「ない」から「ある」へ。「責める」から「ゆるす」へ。
先日、家計簿を書いてて10,000円足りないことに気付いた。げっ10,000円も足りない何でどこに使ったどこかで10,000円多く払った知らないうちに10,000円もないなんてどこかでぼられた家計簿書いてるのに何でとざわついた。しばらくして、また「ない」ばかりフォーカスしてると気付いた。そう気付くと、「ない」の世界で生きるのか「ある」の世界で生きるのか選べる。きっと、どこかで私は10,000円使ったんだろうな。今、こうして豊かに安心して暮らせてるのは思い出せないけど10,000円使ったおかげで今があるんだろな。10,000円がない、じゃない。10,000円があったから、使ったんだ。そういう風にとらえるとざわついた気持ちがすっと引いて満たされた気持ちになった。今までだったら、家計簿書いてるのに使途不明金があるなんて❗️とネチネチ自分責めしたり、自分の行動を振り返って原因探しをしていた。自分の行動を許せなかったからだ。でも、この自分を逐一、見張ってネチネチ自分責めをするこのゲーム、ものすごく疲れる。「責める」から「ゆるす」ことにした。家計簿書いて使途不明金があってもいい。何に使ったか思い出せなくてもいい。つい「お金ない」とやってしまう私でもいい。自分責めをやりたいなら、してもいい。それが本当にやりたいことなら、それでいい。そうやって、ゆるすと、身体の力が抜けてホッとした。私の世界が優しく広がった気がした。ゆるす、ことは憧れの誰かになろうとしなくていいよ、もう今の私でいいよ、という自己受容なんだと思った。大分 国東の海。波がなく穏やか。