隣でいきなり独り言を発せられると反応に困ることがある。相手は無意識なので反応など求めていないのだが、意表を突かれるので驚いてしまうことは事実。動作や言葉を相手に返してやることはほぼないのだが、驚くという反応はしているのである。仮に、驚かなくても、体力を消費していることになるのではないだろうか。

隣で独り言を言い続ければ、他人は地味に体力を消耗することになる。独り言が多い人が敬遠されるのはこういうことなのではないかとおもう。他人の振り見て我が振り直せ、意識しようと考えている。

 先日、長距離移動のため一人で車を10時間ほど運転することがあった。独り言を意識して止めているのだが、ついついこぼれてしまう。それでも出来るだけ、独り言を抑制する。目的地に到着したときにはふらふらしているのだが、言葉は適度に吐き出さないと、自分の体力もうばっているような気がした。

 独り言が駄目で、自分も消費したくないときどうすればいいのか。では歌を歌おうと想ったのだが、他人にしてみれば、より迷惑な話である。公園で、小さな声で歌いながら歩いている若者とすれ違う、独り言から歌に発想を切り替えたのだなと、少し優しい気持ちになる。

アトリエにいる猫は、独りでもおかまいなしに大声で鳴く。こちらも歌なのかもしれない。大声は迷惑極まりないのだが。

 仕事終わり、毎日のタスクの一つに楽器の練習がある。何事も向上させるには鍛錬が必要であることは承知している。

仕事は肉体労働ではないのだが、精神的な疲労はある。つまり、どんな仕事であれ疲労はついて回るということ。肉体労働ではないのだから疲れないだろう、と思うことは、他人の価値観である。

疲労して帰宅する。自分のやりたいことであっても、しんどいことは沢山ある。その一つは楽器の演奏なのだろう。今日は休むというのに理由は用意できるのだが、怠けている感はぬぐい切れない。

改善したいことだと、流行りの生成AIに相談したのだが、返ってきた答えが、演奏しなくてもいいから楽器に触れてみろという。昔、臨床心理士の方と会話したときも、同じようなアドバイスをもらったことを思い出す。這ってでもいいから、楽器のケースに触れることが大切なのだと。

 そんなことを思い出しながら、アルコール缶のプルタブを開ける。隣で猫が遠い目をして虚空を観ている。楽器の演奏を待ってるファンのようには見えない。

 一通りのタスクが終了したので、楽器の練習でもしようかと思う。週末の午後、快晴の天気。窓越しに祭囃子が聞こえる。

神社は近隣にないのだが、本番用に青年団が空き地で練習しているのである。興味はないのだが、若者たちの掛け声が全身全霊のように聞こえて悪い気はしない。日常の生活では出せない大声をはりあげて、これでもかという勢いで練習している。邪魔になるといけないと思い、楽器の練習を踏みとどまる。夏の夜の暴走族にも悪い気がしないことがあったことを思い出す。

表現方法がどうであれ、全力という力が支配的なのだと思う。冷蔵庫から出したアルコール缶を全力で呑む。隣で猫が呆れたあくびをしている。

  本を読んでいると、階級の描写があった。19世紀ヨーロッパの鉄道での食事について、乗客を階層別に描写している。上流層は、召使いを食堂車に食事を買いに行かせ、自身の席で食事をとる。中流階級は自身が食堂車に出入りする。下流層は、節約のため自身で持ち込んだもので食事をする。だから食堂車には近寄らないとのことである。

 自身に当てはめると下流層ということになる。下流層という意識は今までなかったのだが、自分は妙に当てはまってしまう。ショッピングモールのフードコートで、多くの家族連れがトレーに並べられた料理を食べている。それを遠巻きに眺めながら、カバンに入っていた携帯クッキーを食べている。ディスカウントストアーでまとめて購入したものである。密封された包装だから賞味期限を確認することもない。

このベンチに座っている男を、あちら側は蔑まれたように観ているのだろうか。そう考えて、相変わらず自意識過剰だと思い返す。現代の中流層は下流層を蔑むほど暇ではないだろうし、境目は怪しいものである。

しかし、ショッピングモールは出費を抑えて時間を消費するには良いスポットだと思っている。

帰り際にペットショップで猫を愛でて後にする。

 楽器を演奏するようになって、辛いことがある。それは自分の演奏である。この国の文化であるカラオケという娯楽も、録音して自身の歌を聞かされると、恥ずかしくなって唇をかみしめる人はいるのではないかと思っている。カラオケに自分から行くことはないし、他人を批評することもない、近寄らないだけである。好きな人にとってストレス発散になるのだから、素晴らしい文化だと思っている。

 楽器を演奏するのは楽しく、他人と合奏することにより楽しさを感じている。合奏をしているだけで物足りなくなり、他人に聞かせたくなってくる。ならば、自分の演奏が気になってくる。個人が簡単に録音できるようになった時代だから、すぐに確認することができる。録音された演奏はフォローの入れようもないくらい聞いてられないものばかりで、正直どのように改善すればいいのか解からなくなってしまう程度である。楽器を捨ててしまうくらい端的な策しか浮かんでこない。

カラオケのように距離を置けばそれで終わり。けれど、楽器を演奏することは楽しいので辞めたくない。自身での収録を辞めてしまっても、他人が収録して共有してくる。少しずつ現実を認められるように成長しているつもりでも、一度にやってくる衝撃は大きく、鋭く食い込んでくるので容赦はない。

カラオケも同じで、他人に聞かせたい人は自分の歌を確かめるだろう。同じような葛藤はないのだろうか。

カラオケ喫茶に出入りしている、おじさんに聞いてみたが、「録音する奴はおらんやろ」とのことだった。

 

 古い腕時計のコレクションが再び熱をもつ。会社への5日間の通勤に合わせて、日替わりで腕時計を変えられるように揃える。同じメーカの同じ種類のもの、色違い。そのメーカは昔に流行ったものだから、世の中に数は大量にあるし高価なものでもない。中古市場でも安価に取引をされていることから、希少価値はもちろんついていない。けれど私が求めるものは、イメージしているより1桁大きな金額になっている。なぜだろうか、自分が流行を追いかけているようで、はにかんだ気持ちになってしまう。

 それでも買えないものではないので、足らず分を買い足す。当初は自分の服装に合わせて腕時計を変えようかと考えていたのだが、シャツは変わり映えしない、しっくりくる腕時計があれば偏ってしまうだろう。それならば、曜日に時計を固定しようと考える。それはいいのだが、今度は、その曜日にこの時計を選んだ理由が必要になってくる。こじつけでも構わない、選抜する理由は必ず存在する。5つの時計を並べて曜日を割り当てる。

 今まで引き出しの中で、動くことのなかった時計に電池を与えて、担当する曜日を割り当てる。朝と夜の2回だけ使われる時計。祭日で出勤しないとき、その曜日の腕時計は少し悲しそうな針の動かし方をすることを空想する。時計ですら平等に扱うことができない。自分の不甲斐なさを知る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

週末に物置を整理していると、古い時計のコレクションが出てくる。使う予定などないのだが、動作確認したくなる。

性分なのかもしれない。電池を入れ替えて動くことを確認すると、今度は使いたくなる。

 仕事で使っている腕時計は、ソーラバッテリーで電波時計、デイト機能はあたりまえで、ストップウォッチやタイマーなど、機能満載の時計で不便さは何もない。おまけに完全防水で衝撃にも耐えられるとのこと。機能だけを求められる世界には入り込めないだろう。ならば通勤時の腕時計にすればどうだろうかと考える。仕事のオンとオフの意味合いもこじつけやすい。

 早速、通勤時につけてみる。会社での付け替えはひと手間だが、運用は出来そうである。

誰にアピールするわけでもなく、時間がズレていても気にすることなく、自分だけの満足である。おそらく、他人は日替わりで腕時計が変わっていることに気づいていないだろう。国民性を考えれば、仮に気づいたとしても声を掛けられることはないだろう。仮に、声を掛けられたら、その腕時計をプレゼントしよう。他人が着用していた腕時計に喜ぶ人は少ないだろうけど。

ここでもう一つ欲が出る。

 

 5日間の出勤に対して、同じメーカのものは3種類と、別メーカの各1種類である。だからあと2個同じメーカのものを用意すれば、5日間に統一感が出るのではないかと閃く。未だ見ぬ他人にプレゼントをあげることになると、中古品というわけにはいかないので、新品を一つは用意しておかなければならない。

こうやって、忘れられたコレクションに火がついて、再び眠りにつくときには数が増えているというわけである。

 

 

 

 

 学生の頃、雨が降ったら学校をさぼっていたことを思い出す。今でも激しい雨が降っていると会社を休もうか考えている。

雨が多い年は出席日数が少なかった。なぜ雨が降ると休んでいたのか、傘をさして自転車に乗ることが嫌だったわけではない。通学途中に風で傘が飛ばされたことが切っ掛けだった。

 傘をとばされることに思うなら、傘そのものが嫌いになってもおかしくはないのだが、今でも傘は頻繁に使うし、風をうけて傘が煽られることも多々ある。だから他に理由があったのだと思う。

学校の休みが増えてくると、出席日数が足りていないと担任教師から連絡があった。出席日数というシステムを学んだのがこの時である。そして、意思を貫き通せない私は雨でも登校するようになった。

一時的に傘が嫌いになって、またお世話になる。反抗期というのがこの時だったのだろうと思い返す。

土砂降りの雨の中、会社に行く支度をする。

大人になったと感じるのか、年を取ったと感じるのか、前向きにとらえられる人になりたい。

 季節を感じたいと思い、海に行こうと思う。海水浴や浜辺でBBQなどが簡単に連想できるが、自分一人で完結できることがいい。集団の楽しさはあるだろうけれど、求めていない。なぜだろうか。他人を集めるのも、集団で行動するのも体力を大いに消耗することを知っているからだと思う。

 ロードバイクで海浜公園沿いを走る。自分で漕ぐのだから体力は消費する。この暑さによる消耗もあるだろう。けれど気持ちがいい、大きな解放感がある。非日常の風景と空気、砂浜ではしゃいでいる集団を脇目に、昔は他人と一緒にいることに依存していた時期もあったことを思い出す。独りでいることの後悔はなく、自分だけ浮いている違和感も感じずに、黙って自転車を漕ぎ続けている。

エアコンの効いた部屋で眠っている猫を想う。一緒に自転車に乗れたらと思い、三人乗りを空想する。動物は二人乗りの取り締まりの対象になるのだろうか。二匹を一人で換算するので、二人乗りで取り締まりますと言う警官を空想し、本気で反論する自分を想像する。

 

 

 何もやるきが起きないという口癖。子供じゃないけど、呼吸はしているし何もしないことはない。他人から見れば黙って座っているだけでも、瞑想をしているのだ。だから言い訳に使っているだけの言葉。

こんな時でも手作りの料理なのだ。

スパイスカレーのレシピ本が新刊であったので図書館で借りてきた。久しぶりに作ったのだが、ものすごく美味しい。このレシピ本は凄いと感動する。けれど、再現性を確かめるためのスパイスはもうない。不動在庫が尽きてしまったのだ。生鮮食材は近所でも買えるのだが、特殊な調味料となれば近場では手に入らない。遠征するにはそこまで気持ちが高ぶっていない。

グラスの氷を手首の遠心力で廻しながらアルコールを呑む。隣で眠っている猫を撫でながら、何もやるきが起きないとつぶやく。