「日本におけるキリスト教 89 聖書の教えは、人の死の体験で、天国か地獄に行く人がわかります。 | ルーク4のブログ

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「日本におけるキリスト教 89 聖書の教えは、人の死を体験した時によって、天国に行く人と地獄に行く人との明確な違いがわかります」

 

今回の内容は、ここ最近の投稿記事で伝えていることが更に読解力がある「小学生」でもかなり理解するようになると思います。

 

「聖書」は、天国に行く人たちと地獄に行く人たちとの明確な違いを要所に教えられています。

 

その中でも最も分かりやすい聖書箇所を見ていきます。

その前にもう一度、天国に行く人と地獄に行く人についてです。

 

「イエスはお答えになった。『良い種を蒔く者は人の子、 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。

毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。

 

人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。

彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。

 

そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。』マタイによる福音書13章37~43節」

 

 

このように、聖書は、人間には2つのタイプがあり、1つは、イエス・キリスト(人の子)が蒔く種である正しい人々で、御国(天国)で太陽のように輝きます。

 

もう1つは、悪魔が蒔いた悪い者(悪魔)の子たちで、燃え盛る炉に投げ込まれると教えます。

 

当然に、正しい人々と悪い者(悪魔)の子たちはまるで違う性質・人間性です。その事は非常に重要ですので、聖書は要所に教えているのです。

 

その中で、最もわかりやすい教えが「人の死」を体験した時です。

 

 

まずは正しい人々の「人の死」を体験した時についての性質・人間性を見ていきます。

 

「イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。

 

主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。 そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。

 

イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。

すると、死人は起き上がってものを言い始めた。

 

イエスは息子をその母親にお返しになった。

 

人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。

 

イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。ルカによる福音書7章12~17節」

 

 

私自身もこの聖書箇所は何度読んでも感動します。

 

イエス・キリストは、死んだ息子を生き返らせて、母親にお返しになったことで、人々は神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。 という教えは

 

「神さまと人間って、ものすごく素晴らしい」と感動します。

 

人々は、自分の息子ではなく、他人の息子が死んだことを深く悲しんで、心を痛めています。

 

しかし、神さまが生き返らせてくださったことで、神を賛美して、歓喜に満ちます。

 

そのような人々が神を愛し、隣人を愛する人々であり、最も小さき者の1人が助けを必要としている時に、救いの手を差し伸べる人々であることがわかります。

 

 

次は、その事をさらに明確にさせてから、悪い者(悪魔)の子たちの性質・人間性を教えている聖書箇所を見ていきます。

 

イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。

 

イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。

人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。

 

しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」

 

こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

 

マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

 

しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。

 

そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。

「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」

 

この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。ヨハネによる福音書39~53節」

 

 

この聖書箇所では特に、正しい人々と悪い者(悪魔)の子たちとの違いが明確に理解できます。

 

イエスさまは、「父よ。わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。

わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」と言われて、死んだラザロを生き返らせました。

 

そして、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じました。

 

人々はラザロの死に深く悲しんで、心を痛めていました。

しかし、神さまが来られて、生き返らせてくださったのです。

 

イエスさまがなさったことを目撃した多くのユダヤ人たちは、イエス・キリストを信じました。

 

 

しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいたのです。

 

そして、「このままにしておけば、皆がイエス・キリストを神だと信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」という理由で、イエス・キリストを殺そうと計画します。

 

死んだ人たちを生き返らせてくださり、多くの人々の嘆き悲しみを喜びへと変えてくださる「主イエス・キリスト」を殺そうとするのは、なんて無慈悲で冷酷非道な者たちであることがわかります。

 

 

このように、「人の死」を体験している時の人々が、イエスさまが生き返らせてくださった時に、

 

正しい人々は、神を賛美し、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言い、喜びに満ちて、イエス・キリストを信じました。

 

そして、悪い者(悪魔)の子たちは、イエス・キリストを殺そうと計画するという無慈悲で冷酷非道な者どもです。

 

ですから、この悪い者(悪魔)の子たちは、神を憎み、人々も憎んでいることがわかります。

 

当然ながら、最も小さき者の1人が助けを求めている時に、見捨てるのです。

 

 

さて、現在の日本人は、世界中の人々はどちらでしょうか?

 

他人の死を悲しみ、心を痛めて、もしも神が生き返らせてくださるなら、喜びに満ち、そのような神を賛美して、信じるようになる人ならば、

 

その人々は聖書で教えられている「正しい人たち」になります。

 

そして、他人の死を喜び、生き返らせてくださる神を憎み、その神の御業に喜んでいる人々も憎み、その神を殺したいと思う人々は「悪い者(悪魔)の子たち」になるでしょう。

 

聖書が教えていることを、そのまま信じれば、そうなります。

 

 

そして、すべての人の罪を背負って、十字架上で死なれ、三日後によみがえられるという「主イエス・キリストの十字架の贖い」を成し遂げられるには、殺そうとする悪い者(悪魔)の子たちによってではなく、正しい人々によるものでなければなりませんでした。

 

イザヤが預言したように「神は彼らの目を見えなくし、その心をかたくなにされた。」

 

 

それから異邦人の救いのためにも、神は、イスラエルのユダヤ人の中から、神を信じさせないようにされたことが教えられています。

 

「また、では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。

 

「神は、彼らに鈍い心、見えない目、聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」と書いてあるとおりです。

 

ダビデもまた言っています。

「彼らの食卓は、自分たちの罠となり、網となるように。

つまずきとなり、罰となるように。

彼らの目はくらんで見えなくなるように。

彼らの背をいつも曲げておいてください。」

 

では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。

 

かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。

 

彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。ローマ人への手紙11章7~12節」

 

 

ですから、「正しい人たち」の中でも、神が、神を信じさせないように、彼らに鈍い心、見えない目、聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで。と教えられているので、

 

正しい人々の「救い」においては、イエス・キリストを信じるとか信じないとかは「救いに関係がない」ことがわかります。

 

 

また、悪い者(悪魔)の子たちが救われるには、イエス・キリストを信じる以外に救いはないこともわかります。

 

悪い者(悪魔)の子たちは、イエスの羊に属していないために、信じることは出来ないと教えられていますし、ファリサイ派の人(パリサイ人)は地獄の刑罰を逃れることができないと教えられましたが、パウロやニコデモのようにファリサイ派の人の中でも信じる人がいたとも教えられています。

 

長くなったので、次回へ続く