「日本におけるキリスト教 103 神の言葉はすべて純粋。曲解すれば自分自身に滅びを招きます。」
私自身もそうでしたが、既成のキリスト教会に所属しているクリスチャンたちが「イエス・キリストを信じない人々は地獄行き」という教えを信じ込まされてしまう大きな理由が次のことだと思います。
「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。ヨハネの福音書3章36節」を中心にして、
「御子を信じたクリスチャン」とは、永遠のいのちを得ていて、聖霊が内住している者です。
「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか」(1コリ3:16)
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか」 (1コリント6:19)。
エペソ人への手紙3章6、14~21節
3:6 それは、異邦人が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。
3:17 また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、
3:19 また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように
まだありますが、このように、人がイエス・キリストを信じてクリスチャンになるということは、イエス・キリストを信じていない人とはまったく違う人間に変えられているのです。
なので、聖霊が内住して、キリストが心のうちに住むクリスチャンになれば永遠の命を得て天国へ行きます。
しかし、クリスチャンではない未信者は、聖霊が内住しておらず、キリストも心のうちにいないので、天国にはいけない。つまり、地獄へ行ってしまうと思います。
さらに、イエス・キリストを信じればすべての罪は赦されるが、イエス・キリストを信じなければすべての罪は赦されないので、罪を持ったままでは天国に行くことは出来ない。つまり、地獄に行くのです。という教会の牧師の教えを信じるのです。
※
さて、聖書には次のように教えています。
「 神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾。
神のことばにつけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように。箴言30章5~6節」
「無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。
愛する人たち。そういうわけですから、このことをあらかじめ知っておいて、よく気をつけ、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことにならないようにしなさい。第二ペテロ3章16~17節」
「それは何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。
なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神のことばを語ったのだからです。第二ペテロ1章20~21節」
「だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけます。
しかし、御霊に逆らう冒瀆は赦されません。
また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。
しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。(マタイによる福音書12章31〜32)」
「しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。
わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。
またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。(ヨハネによる福音書10章26~28節)」
まだまだありますが、この辺りにしておきます。
*
しかしながら、どうでしょう。
現在、「ライフライン」というクリスチャン番組が長年において地上波でテレビ放映されていますが、牧師たちのメッセージで一致しているのは「イエス・キリストを信じない人々は滅びに向かっている」という教えです。
これは「地獄へ行く」というよりも、「滅びに向かっている」という表現が受け入れられやすいという判断だと思われます。
だけど、聖書には「イエス・キリストを信じない人々は滅びに向かっている」という教えはどこにも書いてありません。
そして、聖書の教えを曲解する者たちが滅びを招いていると明確に教えています。
「無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」
*
また、聖書で、イエスさまが地獄行きについて教えられている聖書箇所を確認すると、イエス・キリストを信じない人々に対して教えているのではなく、
聖霊に逆らうことを言うファリサイ派の人(パリサイ人)たちや、弟子や信じてつき従ってきた群衆の中にいる聖霊に逆らう悪魔から出た者(毒麦)に対して教えておられます。
なので、聖霊が内住して、キリストが心のうちに住むクリスチャンであれば、
「イエス・キリストを信じない人々は地獄へ行く」または「イエス・キリストを信じない人々は滅びに向かっている」というような、イエス・キリストは無慈悲で冷酷非道な神と思わせる教えを信じるはずがないはずです。
ところが、クリスチャンたちは、聖書のイエスさまの教えではなく、教会の牧師が教えることを信じているのです。
※
また、前々回から繰り返しますが、再臨についての聖書箇所を読めば、次のように教えています。
「主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たち(使徒パウロたち)が」
「次に、生き残っている私たち(使徒パウロたち)が、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。」
「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」
「それで大祭司はイエスに言った。『私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。』
イエスは彼に言われた。『あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。』
すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。『神への冒瀆だ。これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、今、神をけがすことばを聞いたのです。どう考えますか。』
彼らは答えて、『彼は死刑に当たる』と言った。
そうして、彼らはイエスの顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエスを平手で打って、こう言った。『当ててみろ。キリスト。あなたを打ったのはだれか。』
*
この再臨についての預言の御言葉を知れば、使徒パウロたちは主イエスの再臨まで生き残っていて、先に死んだ信仰者たちといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主イエスを会われたのは素晴らしい!と感動します。
それは聖書を読むと、使徒パウロたちが、それだけの神の御計らい、恩恵みを受けるのは当然だと思うからです。
また、弟子たちの中でも、主イエスが御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいたのも素晴らしい!と感動しました。
ちなみに使徒ペテロと使徒ヨハネの最後を預言されています。
「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」
これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。こうお話になってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか」と言った者である。
ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」
イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」
そこで、その弟子は死なないという話が兄弟たちの間に行き渡った。(ヨハネの福音書21章18~23節)」
このイエスさまの預言の御言葉から、使徒ペテロは殉教するけれど、使徒ヨハネは主イエスの再臨まで生き残っていたと思われます。
そして、主イエス(聖霊)を議会で冒瀆した大祭司カヤパ、律法学者、長老たちは、主イエスの再臨を目撃して、
「あのイエス・キリストの言ったことは真実だった!私たちのほうが神を冒瀆していたのだ!」と叫んで、恐れおののいたことを信じます。
※
ところが、教会の牧師たちは、「主イエスの再臨はこれからです。」と教えているのです。
つまり、こういうことになります。
「主イエスの再臨はまだです。なので、使徒パウロも、使徒ヨハネたちも、大祭司カヤパ、律法学者、長老たちも、主の再臨を見ることはなかったのです。
それから約2000年経った現在の私たちが主イエスの再臨を体験することになるのです。
だから、使徒パウロたちではなく、現在のクリスチャンたちが、先に死んだ信仰者たちといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主イエスと会うのです。」
つまり、教会の牧師たちの教えと、聖書のイエスさまと使徒パウロの教えはまるで違いますが、クリスチャンたちは教会の牧師たちの教えを信じています。
それだけでなく、聖書を読めば、教会の牧師たちの教えとはまるで違うことが少なくありません。
そこで、クリスチャンたちは、聖書の教えと、教会の牧師たちの教えを天秤にかけると、教会の牧師たちの教えを信じているのが実態です。
それゆえ、「聖書の教えは矛盾が多い」という声をよく聞くのは当然でしょう。
◇
さて、イエス・キリストを信じていない人々は、イエス・キリストの教えをよく知らないので、恣意的に聖書の御言葉を曲解することはないし、聖霊に逆らうということもよく知らないでしょう。
しかしながら、「聖霊が内住して、キリストが心のうちに住む」というイエス・キリストを信じて牧師になった人たち、クリスチャンたちは、恣意的に聖書の御言葉を曲解することと、聖霊に逆らうことについてもよく知っているはずです。
なぜなら、イエス・キリストを信じているということは、聖霊が内住して、キリストが心のうちに住むということなのですから。
それでいながら、聖書の教えと教会の牧師たちの教えがまるで違うことが少なくないのです。
さらに大きく違うことがいくつもあります。
また、イエスさまの預言の御言葉や、ヨハネの黙示録など、預言の御言葉に私的解釈を施すことは日常茶飯事に行なわれています。
そして、聖書の教えよりも、教会の牧師たちの教えを信じている現実があるのです。
※
それゆえ、既成のキリスト教会に所属するイエス・キリストを信じている人々(クリスチャン)と、イエス・キリストを信じていない人々について、神さまの御心は、どういうことになるでしょうか?
ただ、既成のキリスト教会に所属する牧師や指導者、クリスチャンたちは、何年も何十年も、多くの人々に教え続けてきた、これまで通りの聖書解釈と福音理解を続けることしかできないでしょう。
今更、変更すれば、今までの教えは間違っていたのか!という大問題に発展して、牧師の威厳と権威は失墜してしまいますから。
*
しかし、イエス・キリストを信じていない人々は、聖書の教えを純粋に受け入れて、曲解せず、私的解釈を施さず、そのまま信じる聖書解釈と福音理解ができる可能性があります。
その聖霊の風は吹いています。
例えば、聖書の御言葉は長年にわたり、拡散され続けているので、聖書の御言葉とは知らないうちに「この教えは素晴らしいね!」と受け入れられていることが、いくつもあります。
「神は耐えられない試練を与えない」
「神は愛です」
「右の頬を殴られたら、左の頬を向けなさい」
などなど
また、日本人は、結婚式をキリスト教会式で挙げるカップルが多いので、第一コリント13章の愛を教える御言葉などの教えが心に残っているという人も少なくありません。
そして特筆すべきは「イエス・キリストを信じない人々は」ということではなく、「御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」と明確に教えられていることです。
長くなったので、次回へ続く