた。『神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。
なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。
わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。
あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。
悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。
悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。
しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。
あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。
神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。』
(ヨハネによる福音書8章31~47節)」
*
ここでも二つのタイプがあります。
神の言葉を聞く「神に属する者」と、神の言葉を聞けず、悪魔の欲望を満たすために、イエスを殺そうとする「神に属していない者」です。
*
さらに、イエスさまは次の通りに詳細に教えられました。
「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。
蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。
人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。
善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。
言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。
あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」
(マタイによる福音書12章33~37節)
*
つまり、悪い人間(性悪=全的堕落)は、心に悪いものしかなく、悪いものを取り出してくるのが特徴です。
この教えは「蝮の子」と言われた律法学者とファリサイ派の人々に言われています。
*
そのことについての詳細が次の通りです。
イエスさまは言われました。
「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。
人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。
改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。
杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。
ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。
律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。
白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。
蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。
だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。
こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。
はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」
(マタイによる福音書23章13、15、25~28、33~36)
*
このように、イエスさまは、地獄の罰を免れない「性悪=全的堕落の人間」について詳細に教えられているのです。
あの使徒パウロは、イエス・キリストを信じる以前のサウロ時代は、まさに「性悪=全的堕落」の人間でした。
それが、イエスさまと出逢い、クリスチャンたちを脅迫し、殺害することに執念を燃やしていた人間が、劇的に善い人間へと変わったことが赤裸々に聖書に書かれています。
「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、 ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。
それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。
ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」
(使徒言行録9章1~5節)
※
さて、このイエスさまの教えを現在の日本人たちに照らし合わせると、どうでしょうか。
現在の日本人と、聖書のイエスさまが教える「イエスの羊ではない=神に属していない者=蝮の子」とは、本質的人間性がまるで違います。
中には同じ人たちがいるでしょう。その人たちは次の通りになります。
それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。
イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。
毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。
だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。 人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。
彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」(マタイによる福音書13章36~43)
*
この悪魔が蒔いた毒麦は「イエスの羊ではない=神に属していない者=蝮の子」であるので、聖書の神の御言葉を聞き入れることは出来ません。
光(神)を憎み、光(神)のほうには来ません。
行ないが悪く、闇のほうを愛したからです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。
光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。
悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。
しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(ヨハネによる福音書3章16~21節)
※
さて、聖書に書かれている「異邦人の神々」は、悪を行なわせ、欲望のままに罪を犯させました。
悪魔の欲望を満たす「人殺し」が大きな特徴です。
最も小さき者「幼子」を生贄として捧げました。
飢饉がくれば非常食として子どもたちを食べていました。
イスラエルの民も異邦人の神を崇拝すると、そのようになったことが旧約聖書に書かれています。
他にも若い女性などの人身供養や人柱が行われています。
日本もそうでした。
また、使徒パウロが異邦人の地で福音宣教していた時代は次の通りです。
諸君が見聞きしているとおり、あのパウロは『手で造ったものなどは神ではない』と言って、エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。
これでは、我々の仕事の評判が悪くなってしまうおそれがあるばかりでなく、
偉大な女神アルテミスの神殿もないがしろにされ、アジア州全体、全世界があがめるこの女神の御威光さえも失われてしまうだろう。」
これを聞いた人々はひどく腹を立て、「エフェソ人のアルテミスは偉い方」と叫びだした。(使徒言行録19章26~28)
*
このアジア州全体、全世界があがめるこの女神の正体が次の通りです。
「ユダの町々、エルサレムの巷で彼らがどのようなことをしているか、あなたには見えないのか。
子らは薪を集め、父は火を燃やし、女たちは粉を練り、
天の女王のために献げ物の菓子を作り、異教の神々に献げ物のぶどう酒を注いで、わたしを怒らせている。
(エレミヤ書 7章2~11、17~18節)」
*
イスラエルの神が怒っておられる理由は、イスラエルの民が、盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、 わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言っていたからです。
その異教の神々の元締めの存在が「天の女王」でした。
そして、天の女王を拝む人々は盗み、殺し、姦淫をして、偽って生きていました。
まさに使徒言行録のパウロの宣教時代のアジア州全体、全世界は、悪魔が支配して、悪霊に従っている状態だったのです。
※
そして、現在のアジア州全体、全世界の他の宗教はどうでしょう?
日本の他宗教はどうでしょう。
私の父親の実家は立派な「総持寺」があり、浄土真宗の檀家が多い町です。
私の父の実家も檀家です。
祖母の口癖が「おばあちゃんの親戚の中から一人も刑務所に行った人がいないことが、おばあちゃんの自慢やで。悪いことは絶対にしてはアカン」ということでした。
浄土真宗の教えはイエス・キリストの教えとよく似ているところがあります。
他にも儒教、神道、イスラム教、仏教など、罪を悔い改めに導いて、人間を善の正しい道に導くものだという印象を受けました。
2013年には、仏教の地獄の絵本がブームになった時、ウソ偽りなどの悪いことを悔い改める子どもが続出して、子どもの教育によいと流行になって児童書部門1位になったことがありました。
*
私がクリスチャンになって、性悪な人間が性善に変わったのではなく、クリスチャンになってもクリスチャンになる前と同じで、性悪と性善を併せもつという状態です。
その反対に、キリスト教会では、イエス・キリストを信じたから義とされて、どんな罪を犯しても赦されるということで、陰で、罪を犯しまくっているクリスチャンは少なくありません。
しかも、マスコミに暴かれ出した、神父や牧師、教会のリーダーたちの性的犯罪の多さに世界中が驚愕しています。
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。
(マタイによる福音書7章21節)」
☆
万人救済の教えは、現在のすべての人間は性悪と性善を併せもっていて、罪を悔い改めて、隣人を助けることができるので、キリスト教の教えでいえば、そのような人々は、イエス・キリストの十字架の贖いによって、すべての人は救われるということです。
つまり、性悪=全的堕落の人間(イエスの羊ではない=神に属していない者=蝮の子=罪を犯し続ける)については考慮していないということになるでしょう。
ここがプロテスタント教会の教えと大きく異なることになります。
※
よって、生前にイエス・キリストを信じないで死んでも、人間には良心があり、その良心はイエス・キリストの義と同じだと思われるのが、次の御言葉通りです。
「律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。
たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。
こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。
(ローマの信徒への手紙2章13~15節)」
☆
最後にこの御言葉に関連する内村鑑三の「神の義」の聖書解釈と福音理解を伝えます。
岩野祐介氏の論文「内村鑑三における愛と義の問題 」より引用します。
「人間は赦されて、自らの罪深さを改めて知ることになる。
人間は自らを完全にコントロールすることはできない、不完全な存在だからである。
ゆえに躓きを体験し、そしてその都度悔い改め神に頼る気持ちを起すのである。
そして、人間は罪深い自らを赦そうとする神の愛の偉大さを改めて思い知ることになり、それに応答せずにはいられないはずである、と内村は考える。
人間は神に似せられて造られたものであり、神への志向を持っているとされるからである。
そのような人間は、神から与えられた義、正しさを、人間世界の中でも現実化することにより、 神の愛の深さに報いることができるようになる。
そのように考えるとき、人間の義とは神の愛(義を含む愛)への応答であるとも考えられ、
またこのような人間に対する神の働きを愛と義とに区別・分割することの困難さもまた顕わになるのである。
「神の愛」という時に、その愛に既に義のはたらき、人間を神との正しい関係へと方向付け、
さらに人間世界で正しい振る舞いをさせようとする働きが含まれることになるからである。」
引用以上
次回へつづく
