鳥巣清典の時事コラム1561「あなたはフィリピンの『許しの精神』の事をどれだけ知っていますか?」 | 絶対に受けたい授業「国家財政破綻」

鳥巣清典の時事コラム1561「あなたはフィリピンの『許しの精神』の事をどれだけ知っていますか?」

 両陛下のフィリピン訪問を機に、「フィリピンの犠牲者100万人」や「フィリピン残留日本人」の事が改めてクローズアップされています。
 『報道ステーション』(テレビ朝日)でも、「フィリピン戦」を取り上げました。

「報道ステーション」の画像検索結果

<ーー先の大戦中フィリピンでは100万人以上が犠牲になったとされている。国籍を問わず犠牲者を慰霊したいとお考えの両陛下。「この戦争においては貴国の国内において日米両国間の熾烈な戦闘が行われ、この事により貴国の多くの人が命を失い傷つきました。この事は、私ども日本人が決して忘れてはならない事であり、この度の訪問においても私どもはこの事を深く心に置き、旅の日々を過ごすつもりでおります」。(中略)

古館(司会)
 真っ先に「フィリピンの無辜の(むこの=罪のない)市民の多くの方々が犠牲になって」というふうに語られました。その天皇陛下が強いお気持ちの源流とは何なのか。私も本当に遅ればせながら、そこをしっかりと立ち止まって考えないといけないと痛感する。今の日本で、先の大戦でのフィリピン戦をどれだけ知っていますか」ーー。

 文字にしてしまえば、たった2文字の「戦争」。その戦争で多くの日本人、アメリカ人が亡くなりました。そしてフイリピンの人は、100万を超える、あるいは110万人もの犠牲者が出たともいわれます。当然フイリピンには日本に対する憎しみというものがありました。さあ、その後フィリピンは、日本に対する憎しみがどう変わっていったのか。それを知る必要がある訳です。

 --今から54年前、皇太子としてフィリピンを初訪問された陛下。戦争の犠牲者の家族との交流を重ね友好の出発点となった。しかし終戦からの道のりは平たんなものではなかった。

宮本正二(94歳。元BC級戦犯)
 向こうの言葉で「バタイ、バタイ(殺せ、殺せ)」と言うんですがね。フィリピン人は、(「万歳、万歳」と叫ぶ日本人を見て)いい気味だと思って見てたんでしょうな。

ーー捕虜に向けられた憎しみの目を未だに忘れられないという。

ーーフィリピン人は100万人余りが犠牲になったとされる。戦場で巻き添えになっただけでなく、飢えによる犠牲者も少なくなかった。もともと食糧に乏しいフィリピンで日本軍が地元の人たちから食糧を奪い取ったからだ。飢えへの憎しみは、全土で抗日ゲリラを生んだ。そしてゲリラの疑いをかけられた人は、日本兵によって容赦なく殺されていった。
 終戦直後の日本人への眼差しは敵意に満ちていた。宮本さんはフィリピン人の殺害に関わったとして終戦後戦犯として起訴された。判決は死刑。憎しみには憎しみで返すのか。宮本さんはモンテンルパの刑務所でその時を待った。(中略)
 終戦から8年後、宮本さんは無事日本に帰れる事になった。当時の
エルピディオ・キリノ大統領が特赦を決断したからだ。(中略)

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 1945年2月9日マニラ市での激しい市街戦の最中、キリノは目の前で妻子4人を日本の狙撃兵に殺されていた。キリノ大統領が出した声明。「私は妻と3人の子ども、5人の親族を殺された者として日本人を許す最後のひとりとなるだろう」。
 キリノの決断をうながした背景には、日本国内から寄せられた無数の嘆願書の存在があった。そこには、戦争への反省とフィリピン国民への謝罪が綴られていた。(中略)
 日本との未来を選択したキリノ。許しの精神は歴代の大統領にも受け継がれ、反日感情はしだいに和らいでいった。こうした歴史をどれだけの日本人が知っているだろうか。

古館
 ショーンさん。これを見ていますと改めてこういうフィリピン戦の現実で何があったのか。そしてマニラ市街戦。もっともっと学校で繰り返し教えるべきではないかと強く思います。
ショーン・マクアードル川上(経営コンサルタント)
 私もドキュメンタリー番組で、フィリピンの兵站部隊として送られた93歳のお話を聞いた事があります。

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 やっぱり戦争というものは非常識なものである。今考えてみれば、バカげた事をやってしまう。やがて、それがへっちゃらになってしまう。そういう事を涙ながらにしゃべられた事を思い出します。(中略)
 あと、最近の天皇・皇后両陛下の慰霊の旅を拝見しておりますと、歴史の風化によってこそ起こってくる悲劇の教訓というものをしっかり私たち考えなければいけませんよという。私は個人的には焦りにも似た強い御意志を強く感じるんです。サイパン、パラオに行ってらっしゃってもそうです。戦禍にあった場所で戦没者そして犠牲になった方々に54年ぶりに行ってくるのは大変な事だと思います。そういう当時の傷跡にも向き合いながらも、そして今日現在の両国の国交の正常化をお慶びになられているお姿を見て、じゃ我々は何を考えるべきか。そういう事を特に考えさせられる、ここ数年ですね」

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NHKニュースでは、「在留日本人」を取り上げた。

 1、アベリナ・アンガ・モリさん(82歳)。父親が日本人だと訴えてきたが、親子のつながりを示す証拠が戦争で全て失われたため日本の国籍の取得が認められていない。父親が幼い頃に歌ってくれた唄は忘れることはない。「モモタロウハァ・・」。唄を教えてくれた父親は戦禍がミンダナオ島に及ぶと召集された。
 終戦はモリさんが12歳のとき。父親は還らず、その後の消息も分からない。母親も終戦直後に病死。モリさんは3人の兄弟とともに虎児になった。さらにモリさんを苦しめたのが、戦後の強い反日感情。自分が日本人の子どもだと周囲に知られないように人里離れ隠れるように暮らさざるを得なかった。
 自分は日本人だと信じて生きてきた森さん。戦後70年が経った今も日本の国籍を取得したいと願っている。
2、長年国籍が認められずにいた在留日本人。転機が訪れたのは、終戦から50年後。外務省の委託を受けたNPОと現地の日系人会が在留日本人の調査を開始。去年までの調査で、在留日本人とみなされる人は少なくとも3500人余りに上る事が分かった。その4分の1に当たるおよそ900人は、モリさんのように親が日本人である証拠を示す事ができず未だに日本の国籍が認められていない。
3、カルロス寺岡さん。自らも残留日本人で1人でも多くの人が日本人と認められるよう現地での調査に中心となって取り組んできた。「みんな同じ同胞です。同じように戦争を体験した犠牲者です。この人たちを助ける必要があります」。「しかし71年も経ちました。未だにまだ残っている。日本の政府が動いてくれないと、もう時間は無いと思います」。
 寺岡さんは、天皇・皇后両陛下との懇談に臨む事になっている。残留日本人に目を向けてくれた事への感謝の気持ちを伝えたいとしています。

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 ■ことば(毎日新聞)

太平洋戦争とフィリピン

 1941年12月8日、日本軍は真珠湾攻撃の直後にアメリカの植民地だったフィリピンを攻撃し、翌年1月に首都マニラを占領。軍政下に置いた。奪還を狙う米軍は44年10月に上陸作戦を開始。米軍の激しい攻撃に加え、フィリピン人抗日ゲリラの抵抗もあり、日本軍は壊滅状態となった。51万8000人の日本人が亡くなり、戦渦に巻き込まれたフィリピン人の死者は100万人を超えるとされる。サンフランシスコ講和条約を経て52年から戦後賠償の交渉が始まり、56年7月に賠償協定が発効。国交を回復した。

【鳥巣注】

「あなたは、フィリピン戦の事をどれだけ知っていますか?」
 正直、私も断片的な知識しかありませんでした。1970年代ーー私は20歳代の頃にミャンマー(当時ビルマ)に数か月滞在して太平洋戦争当時の模様の一部を知りました。この体験は、私の人生観に大きな影響を及ぼしています。
 その時にタイ、マレーシアも訪れたのですが、フィリピンまで足を伸ばす事はありませんでした。歴史に学ぶ事はいつの時代にも行っていく必要があると思われます。とにかく人間は、何事も失敗から学びます。

【鳥巣注②】
 
 ただ歴史も奥深いので用心深く検証していく必要があります。当時フィリピンは、アメリカの植民地。日本軍から駆逐された米軍ですが、1944年ーー終戦の前年の昭和19年ーーになると反攻作戦を計画。松村劭著『世界全戦争史』(H&I)によると、米軍は7月にハワイで今後の作戦会議を開いています。ニミッツ提督は「台湾またはシナ大陸」へ侵攻する案を推奨。これに対してマッカーサーは「フィリピン侵攻」を主張。ルーズヴェルト大統領はマッカーサーに同意しますが、理由は「植民地の独立運動を嫌ったからであった」と松村氏の調査結果ではそう記述されています。
 欧米列強の覇権への執着ぶりもなかなかのものです。

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【鳥巣注③】

 フィリピンをアメリカが植民地化した際のいきさつは、”力ずく”みたいなストーリーです。

米西戦争(1898年にアメリカとスペインとの間で起こった戦争)の最中に独立を果たしたのもつかの間、1898年のパリ条約によりフィリピンの統治権がスペインからアメリカに譲渡された。1899年1月21日フィリピン共和国がフィリピン人によって建国された。

 フィリピン共和国の建国を認めないアメリカによる植民地化にフィリピンは猛烈に抵抗したが、
米比戦争で60万人のフィリピン人がアメリカ軍により無残に虐殺され、抵抗が鎮圧される。

 1901年にアギナルドが米軍に逮捕されて第一共和国は崩壊し、フィリピンは旧スペイン植民地のグアムプエルトリコと共にアメリカの主権の下に置かれ、過酷な植民地支配を受けることとなった。>(参考資料ウィキペディア)

 ですから太平洋戦争のフィリピンの戦いでは、
フィリピン市民は必ずしもすべてが対日武装勢力に与したというわけではなく、日本が1943年10月14日に独立政府(ホセ・ラウレル政権)を設立するなどフィリピン宣撫工作により親日派の市民たちも存在した。

 彼等は
マカピリと呼ばれる武装組織を作り、抗日ゲリラを討伐したり、中には日本軍とともに敵陣に突入していく部隊もあった。なお、これらの親日派武装勢力の約5600名は戦後に特赦され、軍事裁判に問われないものとされた。>(ウィキペディア)
 という事実もあるようです。

 16世紀にスペインに植民地化され、次いでアメリカに植民地化され、太平洋戦争では日米激突の戦場になる。屈辱的で過酷な歴史を背負いながらも、なおかつ「許し」を選択できるフィリピン民族とはーー。