足を組む癖と戦っている。数年前に、足を組む癖を克服できていたと思っていたのだが、気が付いたら足を組んでいるのである。

足が重なることで、重なった肌が蒸れて不快に感じる。それなのに足を組んでしまう。形状記憶されているように自動的に。そして蒸れることで不快を感じる。そして姿勢を正す。一連の動きは飽きることなく繰り返される。これは、終わりのない戦いなのかもしれない。理不尽な争いが繰り返されるように。自分の身体ですら、何も学んでいないことに悲しく思い、アルコールを呑む。

 

 

 

 酒場にて若い世代と会話をする。音楽の話をするのだが、LPという存在がわからないという。音楽媒体では今時珍しいものかもしれない、と思うところがある。けれどCDを知らないことには驚いた。完全に知らないわけではないのだが、親が持っていましたというレベル。では音楽を聴かない生活なのかと聞くと、ずっと聴いているという。音楽媒体を買う感覚がない世代を、知れたことが嬉しかった。これが、歴史の中で生きているという感覚なのかもしれない。

 

 ホットプレートを導入してから、広島焼の日々が続いている。ホットプレートを使うことが楽しいのだ。肝心のコテなのだが、100円ショップで買えるものは全て試して、使いこなすことはできなかった。今は国内メーカー製の樹脂ヘラである。広島焼の醍醐味はひっくり返すところにあると思っている。ヘラを変えてから、理想とする完成系に少し近づく。材料の調合と火力、タイミングを見つけることも必要である。連日1枚以上は焼いているのだが、まだ定まっていない。都度、反省点を発見していく。飲食店ではないので、2枚以上焼くことはない。胃袋が小さいことを悔やむ瞬間である、そして次の日には忘れている。

 それでも連日することで、少しずつ前に進んでいるような気がしている。継続は力なのだと、自分に自慢して自己肯定感を上げてもらう計画である。

 

 何時も失敗が多く、後日反省していることが多い。失敗は成功の素というが、失敗を教訓にできていないのだから、狂気の連続である。反省に苦しめられて、喉元を通りすぎれば忘れてしまう。改善策はいろいろ思いつくのだが、いつだって喉元を過ぎるのを待っている。どんなに苦しくても、それは飲み込まれていく。身体にとって有害なことだとわかっていても、目を閉じて飲み込めるまで待っている。それが一番楽だからの行動だと思う。いずれ体の中にそいつが溜まって、腐敗して病気の原因になることは容易に想像できる。それでも飲み込み続ける。猫のように毛玉を吐き出せたらいいのにと、楽観的に考えいるところもある。吐くことは辛いのだが、そのあとに楽になることを知っているから。そう考えると、飲み込んで吐くことは今一番楽な行動なのかもしれない。以前は、一番は何もしないことだと気づいて、この思考になっている。もしかして次の思考に行こうとしているのかもしれない。

 

 物価が高騰していると、食材店に行くたびに思う。価格が倍になっているわではないのだが、古い価格設定と物の価値観に支配された脳は、今に追いつけないでいる。それでいて高級食材が好きである。今まで背伸びして食べれていたものが、手の届かないところに行ってしまった。食材の立場では格があがったのだから、祝ってもいいことなのかもしれない。潔く、今までありがとうとエールを送る。豆腐とモヤシを買って帰る。

 アトリエの中庭には、柿の木が生えている。毎年甘い柿を実らせてくれる。半分以上を野鳥に差し出して、残りを食べる。今年は暑かったせいか、熟すのが早いような気がする。野鳥が残してくれた、熟した柿を食べながら思う。食材がもう買えなくなったら、この柿の木を頼りに生きていかなければならない。そう考えながら小さな柿を3個食べる。全然腹が満たされないのだ。

 

 酒場に出かけないときは、自宅で晩酌をする。血中アルコールが上がってくると、肴をつくる気がなくなってきて、スナック菓子をフードストッカーから出してくる、立ち上がるのもしんどくなり、座っている位置から手の届く範囲にあるものを食べだす。そのうち猫の缶詰にも手を出す時がくるだろう。塩をまぶせば以外と食べられるのだろうか。

アルコール単体が好きであっても調理したものを食べたい、ホットプレートがあれば手元で料理ができるのではないか。食材さえ手の届く範囲にあれば、席を立たなくても調理ができて、肴にも困らないだろうと考えて購入。

 広島焼を作ろうと意気込んだのだが、鉄板がテフロン加工してあり、自宅には鉄のヘラしかないので使えない結果となる。シリコンヘラを追加購入の手前で止まってしまった。売っていないとか、買う余裕がないのではなくて、買いに行くという行為が行動に移せないのだ。あまりにも出不精すぎるだろうと、自分を蔑みながら今日もアルコールを呑む。

 

 平日の夕刻に、学生たちの帰宅時間と重なる。はしゃぎまわる学生達はうるさくて近寄りがたいのだが、どこか純粋さを感じさせてくれる。同じように帰宅する社会人たちの、疲れ切った雰囲気の影響なのかもしれない。女学生が通学カバンに、好き勝手つけているキーホルダーやぬいぐるみも、ほほえましいと思えてきてしまう。女学生に思うだけで、男子学生が同じようにはしゃいでいれば、うるさいだけである。それでも、中年男性の死んだような表情があふれている駅の中では、純粋さが光っている。ただ、女学生と同じように、カバンにキーホルダーやぬいぐるみを付けた男子学生は、ほほえましくないと思う。

 アルコールに溺れるように日々飲み続ける。体調が悪くなっても次の日には再開している。心のどこかでアル中と呼ばれたいのかもしれない。アルコールが体内に廻ってくると饒舌になっていく。後日振り返ったとき、そんな自分が嫌いなので出来る限り喋らないように意識をしている。それでも毎回反省している。反応してしまう単語のスイッチが多すぎるのかもしれない。下心はないのだが、だらしなく自己中心的になっている。自分の嫌いな人になっていくのは辛い。残念なことに改善はいまだにされていない。それでも今日からはと、口を閉じて酒場を徘徊する。

 

 週末に予定をいれて、昼間から外出すると体がものすごく疲れる。日差しと気温の影響である、汗はとまることがなく、溶けてなくなってしまうのかもしれない。環境の本を読んだせいか、気温は年々上昇しているように考えてしまう。それが現実であれば、数年後には人間が活動できない外気温になるだろう。自分にできることは、外出スケジュールを見直すぐらいしか思いつかないことが悲しい。

 昼間に街に出てみると、意外と外出している人が多いことにおどろく。日傘もささずに太陽光線を直接受けている人が多い。それでいて平気そうなのだ、特に競争意識や嫉妬心は芽生えない。真似をすると倒れてしまうだろう。地球環境が変化していることよりも、自分が老朽化してきたということの証明だと受け止める。日差しの強い中、古い商店街は活発に活動してる。応援してあげたくなるくらいである。自分だけが老朽化しているような錯覚になる。

 この季節になると高い確率できゅうりをたくさんもらう。農業を営んでいる知人から、商品企画からはずれたものを貰っている。知人本人で消費すればいいのだが、採れる量が多いので貰い手がなければ破棄するとのことである。いつも無料でもらうので、何やら申し訳ないと思うのだが、本人も破棄はしたくないので消費してもらえるのがうれしいとのことである。お返しに別のものをあげればいいのだが、色々なしがらみがあるので何もお返しはできていない。何かチャンスがあればと思っていたりする。簡単なことが出来ない、本当に不器用な人間だと思う。

 きゅうりの大量消費に冷や汁がある。大量消費なので体積の半分はきゅうりである。料理は好きだけどやる気がおきない。そんな人のための料理じゃないかと思う。この季節はずっと飲んでいる、やる気がないことが慢性的なのだと気づく。