「日本におけるキリスト教 117 イエス・キリストから見捨てられるクリスチャンたちについて」
使徒パウロは「福音を伝えるクリスチャンたち」とはどのような者であるべきかを、次のように具体的に教えています。
「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。
ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。
律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。
また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。
弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。
何とかして何人かでも救うためです。
福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。第一コリント9章19~23節」
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この教えは、世の中の常識から考えても「至極当然の教え」です。
世界を見ましても、日本の憲法や常識とは異なる国がいくつもあります。
北朝鮮では、金 正恩(第3代最高指導者・朝鮮労働党総書記)は神のような存在として、将軍様と崇拝しなければなりません。
もし批判の声をあげているのが通報されれば、捕らえられて消息不明になります。
しかし、日本や他国では金 正恩を軽蔑する人が多く、
「早急に拉致した人たちを返せ!」
「何億円もする弾道ミサイルを何十発も発射するのを直ちに中止して、そういう大金があるなら、北朝鮮の飢餓で苦しむ貧しい人々を救え!」という声を高らかにしている人も多いです。
それぞれの国があり、それぞれの国の教えは違うことがあり、それぞれに合わせて対応しなければ、理解することは不可能です。
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聖書を読めば、主イエス・キリストの教えもそうです。
イエスさまは12弟子を福音宣教に遣わされる時、次のように命じました。
「イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町に入ってはいけません。
イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。
行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。マタイの福音書10章5~7節」
この教えの大きな理由は、イスラエルのエルサレムにメシヤ(救世主)が来られると信じているイスラエルの民と、サマリヤにあるゲリジム山にメシヤ(救世主)が戻って来ることを信じているというサマリヤ人、
そして、メシヤ(救世主)がエルサレムに来るという話は聞いたことがないし、もし聞いたとしても他人事のように思う異邦人と、それぞれの違いがあるために、教える福音宣教が異なるからでした。
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イエスさまは、12弟子たちにはサマリヤ人の町に入るなと命じられましたが、単独で行かれて、サマリヤ人の女性に、サマリヤ人が受け入れられる福音宣教を成されました。
サマリヤ人の女性は言いました。「私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
イエスは彼女に言われた。「私の言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
救いはユダヤ人から出るものですから、あなたがたは知らないで礼拝しています。
しかし真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。ヨハネの福音書4章5~25節」
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ここで、イスラエルの民がメシヤ(救世主)を求める理由について、リゴニア・ミニストリーズがわかりやすく聖書から解説しているので、引用します。
「イスラエルの民がメシヤ(救世主)を求める理由は、彼らの歴史と宗教的な期待に深く根ざしています。以下のポイントが挙げられます:
① 預言者の予言:旧約聖書の預言者たちは、将来イスラエルを救う救世主が現れると予言しました。
これにより、イスラエルの民はメシヤの到来を待ち望むようになりました。
② 王としてのメシヤ:メシヤは「油を注がれた者」という意味で、特に王を指す言葉です。
イスラエルの民は、ダビデ王の血筋から出る王が再び現れ、彼らを統治し、平和と正義をもたらすと信じています。
③ 救済と回復:メシヤはイスラエルの民を敵から救い、彼らの国を回復し、神の約束を成就する存在とされています。
特に、ローマ帝国の支配下にあった時代には、この期待が強まりました。
④ 宗教的儀式と信仰:クムラン共同体などの一部のユダヤ教徒は、メシヤが祭司的な役割を果たし、宗教的儀式や律法を完全に守る存在であると期待していました。
これらの理由から、イスラエルの民はメシヤの到来を強く求め続けています。」
引用以上
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このように、聖書の時代においても、イスラエルの民はメシヤ(救世主)の到来を強く求め続けていました。
ですから、地上に到来したメシヤ(救世主)が、イエス・キリストであるか、そうではないかという問題は、イスラエルの民にとっては人生において最も重要で、最も大切な問題でした。
前回記事で紹介した御言葉もそのことを痛感します。
「そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。
『民の議員、また長老の方々、 今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人に対する善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、 あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。
この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。
この方こそ、『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石』です。
ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」 (使徒言行録 4章8~12節)」
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まず使徒ペテロは、「主イエス・キリストを殺した人々もイスラエルの民全体も知っていただきたい」と具体的に名指ししてから教えています。
主イエス・キリストは偽メシヤ(救世主)だと決めつけて殺した人々とイスラエルの民全体に対して、次のように教えることが福音宣教の真髄でした。
「主イエス・キリストこそ、イスラエルの民全体が待ち望んでいたメシヤ(救世主)であり、他にメシヤ(救世主)はいません。
わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」
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そして、当然ながら、聖書の使徒たち、クリスチャンたちは、異邦人やサマリヤ人に対しては、この教えをするはずがありませんでした。
異邦人たちは、メシヤ(救世主)がイスラエルのエルサレムに到来する話など知らないし、聞いたとしても「へぇ~」「それが何か?」という感じになるでしょう。
現在の日本でも同じです。
誰かに「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名「イエス・キリスト」のほか、人間には与えられていないのです。」ということを教えられても、理解することはできません。
なぜなら、メシヤ(救世主)がエルサレムに到来することを待ち望んでいないからです。
そもそもイスラエルの民全体とは違い、
「メシヤ(救世主)って何や?」ということです。
「メシヤより飯しや!」と言う人も少なくないでしょう。
メシヤ(救世主)よりも、飯し(ごはん)を食べることのほうが大切だと思います。
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ですから聖書は前述のこの御言葉を明確に教えているのです。
ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。
律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。
また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。
弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。
何とかして何人かでも救うためです。
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ですからメシヤ(救世主)のエルサレム到来を待ち望んでいるイスラエルの民全体と、メシヤ(救世主)を待ち望んでいない現在の日本人に対する福音宣教はまるで違うことがあるのです。
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一致することの福音宣教の真髄は「神は愛」「隣人を愛しなさい」「互いに愛し合いなさい」という「愛」の教えです。
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そして、この御言葉に逆らって、現在の日本で、メシヤ(救世主)を待ち望んでいない人々に対して、
「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。
イエス・キリストを信じる以外に救いはない!」と教えることは、非常に恐ろしいことになります。
イエスさまの来臨時に「わたしから離れて行け!」と言われる大勢のクリスチャンの1人になるかもしれません。
そのことが聖書に明確に教えられています。
次はその事について詳細に見ていきます。