「日本におけるキリスト教 88 この世の悪魔の策略に基づく聖書解釈と福音理解について」
現在、世界の状況は増々混沌としてきました。
特にロシアのウクライナ侵攻とイスラエルのガザ全域への攻撃は、尋常ではない異常すぎる事態です。
この状況は、いよいよ「荒らす憎むべきもの」が、イスラエルの聖なる所に立つ道が備えられてきた状況だとも思えます。
イエスさまは、この世の終わりについてこのように教えられました。「それゆえ、預言者ダニエルによって語られたあの『荒らす憎むべき者』が、聖なる所に立つのを見たならば、(読者はよく読み取るように。)マタイ24:15」
これは旧約聖書に教えられたダニエルの預言のことだと言われています。「彼は一週の間、多くの者と固い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせ、荒らす憎むべき者が翼に現れる。ついに定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。ダニエル9:27」
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その事についての詳細が次のように教えられています。
「だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。
彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。Ⅱテサロニケ2:3~4」
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しかし、この悪魔の計画は「聖書」で具体的に明らかにされているために、聖書の教えを知っている人々はだまされることはないはずです。
これから先に、イスラエルの聖なるところに立ち、神の宮の中に座を設け「自分こそ神である」と宣言する者が「悪魔が遣わした滅びの子であり、憎むべき者であり、偽キリストであり、反キリスト」だと理解します。
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なので、悪魔は策略を立てます。
憎むべき滅びの子が「自分こそ神のキリストである」と宣言するためには、聖書に書かれているイエス・キリストを悪魔のように思わせなければなりません。
しかし「聖書」の教えがある限り、完全にイエス・キリストを悪魔のようにでっち上げることは不可能です。
けれど「聖書」の聖書解釈と福音理解によって、イエス・キリストを無慈悲で冷酷非道な悪魔のような側面があることを信じさせることは可能です。
それは、誰の心の中にもある善の面と悪の面が、神の御子であるイエス・キリストにもあるという教えです。
ちょうど、イエス・キリスト御自身が何度も、永遠の火に投げ込むことを教えているので、その教えを悪用できます。
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人が生きて行くうえにおいて、すべてにおいて善の面と悪の面があります。
結婚するのも、結婚相手の善のところに惹かれて「良い」と思ったから結婚する人が多いと思います。
ところが、悪の面に耐えられなければ、離婚したり、夫婦間は冷めてしまいます。
また、職場においても良い条件だと思ったので就職希望をして、面接をして受かれば入社します。
ところが、悪いところに耐えられなければ「辞めたい」と思ったり、退職します。
友達関係も同じです。「良い」と思ったので友達になりますが、「悪い」ところに耐えられなければ、縁を切ります。
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しかも、良いところが10や20あったとしても、たった1つ悪すぎるところがあれば、関係が終わってしまうケースも多いです。
例えば、たくさんの好印象を持ち、結婚相手にいいな~と考えていた女性が、ある日、意地悪な面を目撃した時は、気持ちが冷めてしまい「こんな女性と結婚したくないな」と思う時もあります。
テレビやインタビュー記事などで、たくさんの好印象を持っていた大好きなアイドル歌手が、もしも、不祥事を起こしたスクープが報道されれば、そのスクープ記事を見た瞬間に、今まで大好きだった気持ちが吹き飛んで、嫌いになるケースもあります。
たとえ、100や200の好印象を持っていても、たった1つの悪すぎるところを知れば、その多くの好印象が吹き飛ばされることが多々あるのです。
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それと同じく、もしも「神」の教えに「善の面」と「悪の面」があるとすれば、悪い面の教えに耐えられずに、「こんな神は本当の神ではない!」と信じません。
この日本は、イエス・キリストを信じる人は約1%弱という極端に少ない国です。
なので、「イエス・キリストを信じない人々は、神の怒りがその上にとどまり、滅びに向かっていて、そのまま死ねば地獄へ行く」という教えを聞けば、
聖書に書かれているイエス・キリストのたくさんの素晴らしい愛の教えと行ないは吹き飛ばされてしまいます。
そして「イエス・キリストを信じないという理由」で永遠の火に投げ込むという教えは、信じられないほど無慈悲で冷酷非道な神さまだと思います。
イエス・キリストは、素晴らしすぎる愛の教えがたくさんある「善い面」もあるけれど、まるで悪魔のような教えの「悪すぎる面」があれば、そのような神を信じることは非常に困難です。
日本であれば、約99%がイエス・キリストを信じない人々だという状況も納得できます。
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そして、これから先に、悪魔が遣わした憎むべき者が、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言して、大きなしるしや不思議な奇跡を起こすと、多くの人々がその憎むべき者を本当の神キリストだと信じるようになる可能性が高まります。
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さて、どうしてクリスチャンの多くは「イエス・キリストを信じる者は永遠の命にあずかり、イエス・キリストを信じない者は永遠の火に投げ込まれる」ということを信じるのか?
それには悪魔がもたらす巧妙な策略の聖書解釈と福音理解があります。
例えば、この聖書箇所があります。
「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。
しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、 罪から解放され、義に仕えるようになりました。
あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。
あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。 では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。
あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。
罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。ローマ人への手紙6章19~23節」
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この聖書箇所を読めば、「罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらか」ということです。」
そして、イエス・キリストを信じた者は、罪から解放されて、神に従順に仕える奴隷となって義に至る者です。
それから、イエス・キリストを信じない者は、罪に仕える奴隷となって死に至る者になります。
つまり、この教えから「イエス・キリストを信じる人々は永遠の命にあずかる者で、イエス・キリストを信じない人々は永遠の火に投げ込まれる者」という教えにもなるのです。
すると、イエス・キリストは、イエス・キリストを信じない人々にとって無慈悲で冷酷非道な神であると言うことになります。
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ところが、そのような教えは、イエス・キリスト御自身が繰り返して教えられた本当に大切な次の御言葉を非常に巧妙にまったく違う教えに変えているのです。
「イエスはお答えになった。『良い種を蒔く者は人の子、 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。
毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。
人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。
彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。
そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。』マタイによる福音書13章37~43節」
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そして、この大切な教えに基づいて、ローマ人への手紙6章の「つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。 」という教えを解釈すれば、
現在の日本のイエス・キリストを信じない人々と、罪に仕える奴隷の人々とはまったく違うことがわかります。
「罪に仕える奴隷」の者たちは、まさに罪に仕える者たちであり、このような者たちのことだと、イエスさま御自身が明確に教えられています。
「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。
蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。
人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。
善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。マタイによる福音書12章33~35節」
「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。 木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。ルカによる福音書6章43~44節」
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ですから、聖書の教えは、「神」は、悪魔が蒔いた毒麦である悪い者(悪魔)の子たちにとっては「100%無慈悲で冷酷非道な神」になりますが、
イエスさまが蒔いた良い種の正しい者たちにとっては「100%愛の神さま」なのです。
すると、イエス・キリストは無慈悲で冷酷非道な神ではないことが理解できます。
なので、その事について、一つずつ、詳しく聖書の教えを見ていく記事を書いているのです。
長くなったので、次回へ続く