■ことば(毎日新聞)
1941年12月8日、日本軍は真珠湾攻撃の直後にアメリカの植民地だったフィリピンを攻撃し、翌年1月に首都マニラを占領。軍政下に置いた。奪還を狙う米軍は44年10月に上陸作戦を開始。米軍の激しい攻撃に加え、フィリピン人抗日ゲリラの抵抗もあり、日本軍は壊滅状態となった。51万8000人の日本人が亡くなり、戦渦に巻き込まれたフィリピン人の死者は100万人を超えるとされる。サンフランシスコ講和条約を経て52年から戦後賠償の交渉が始まり、56年7月に賠償協定が発効。国交を回復した。
【鳥巣注】
「あなたは、フィリピン戦の事をどれだけ知っていますか?」
正直、私も断片的な知識しかありませんでした。1970年代ーー私は20歳代の頃にミャンマー(当時ビルマ)に数か月滞在して太平洋戦争当時の模様の一部を知りました。この体験は、私の人生観に大きな影響を及ぼしています。
その時にタイ、マレーシアも訪れたのですが、フィリピンまで足を伸ばす事はありませんでした。歴史に学ぶ事はいつの時代にも行っていく必要があると思われます。とにかく人間は、何事も失敗から学びます。
【鳥巣注②】
ただ歴史も奥深いので用心深く検証していく必要があります。当時フィリピンは、アメリカの植民地。日本軍から駆逐された米軍ですが、1944年ーー終戦の前年の昭和19年ーーになると反攻作戦を計画。松村劭著『世界全戦争史』(H&I)によると、米軍は7月にハワイで今後の作戦会議を開いています。ニミッツ提督は「台湾またはシナ大陸」へ侵攻する案を推奨。これに対してマッカーサーは「フィリピン侵攻」を主張。ルーズヴェルト大統領はマッカーサーに同意しますが、理由は「植民地の独立運動を嫌ったからであった」と松村氏の調査結果ではそう記述されています。
欧米列強の覇権への執着ぶりもなかなかのものです。
【鳥巣注③】
フィリピンをアメリカが植民地化した際のいきさつは、”力ずく”みたいなストーリーです。
<米西戦争(1898年にアメリカとスペインとの間で起こった戦争)の最中に独立を果たしたのもつかの間、1898年のパリ条約によりフィリピンの統治権がスペインからアメリカに譲渡された。1899年1月21日にフィリピン共和国がフィリピン人によって建国された。
フィリピン共和国の建国を認めないアメリカによる植民地化にフィリピンは猛烈に抵抗したが、米比戦争で60万人のフィリピン人がアメリカ軍により無残に虐殺され、抵抗が鎮圧される。
1901年にアギナルドが米軍に逮捕されて第一共和国は崩壊し、フィリピンは旧スペイン植民地のグアム、プエルトリコと共にアメリカの主権の下に置かれ、過酷な植民地支配を受けることとなった。>(参考資料ウィキペディア)
ですから太平洋戦争のフィリピンの戦いでは、
<フィリピン市民は必ずしもすべてが対日武装勢力に与したというわけではなく、日本が1943年10月14日に独立政府(ホセ・ラウレル政権)を設立するなどフィリピン宣撫工作により親日派の市民たちも存在した。
彼等はマカピリと呼ばれる武装組織を作り、抗日ゲリラを討伐したり、中には日本軍とともに敵陣に突入していく部隊もあった。なお、これらの親日派武装勢力の約5600名は戦後に特赦され、軍事裁判に問われないものとされた。>(ウィキペディア)
という事実もあるようです。
16世紀にスペインに植民地化され、次いでアメリカに植民地化され、太平洋戦争では日米激突の戦場になる。屈辱的で過酷な歴史を背負いながらも、なおかつ「許し」を選択できるフィリピン民族とはーー。