攻撃的な人が嫌いだ。

ふと気づいた時に自分が攻撃的な人になっているときがある。攻撃されるのが嫌で攻撃的になっている時と、自分以外を見下して傲慢になっている時がある。自分が嫌いな人になってしまうのは避けたいので意識しないといけない。傲慢なのは絶対に避けたい。傲慢な気分を客観的にみると、他人に対して偉そうにしていているのだが、中身は小さく非常に弱い存在である。世の中にいる偉そうな人は、ほとんどの場合がこんな中身なのだろうと思う。偉そうにさせている思考を変えることができれば改善できると考えている。日常の生活の中でどれだけのシーンで偉そうにしているのだろうか?数を数えようと試みたが意識してそうなったわけではないので難しい。振り返った時に傲慢だったと反省するときは非常につらい。誰かに直接傲慢を投げかけなくても、空想で投げつけているのであれば同じことである。その時の自分の表情や雰囲気は出力されてしまっている。生活にしかめっ面は必要ではない。

 

 18世紀の思想家がとなえる教育思想について解析した本を読む。私は今まで自由思想にはいつも懸念があった。暴力や略奪にもそれぞれ自由の影がついてまわっていると考えていることもあったが、その本では自由にふるまう前提に、他人に害を加えないという言葉がある。その前提に共感するが、他人に害を加えない自由を見つけることは出来なかった。考えすぎなのかもしれない。

個人がばらついているこの時代、他人に害を加えない自由があるのだろうか?私の今の答えが、自足することと目標にしている。

思考するときに自足という言葉を思い出すのだが、普段の生活では忘れてしまっている目標でありキーワードである。

自足するために努力をしているわけではないが、昔と比べて方向は向いていると思っている。

 

 若い人達とプリクラをとる機会があった。今でも手帳に挟んでいるが、加工された自分の姿に気持ち悪さを感じる。写真だけ自分の本当の姿でなく、外観だけ作り替えられた姿に興味がないのだと改めて感じる。おそらく誰が見ても、美容整形できたとしても選択しない気持ち悪さである。みんなそれぞれに外観のコンプレックスをもっているからこの商品が生まれたのだろう、けれどプリクラだけで満足している人はいないと思う。

食べ放題の飲食店に行く。喜んでいる人達を横目に自分にはもう会わない価値観の差を感じてしまうのだが、ガッツいて食べてしまう自分がいて、食べ過ぎたあとに反省する。育ってきた環境は人それぞれに違うから本質を変えるのは困難だろう。けれど胃袋は年々小さくなっているのだから、思考だけでも変化させていくべきだと思う。