「日本におけるキリスト教 83 聖書を正しく読むために最も重要なことについて」
世界のもはや常識として「5W」の教えがあります。
ビジネス界では、5W1H/5W2Hで情報を伝達すると、必要事項を漏れなく伝えることができるため、業務指示や報告書作成の際等に活用されます。
メディア エンタープライズが発信する記事の中では次のように教えます。
「いまさら5W2Hかよっ!」と思われた方もいるかもしれません。
5W2Hは、状況や事実をもれなく、端的に伝える方法として有効な考え方ですが、問題を過不足なく分解する場合にも、とても有効な切り口になるのです。
5W2Hは、いまさら説明の必要もないですが、Why、When、Where、Who、What、How、How Muchの頭文字をとったものです。
状況や事実を「何のために」「いつ」「どこで」「誰が」「何を」「どのように」「いくらで」……という問いかけに答えることで、整理し、モレのない記述ができます。」
引用以上
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また、子供たちへの教育においても「5W」はものすごく重要になっています。
いつでも、どこでも、ママに寄り添う情報を「ママスタ セレクト」が発信する記事の中に次のような記事がありました。
「物事の説明が苦手な小3のわが子。どうすれば会話が上手になるの?」
会話が苦手な子どもにどうやって言葉を教える?
「いつ、どこで、誰が」という会話の柱を意識するように話す。
小6の娘もいきなり「楽しかった」と言うから、こっちは「はい?」となる。「誰とどこで何をして楽しかったのかがわかるように言わないと、相手に伝わらない」と娘には言っています』
自分の頭の中では状況が整理されていても、いざ会話となると「誰が」や「どこで」など肝心な部分が抜けてしまうことがあります。
子どもと会話するときは、Who(誰が)、When(いつ)、Where(どこで)、What(何を)、Why(なぜ)、How(どのように)を明確にして話をするようにさせたいですね。これらを意識していけば、使う言葉も増え、相手にも状況が伝わりやすくなって、会話が続くようになるかもしれません。」
引用以上
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聖書も同じです。小学生でも理解できるように、これ以上ないほど親切丁寧に「5W」によって教えられています。
マタイによる福音書から、イエスさまが福音宣教を開始されたところを見てみましょう。
「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。
そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。
人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。
こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」
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この聖書箇所を読めば、イエス・キリストは、イスラエルのガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から来た大勢の群衆に教えられました。
その大勢の群衆は「ユダヤ人」です。
そのイエスに従ったイスラエルのユダヤ人たちには「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」という非常に厳しい教えをされています。
また「火の地獄に投げ込まれる。」という非常に恐ろしい教えもされたのです。
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そして、イエスさまは福音宣教を弟子たちと始められる時に、きちんとユダヤ人、サマリヤ人、異邦人と区別されています。
「イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。
『異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。』マタイによる福音書10章5~6節」
つまり、イスラエルのユダヤ人と、サマリヤ人、異邦人に教えることが違うことがあるからです。
その違いも聖書は明確に教えています。
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イスラエルのユダヤ人に教えていることで、サマリヤ人と異邦人に教えていないことについて、直ぐにわかったことがあります。
それは、イスラエルのユダヤ人たちと弟子たちには何度も「神の怒り」&「火の地獄に投げ込まれる」という教えがありましたが、
サマリヤ人と異邦人に対しては「神の怒り」&「火の地獄に投げ込まれる」という教えがまったく無かったのです。
念には念を入れて、何度も何度も聖書を調べましたが、サマリヤ人と異邦人に対しては「神の怒り」と「火の地獄に投げ込まれる」という教えは一切ありませんでした。
異邦人については、パウロの福音宣教がメインになります。
パウロは一度も異邦人に対しては「神の怒り」&「火の地獄に投げ込まれる」という教えを一切していないのです。
けれど、パウロもイエスさま同様に、ユダヤ人に対しては非常に厳しく警告しています。
ローマ書にはユダヤ人たちに対して、次のように厳しく警告しています。
「あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。
あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。 」
「ところで、あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、 その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています。
また、律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であると自負しています。
それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。 「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか
あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。
この怒りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう。 あなたは律法を誇りとしながら、律法を破って神を侮っている。
「あなたたちのせいで、神の名は異邦人の中で汚されている」と書いてあるとおりです。 」
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パウロは使徒の働き18章のコリントでの宣教において、ユダヤ人に対して次のように見捨てる発言をしています。
「 そして、シラスとテモテがマケドニヤから下って来ると、パウロはみことばを教えることに専念し、イエスがキリストであることを、ユダヤ人たちにはっきりと宣言した。
しかし、彼らが反抗して暴言を吐いたので、パウロは着物を振り払って、「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ。私には責任がない。今から私は異邦人のほうに行く」と言った。」
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このパウロがユダヤ人たちに言った「あなたがたの血は、あなたがたの頭上にふりかかれ」という理由がマタイによる福音書27章に次のように詳細に教えています。
「ピラトは言った、「それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか」。彼らはいっせいに「十字架につけよ」と言った。
しかし、ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。
すると彼らはいっそう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。
ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。
すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。
そこで、ピラトはバラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。」
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「イエス・キリストを十字架につけて殺せ!その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」と叫んだユダヤ人たちには、神の御怒りがその上にとどまったことが第一テサロニケ2章15~16節に明確に教えられています。
「ユダヤ人たちは主イエスと預言者たちとを殺し、わたしたちを迫害し、神を喜ばせず、すべての人に逆らい、
わたしたちが異邦人に救の言を語るのを妨げて、絶えず自分の罪を満たしている。そこで、神の怒りは最も激しく彼らに臨むに至ったのである。」
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そして、サマリヤ人と異邦人たちは、主イエスと預言者たちとを殺し、わたしたちを迫害し、神を喜ばせず、すべての人に逆らっているユダヤ人たちとは無関係です。
当然に、当時のユダヤ人たちのような恐ろしいことをしていない「サマリヤ人と異邦人」たちには、神の御怒りがあるはずがありません。
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今度は、イエスさまの来臨による「最期の審判」の聖書箇所を見てみましょう。
マタイによる福音書25章に最期の審判のことが次のように教えられています。
『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」
この教えは、誰に教えているかというと、24章3節から始まっています。
「イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」
つまり、イエスさまは、来臨による最期の審判についての教えを弟子たちだけに教えられているのです。
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その続きは次の通りです。
「イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。 「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」
そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、 計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。」
それから、弟子の一人が裏切ります。
「そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。
そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。 そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」
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これらの聖書の教えでわかることは、当時のイエス・キリストを信じていないユダヤ人たちは、悪魔から出た者で、イエスを殺そうとする悪魔に聞き従っているのです。
その事についても、聖書は明確に教えているのです。
聖書は5W Where(どこで)Who(誰が)What(何を)
Why(なぜ)いつ ということを明確に教えています。
ユダヤ人に対して、サマリヤ人に対して、異邦人に対して、それぞれ教えが違うことがあります。
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もしも、「その当時のイエスを殺したユダヤ人たちと現在の日本人たちに対しての教えは同じ」として教えているとすれば、ものすごく荒唐無稽で、支離滅裂で、相当めちゃくちゃ激しく意味の解らない教えになります。
小学生たちにも失笑されて「ちゃんと5Wを学ぼうね」と言われてしまうでしょう。
それから、約99%になる日本人のイエス・キリストを信じていない人々の上に神の御怒りがその上にとどまり、滅びに向かっていて、そのまま死ねば地獄へ行くという非常に恐ろしい教えとなって、
「イエス・キリストは、なんて無慈悲で冷酷非道な神なんだ」と、神の名は日本人の中で汚されてしまいます。
長くなったので、次回へ続く