台風の影響で週末の予定が変わる。イベントをキャンセルしたり店舗の臨時休業。備えあれば憂いなし、決して間違った選択をしていないと思う。週末にアルコールの在庫が切れたので、最寄りの酒屋に問い合わせたところ臨時休業だそうで、熱帯低気圧に切り替わったニュースをもって遠方に買い出しに行く。自分のその時の好みでアルコールを嗜んでいるから、近場の量販店で取り扱っているようなアルコールで満足するような妥協はない。遠方に買い出しに行ったときはそれだけで体力が無くなる、なので帰宅してから手の込んだ肴は作られない。それでも出来あいのものはすきでないから、出来る限り短い工程で済む肴を調理する。手作りの肴と厳選されたアルコール。贅沢な時間を過ごしている。週末はきまった時間に食事をとるという概念はないから、出掛けなければ食べて呑みっぱなしである。気を失うまで終わらない。体のことや未来の事を考えれば、非常に堕落した生活時間である。けれど、この時間は決して無駄だとは思わない。結果としてネガティブなものの要因になるのかもしれないが、今現在は無駄だとは思わない。これが後悔は先に起たないということだと思う。

堕落した週末を送りながら、少しは前向きな行動を織り交ぜているつもりである。だから前には進んでいるのだと自分に言い訳をしている。

 

 久しぶりに図書館の読書会に参加する。しばらく参加していなかったので、参加者の顔ぶれが変わっていることを期待したのだが、何時ものメンバーであった。

各位推しの本についてプレゼンテーションをするのだが、誰が参加しようが私にとって損得勘定はなく、顔ぶれが変わることに大きな意味はない。誰が参加していても入ってくる情報は新鮮なのだから問題ではない。けれど顔ぶれが少しは変わってほしかったような気がする。それは新鮮さを感じたかったのではないかと思う。帰宅してから次に参加するイベント用に自分の名刺を作る。創作は楽しい。

 最近は自嘲の苦しみが連続していると感じる。何か失敗や他人を加害することがあったわけではないのだが、過去の記憶が凄い勢いで浮き上がってくる。そのたびにじっと耐えているのだが、独り言が増えてしまう。こうやって老齢の大人が作られていくのだと思う。

 

 自費出版した本が届く。最初に感じた感想は本の厚みだ。本が薄すぎるのが凄く気になる。費用を節約して頁を少なくしたのだが、ケチがつくとはまさに此のことだと思う。次回は頁数を犠牲にしないでおこうと思う。表紙のカラー印刷はいい感じだと思う。出店するイベントはまだない。

 

 語学の勉強を続けているのだが、自分の記憶力にも残念な気持ちになってしまう。仕事に関しても方向性がふらついている。何事も強く出られない残念な自分が大きくなってきている。そしてアルコールの魔力に支配されている。あと数日で立派な廃人になっているような気がする。とりあえず呑んで明日は朝から活動する。今はアルコールを買いにいく腰ですらあがらないのだから。

 

 最近ますます自分を嫌いになってきている。どうやったら自分を好きになるのだろうか、自分を許せるのだろうか、自費出版した本を何冊かカバンに詰め込んで酒場に出かけようと思う。

 

 2作目の自費出版を構想する。頁数を増やすためにブログの文字数を半分にする。

半分にしたところで、出版する本の頁が増えるわけではないのだが。

 

 電車に乗って遠くの街まで呑みに行く。大きな街になれば新規で店を探すのは難しい。だからといって同じ店ばかり行くのも世界が広がらないと思い、新規の店を織り交ぜるようにしている。賑わっているお店は優良店である確率は高いのだが、観光客や流行だけで成り立っていることもあるので迷うことが多い。いつも一人だから集団客が多いのも苦手である。だから、ひっそりとたたずんでいる新規のお店に挑戦することが多い。当たりであれば純粋に嬉しいのだが、SMSなどの携帯レビュで掲載が無かったり、一般評価が並みだった場合はもっと心が躍る。自然の流れでリピータになるわけで、そんなお店が増えてしまうと一日では回りきれなくなってしまうのだが新規の開拓はつづけていきたい。贅沢なパラドックスだと思う。

 

 ターンテーブルを新調する。新調といっても新品を買うわけではなくて、他人の出品している中古品を購入する。写真と内容説明だけで購入して、届いてみると今のサイズよりも一回り大きいのに驚く。しかも重たい。サイズを確認していないのも悪いのだが、レコードのサイズは一律なので、ターンテーブルのサイズも一律だろうと考えていた。早速置き換えると凄い存在感である。しばらくはこれで様子をみようと思う。前オーナは大切に扱っていたようで美品である。初心者用に丁寧に針圧などの説明を手書きでつけてくれて、輸送の振動が影響しないように包装も神経質なくらい丁寧だった。久しぶりに良質な他人の感情を受ける。

 

 通勤電車ですれ違う学生達、周囲を見ずにはしゃぎまわってぶつかりそうになる。他人が見えていないのもすごい事だけれど、黒い気持ちに感じてしまう、なぜか自分が年老いたように感じて残念である。眉間に皺をよせて不満そうにしていた時は、他人は煙たそうに避けていたと振り返る。自分にそれが似合わないと考えて、眉間に皺をよせない努力をするようになってから空気みたいに他人の視野に入らない存在になっている。だからといって眉間に皺はよせたくないし、他人を威圧するように振舞いたくないのである。こうやって考えるということは、まだまだ自分の中に残っているのだと思う。

 猫社会学についてかかれたアンソロジー本を読み終えたのだが、なんとなく解っていることや知っていること、考えていることを文章で他人に理解してもらうこと、共感してもらうことが出来ていると感じる。それを私が読書感想として他人に伝えようとしたとき、伝えたいことにまとまりがなく本の内容の10%も言葉で伝えられていないと感じる。これは目新しいことではなくて常日頃感じることである。振り返って考えてみようとするが、理解力が低い表現力が低いと、そこら辺で転がっている抽象的な言葉で自分をはぐらかしてくる。解析するより自分の首を絞める思考で端的に思考を終了させようとする。そしてそれで終わり。何も改善されなくて成長しなくて、再度同じことがあった場合、何度も同じことを繰り返す羽目になる。自分からの攻撃を食らうだけで、消耗するだけである。ポジティブに考えれば、痛みに耐性がついて鈍くなることくらいだろう。これでいいのかと思ってしまう。自分の体の中に色々な思考があって議論した結果で動いている。堕落してのさばっている思考を倒さない限り何も変らない。そのための方法を考える。自分の中だけで考えるだけではこの繰り返しであることは解っている。だから新しい情報を体内に入れてやることが、自分にとって必要な行動なのだと思う。とりあえずアルコールを片手にフランス映画を観る。

 

 体中がむず痒い。一緒に暮らしている埃または猫なのかアレルギー反応が出ている。鼻水が止まらなくなるときもある。鼻をかむたびに眼鏡をはずす。その一連の繰り返される行為に苛立ちを感じる。当たる先はないし、あったとしても当たられる先からしてみれば納得いかないだろう。空調の効いた部屋の中に引きこもっているのだが、訛りきった体から怠さと痒さが抜けない。要因は空調にある、当たり先を決めて空調のない部屋ですごしてみる。今度は体中の毛穴から汗が止まらず湧き出てくる。汗だけで体がふやけてしまう。水の中で生活しても同じ結果になってしまうだろう。氷点下の冷凍室ではどうなのだろう。自宅に冷凍室がないので解らないが、安らかに眠ってしまうだろうと想像する。どうしたいのか解らない。

明日から通常の日常が始まるので気持ちが焦っているのか。こんなときは酒場に出た方が気が休まるのだろうか。一人で居る時間が長すぎたのか。他人と居る時間も大切なのだと思う。とりあえずアルコールを呑んで古い映画を流す。

 本を作成したので今度は出店する場所を探すことになる。参加してみたいコンセプトのイベントがあり、そのために本を作成したのだがネットで検索しても過去のものばかりで次回の開催告知がない。また、過去の開催風景なども参考にみてみたのだが、本を一冊だけもちこんで出店している人はいないし、誰しもがそれなりに出店に情熱を注いでいるのが伝わってくる。自分の作品が自信をもって提供できる気持ちがあればいいのだが、片手間でつくったような作品だと自分に対して辛口の評価をしてしまう。世に出す前から意気消沈してしまう。やはり自分の敵は自分なのだと思う。

今までであればここで終わりだったのだが、今は金銭的にも時間的にも余裕はある。精神に勢いはないけれど環境が推し進めてくれる。機械的に進めようと思う。出店予定はないけれど入稿の準備を進めるのだが、掲載を迷っている挿絵が2枚ある。

 

 今日は夕刻から車で出かける用事があり、朝からアルコールを呑むことができないが、禁断症状がでるわけもなく過ごしている。呑みたいかそうでないかと聴かれれば呑みたいのだが、予定をキャンセルしてまで呑もうとは思わない。只、食事の席でアルコールがないことが寂しくて昼食を作る気力が起きない。外食という選択肢もあるのだが、直射日光をできるだけ浴びたくたいので却下とする。雨が降っていれば出かけたのかもしれない。連休中に鴨を一匹焼いたのだが、小食な私と猫3匹では一度に食べきれるわけもなく、分解されて冷蔵庫に眠っている。昼食にその残りを食べようと思う矢先に、パスタを茹でたい気持ちが沸いてきて鴨にはもうしばらく眠ってもらう。猫達は残念そうである。この連休は体調不良の日を除いてアルコールの制限はしなかった。水分を望めば手元にアルコールしかなかった。ストックしているアルコールは尽きることなくキッチンに並んでいる。今日はそれでも食指が動かない。少し呑みつかれたのかもしれない。

 この連休を利用してやりたかった本の制作もおわった、なので心に大きな穴が開いている。何事も夢中でやっている間は、生活のリズムがくずれてもそれを継続することができる。それがいい事かどうかはまだ解らない。

それが終わってしまえば消失感が大きくやってくる。何をしようかと、暇でもないのに暇だと思い込んでいる。なぜこんな思考を生み出すのか、自分の脳が何をしたいのか。制作した本がデータの塊になっただけでまだ入稿していないし、ブラッシュアップした方がより満足のいく作品になることも理解している。けれどそれは実行しない。きっとできたことで満足、終わった感覚を味わいたいのだと思う。

 

 体調も少しは回復したが暴飲暴食に出れるほどの元気はない。これからどうしようかと検討した結果、普段の生活のリズムに戻すことになる。毎日のタスクを全て実行するのは腰が重いのだが、出来る範囲でリズムを戻す。体が重たくて動かないわけではなく、休みという時間をより感じたいのだと思う。毎日のタスクは自分のためにやっていることで、他人が私に期待しているわけではないので自足につきる。

 

 久しぶりに夜の街を歩く。自分よりも若い世代の人達が溢れていて、にぎわっている。同世代、年上の世代よりも若い世代は私に対して礼儀正しくストレスのない対応をしてくれているように感じる。具体的に何があったわけではなくそう感じる。

自分以上の世代の心が狭いと感じる瞬間であり、恥ずかしくおもい残念に思う。

自分のあり方を見直す瞬間、より成長していく必要があると感じる瞬間であり、見直す時間である。世の中の大人全員夜の街にでるべきであると少し思う。

 連休の前半で体調不良となる。毎年かもしれないが、今年は暴飲暴食を繰り返そうと計画していたのに2日程度で体が悲鳴を上げる。体の不調はいきなりくるのではなくて、朝起きたら不調となっている。卑怯なのかもしれないが、寝込みを襲われていることになる。もちろん前日は暴飲暴食の酩酊状態でいつ寝たのかも記憶がないくらいなので、面と向かって襲い掛かってきたのかもしれない。何にせよ水と睡眠だけの生活を送っている。体調不良になるときは、かならず外食の次の日である。思い返しても体に悪そうなものは口にしていない。また暴飲暴食を絵にかいたような呑み方をしているわけではないのだが、胃腸の調子がすこぶる悪い。

胸が燃え尽きそうなくらい焼けたような錯覚である。2日たって2日休む、一進一退であると考えるとこんなものかと少し納得してしまう。ちょっと体が落ち着いて、様子を見ながらアルコールを少し呑む。アルコールを嗜む習慣のない人にとっては、非常に滑稽に映っているのだろうと思う。

 

 暑いのが苦手で汗をかくことが大嫌いである。なんの因果か汗かきの体質である。今年はエッセイを自費出版しようと友人と計画していて、この連休で仕上げようと計画していたので、体調不良の自宅監禁も相まって完成することができた。ブログよりもルールを課して散文を作成する。薄い本は作りたくなかったので、2-300頁程度の厚みを予定していたのだが、イラストが追い付かず、見積もり金額に驚いてしまい100頁程度の本となった。文章はそれなりにできたのだが、イラストが自分で書いているのにも関わらず自分のセンスからかけ離れているのだ。自費出版なので自分の書きたいモチーフだけを入れることになるし、他人に書いてもらうつもりもない。好きな絵をかいてみてレイアウトしてみれば、あまりにも自分のセンスから離れているのだ。これはある意味新発見であった。デジタルでイラストを書いているのだがモチーフを書いているときは楽しかった、しかし全体のレイアウトや表現のしかたが、あまりにも自分のセンスからかけ離れている。制作に時間を消費しているので、消してしまうのも勿体ないと思っている。どうしたものか悩ましい問題である。とりあえず買い込んだアルコールをかたっぱしから呑んでいこうと思う。

 自宅でストックしている日本酒が底つきため、週末に酒蔵に買いに出かける。酒蔵から自宅までの帰宅ルートに魚屋が入った食材店があり、店内も混雑していないことからよく利用している。肴とアルコールが手に入ると他に寄り道する思考は完全になくなる。

出来るだけ早く料理して、呑みたいのである。自分の気持ちが自分を急かしている。急かされて舞い上がった私の仕事に良いものはない。急かされた仕事を振り返ってみても、やっつけ仕事を絵にかいたような酷いものである。今回の場面では運転が荒くなるかと言われれば、安全運転である。他のドライバーに呪いをかけるような事もしない。

それは、公共の場で自己中心的にふるまいたくないし、他人に不快感も与えたくない。また、威張ったり他人を威嚇するようなキャラクターでもない。自宅について、壁に囲われてからがやっつけ仕事の始まりである。

購入してきた食材全てを使わないと気が済まない。食べ散らかし呑み散らかし、やっと一息ついたころには泥酔状態である。

自宅であれば、いくら潰れても大丈夫だと思っている。何時か救急車の迎えがくるのかもしれないが、猫では救急車を呼ぶことができないので、安全装置は検討しておいたほうがよいとは思うが、自分を見直せばいいだけである。

 

 自宅には猫が3匹住んでいる。鳥や豚の匂いには食いついてくるが、海鮮類には興味を示さない。おかげで海鮮メインの肴を準備するときに争いごとはなく平和な空気が漂っている。魚屋で買ったというレッテルがあれば、自分だけで食事をするときはなるべく火を通さない料理をする。原始的なのかもしれないが、食材の匂いと手触りで判断している。少々匂ってもバーナーで炙って冷水で絞めてしまう、そして香味野菜や味噌などの調味料を使って匂う事実を隠してしまう。小心者なので他人には提供できない。

このスタイルが続いているのは、魚で痛い目にあっていないからだと思う。食中毒に当たった時、本当に辞めてしまうのだろうか。牛肉と貝は経験しているが、今でも懲りずに生でも食べている。匂いや触感を我慢しながら、捨てるのがもったいないから料理を食べているわけではなく、何時だって舌鼓を打ちながら食べている。この精神があるから食中毒にかかる確率は少し低いのかもしれない。科学的に考えればリスキーなことばかりやっている。週末に予定が入らなければ一日の大半は体内にアルコールが流れている。

下戸なので、大衆と比べると摂取する量は少ないだろう、量の問題ではないことは知っている。この生活がいつまでも続くとは思っていない、まだ改善するつもりは本音にないのだと思う。

  夜のステージで演奏できる機会があり、室内演奏とのことで行ってきたのだが、屋根と壁があるだけの蒸し風呂状態のロケーションであった。そうとわかっていればそれなりに対策をして行けたのだが、室内演奏という言葉だけで勝手にイメージした私の問題である。汗まみれになり、衣服が体にはりついて思うように動けないストレスフルの状態で、少ない私の体力はすぐに尽きてしまい。常時疲れ切った表情であったと振り返る。

スマートフォンの普及で写真や動画が溢れている。他人が楽しんで撮ることには問題を感じないのだが、映った自分の姿が目に入るのがものすごく辛い。その場面には水を差したくないので黙って隅のほうに移動する。自分を認識してもらいたいけれど、写真や映像に残りたくはない。他人の目に映る姿は写真と同じなのだろう、他人の目にどのように映っているのかは気になる。そして現実に辛い思いをする。どうすれば自分を克服できのだろうか。あらためて考え直す必要がある。

 

 仕事をおわると自分だけの時間になる。呑みに行きたい気分の時は迷わず出かけるのだが、体力的にも財力的にも毎日出掛けるわけには行かない。自分がやりたいことは沢山あって、呑みに出てしまえば帰宅してから実施できるほど体力も気力も持ち合わせていない。仕事は肉体労働がなく、事務所に座って好きな仕事をよりごのんでやっているのだが、体力は消費していて真直ぐ帰宅しても自分のための鍛錬に取り掛かれない。無理にでもぶら下がろうと思い、椅子に座るのだが反発とばかりに、ネガティブな発想が次々に押し寄せてきて、やる気を押しつぶしてしまう。自分で自分の努力を嘲笑う。この攻撃が最近は一番辛く、楽器の練習は滞ってしまった。自分の録音にも耐えられなくなってしまった。そしてアルコールに走る。

  週末に予定がなければ、一日は負荷がない日にしている。つまり努力しない日なので、自分の楽なことだけを実施するようにしている。やっていることを振り返れば、料理・飲酒・読書・映画鑑賞と、普段やっていることなので何も変わらないように思える。けれど買い物や楽器・身体のトレーニングなどはしないので、精神力や体力の消費は非常に少ない。もちろん仕事がないことが大きい。平日は一日の大半を会社に提供しているので平日と休日の差は大きい。いずれにしても仕事以外は自分のやりたいことをやっているので、継続しているということは負荷に思っていないということだと思う。

 以前注文した画材が届いたので、週末の早朝にアルコールを呑みながらPCに接続する。久しぶりにインストールや設定の作業をするので、スムーズにいくわけはなく、思っていた以上に時間をかけて接続する。すべての準備が整ったが、作画する気力は残っておらずアルコール摂取だけが継続している。何かをするわけではなく、ただアルコールをちびりちびりとすすっているだけ、何度か寝落ちしたが、窓の外は太陽が沈んでいることに時間を飛び越えたような感覚になる。楽なことだけをした結果、一日の終わりに自分に対して罪悪感の報酬である。呑み散らかしたキッチンを眺めながら、さらに缶ビールを開ける。生活するのに、金銭的な問題は抱えていない。毎日アルコールを満足できるくらい呑んでいられる収入がある。けれど、将来収入がなくなることがあれば、今の生活はできない。未来は解らないが、アルコールを摂取できなくなる事を不安に思う。それほど好きなのだと、そして今を楽しもうと思ってしまう。今は何と言われようが、飲酒をやめるつもりはない。良い意味で口を挟んでくれる人達に、無言の感謝を送る。

 

 堕落した週末を過ごしたあと、タスクにまみれた平日がやってくる。自分の余力はまだあって、絞ればもっと活動ができるのだが楽をする方向を選んでしまう。公共の場では他人をみて我振り直そうと思い、行き交う人達を観察している。時代の進歩もあって、公共の場にでれば、老若男女スマートフォンと向かい合っている。スマートフォンの向こう側は魅力的な情報で溢れているのだと思う。自分にとって動画は映画くらいしか観ないので、自分のスマフォに動画が勝手に流れれば見入ってしまう。映画予告の目的と同じなのだろうが、見入った動画に目的は感じられなく、得られるものもない。この分野のビジネスモデルに知識がなく、動画を乱立している目的も効果も解らないので気持ちが悪い。

得体のしれない不思議なものに、残された私の人生を消費されるのは腹立たしい。スマートフォンをやめればいいのだが、物事によっては非常に便利で効率的なのだ。辞めたくてもやめられないことに持って行けた、スマートフォンは脅威の存在である。未来はどうなるか解らないが、支配という単語は好きになれない。