アトリエには好きな物しか置かない。というのは噓になる。掃除機や炊飯器など存在が納得できない便利なものが沢山ある。

それでも、好きなものに囲まれて生活したいと思う。一時の流行もあるのだから、統一感のない色々なものが溢れてしまう。

まとまりのない空間、現時点で嫌気がさしていないのだから、お互い仲良くやっているのだろう。

 一昔、偶然聞いた歌謡曲から狼に執着した時があった。その歌謡曲は、デジタルデータからCDに姿をかえて、今はレコードに変化して棚に収まっている。形のないものから変化していった逆行した所有物である。

そのレコードは聞かれずに棚に収まっているが、狼のフィギアは、今も本棚の色々な段に存在していて、遠吠えをしている。お互いの方向を向いているから、仲間内で呼び合っているのかもしれない。

狼になりたいと思っていた時期もあった。狼になったら、隣で寝ている猫達は食べられてしまうのだろうか。財布は膨れているのだから、猫よりも精肉店に買いに行くだろう。そんなことを考えながら肉を食べたいと思う。

もう精肉店は閉店している。明日は狼になりたいと思うだろうか、日が変わる希望が少しわいてきた。

 会社からの帰り、いつもの駅に降りる。夕暮れ時なので、降り立った人達は各々の自宅に帰るのだろう。

私の前を歩く若者。身体に馴染んだ作業服で、ずり落ちそうなリュックを背負っている。後方から若者の動作をみると、歩きながら煙草に火をつけて吸い出すのである。マナーがどうこう言うつもりもないのだが、吐き出した煙が、後ろを歩く私に丁度かかる間合いなのである。若者と私の歩く速度は変わらないから、いつまでたっても追い抜けないし離れることもない。喫煙していた過去はあるけれど、禁煙してから数年たっている。タバコは好きだったのかもしれないが、今は臭いは苦手で不快な気持ちになってしまう。

 駅のロータリーで、あきらめて歩くのを止める。迎えの来ない車を待っている振りをしながら。いったい誰に対しての演技なのだろうかと考えてしまう。そして、若者が視界から消えた頃合いに歩き出す。

 あの若者はどこから電車に乗っているのだろうか。タバコ好きなのに、駅の構内や電車の中で吸うことは出来ない。作業服から推測して、現場仕事なのだろう。だから仕事中も吸うことが出来ないのだと推測する。やっと自分の帰る街に着いて、開放感からの喫煙なのだ。私の場合はそれがアルコールで、気持ちは同じだと思う。だから、歩きながらではなくて、立ち止まって味わって吸ってほしいと思う。そうやって考えると、大きな駅のはずれにある喫煙スペースはオアシスなのだなと認識してしまう。

吸わない私からみれば、煙まみれの閉鎖空間に自分から行くのは苦行としか思えないが。

 アトリエで出迎えてくれる猫は、生まれてすぐに引き取ったからタバコの匂いを知らないだろう。社会勉強のために教えることもできるのだが、知らないほうが幸せなことは沢山あるよなと思い、アルコールの入った缶を開ける。

 アトリエの中庭に葉山椒が生い茂っている。2年前に友人が置いていったものが成長している。最初は興味がなかったので、アゲハ蝶に提供していた。新芽を幼虫に食い散らかされるかわりに、アゲハ蝶を大量に鑑賞することができた。

しかし、友人が勿体ないという。

今年は防虫ネットを張ってみた結果、匂いにつられたアゲハ蝶を数匹観た程度、山椒に接触できない蝶はどこか悲しそうに見える。代わりに山椒の葉が生い茂る結果となる。

ただ、何に使ったらよいのか分かっていない。友人に和食をごちそうするときに、香り付けや飾りとして使う程度である。

先日の呑み会の席を思い出す。別の友人は最近、塩を肴にしてアルコールを呑むという。塩もいいのだが、何か手間が欲しいと思い、魚はないのだが、葉山椒を味噌で和えたなめろうのようなものをつくろうと考える。新芽を摘んだ手は山椒の匂いで一杯になり、アゲハ蝶より地味な模様の猫が興味深くよってくる。

 

  夕刻にアトリエに歩いて帰る。帰宅を急ぐ車が頻繁に通る道を歩くのがしんどいので、住宅地を迷路のように縫って歩く。私が歩く時間帯は誰も外を出歩いていなくて、塀を越えて聞こえてくるテレビの音で住民の存在を確認する。歩いて行けるくらい近所なのに旅行に行った気分になるので、この道筋は気に入っている。

今日はめずらしく、小学生が仲間と鬼ごっこをしている場面を見かける。

学校の体操服のまま、全力で走り回って叫びあっている。身体は細くて小さいのに、どこに体力が残っているのだろう。昼間は学校に通っているはずである。そこからの鬼ごっこ。体の容量が小さいのに朝から晩まで走り回れるのは不思議である。身長も体重も遥かに大きな大人が、残りわずかな力をつかって帰宅している。子供のように走り回れないのはなぜなのだろうか。好きなことをしている人とそうでない人が頭をよぎるのだが、なぜ帰宅後に本や楽器が触れないのか。好きな事をやっているはずなのに不思議だ。

自分に足りないものは体力だけなのか。他にあるのか。

アルコールを呑むことと、猫を撫でることしかできない日々が続く。

 騒音が苦手だから普段はアトリエに籠っている。自分の望む音だけを聞いている、ストレスのない環境である。けれど、街中の喧噪は好きなのである。独りでいることが飽きてくると、街中にある大手チェーン店のようなカフェで本を読んだりすることがある。必ずしも自分が望んでいる音以外が苦手なわけではない。

 酒場のカウンターで独り呑んでいる時にわかったことがある。同じ空間にいるグループすべてが煩いのではなくて、周りへの気遣いのない集団の盛り上がりが煩いのである。酒場だから多少は気を遣わなくなる、喋るのが駄目なわけではない。騒ぐのなら見合った場所があるだろうと、自分の価値観で考えてしまうのである。

気遣いのない集団は盛り上がっているので、音量は他のグループより大きい。誰かが行きたくてこの店を選択したのだろうが、会社や壮行会の集団は、見合った居酒屋に行ってほしいと願ってしまう。独りぼっちのひがみのように聞こえるのかもしれないが、と言い訳じみてしまうところが自分を卑下しているようで、考えるのを辞めて次の店に移る。

同じように他のグループも次々と会計をしていく。皆思うことは同じだと都合のいいように解釈する。

 額に汗が滲んでくる。自分の思いと反して汗が滲んで流れ落ちる。湿気が多く気温が高くなってきたから、正直な体の反応なのだと思う。それでも汗をかくのは好きではない。いくら理屈がはっきりしていても好きになれないことの一つ。

汗が出るのが嫌なのではなく、拭うことが嫌なのかもしれないと考え、拭うのをやめたことがある。それは逆効果で肌が荒れ、痒みと痛みの原因となった。治るのにも時間がかかった。それからは、すぐ拭うようにしている。

 眼鏡をかけているときは、眼鏡を一度はずして拭ってかけなおす。汗が滲む不快さ、面倒な動作、拭うことの爽快感、視界のピントがズレて再びピントがあう不快感、不快さが支配的で心がささくれてくる。八つ当たり先がないのだから、眼鏡を投げ捨てようかと思ってしまう。眼鏡に罪はなく、いい迷惑だ。結局、眼鏡が無くて困るのは自分で、修理するのも自分である。

そうやって考えると、八つ当たりという奴は、威力を増して自分に返ってくる。

八つ当たりされることのほうが多いような気がするが、感情的な怒りはろくなことがないと自分を戒める。

猫がしらけた表情でこちらを見つめている。

 

 

 朝目覚めて日々のタスクを実行する。一息ついて中庭の草刈りを実行しようと考える。

作業着に着替えたのだが、ジッパーの破損と、ポケット数か所のステッチがほつれている。機能を果たさない。

気を取り直して、電気草刈り機の準備をする。

作業用のゴーグルがいつもの場所に見当たらない。探し回った結果、隙間に落ちていることを発見。

気を取り直して、準備が整い、現場に立つ。

いざ電源を入れて機械を動かしたのだが、刃の代わりになるビニールワイヤのスプールをセットし忘れる。

それが原因で本体側の受け部が破損。草刈りは終了。

ここまでかかった時間は1時間以上である。

誰が悪いわけではない。猫が八つ当たりされないかと心配して私を避ける。

 映画が好きだ。けれど評論家じみたことは言えない。どんなに好きな映画でも完全には理解していないからだと思う。だから、パンフレットに文章を寄稿している人は凄いのだと感心してしまう。

古本屋での楽しみの一つに、映画のパンフレットを掘る作業がある。その映画を鑑賞していなくても、気になるものは購入する。だからといって、鑑賞数より多くのパンフレットを持っているわけではない。パンフレットに興味がない人たちより、少し多いくらいなのだと思う。

アトリエにある本棚の空きには限りがあって、棚からあふれたパンフレットが平積みになっている。対策は本棚を拡張するか、別の書籍を間引くしか思いつかない。拡張するにも限りがあって、本棚を買えば済む問題でもない。また、間引く本も選抜できない。

難しい課題は放置される。だから平積み。今日もまた古本屋で仕入れてきてしまう。

本棚の部屋に猫を入れないので、今回は出番なしである。

 あれとこれをやろう、続けようと思い立ったらすぐに実行する。そんなことを書いた本に当たることが多い。もちろん言っている意味はわかる。納得して、続けられそうな気がしてくる。しかし、その本を読んだ何パーセントの人がそれを維持できているのだろうか。脳は、何をするにも身体が楽になることを優先するらしい。だから努力を避けてしまうし、すぐに横になってしまう。歩けるのはアルコールを取りに行く時だけである。

それでも、と思って立ち上がる。そんな時に限ったわけではないが、猫がベッドで伸びている。そして、その横に寝転んでしまう。

そんな自分に危機感を感じる。

 アルコールを年中無休で呑んでいる。休肝日を設けたこともあるのだが、何故か無くなっている。理由は忘れてしまった。車を運転する時や仕事中には呑まないし、欲しくもならない。それらが終わった時は解放感で欲しくなるのだと思う。

一日の終わりには必ず呑む。

欲しくないのに呑むことは、もうやめられたと思っている。病気や体調がすぐれない時は呑まないし、置かれた環境によっては呑まないこともあるから。

アルコールを呑んだ次の日は、考える力が弱まっている。だから、どんどん頭の機能がぼやけていっている自覚がある。

それでも辞めるつもりはまだない。それは意志ではなく、依存性がそうさせているのだと、他人は言う。

他人がどう言おうが、そうではない。やめる気があれば、いつでも辞められるのだと本人は考えている。

 最近は、譜面を解読する能力と身体の反応速度が鈍ってきたと実感する。これでは音楽を楽しめないと思うのだが、加齢によるものだと思ってしまうので、アルコールは続く。

どうしたら、猫が喜んでくれる音楽を奏でられるのか。