重たい気持ちで、勤めている会社をでる。最寄り駅で見かけた風景。老齢の夫婦が駅にやってくる。男が慣れない手つきで、券売機から切符を購入している。女のほうは、先に改札をぬけてホーム側で待っている。しびれを切らした女は、何をもたついているのかと催促をする。切符を2枚買うために同じ動作を2回やっていたのだが、女は、なぜ2枚いるのだと疑問をなげかける。男は、おまえの分がいるだろうと言う。

 ベンチで本を片手に観ていた私は、少しだけ気持ちが暖かくなったような気がした。

 

 

 この何もやるきが起きない気持ちを、文章化できないだろうか。一行文章をキーボードでつくって、デリートで消す、この繰り返し。やがて、この行為に何の生産性もないことを感じてアルコールを呑み始める。アルコールは何も解決してくれない。けれど、何を解決したいかも考えていないのだから、当然の結果だろう。それをアルコールのせいにする気持ちがあるのだから、大嫌いな冤罪である。以前読んだ本に、好きな物に囲まれると意欲が高まると書いてあったことを思いだす。アトリエには好きな物しか置いていないのだが、それはつもりであって実はそうでないのかもしれない。自分の好きな物は何なのだろうか。アルコールと向かい合って考えている自分は葵い春の人である。

 

 

 日中の仕事がおわる頃、やる気がわいてくる。会社のためのやる気ではなくて、自身のためのやる気。こぼれないように両手で受けて、慎重に運搬する。骨ばった両手の隙間から、すこしずつこぼれていく。アトリエについた頃には、もうなくなっている。街中に振りまいたことになるのだが、活気づいているとは言えないこの街をみて、廃棄前の幸福な王子の像を創造する。現実世界に救済感はやってこない。ポケットの中を探れば、アルコールを買うだけの小銭が残っている。これが救済感なのかもしれない。

 

 朝起きてから何もやる気が起きないといえば、嘘になる。次にこれをやろうかと考えたりする意欲的なものはある。けれど、コーヒーを淹れて、読みかけの本に目を落とした後には怠惰がまっている。楽な方向に転がっていくのだ。それは脳が指示しているからだと、以前本で読んだことがある。図書館で借りてきた本を一通り読み終えると、今後は書斎に平済みになった本の山が気になる。内容が気になるのではなくて、本棚を作ろうかと何年も考えている。隣の平積みになったCDを再生したら、本を読むこともやめてしまう。終着点は転がっているアルコールの瓶をカップに注いだとき。それで一日が終わる。

 

  感情が落ち込んでいる。何が原因かを考えたとき、一つにしぼることはできない。思い当たることは多方面にあるし、それらが積み重なった結果であって、誰がとどめを刺したかしかわからない。このとどめの一撃が大きいか小さいかは関係なく、最後の奴を一人憎んでも何も解決しないし、自分の考え方の根本とも違う。ただ順番が最後だっただけである。古い記憶に、最後の1本という単語に執着していた時代があったことを思い出す。意図して最後になったわけでなく、自然と順番がそうなった。深く分析すると因果関係があるのかもしれないが、これ以上考えるほど元気ではない。感じることは、熟成ではなくて劣化。ただそれを黙って見つめるだけの恨み節なのだろう。

 

 アトリエのトイレが壊れる。配管のつまりや水漏れなど、業者を呼んで解決する問題ではない。スイッチを押してもレバーが動かい、給水はするけどタンクがすぐに空になるなど、DIYで何とかなりそうな問題である。不具合の原因は、蓋をあければすぐに発見することができた。問題は、部品がないのである。近隣のホームセンターやメーカのショールームなど、問い合わせをしてみたのだが、ほしい型番はない。型が古すぎるのである。方法をかえて、パッキンや部品などネットで購入する。一日あけて、届いて衝撃なのは勘合しないことである。メーカの型番は多岐にわたり、完全一致なものは何とか取り付けられる。けれど型番がないものは、類似のものを購入する事になる。加工することを覚悟しての購入。工房には工具など一式そろっているので、何とかなるだろうとかんがえていたのだが、手ごわい。金属を切って、穴をあけてと、一日を費やす。古いものを使い続けるのは何かと苦労をする。物を大事にしているのに、酷い仕打ちだ。

 今回修理したので、しばらくは問題ないだろう。次回壊れる時は、トイレに代わる新しい何かに代わっていれば、あきらめがつくのに。

 明日のイベント用に用意をする。来週のイベント用にも準備をしなければならない。アトリエの中にはやりたいことが、中途半端な状態であふれている。左手に今までもっていたものを、右にもちかえて左手を使う。ひとまず使わないものを左に置く。一緒にしたいものを見つけたとき、どこに置いたか見つけられない。空は秋色になっているのに、汗がだらだら流れてくる。今、アトリエの中はカオスと化している。私の精神を表現したように。理不尽に当たり散らしている自分が嫌いになっていく。問題は汗なのかもしれない。エアコンで室温をできるだけ下げよう。頭を冷やすとはこのことなのかもしれない。今、汗にすべての罪を背負ってもらう。

 口に出しては言わないけれど、何事においてもなんとなくやりたい放題である。範囲は小さいのだろうが、自分で好き勝手やっていると感じれるので、なんとなくと表現する。ストレスはところどころにあるのだが、小石を踏む程度で耐えれてしまう。我慢する場面はすくない。これは、事実は何も変わっていなくて、自分の考え方だけが変化した結果である。以前にくらべてアルコールの飲酒量は増えているのは確実で、許容体積が増えているのも事実である。けれど、決して間違った方向に進んでいるわけではないのだ。

 

 アルコールに関連するイベントに参加する。酔いが廻るのと知人と出会うことが、気持ちを高揚させてくれる。キーワードは音楽、本、アルコール、好きなものばかりで、これからもっと頑張ろうと気持ちが高ぶってくる。その勢いを次のシーンに持ち込めたらいいのだが、場面が変われば気持ちはリセットされてしまう。楽しかった記憶の余韻にひたることもなく、脱力感だけになってしまうのが翌日である。これを乗り切るとまたハレの日がやってくる。それは勝手にやってくるのではなくて、自分でそう進んでいるからやってくる。そう考えると、アメの日も自分で無意識で作っているのかもしれない。

 

 日常生活において音楽は必要である。その場面にあわせて聞きたいと思える音楽を選曲している。アトリエにゲストが訪れたときも、ゲストに合わせたLPを廻すように心がけている。けれど、最近はクラウド経由の音楽を流すことが多い。理由は明確で、音楽媒体を切り替えることが面倒なのである。何故面倒なのか、例えばLPであれば15分程度で盤面の入れ替えが発生する。作業なのか、CDにすれば60分ほどで1周できる。それに、プログラムでリピート設定しておけば音楽が鳴りやむことはないのだが、同じ曲が何度も流れることに気持ち悪さを感じる。これが原因なのだと思う。カーオーディオが典型的な例である。車の揺れと相まって車酔いで辛かった思い出がある。そうならないためにも、何枚も新鮮なアルバムを用意する。一日12時間、12枚のアルバムを聴くとして、1年で4380枚。と考えると、まだまだコレクションを増やすべきなのだ。