「日本におけるキリスト教 86 黙示録の最後の審判で地獄へ行く者たちについて」 | ルーク4のブログ

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「日本におけるキリスト教 86 黙示録の最後の審判で地獄へ行く者たちについて」

 

前回の続きです。前回は、最後の審判において、永遠の命にあずかる者と、永遠の火に投げ込まれる者についてイエスさま御自身の教えを見ていきました。おさらいをします。

 

まずは「永遠の命にあずかる者たち」についてです。

 

世界という畑に、イエスさまが良い種を蒔きます。良い種は御国の子たちで「正しい人たち」と言われています。

「正しい人たち」は、世の終わりの最後の審判では、イエスさまの父の国で太陽のように輝きます。

 

「天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」と言われて、永遠の命にあずかるのです。

この「正しい人たち」の特徴は、最も小さい者たちの1人が助けを必要としている時に助けてあげることです。

 

 

次は「永遠の火に投げ込まれる者たち」についてです。

 

世界という畑に、悪魔が毒麦を蒔きます。毒麦は悪い者の子らです。

世の終わりの最後の審判では、悪い者(悪魔)の子たちが集められて、永遠の罰を受けて、火で焼かれます。

 

その呪われた者どもは、イエスさまから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入るのです。

悪い者(悪魔)の子たちの特徴は、最も小さい者たちの1人が助けを必要としている時に見捨てることです。

 

 

聖書には「最後の審判」については、「ヨハネの黙示録」でも教えていますので、イエスさま御自身の教えと一致しているか見ていきます。

 

「地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。ヨハネの黙示録13章8節」

 

「また、別の第三の天使も続いて来て、大声でこう言った。「だれでも、獣とその像を拝み、額や手にこの獣の刻印を受ける者があれば、

 

その者自身も、神の怒りの杯に混ぜものなしに注がれた、神の怒りのぶどう酒を飲むことになり、また、聖なる天使たちと小羊の前で、火と硫黄で苦しめられることになる。

 

その苦しみの煙は、世々限りなく立ち上り、獣とその像を拝む者たち、また、だれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も安らぐことはない。ヨハネの黙示録14章9~11節」

 

「あなたが見た獣は以前はいたが、今はいない。やがて底なしの淵から上って来るが、ついには滅びてしまう。

 

地上に住む者で、天地創造の時から命の書にその名が記されていない者たちは、以前いて今はいないこの獣が、やがて来るのを見て驚くであろう。 ヨハネの黙示録17章8節」

 

「わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。

 

死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。 海は、その中にいた死者を外に出した。

 

死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。 死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。

 

その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。ヨハネの黙示録20章12~15節」

 

 

イエスさま御自身の教えでは、永遠の命にあずかったイエスさまがこの世界に蒔かれた「正しい人たち」は

「天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」と言われました。

 

「正しい人たち」は、イエスさまが蒔かれたので「天地創造の時から」と教えられたのは至極当然です。

 

そして、「ヨハネの黙示録」では、悪魔が蒔いた「悪い者(悪魔)の子たち」について、次のように教えています。

 

「地上に住む者で、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう。」

 

この教えも、悪魔が蒔いたのだから「天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝む」と教えるのは至極当然であり、イエスさまの教えと一致しています。

 

まとめますと、こうなります。

 

悪魔が蒔いた悪い者(悪魔)の子たちは、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちです。それゆえ獣を拝みます。

 

なので、最後の審判では、悪い者(悪魔)の子たちは皆、火の池に投げ込まれるのです。

 

 

それから、イエスさまは次のように教えられました。

 

「毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。

 

人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。

 

彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

 

ここだけの教えでは、天使たちは問答無用で粛々と、毒麦である悪い者(悪魔)の子たちを集めて、火の地獄に投げ込むように思います。

 

ですが、ヨハネの黙示録では、さらに詳細に教えています。

 

別の第三の天使も続いて来て、「だれでも、獣とその像を拝み、額や手にこの獣の刻印を受ける者があれば、 神の怒りのぶどう酒を飲むことになり、また、聖なる天使たちと小羊の前で、火と硫黄で苦しめられることになる。」と、大声で警告し、必死で救おうとします。

 

ところが、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、「救いの声」を聞いても信じることができず、悪魔に聞き従い、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に投げ込まれるのです。

 

 

こうして、聖書に書かれている最後の審判の教え「イエスさま御自身の教えとヨハネの黙示録の教え」を見てみると、永遠の火に投げ込まれる(永遠の火の地獄に行く)のは、悪魔が蒔いた悪い者(悪魔)の子たちであり、天地創造の時から、屠られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちということがわかります。

 

 

それなのに、永遠の火に投げ込まれる(永遠の火の地獄に行く)のは、「イエス・キリストを信じない人たち」にすり替えてしまえば、

 

聖書の教えが荒唐無稽で、支離滅裂で、矛盾だらけで、意味の分からない、かなり幼稚で、粗悪な教えとなってしまいます。

 

まず、世界の人々は皆、「悪魔が蒔いた悪い者(悪魔)の子たち」となります。

 

その「悪魔が蒔いた悪い者(悪魔)の子たち」がイエス・キリストを信じると救われるという教えになるのです。

 

そして、イエスさまが蒔いた「良い種(正しい人たち)」は、「この世界にいない」という教えになります。

 

 

すると、「イエス・キリストを信じない人々は救われるのか!」と猛反発するクリスチャンは大勢いるでしょう。

 

その事についても、聖書はきちんと教えているのです。

 

もしも、イエスさまが地上におられる時代において、ユダヤ人全員がイエス・キリストを信じれば、イエスさまが十字架で殺されることはありませんでした。

 

イエスさまの十字架上での死と復活は、大いなる神の御心であり、御計画です。

 

その事について、これからの記事で書いていきます。

 

気になる方のために、そのうちの1つの聖書箇所を紹介しておきます。

 

「このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。

 

預言者イザヤの言葉が実現するためであった。彼はこう言っている。

「主よ、だれがわたしたちの知らせを信じましたか。

主の御腕は、だれに示されましたか。」

 

彼らが信じることができなかった理由を、イザヤはまた次のように言っている。

「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。

 

こうして、彼らは目で見ることなく、心で悟らず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」

 

イザヤは、イエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである。 とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ヨハネによる福音書12章37~42節」

 

 

このように、預言者イザヤの預言で、彼らが信じることができなかった理由を「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。」と教えているのです。

 

それは現代にも当てはまります。

 

自分の意志ではなく、神の御計画によって、神を信じることができない人々も大勢いるということです。

 

そのような人々が、永遠の火に投げ込まれることは絶対にありません。

 

他の聖書箇所を見ていけば、そのことが確信していくでしょう。

 

次回からも、その事についての聖書箇所を見ていきながら、最後の審判では「義人」ではなく「正しい人たち」であり、その「正しい人たち」は罪を犯すことなど、様々な疑問を聖書箇所から見ていきます。

 

すると、すべてのイエスさまの教えは「神は愛」という普遍的な神の愛の聖書解釈と福音理解のクリスチャンになるでしょう。