体調不良でベッドで過ごす時間が一日の大半を占める。

GWの連休は映画を観て過ごそうと予定していたが、体調をくずして半分ベッドの上である。もともと家の外にでるつもりもなくて、アルコールと肴に浸るつもりが水とベッドである。目覚めたときに映画をアルコールなしに観る。映画の出来はアルコールの有無に左右されることはなく、自分が厳選した作品は外れることなく私を魅了する。観たい映画は星の数ほどある、自分の体力と気力の問題でどれだけ裁けるかであり、観たいものが底を尽きることはないと思う。

素晴らしい作品にであったときは、自分が病気で弱っていても心は躍る。古い作品はネットの世界にいくらでもレビューがあって、みんな好き放題語っている。今回きずいたのが、他人のレビューには救いのない作品と評価されていて採点が低いのである。私は同じ作品をみて救いがある作品であると感じて採点は高い。人によってとらえ方は幾らでもあって、どう感じるかは自分冥利につきるのだと感じる。自分の解釈は間違っているかもしれないが、消費者のレビューは真に受けるものではなくて参考にするものである。

 

 体調不良で一番つらいのが味覚が無くなることである。疲労は寝てしまえば回復するのだが、味覚が回復するのは時間がかかる。今の価値観における味覚は重要なものであり、奪った者が何者であってもゆるせないのである。憎しみは持ちたくないのにネガティブな空想は次々に湧いてくる。体が弱ったことで、自制心も緩んでいるのだろうと感じるのは逃げなのだろうか?振り返れば、何時も弱いものだけに強いのである。人や物の上に立つことは、何も生まない生産性のないものであると思っている。そのためにも自分に対しても強くありたい。自分の敵は自分なのだとつくづく思う。

体調がすぐれないときは、アルコールがすぐに体中に廻る。血行がいいのだろうと思うようにしている。

 

 書斎の音響を少し触る。スピーカの位置を変えただけで映画の臨場感は抜群によくなった。何事も考えてしないといけない例である。自分ひとりで完結することは極力手を抜いている。考えるリソースをできるだけ省きたいのだ。面倒くさいことと考えたくないことは表裏一体だと思う。面倒くさいを選択した結果に、満足できるのであればそれでいいと思う。バランスは常に一定ではなくて、崩れた時に苦しむのは自分ひとりである。苦しみたくないから思考が働くのであって、考える現実からは何時までも逃げられないのである。今日はもう1本映画を観ようと思う。