週末に物置を整理していると、古い時計のコレクションが出てくる。使う予定などないのだが、動作確認したくなる。

性分なのかもしれない。電池を入れ替えて動くことを確認すると、今度は使いたくなる。

 仕事で使っている腕時計は、ソーラバッテリーで電波時計、デイト機能はあたりまえで、ストップウォッチやタイマーなど、機能満載の時計で不便さは何もない。おまけに完全防水で衝撃にも耐えられるとのこと。機能だけを求められる世界には入り込めないだろう。ならば通勤時の腕時計にすればどうだろうかと考える。仕事のオンとオフの意味合いもこじつけやすい。

 早速、通勤時につけてみる。会社での付け替えはひと手間だが、運用は出来そうである。

誰にアピールするわけでもなく、時間がズレていても気にすることなく、自分だけの満足である。おそらく、他人は日替わりで腕時計が変わっていることに気づいていないだろう。国民性を考えれば、仮に気づいたとしても声を掛けられることはないだろう。仮に、声を掛けられたら、その腕時計をプレゼントしよう。他人が着用していた腕時計に喜ぶ人は少ないだろうけど。

ここでもう一つ欲が出る。

 

 5日間の出勤に対して、同じメーカのものは3種類と、別メーカの各1種類である。だからあと2個同じメーカのものを用意すれば、5日間に統一感が出るのではないかと閃く。未だ見ぬ他人にプレゼントをあげることになると、中古品というわけにはいかないので、新品を一つは用意しておかなければならない。

こうやって、忘れられたコレクションに火がついて、再び眠りにつくときには数が増えているというわけである。

 

 

 

 

 学生の頃、雨が降ったら学校をさぼっていたことを思い出す。今でも激しい雨が降っていると会社を休もうか考えている。

雨が多い年は出席日数が少なかった。なぜ雨が降ると休んでいたのか、傘をさして自転車に乗ることが嫌だったわけではない。通学途中に風で傘が飛ばされたことが切っ掛けだった。

 傘をとばされることに思うなら、傘そのものが嫌いになってもおかしくはないのだが、今でも傘は頻繁に使うし、風をうけて傘が煽られることも多々ある。だから他に理由があったのだと思う。

学校の休みが増えてくると、出席日数が足りていないと担任教師から連絡があった。出席日数というシステムを学んだのがこの時である。そして、意思を貫き通せない私は雨でも登校するようになった。

一時的に傘が嫌いになって、またお世話になる。反抗期というのがこの時だったのだろうと思い返す。

土砂降りの雨の中、会社に行く支度をする。

大人になったと感じるのか、年を取ったと感じるのか、前向きにとらえられる人になりたい。

 季節を感じたいと思い、海に行こうと思う。海水浴や浜辺でBBQなどが簡単に連想できるが、自分一人で完結できることがいい。集団の楽しさはあるだろうけれど、求めていない。なぜだろうか。他人を集めるのも、集団で行動するのも体力を大いに消耗することを知っているからだと思う。

 ロードバイクで海浜公園沿いを走る。自分で漕ぐのだから体力は消費する。この暑さによる消耗もあるだろう。けれど気持ちがいい、大きな解放感がある。非日常の風景と空気、砂浜ではしゃいでいる集団を脇目に、昔は他人と一緒にいることに依存していた時期もあったことを思い出す。独りでいることの後悔はなく、自分だけ浮いている違和感も感じずに、黙って自転車を漕ぎ続けている。

エアコンの効いた部屋で眠っている猫を想う。一緒に自転車に乗れたらと思い、三人乗りを空想する。動物は二人乗りの取り締まりの対象になるのだろうか。二匹を一人で換算するので、二人乗りで取り締まりますと言う警官を空想し、本気で反論する自分を想像する。

 

 

 何もやるきが起きないという口癖。子供じゃないけど、呼吸はしているし何もしないことはない。他人から見れば黙って座っているだけでも、瞑想をしているのだ。だから言い訳に使っているだけの言葉。

こんな時でも手作りの料理なのだ。

スパイスカレーのレシピ本が新刊であったので図書館で借りてきた。久しぶりに作ったのだが、ものすごく美味しい。このレシピ本は凄いと感動する。けれど、再現性を確かめるためのスパイスはもうない。不動在庫が尽きてしまったのだ。生鮮食材は近所でも買えるのだが、特殊な調味料となれば近場では手に入らない。遠征するにはそこまで気持ちが高ぶっていない。

グラスの氷を手首の遠心力で廻しながらアルコールを呑む。隣で眠っている猫を撫でながら、何もやるきが起きないとつぶやく。

 身体が辛い日々が続く。喉の痛みが去ったあとにやってきたのは、全身蕁麻疹である。味覚障害から回復した喜びも束の間に、次の日には全身に広がっている。過去に経験したことない体の変化に少しおびえてしまう。そして次の日に発疹は痒みだす。一度に出来事をまとめるのではなく、痛み、回復、発生、痒みと日をずらして演出するところが憎い。

 好き嫌いもなく、アレルギーとも縁のない身体だった、一夜にして発疹まみれに切り替わる生体は、進化の喜びと程遠く恐怖を感じさせてくれる。心当たりはある。抗生物質と生魚、そしてアルコールである。生魚は主食ではないので敬遠できる。

一日様子を見たのだが、発疹と痒みは収まっていない。そうなってくると抗生物質とアルコールを止めなければならない。もう喉の痛みはないのだから、薬は止められる。しかし飲みきるまであと一日なのだ。錠剤1個捨てるだけなのだが、それを思いとどまってしまう自分は、どこか抗生物質の信者になっているのだと思う。

痒みを忘れるためアルコールを呑む私をみて、猫が口を半開きのまま固まっている。

 

 体調がよくならない。すべての趣味に使う時間を睡眠に廻しているのに一向によくならない。活動を最小限におさえて休息しているのだから、少しは良くなっているのは事実として、流れる時間に対して回復するスピードが遅すぎる。競合する相手など居ないのに、周りに追い抜かされてしまう錯覚を覚え焦る。

 病院を変えることにする。前回行った病院は、行きなれた病院が休診日だったので、その日に診察している病院を近場でさがした結果である。薬が合っていないのではないかと勝手に想像して行きなれた病院の診察を受ける。問診で症状と他の病院での診断結果を説明し、診察してもらった結果、病状と薬があっていないうえに、薬の量も適切ではないとの事だった。新たに処方してもらった薬を飲んでからは急激に回復する。今までは味覚が麻痺していたのが、繊細な味がわかるようになってきた。それだけで幸せである。色々な種類のアルコールを呑んでも違いが判る、食べ物の味が判る。普段当たり前に通りすぎることを新鮮にしてくれる、回復という単語は自己を充実させる要素の一つなのだと認識する。回復してしまえば前の病院の恨みなどどうでもいい。

これからは回復要素も集めよう。今週は暴飲暴食で過ごしてみようと考える。薄ら笑って考えている私を、猫が鼻で笑う。

 

 久しぶりに体調を壊して寝込んでしまう。以前、酒場で会話した内容が浮かんできた。発熱などの体内的な不調になった時、動物のように活動を止めて回復に集中することで、薬に頼らないという会話をしたことを思い出す。その場に居た誰もがその意見に賛同したことを覚えている。その時の会話をおもいだし帰宅してから眠りつづけたのだが、18時間眠っても体調は戻らず。もちろん少しは良くなっているのだが、本来の能力を発揮できる程には回復していない。

 会社員として何日も休むのは気が引けてしまう。休息するための有給なのだから、自然治癒を選択することは間違った選択ではない。けれど、他人の目を勝手に想像して、自分に病院に行けよ、無理して出社しろよと言われてしまう。

 勝手な想像にせかされて病院に行く。厳密な検査をするわけではないのだから薬をもらうための病院、処方箋を出すための問診と考えれば手短にしてほしいと考える。そして、本当に手短だったので拍子抜けしてしまう。何も診てないじゃないか、それで薬を選択して処方できるなんてどういうことなのだと内心に言葉を荒げる。問診表には症状を書いてあるし、外観を軽くチェックはしている。質問もないわけではない、そのうえで判断なのだから嚙みつくのも勝手な話だともおもってしまう。問診が短ければ文句が生まれ、長々とあっても文句が生まれるだろう。自分勝手なものだと思ってしまう。薬を飲む横でじゃれあう猫達を見て、自己中心的なのは個人なのか種族なのか考えてしまう。

 アトリエには好きな物しか置かない。というのは噓になる。掃除機や炊飯器など存在が納得できない便利なものが沢山ある。

それでも、好きなものに囲まれて生活したいと思う。一時の流行もあるのだから、統一感のない色々なものが溢れてしまう。

まとまりのない空間、現時点で嫌気がさしていないのだから、お互い仲良くやっているのだろう。

 一昔、偶然聞いた歌謡曲から狼に執着した時があった。その歌謡曲は、デジタルデータからCDに姿をかえて、今はレコードに変化して棚に収まっている。形のないものから変化していった逆行した所有物である。

そのレコードは聞かれずに棚に収まっているが、狼のフィギアは、今も本棚の色々な段に存在していて、遠吠えをしている。お互いの方向を向いているから、仲間内で呼び合っているのかもしれない。

狼になりたいと思っていた時期もあった。狼になったら、隣で寝ている猫達は食べられてしまうのだろうか。財布は膨れているのだから、猫よりも精肉店に買いに行くだろう。そんなことを考えながら肉を食べたいと思う。

もう精肉店は閉店している。明日は狼になりたいと思うだろうか、日が変わる希望が少しわいてきた。

 会社からの帰り、いつもの駅に降りる。夕暮れ時なので、降り立った人達は各々の自宅に帰るのだろう。

私の前を歩く若者。身体に馴染んだ作業服で、ずり落ちそうなリュックを背負っている。後方から若者の動作をみると、歩きながら煙草に火をつけて吸い出すのである。マナーがどうこう言うつもりもないのだが、吐き出した煙が、後ろを歩く私に丁度かかる間合いなのである。若者と私の歩く速度は変わらないから、いつまでたっても追い抜けないし離れることもない。喫煙していた過去はあるけれど、禁煙してから数年たっている。タバコは好きだったのかもしれないが、今は臭いは苦手で不快な気持ちになってしまう。

 駅のロータリーで、あきらめて歩くのを止める。迎えの来ない車を待っている振りをしながら。いったい誰に対しての演技なのだろうかと考えてしまう。そして、若者が視界から消えた頃合いに歩き出す。

 あの若者はどこから電車に乗っているのだろうか。タバコ好きなのに、駅の構内や電車の中で吸うことは出来ない。作業服から推測して、現場仕事なのだろう。だから仕事中も吸うことが出来ないのだと推測する。やっと自分の帰る街に着いて、開放感からの喫煙なのだ。私の場合はそれがアルコールで、気持ちは同じだと思う。だから、歩きながらではなくて、立ち止まって味わって吸ってほしいと思う。そうやって考えると、大きな駅のはずれにある喫煙スペースはオアシスなのだなと認識してしまう。

吸わない私からみれば、煙まみれの閉鎖空間に自分から行くのは苦行としか思えないが。

 アトリエで出迎えてくれる猫は、生まれてすぐに引き取ったからタバコの匂いを知らないだろう。社会勉強のために教えることもできるのだが、知らないほうが幸せなことは沢山あるよなと思い、アルコールの入った缶を開ける。

 アトリエの中庭に葉山椒が生い茂っている。2年前に友人が置いていったものが成長している。最初は興味がなかったので、アゲハ蝶に提供していた。新芽を幼虫に食い散らかされるかわりに、アゲハ蝶を大量に鑑賞することができた。

しかし、友人が勿体ないという。

今年は防虫ネットを張ってみた結果、匂いにつられたアゲハ蝶を数匹観た程度、山椒に接触できない蝶はどこか悲しそうに見える。代わりに山椒の葉が生い茂る結果となる。

ただ、何に使ったらよいのか分かっていない。友人に和食をごちそうするときに、香り付けや飾りとして使う程度である。

先日の呑み会の席を思い出す。別の友人は最近、塩を肴にしてアルコールを呑むという。塩もいいのだが、何か手間が欲しいと思い、魚はないのだが、葉山椒を味噌で和えたなめろうのようなものをつくろうと考える。新芽を摘んだ手は山椒の匂いで一杯になり、アゲハ蝶より地味な模様の猫が興味深くよってくる。