週末が晴れたときはなぜか嬉しい。出かける予定がないときは家に籠っているのだが、自主的に出かけようという気分になる。結果として出不精な気持ちが勝ってしまい、出かけないのだが。ポジティブな精神が生まれることに、未来に少し希望が持てる。歴史を振り返ってみても、暗黒時代の中にはいつも白い光がある。同じ時代が永遠に続くことはなく、白い光がひっくり返すことになっている。何年かかるか解らないが、出不精な気持ちをひっくり返す時がくるのだと希望に思う。100年もかかったら、私はもういないけれど。

 

 最近うまくいった料理は白身魚の酒蒸しである。簡単な調理で料亭の気分がそれなりに味わえる。アルコールは日本酒がいい。単品で呑むのも好きなのだが、料理に併せて呑むのも気分が向上する。しかし、私が住んでる周辺エリアには魚屋がなく、買いに行くには出不精な精神と戦わなければならない。仮に戦いに勝って鮮魚を仕入れにいったとして、週末の交通渋滞と市場の人だかりに体力を消耗して、やる気がなくなってしまうだろう。だから、、、このように考えさせられるのが出不精の弁論なのだと分析している。誰か釣れたての魚を土産に、遊びに来てくれないかなどと非現実な期待をいだいている。

文章に出力すれば、買い物に出かけられるかと期待したが、経過時間と比例して気持ちは萎えてゆく。今日は美容院の予約を入れているから、行かねばならない。魚屋も予約をいれておけば出かけられるのだが、料理したいものはその時の気分で移り変わりやすいもので、予約を入れて縛られるのは嫌だ。

 

 書斎のデスクの上には、ルービックキューブが置いてある。借りてきた新しいCDを聴きながら、手持ち無沙汰に久しぶりに触ってみるのだが、まず1面をそろえるのがすごく時間がかかる。次に2面めを挑戦しようとするのだが、やる気はなくなってしまっている。集中力と脳をつかったからだ、この程度で疲れてしまう脳に現状と将来に不安を感じてしまう。過去に”脳トレ”というブームがあったのだが、一過性の流行だったと思い返す。脳も筋肉と同じで使わなければ劣化してゆくだけである。みんなそのことにはきづいているのだが、トレーニングは続かない。楽を選択して転がらないストイックな人は存在している。トレーニングが続く期間も人それぞれなので、比べるものではないことも知っている。やはり自分の敵は自分なのだと思う。

 他人に迷惑をかけないように生きようと思っている。毎日を振り返ってみて迷惑をかけていない日はない、なので自嘲しない日はない。迷惑は大きいとか小さいとかの問題ではないと思っている、感情を波立たせるのは嫌だから自己中心をピックアップしたニュースには出来るだけ視線を合わせないようにしている。不条理なニュースがなくならないのは、大衆がそれを求めているからなのだろう。観た自分はまだ大丈夫だと慰めている人が多いのかもしれない。油断をするとすぐに比較してしまう。他人と比べることは意味がないと思いたいが、比較する自分は言い訳しつづける。比べた結果に優越感を探しているのだろう、そこに無い事はうすうす気随ている。

 

 先日から胃腸の調子が良くないので朝食をしじみ汁にしている。しじみは島根県のものが好きなのだが、私の住んでいるエリアでは簡単に買えなく高価である。成分に偽りがないことを祈ってインスタントのシジミ汁を毎日のんでいる。味噌をお湯で溶かしたものなのだが具材はワカメ一枚である。飲むと体中に染み渡るように流れて内臓が回復していくように感じる。朝食はしじみ汁だけで質素なのだが不満はない。先ほどよんだエッセイにも一汁一菜のことが取り上げられていた。私のしらない巷で流行しているのかもしれない。古い映画の裏話でベテラン映画監督が新人女優を”しじみ”と呼んでいたそうで、理由は台詞が小さく聞こえないから。たしかにアサリやハマグリと比べると凄く小さいが、場所が変わればヒーローである。

 

 自宅にあるプリンターが調子が悪く、ストレスになっているので買いなおしを検討している。現在使用している家庭用プリンターはコピーもついている複合機なのでなくなると不便である。写真を印刷することはほとんどないので画質にこだわりはない。ネットで安い機種を探していたのだが、どの機種も本体はすごく安いと感じる。問題はインクの価格がすごく高いことである。インク代でもうけるメーカの戦略に買い替えたい気持ちが少し鈍り、商品をしらべるほどに自分の時間を消費して、予算金額は膨らんでいく。近所のコンビニを利用すれば1枚当たりのコピーコストは安い。それでも自宅でコピーできる便利性を知ってしまった出不精の私は、何倍ものコストを選択してしまう。買う決心がついたころに現存のプリンターは元気に動き出す。不思議な現象である。

動くなら買い替えを見送ろうと、ネットショッピングのカートを空にする。

 

 

 

 能の鑑賞に行ってきた。以前から興味がある世界だったのだが、観る機会がなくそれほど意欲もなく、自分の周りにあるものだけを消費してきた。呑み仲間との席で招待券を無料でもらうことがあり、ここぞとばかりに鑑賞してきた。それなりにインプットされることはあるのだが、台詞が難しすぎて全然理解できない。スマホと連動する字幕サービスもあったのだが、舞台に集中したかったので使用しなかった。そしてプログラムは野外で3時間、派手な動きや壮大な音楽はなく現代の大衆娯楽に漬かりきっている私にはしんどさを感じる。演目の途中で退出しだす人達も多数おり、自分ひとりだけがしんどいと感じているわけではないのだろう。ステージ上の贅肉をそぎ落としたかのようなミニマルさを感じたのだが、能に浸っているファンの人達の感想は違うのだろう。

 

 ヨーロッパのオペラ文化に憧れをもっており、映画のワンシーンに出てくるたびに憧れた思いを繰り返している。ナイフホークがある食卓や演劇を観に行く生活に優雅さをイメージしている。場所は違えども自分の好きな食事と舞台芸術の鑑賞がある生活を実践してみて、優雅さはまだ感じていない。真似をしているだけで自分の生活ではないからなのだろう。物まねを卒業して本質になったときに優雅さを感じれるのかもしれない、その時は優雅さを感じるという目的もないのだろうと思う。

労働者層の自分が資本家層に憧れているのだ、階層の概念があるうちは優雅という気持ちにはなれないのだろう。自分の目標は自足することである、その一環として文章へのアウトプットがあるのだろう。これだけでは全然足りないからもっと活動しなければならない。

 

 胸やけが酷い。薬は嫌いなのでなるべく呑みたくないが、このところは胃腸薬のお世話になっている。原因は暴飲暴食であると気付いている。絶食して眠ればいいのだが、アルコールに依存している私は時間があれば絶えず呑んでいる。呑むことはやめられないので、食べ物を改善しようと考えてネットで検索してみる。胃腸に優しい食べ物は、容易に想像がつくのだがあらたな知識もある。香辛料は全般駄目なようだが、昨日スパイスカレーをつくったところである。

腐敗していれば捨てるのだが、食べられる状態のものを捨てる選択肢はもっていない。今日も胸やけを我慢しながらカレーを食べる。

 

  近代の性犯罪について研究結果をまとめられた本を読む。外国の話なのだがなかなか感情を波立てされられる。

何時の時代も弱者が辛いめにあっていることに憤怒する。私は自分の意見を言うことができるし行動も自由であることに負い目を感じてしまう。別の書籍でも描かれていたが、誰かの助けが本当に必要な被害者は見えないところに居るのだ。

 

 週末によくカレーを作る。スパイスカレーというルーを使わないものである。酒の肴としては少し微妙な位置であり、ビールくらいしか合わせるものが思いつかない。それでもなぜ作るのか、材料の組み合わせやスパイスの種類の多さが男性心を刺激させるのかも知れない。大まかな工程は毎回同じなのだが味に再現性はない。配合や材料の記録は残さない、誰かに食べてもらうために作っているわけではないので評価は都度得らない、アルコールで脳が麻痺した自分の味覚と記憶だけなので評価はない。作る量が少ないのか作り置きストックにもならない。カレー作りに向上心はなく誰かに食べさたい想いもない。ただ作りたいから作るだけだが暇つぶしではない。世の中に暇な人はいないと思っている。玉ねぎを炒めてどろどろのペーストになった時に喜びを感じていることに気づく。カレーを作った日は次の日まで胸が焼け続ける。作る量が大衆的に少なくても自分にとっては量が多いのだろう。胸やけの原因は食べ過ぎだときずいているが改善は行わない。カレールーを使った他人のカレーを食べたときにも胸は焼ける。これは食べ過ぎではなくて小麦粉のせいだと思っている。小麦粉を避けているわけではないが、天ぷらも串揚げも胸が焼ける原因は小麦粉だと思い込んでいる。他人には油が原因だと言われるかもしれないが油をかばいたいのだと思う。何か悪者をつくらなければならない、その結果が小麦粉なのだと思う。そんな小麦粉も別のジャンルに行けばヒーロになっている。人間の作っている社会も同じようになぞられる、または人間が思うから同じようにイメージしているのかもしれない。

それぞれに適した場所はあるのだろう、私にもあるのかもしれないと夢を見るのは自由である。

 クラゲに関する本を読んだ、ただ浮いているだけではなくて流れの中で活動しているのだそうだ。水の流れがないと死んでしまうらしい。意識があるのかは解らないけれど、同じ動きをしている個体はいないそうだ。昆虫好きな人が言っていたけど、どんなに小さくても全く同じ個体はいないから面白いのだと、桜の木はクローンなのでどんなに華やかでも面白くないのだと。すごく関心してしまった。他人の意見に納得できるようになったのは少し大人になったのだと思っている。

 今週はまるまる嗅覚がなかった。現在も進行中なので記録は更新中である。

連休中は基本的に家の中で過ごした。嗅覚がないと食に関する楽しみがなくなり、食欲もなくなるのだが、常に何かを口に何かを入れたい欲望があり体重は増加している。消化するエネルギーが最小限なので、理にかなった増加である。

 

 音楽イベントに一日出場する。素人バンドが多数出演するフェス的なイベントであり、久しぶりのホールの舞台では気分も高まった。学生バンドも出演しており、若くして大きなホールで演奏できる充実感と技術に羨ましさを感じてしまう。けれど嫉妬心になることはなく、他人事のように微笑ましく見過ごすだけで個人を認識することなく過ぎさってゆく。関わることもなく自分が若返ることもなく、無関係でいられるからだろうと思う。会場では顔見知りには出会うのだが、お互い他人には興味がなく挨拶程度だと感じる。際立った人がいるわけでもないので、他人の演奏には興味がないのはお互い本音なのだと思う。この世界において、私は熱心ではないのだろうと自己評価をしてしまう。

イベント終了後は呑みに行くつもりだったのだが、相変わらず嗅覚が無くなていること、荷物の重さ、新しスニーカからの痛みと疲れ、睡眠不足、嗅覚喪失にプラスされて、自分の今の服装、アクセサリー、外観全てが一斉にネガティブに乗りかかり、まっすぐに帰宅する選択となった。

体と精神が疲れているのが、理由の大半を占めるのだろうが、やはり自分の外観が気に入らないというのが背中を押しているような気がする。今回のイベントでは貸衣裳や服装コードが厳しくあるわけではなく、自分で選択して参加しているのに結果しっくりこない。自分のファッションが気にいらなければやはりテンションは上がらないのだろう。クローゼットに黒いドレスシャツのラインナップを増やそうと思った。(この日の服装コードは上下黒、ステージ用のバンドのジャケットであった)

 

 プライベートではドレスシャツを着るようにしている。自分が素敵だと思ったハリウッド俳優をリスペクトしている。生地のパターンは出来る限り花柄を選択している。これは単純に花柄のパターンに美しさを感じての結果である。私の生活圏内において、男性で花柄のシャツニーズはすくない。大半は無地またはチェックパターン止まりである。少数であるが、柄パターンを見かけることはある。あまり良い印象には私の目には映っていない。私もまた同じように見られているのだと思う。自分だけは似合っているなどの自尊心が持てなくて、シンプルに戻そうと考えた事は何度もあるのだが、そのたびに知人の外国人の意見が思い浮かんでくる。日本国以外では、他人が評価してファッションを決めるのではなくて、みんな自分がやりたいファッションをしているらしい。何度思い返しても見習いたい考え方だと思っている。

 

 

 

 昨日から引き続き体調がすぐれない。嗅覚が一切ないことに絶望を感じている。

予定は入れていないから睡眠時間には余裕がある。家の中にいるだけでは食料が減っていくだけなので買い出しに出かける。連休のせいか平日でも交通量が多く、冷静なときは回避するような渋滞する道路を選んでしまう。酒屋で味をしらない日本酒を4種類仕入れたのだが、嗅覚が復活してからのお楽しみと試飲もせずに眠らせる。未来が楽しみだと思える種を植える。食材屋では、タンパク質が足りていないと思い鶏肉と豚肉を大量に買い込む。嗅覚がないのでカフェには寄らず。

 

 1980年代の外国アニメを友人と見たのだが、友人はつまらないと集中力が途切れる。私はそんなに悪い作品ではないと感じた。人によって受け取り方は様々であると感じる場面であった。人間の辿ってきた歴史を動物に置き換えて、時代は繰り返されることを表現した救いのない作品であった。内容はシンプルで装飾のない無垢なもの。現在の映画はもっと工夫をこなさないと、消費者に受けない難しさがあるのだと勝手に妄想する。悪役に豚を起用していて、すぐに映画に影響される私は豚に悪意を感じて豚肉をむさぼり食べる。何も解決されないが、明日になればそんな気持ちも

豚肉を食べた記憶も薄れてしまうのだろう。

 

 1970年代の外国の映画を深夜に観る。電話が線で繋がっていることに時代を感じる。以前から観ようとおもっていた作品で数年越しにやっと見ることができた。あらすじやキャストスタッフの情報は何もなくて、ジャケットだけで選択した作品なのだが、深夜の間接照明で観る映画には絶妙な作品であった。映画は観た環境が左右すると考えている。映画館なら話は別なのかもしれないが、自宅で好きな時に望む作品を観るときは時間と環境に評価は影響されると思う。作品の感想として私は満足したのだが、私の周りは真逆の評価をするのだろうと勝手に妄想する。私が特別なのではなくて、十人十色の価値観の結果だと思う。主人公はどの場面でもアルコールを呑みつづけて、歯科医の麻酔治療のあともアルコールを呑み続ける。クールに呑むのではなく、ぐでぐででカッコよさは一切ないのだが。

これも映画に影響される私は、体調不良も関係なくワインを呑み続ける。嗅覚はないのでワインを100%味わうことは出来なくても、酔いたいわけでもなく呑み続ける。

映画は一つの言い訳みたいなもので、何をしていても呑んでいるのだと思う。

 

 過去の作品は、その時代を描写していて小道具一つ見逃したくないくらい情報量は多いと思う。

 

 

 

 体調不良でベッドで過ごす時間が一日の大半を占める。

GWの連休は映画を観て過ごそうと予定していたが、体調をくずして半分ベッドの上である。もともと家の外にでるつもりもなくて、アルコールと肴に浸るつもりが水とベッドである。目覚めたときに映画をアルコールなしに観る。映画の出来はアルコールの有無に左右されることはなく、自分が厳選した作品は外れることなく私を魅了する。観たい映画は星の数ほどある、自分の体力と気力の問題でどれだけ裁けるかであり、観たいものが底を尽きることはないと思う。

素晴らしい作品にであったときは、自分が病気で弱っていても心は躍る。古い作品はネットの世界にいくらでもレビューがあって、みんな好き放題語っている。今回きずいたのが、他人のレビューには救いのない作品と評価されていて採点が低いのである。私は同じ作品をみて救いがある作品であると感じて採点は高い。人によってとらえ方は幾らでもあって、どう感じるかは自分冥利につきるのだと感じる。自分の解釈は間違っているかもしれないが、消費者のレビューは真に受けるものではなくて参考にするものである。

 

 体調不良で一番つらいのが味覚が無くなることである。疲労は寝てしまえば回復するのだが、味覚が回復するのは時間がかかる。今の価値観における味覚は重要なものであり、奪った者が何者であってもゆるせないのである。憎しみは持ちたくないのにネガティブな空想は次々に湧いてくる。体が弱ったことで、自制心も緩んでいるのだろうと感じるのは逃げなのだろうか?振り返れば、何時も弱いものだけに強いのである。人や物の上に立つことは、何も生まない生産性のないものであると思っている。そのためにも自分に対しても強くありたい。自分の敵は自分なのだとつくづく思う。

体調がすぐれないときは、アルコールがすぐに体中に廻る。血行がいいのだろうと思うようにしている。

 

 書斎の音響を少し触る。スピーカの位置を変えただけで映画の臨場感は抜群によくなった。何事も考えてしないといけない例である。自分ひとりで完結することは極力手を抜いている。考えるリソースをできるだけ省きたいのだ。面倒くさいことと考えたくないことは表裏一体だと思う。面倒くさいを選択した結果に、満足できるのであればそれでいいと思う。バランスは常に一定ではなくて、崩れた時に苦しむのは自分ひとりである。苦しみたくないから思考が働くのであって、考える現実からは何時までも逃げられないのである。今日はもう1本映画を観ようと思う。

 

 

 攻撃的な人が嫌いだ。

ふと気づいた時に自分が攻撃的な人になっているときがある。攻撃されるのが嫌で攻撃的になっている時と、自分以外を見下して傲慢になっている時がある。自分が嫌いな人になってしまうのは避けたいので意識しないといけない。傲慢なのは絶対に避けたい。傲慢な気分を客観的にみると、他人に対して偉そうにしていているのだが、中身は小さく非常に弱い存在である。世の中にいる偉そうな人は、ほとんどの場合がこんな中身なのだろうと思う。偉そうにさせている思考を変えることができれば改善できると考えている。日常の生活の中でどれだけのシーンで偉そうにしているのだろうか?数を数えようと試みたが意識してそうなったわけではないので難しい。振り返った時に傲慢だったと反省するときは非常につらい。誰かに直接傲慢を投げかけなくても、空想で投げつけているのであれば同じことである。その時の自分の表情や雰囲気は出力されてしまっている。生活にしかめっ面は必要ではない。

 

 18世紀の思想家がとなえる教育思想について解析した本を読む。私は今まで自由思想にはいつも懸念があった。暴力や略奪にもそれぞれ自由の影がついてまわっていると考えていることもあったが、その本では自由にふるまう前提に、他人に害を加えないという言葉がある。その前提に共感するが、他人に害を加えない自由を見つけることは出来なかった。考えすぎなのかもしれない。

個人がばらついているこの時代、他人に害を加えない自由があるのだろうか?私の今の答えが、自足することと目標にしている。

思考するときに自足という言葉を思い出すのだが、普段の生活では忘れてしまっている目標でありキーワードである。

自足するために努力をしているわけではないが、昔と比べて方向は向いていると思っている。

 

 若い人達とプリクラをとる機会があった。今でも手帳に挟んでいるが、加工された自分の姿に気持ち悪さを感じる。写真だけ自分の本当の姿でなく、外観だけ作り替えられた姿に興味がないのだと改めて感じる。おそらく誰が見ても、美容整形できたとしても選択しない気持ち悪さである。みんなそれぞれに外観のコンプレックスをもっているからこの商品が生まれたのだろう、けれどプリクラだけで満足している人はいないと思う。

食べ放題の飲食店に行く。喜んでいる人達を横目に自分にはもう会わない価値観の差を感じてしまうのだが、ガッツいて食べてしまう自分がいて、食べ過ぎたあとに反省する。育ってきた環境は人それぞれに違うから本質を変えるのは困難だろう。けれど胃袋は年々小さくなっているのだから、思考だけでも変化させていくべきだと思う。

 久しぶりに機嫌がいい日が連続する。他人とかかわることのあるイベントが連続していたからだと思う。

他人と一緒にいれば一人の時間が恋しくなり、一人の時間が続けば寂しく思う。寂しい感情はできるだけ体感したくないと思っている。世の中から孤立しているわけではないから、人から誘われることもある。だけど自分から行動していかないと、圧倒的に寂しい時間割合が占めているのが現実である。また、自分から行動したからといって寂しさが必ず紛らわせられるわけではないことも現実である。他人に受け入れられることのほうが、少ないのである。

 初めて来店する本屋のイベントに参加する。参加者について参加する前から勝手な年齢層や人となりを想像していたのだが、予想に反して自分より若い世代の人達がいて、興味深い話を聞くことができたと思う。イベントの企画者も若かったと思う。年齢を聞いたわけではないけれど、薄闇の中でそう思っている。くっきり見えない世界は自分にあっている。自分もぼやけて素敵に映ってくれていると思っている。有意義な時間を過ごせたと思えるひと時であった。

イベントに参加して寂しさを感じるのは、閉会後の引き際である。私の参加するイベントは終了と同時に蜘蛛の子を散らしたようにあっという間の解散がほとんどである。

自分のとる行動で次の場面は変わるのだろうが、初対面の異性などには声をかけずらいということもある。

言い訳じみているが、勘違いされてもこちらも腹立たしいのが本心である。結局イベントの続きがある場合はなく、一人でイベントと関連しない別の場面へ移動する。そこで素敵なお店に出会うからさらにテンションは上がるのだろう。

 

 人それぞれ居心地のいいお店はある。それが初めて訪れたお店であっても。新発見でそんなバーに出会えると心が躍る。

何をもって居心地がいいのか?いろいろな基準があるから今の自分には文章化することはできない。

リピートがあるのかないのかは、基準の一つである。高くて美味しくない料理屋に何度も通う人は少ないだろう。料理以外に目的があれば別の基準があるのかもしれないが。飲食をするという無垢な心でおとづれて、自分を受け入れてくれたお店には何度も足を運ぶだろう。たとえ2回目が忙しくて1回目の応対より粗末であったとしても。それぐらい最初のインパクトは大きいと思う。

本屋のイベントに参加した日はすべてに満足であり、上機嫌のまま一日を終えられたと思う。帰りの電車の中でおもうのが、明日への糧にと、昔みたテレビCMが頭のなかでフレーズを繰り返している。

 

 心の感情を逆なでするように体中の毛が逆立ちするような、理不尽なことがあった。

心躍る浮かれた自分を引き締めるかのような出来事。

いつも頭にあるのは、感情的になることなかれという言葉。できるだけ感情的にならないように心がけている。

この日もよく持ちこたえたと自分の成長を褒める。仕事や社会、他人と関わることはかならずあるし、価値観の違いで衝突することは絶対にある。なんとかしたいのは、いいことがあった後日はかならず嫌なことがあるという法則である。1000字を遥かに超えそうなので終わる。

 初めての飲食店に入ると思考や気分が更新されて楽しい。情報が多い店であればあるほど。

自分が住んでいる街のブックカフェに初めて入る。

民家を改築して営業されており、年配の方がオーナなのだが喋ってみてやはり活力が溢れている。

私が住んでいる場所は古い住宅街で、代々から住んでいる人達ばかりである。私自身のコミニケーションが少ないせいもあり、住民たちのことをしらず、活動的ではないと勝手に思っている。

おそらく新興住宅地に住んでいても同じことなのではないかと思う、住居であり活動する場ではないのが大半だろう。

今回お邪魔したお店のオーナは引っ越してこられた方だそうで、なるほどと思う。

個人店は自分の世界を観てもらえることに幸福を感じられると思う。

一方私は何者でもないので、自分の世界を他人に公開することは基本的にない。

友人を呼んで公開することは可能だが、お部屋自慢だけで終わってしまうので、そんな目的で招待することはない。

個人店を経営している方に嫉妬を感じてしまう部分である。本の内容や美的センスで張り合う意味などないのだが、自分の世界を他人に観てほしいのだと思う。

 

 知らない人達と喋るときに、何をされている方ですか?とよく聞かれるが、只の会社員である。会社員には見えませんねと言われることが多いが、中身は何もない。以前はそれでも何かをひねり出そうと喋っていたことがあるが、振り返ったときに自嘲の種になるので、無駄口は出さないように心がけている。少しは大人になったと思っている。

名刺を求められることがあるが、勤めている会社の名刺しか持っていない。どのように考えても、私がプライベートで出歩いている世界にニーズはない。社会人になって初めて名刺を支給してもらったとき、会社の名刺を持ち歩いていたことがあるが、得られたものは勧誘の電話だけである。だからこの日記のQRコードをカードにして持ち歩いているが、出すタイミングを何時も逃している。

 

 出来るだけ自分を客観視できるように冷静な感情を入れるように努めているつもりである。

おかげで日々、振り返りに自嘲して苦しい思いをしている。最近は誰もが写真や動画を簡単に撮影されてしまうので、視覚情報が残されることがある。注意して観るように心がけねば、自分の思考からの苦しみに油を注ぐことになってしまう。

そこから何かを得て這い上がれる人が、私の対岸側に行けるのだと思っていて私も河を渡りたいと思っている。ほとんどの場合、落ち込むだけで何も得ないし改善もできていない。最近はこうやって文章にして吐き出すことで、前に進んでいると思っている。

呑み仲間達の席でこのような話をしたとき、ヒントを得たと言った隣人はどのように自分を改善をしたのか、それ以来出会っていないので何かが変化したのだと思う。良い方向に行けたと思い込みたい。他人の役にたったと思えば純粋に嬉しい。純粋なものを沢山あつめたいと思う。