曇りときどき晴れ -5ページ目

動的平衡(どうてきへいこう)

4年ほど前、私は双極性障害 という病気になった。

躁鬱病とも呼ばれているが、そちらの方が一般的には馴染み深いかもしれない。

文字通り、自分の意志と関係なく不定期に極端な躁状態と鬱状態を繰り返す病気だ。

最初、心療内科で鬱病と診断され、抗鬱剤を服用していたのだがすぐに躁転した。

双極性障害のうち鬱病と誤診される例が37%にのぼるという。処方すべき薬が異なるので、

誤診すると症状が悪化したりすることになるのだが、

双極性障害の鬱状態と、鬱病の症状が似ていることから、誤診される可能性は高い。

(双極性障害の原因は、シナプスと、セロトニンやノルアドレナリンなどの脳内神経伝達物質を介した

神経伝達機構に障害が生じるためであるという「モノアミン仮説 」が有力である。)


躁状態になると、次から次へといろんな考えやイメージが頭の中に浮かんで、

ずっとそれを考え続けてしまう。

しかも頭に浮かんだことを、誰かれ構わず何時間にもわたってしゃべり続けてしまう。

意識的に何かひとつのことに集中することもできないし、睡眠をとることもできない。

さらに幻影や幻聴によって、現実の世界と虚の世界の区別がつかなくなることもある。

逆に鬱になると、何をやっても上手くいかないのではないかと何でも悲観的に考えてみたり、

死がすぐそばにあるような、強烈なマイナスイメージに支配されたりする。

こうした気分障害のほかにも、味覚や嗅覚や視覚が異常なほど敏感になったりして、

ふつうに生活することが非常に困難になる。

気が狂う一歩手前まで行ったこともある。

本人だけではなく周りにいる人にとってもやっかいな病気だ。

病気がひどい状態にあったのは1年ほどの間だったが、その間ずっと、

「生きるとはどういうことなのか?」と「人間とは何なのか?」という抽象的な問いについて考えていた。

特に鬱状態になると「死」のイメージがあまりに強くなるので、

「死」の反対にある「生」を意識して考えようとしていたせいでもある。

もちろんその答えを見つけることなく現在に至っているが、

「生と死」、「上と下」のような反対概念は、実は相互補完的関係にあるということを

その時改めて発見した。

簡単に言うなら、「上」という概念はそれ自体単独で存在し得ない。

「下」という概念が対になって初めて存在し得るということだ。

「生と死」、「右と左」、「表と裏」なども同じだ。

「概念」というものがまたかなり曲者であるが、本論とは関係ないし、長くなるのでこの辺にしておく。


とにかく病気のお蔭?で「常識」を疑うようになったし、

なぜその常識が形成されたのかについてのプロセスを考えるようになった。

私が使用しているパソコンのデスクトップを「クラインの壺」のCG画にしている理由は、

モノゴトを表とか裏とかという単純2元論で捉えるのではなく、

ひとつの事象を様々な角度から眺めるということを習慣化しようと思ってのことだ。


デスクトップの画像を見て、まだ病気が治癒していないと考える人も多いが。


ところでつい先日、「生きるとはどういうことなのか?」「人間とは何なのか?」の答えの一部を

ある本の中で見つけた。

その本のタイトルが、「動的平衡 」だ。

著者は青山学院大学理工学部教授の福岡伸一 氏、出版社は雑誌「ソトコト 」を発行している木楽舎。


答えの一部と言ったのは、「生きているとはどのような状態を指すのか?」と

「人間とは何なのか?」についての答えだったからで、

「生きるとはどういうことなのか?」までは含まれていなかったからだ。

本の内容についてはあまり詳しく触れないが、圧倒的な説得力を持って頭にインプットされたのは、

食べ物を消化する意味についてだ。

消化とは、腹ごなれがいいように食物を小さく砕くことがその機能の本質では決してなく、

情報を解体することに本当に意味がある。」

他の生物のタンパク質をそのまま自分の身体に取り込むと、情報同士が衝突し干渉し合い、

アレルギー反応や、炎症、拒絶反応などのトラブルを引き起こす。

それで情報の解体が行われるのだという。

文中には詳しく書かれていないが、「臓器移植」がなぜ拒絶反応というトラブルを起こすかと言えば、

移植された臓器が他者のものであったという情報の解体が行われていないからだと理解できる。

「人間とは何なのか?」という問いに対する答え?は、

ほんの少しだけ触れられているミミズについての記述で見つけた。

一本の管のような生き物であるミミズには脳に相当する部位がない。

ないが、考えているかのような行動をとる。

消化管の周りに張り巡らされた神経ネットワークによって「考えている」という。

(この部分で身体の外部と内部についての記述があるが、これもかなり興味深い。)

私は、病気の時、「人間とは何なのか?」という自問に対し、

奇しくも「中枢神経が異常発達したミミズである。」という答えに達した。

キリンが首を長くし、ゾウが体を大きくして鼻を長くしたのと同じように、外部環境の変化に応じて、

人間はただ脳を発達させたにすぎない。しかも現在の人間は完成ではない。進化は続いている。

進化という言葉が正しいかどうかもわからないが、

ただ生き物は環境に順応するために変わり続けていることだけは確かだ。


本論とは関係がないが、以前、臓器移植の本に、臓器の移植を受けた患者の性格が変化した例が

複数報告されている、と書かれていた。臓器提供者の性格に似ているのだそうだ。

ミミズの消化管神経ネットワークと、

人間の大脳だけでものを考えたり感じたりするのではないという説を考え合わせるなら、

臓器移植の持つ意味が違う重みを持って迫ってくるようにも思う。


最終章にある文章。

全身の細胞が一つの例外もなく、動的な平衡状態にあり、日々、壊され、更新されている。」

細胞の分裂が起こらないとされている心臓や脳でさえ、個々の細胞の中身はどんどん壊され、

新しい分子に置き換えられている。」

生きているとは、食べ物を食することでそれらが新しい細胞に置き換わり、


古い細胞を捨てて行く作業を指す、と著者は言い、その状態を動的平衡と呼んでいる。

「動的平衡」という本をどう読むかは、人による。

ソトコトの出版社から出ている本なので、ロハスのことが書かれていると取ってもいいし、ダイエットや美容についても書かれているし、このところ豚インフルエンザが大きなニュースになっているが、ヒトと病原体の戦いについても書かれている。

多様なテーマを網羅しながら、実は「生きているとはどのようなことを指すのか。」

という一つの明確なコンセプトが貫かれているように思えたのである。

勉強してます

急に思い立って今月からグロービス に通い始めた。

グロービスは、MBA科目を選択履修することで、マネジメントスキルを身につけるためのオトナの学校である。

2年前に「マーケティング・経営戦略基礎」を受講していて、今回はちょっと上級クラスの「経営戦略」をとった。

1回の講義は3時間だが、アッという間に過ぎてしまう。

受講スタイルは、グループディスカッション → 発表 → 質疑応答 → 講師による補足説明という順に進む。

いきなりディスカっションが始まるので、予習は欠かせない、というか、予習してないと出席する意味がないし、

3時間も針のむしろに座るような苦痛を味わうことになる。

予習には5~7時間くらい割くのが望ましい、らしい。

が、それは、基本的な戦略フレームワークが使いこなせたり、財務諸表を読むことができたり、

ということが前提になっている。


私はMBAを取ろうと思っているわけではないし、よい成績をとって褒められようと思っているわけでもないが、

バックグラウンドや年齢を超えて、同じテーマについてガチンコで討論し合うというのが純粋に楽しい。

スキルが身につくことや、論理的思考ができるようになることはもちろん目的のひとつだが、

ヒトと出会うことが大切なのだと思う。


My Tube

野球では侍ジャパンが世界一に輝き、サッカー日本代表はバーレーンに辛勝してワールドカップ出場に前進し、

F1ではホンダが抜けた後のブラウンメルセデスのジェイソン・バトンがポールトゥウインを果たした。

明るいニュースだけを追っていけば、金融危機も少し遠のいたようにも感じる。


が、それほど甘くはない。

東証日経平均株価は先週末から390円89銭も下げた。

利益確定売りだそうだが、まだこの程度の株価で利益確定しなくてはならないほど、

マーケットに力がなく、リスキーだということに他ならない。

まだ、カネもモノもヒトも動いていない。

フリーズしたままだ。


明るいニュースはないのか?

景気悪化の影響を受けにくいと言われているIT業界も、どうやら厳しいようだ。

2005年頃、盛んにもてはやされていた「Web 2.0」がどのようなものだったのか、

わからぬまま死語になろうとしている。

今は「クラウド」という言葉が、IT業界では旬なのだという。


ときおり私は、You Tubeにアップされた画像をときおり観る。

ビジネスモデルとしては、まだ確立していないけど観る分には楽しい。


昔かじっていたラリーの映像を見ると胸が高鳴る。

グループB時代のクルマは見ていて楽しい。

神岡ターン なんて知っている人いるだろうか?

コーナーの曲率が思ったより深かった時などに、クルマをスライドさせている最中に一瞬バックギアに入れ、

スライドを持続させるテクニック。

神岡ターンと呼ばれている理由は、神岡政夫という人が考え出したテクニックだから。


それから、なかなか見ることのできないライブ映像。

ロック、ジャズ、クラシック、Jポップなどにもレアな映像がある。

音楽だけではなく、落語や漫才も見ることができる。


音楽では、ピアノやギターなどのコピーも数多くアップされている。

ほとんどがアマチュアで聴くに堪えないものばかりだが、

ひとりだけ、空気を変えられるほどのすごい演奏を見つけた。

へたれと自称する22歳のコ

ヘビメタなので、抵抗ある人はいると思うが、hungry Days の1人ツインギターを視聴すると、

曲を知らなくても驚くと思う。

ギターの教科書に書いてあるような正確できれいな運指にまず驚かされる。

特に小指がハンマリングオンやプリングオフはもちろん、チョーキングさえできそうなほど柔軟で強い。

クラシックギターやジャズギターもこなせそうだ。

基礎がしっかりしているみたいだから、村治佳織の「サンバースト」なんかも弾きこなせるかもしれない。

メタル系のテクも、ピッキングハーモニクスや、タッピング、スィープなども完全に使いこなしている。

メタルアレンジでKAT-TUNのLIPS を弾いているけど、オリジナルを超越したテクニックを披露してる。

練習とか努力だけで辿りつけるレベルではないということ。


再生回数も多いし、コメントもものすごく多い。

多くの外人さんが視聴しているみたいで、コメントの90%が英語だったりする。

ところで、へたれさんは超絶テクニック以外にも、話題を捲き散らしている。

膝上ストッキング + ゴスロリ風衣装というファッションではあるものの、男性ではないかという疑惑があるのだ。

男性派の人は、手が大きいと言う。

女性派の人は体型(特にレッグライン)が男性ではありえないと言う。

私は男性でも女性でもいいと思う。

日本人のロックギターリストで衝撃を受けたのは、

33年前、初めてBOWWOWの山本恭司の演奏を聴いたとき以来かもしれないから。


ともかく、「いとし こいし」の漫才、ショパンコンクールのブーニンの演奏、ビル・エバンス、コルトレーン、

キャメル、カンサス、EL&P、それから古いサントリーのCM(ペンギンズバー )に続いて、

へたれさんの演奏を視聴したりしているわけです。

It's My Tube.







ディスカウントショップ

リーマンショック以降、価格訴求を前面に打ち出した「激安店」が、

マスコミでよく取り上げられるようになった。

購入する側の立場で言えば、品質との兼ね合いでモノは安い方がいい。

最近マスコミでよく取り上げられているのは、食品分野ではセブン&アイホールディングスの「ザ・プライス」や、

家具・インテリアの「ニトリ」。


「激安店」は、不況になると取り上げられる機会は増えるものの、必ずしも価格訴求型の業態が、

(日本においては)成功しているわけではない。

たとえば、小売企業として数少ない勝ち組と言われているセブン&アイホールディングスは、

1978年に子会社化していた総合ディスカウントショップの「ダイクマ」を、2002年にヤマダ電機に売却している。

売上高日本一だった頃のダイエーは、「Dマート」というディスカウント店を展開していたが、

一度も黒字化することなく撤退を余儀なくされている。

世界一の売上高を誇る小売企業であるウォルマートの日本における子会社「西友」は、

2002年のウォルマート資本参加以来、その世界一のオペレーションノウハウを投入されながら、

未だ黒字化することなく現在に至っている。

埼玉地盤のロヂャース、都市型総合ディスカウントストアの御徒町「多慶屋」も、リーマンショック以前より、

業績は下降し続けている。


つまり、激安店は、ビジネスとして成立させるのがとても難しい業態であるということである。


激安店のことを、日本では総じてディスカウントショップと呼んでいる。

ところがアメリカの小売業のフォーマット分類では、

主にナショナルブランド商品を値引きをして販売する業態を「オフプライスショップ」と呼び、

科学的なオペレーションや仕入れ・販売の仕組みによって劇的なコスト低減を果たし、

圧倒的な安売りを構造的に可能とした業態を「ディスカウントショップ」と定義している。

日本で言われているところのディスカウント店は、仕入先に無理を言って安く仕入れ、

競合他店のチラシ価格を参考に自社の利益を削って安く販売する店舗のことを指す場合が多い。

仕入先に対する「お願いと脅し」、自社の「我慢と忍耐」が、日本型ディスカウント店の重要なノウハウと言える。


したがって厳密に言うと、ヤマダ電機やヨドバシカメラなどの家電量販店はディスカウントショップではなく、

「オフプライスショップ」業態に分類されるべきだろう。

また、アウトレット店もオフプライスショップ業態である。


構造的に低価格で販売できる仕組みをつくりあげた意味でディスカウントショップを定義するならば、

ニトリ、ユニクロが入るが、それ以外はあまり思いつかない。


1980年代、多くの流通企業がディスカウントショップを展開したが、ほぼ失敗に終わった理由は何か?

あるいはウォルマートが西友の黒字化に手こずっている理由は何か?

大きな理由として考えられるのが、「土地」と「物流」である。

ウォルマートは、出店する地域を定めると、まず巨大なディストリビューションセンターをつくる。

そしてディストリビューションセンターの周りに店舗を出店していく。

効率的な物流網を構築した上で出店していくので圧倒的にコストが低減される。

しかも集中出店により、ドミナントエリア(寡占地域)を形成することにもなる。

規模は違うが、日本でも同様の出店方法を採る企業がある。

セブン・イレブンだ。

ただし、コンビニレベルでしか使えない。

日本では土地の用途に関する法律が厳しく、またそれらがクリアになったとしても土地の権利関係が複雑だ。

ウォルマートが考えるような土地取得は困難を極めることになる。

さらに物流コストはアメリカとは比較にならない。

トラックのサイズが小さく、高速道路通行料は高額で、その上税金の関係で燃料コストも高い。

規模の経済が効きにくい条件が揃いすぎているため、ウェルマートの持つノウハウの大部分は、

少なくとも日本においては宝の持ち腐れとなってしまう。


さらに、日本の消費者の特性が問題になる。

よく日本の消費者を満足させるのは世界一難しいと言われる。

一億総中流(収入格差が小さい)で、品質や嗜好にうるさいからだと言う。

本当にそうなのだろうか?

確かに民族や宗教による格差はほぼ無視できるレベルにある。

だが、今のように格差社会と言われる以前から、貧富の差を表す「ジニ係数」は小さくなかった。


私は、日本人の(消費財に対する)情報格差が世界有数といえるほど小さいことが原因であると考えている。

情報格差が小さければ、所属しているコミュニティの属性によって所有する商品の方向性(価格・品質・嗜好)が

決定されてしまう。

日本人は、血縁、社縁、地縁といったコミュニティにおいて、「マズローの欲求5段階説」の、

第3段階の「社会欲求」と4段階の「尊敬欲求」とに大きく揺り動かされながら生きている。

自分が欲しいと思って購入している消費財が、実はコミュニティの一員として認められたり、

尊敬を集めたりするという潜在的要因が商品の購買動機になっている場合が多い。


アメリカでは、人種や民族、宗教、収入などによって居住地域がある程度色分けされている。

こうしたデモクラティックデータを基に商品構成を決定し、極限までオペレーションコストを削減すれば、

ディスカウントショップをランニングさせることはそれhど難しいことではない。


日本でディスカウントショップ業態がきちんと成立しなかったのは、土地と物流はもちろんだが、

それに、仕入先に対するお願いと脅し、競合店に対する価格優位性を打ち出すための自社の「我慢と忍耐」が、

継続的なシステムに組み入れることができなかったことが大きい。


流通業にとって、価格訴求は麻薬だ。

価格を下げて集めた客は本当の客ではない。価格を上げればすぐにいなくなってしまう。

価格訴求力以外の何かを見つけなければ、永遠に利益なき安売りを続けなくてはならない。


もちろんモノを安く提供することが悪いと言っているのではない。

中長期的な視点で考えて、消費者から支持され、社員が幸せに暮らせるだけの収入を得られ、

仕入先に無理なお願いをせずに、合理的な方法でコストを低減することができるなら価格は下げるべきだと思う。




1985

先日、道頓堀で、ケンタッキーフライドチキンのマスコットであるカーネル・サンダース人形が発見された。

「カーネルおじさん」として親しまれているが、本名はハーランド・デビッド・サンダースという。

カーネル人形は、1985年10月、21年ぶりに阪神タイガースのセリーグ制覇が決定した日、

阪神ファンが胴上げをしながら道頓堀に投げ込んでから行方不明になっていた。

カーネル人形が道頓堀川に投げ込まれた理由は、この年の阪神優勝の立役者となった、

ランディ・バース選手に似ていたためファンが胴上げをしたと言われているが、

真偽のほどはわからない。

あの日、戎橋から道頓堀川に飛び込んだ阪神ファンは(記憶では)300人を数えたと言う。

この年を最後に、阪神タイガースは20年以上日本一から見放されているが、いつ頃からか、

「カーネル・サンダースの呪い」と呼ばれるようになったという。


1985年10月16日、私は広告の仕事で大阪にいた。

大切な話をしていたのだが、ヤクルトとの最終戦が始まると、商談どころではなくなった。

いつの間にかオフィスにテレビが運び込まれ、30名ほどの社員全員が「歴史的瞬間」を一目見ようと、

目を血ばらしらせながら、18インチサイズの画面に釘づけになっていた。

私は試合が終われば商談は再開してもらえるものと安易に考え、

オフィスの隅で、忘れ去られた猫のように村上龍の「テニスボーイの憂鬱」を読みながら、

試合が終わるのを待っていた。


どのようにして試合が終わったのかわからなかったが、ものすごいどよめきがオフィス中に響き渡った。

私が商談で来ていた会社だけではなく、ビル全体がコンサート会場のように「うぉー」をいう声に包まれれたのだ。

やがてビールが運び込まれ、酒盛りが始まった。

「やれやれ」

仕事にならないと判断した私は、ビルの外へ出た。

通りは人であふれかえり、見知らぬ人が何人も「ばんざーい」と叫びながら抱きついてきた。

ビルから心斎橋駅までふつうなら10分程度で着けるのに、その日は30分以上かかった。

その間、ずっとどこからか「六甲おろし」が聞こえていた。

肩を組んで、「もう死んでもええわ」、「生きててよかった」と泣き叫ぶように「六甲おろし」を歌う人々を

泳ぐようにかき分けて駅までの道のりを必死に歩いたのを思い出す。

京都の四条に向かう阪急電車の中でもあちこちで酒盛りが行われていた。


阪神の優勝だけではない、1985年、改めて調べてみるといろんなことがあった年だ。


でも阪神タイガースの日本一は、明るい話題の横綱と言える。

4月、バース、掛布、岡田のクリーンアップが、巨人の槙原から、

3者連続でバックスクリーンにホームランを放った。

あのバックスクリーン3連発だけでも、阪神ファンは「生きててよかった」と思える事件だったという。


一方、暗いニュースの代表は、8月の日航機墜落事故だろう。

生存者4名、死者520名という、航空機事故史上最悪の事故だった。

他にグリコ・森永事件の犯人が終結宣言を行なったり、マスコミの眼前で行われた豊田商事永野会長刺殺事件、

投資ジャーナル事件、先日拘置中に自殺した三浦和義被告によるロス疑惑事件などが起きている。


松田聖子と神田正輝の結婚、女優夏目雅子が白血病で死去、田中角栄元首相が脳梗塞で倒れたのもこの年。

先日、NHKでドラマ化され、ブームになっている白洲次郎もこの年に亡くなっている。


個人的には、ミノルタが世界初のオートフォーカスカメラα7000を発売したことや、

ライブエイドコンサートが開催されたこともトピックだった。


ライブエイドは、世界的に有名なロック・ポップミュージジャンが集い、イギリスのウェンブリースタジアムと、

アメリカのJFKスタジアムの2会場で開催された世界最大規模のチャリティコンサート。

レッドツェッペリンのドラムをフィルコリンズが務めたり、

エルトン・ジョンの名曲「Don't Let The Sun Go Down On Me」をワム!のジョージ・マイケルが歌ったり、

ミック・ジャガーとティナ・ターナーがデュエットしたり、

ポールマッカーニーが「Let It Be」を歌っているときにマイクの調子が悪くなったことなど、

ありえない組み合わせのパフォーマンスや、ぶっつけ本番のライブならではのハプニングさえなつかしい。

解散寸前と言われていたクイーンがこのライブエイドによって、

再浮上するきっかけをつかんだとも言われている。

YOU TUBEにも多くの映像がアップされているので、機会があれば見てほしい。


カーネル人形が発見されたお蔭で、遠くなりかけていた1985年が、少し身近に感じられた。

二月の行方

3月に入り、少し肌寒い日が続いている。

雪が舞ったり、雨が降ったりと空模様もはっきりとしない。


はっきりしないのは空模様だけではない。

株価は下落トレンドの中にあり、ニューヨークダウは6500ドル台、日経平均は7200ドル台で推移している。

GMのチャプター11申請が現実味を帯び始めたし、シティバンクやAIGも予断を許さない状況だ。

政治も混乱を極めている。

3日には、民主党の小沢代表の金庫番である公設第一秘書が政治資金規正法違反容疑で逮捕された。

うやむやの中で、定額給付金を含んだ補正予算が衆院へ差し戻された揚句、2/3議席以上の賛成で

辛くも成立した。

衆院選挙はどうなるのだろう?

支持率が10%を切った麻生自民党が圧勝する可能性も出てきた。


このように波乱の3月がスタートしているのだけど、

個人的には2月を総括しなくては3月のことを考えることができない。

一つ目は2月4日の窃盗事件。


「4日午前11時半ごろ、東京都中央区銀座の貴金属店セルビー銀座店で、

男性店長(48)が店の奥の壁に穴が開けられ、金庫から現金や指輪、ネックレスなど

計約5000万円相当が盗まれているのを発見した。

警視庁築地署は窃盗事件として捜査、壁に穴を開ける手口で犯行を繰り返すアジア系窃盗グループ

「爆窃団」との関連を調べる。

 調べなどによると、金庫近くの壁に約1メートル四方の穴が開けられ、

金庫の扉がバールのようなものでこじ開けられていた。

セルビーは貴金属の買い取りを専門にしており、銀座店は午前11時半から午後8時までの営業で、

3日は休業日だった。

店長が2日午後8時半に店を閉める際、金庫に貴金属を片付けたという。

 現場は、JR有楽町駅の東約600メートルのオフィスビルが立ち並ぶ一角。」                      

(以上産経ニュース からの転載)


もう一つは、2月13日に起こった爆破予告恐喝未遂事件。


「東京都新宿区内の宝石店に現金とダイヤモンドを要求し、

応じなければ爆弾を爆発させるなどと書かれた脅迫文を送りつけたとして、

警視庁捜査1課と新宿署は、恐喝未遂の現行犯で調布市国領、無職、関聖吾容疑者(22)を逮捕した。

捜査1課によると、関容疑者は「生活費に困っていた。宝石店なら金も宝石もあると思った」と容疑を認めている。

 同課の調べによると、関容疑者は13日、東京都新宿区内の宝石店の出入り口に、

「都内の駅数カ所に爆弾を仕掛けた。タクシーで吉祥寺駅に向かいコインロッカーを探せ」

などと書かれた脅迫文とコインロッカーの鍵を封筒に入れて張りつけた。

さらにJR吉祥寺駅構内のコインロッカーに「現金1500万円とダイヤ5億円相当を準備し、

指定したメールアドレスにその画像を送信しろ」と書かれた脅迫文と、

爆弾を模造したプラスチックの工具箱を入れ、数回にわたって同社に電話をかけ、

男性社長(48)を恐喝しようとした。

18日午後、調布市内の公衆電話から現金を要求する電話をかけているところを、

警戒中の捜査員に発見された。」 (以上産経ニュース から転載)


さらに事件にはならなかったが28日には、左手小指が欠損した体格の良いスキンヘッドの男性が、

弊社との過去の取引に絡み、通常では考えられない無理な対応を求めて来店する事態になった。


どうなってんのいったい?

と、自問自答したが、実は意外に冷静で、これだけ短期の間に本庁(警視庁)が動く事件が2回も起こり、

新聞記者や警察官の方々と知り合いにもなり、わりと楽しみながら事件の推移を見守っている感じでもある。


それに悪いことばかりでもなかった。

ヤフーオークションのアクセサリー部門で、2008年度下半期ベストストアの第3位と、

同じく2008年度年間ベストストア第3位を受賞したこと。

落札ランキング である期間上位にランクされていれば、いずれはもらえる賞であるし、

過去に受賞したストアが軒並み退店していることを考えると、権威のある賞とは思えない。

辞退するとことも考えたが、2月はいやな事件が続いたので、敢えて賞を受けることにした。

ただ、落札いただいたお客様にはたいへん感謝しているので、この場を借りて御礼申し上げます。

ありがとうございます。今後もさらなるサービスの向上を目指し、スタッフ一同努力してまいりますので、

よろしくお願い申し上げます。


さて、今日のブログのタイトルを「二月の行方」としたのは、ほんの少し理由がある。

高橋三千綱という作家の芥川賞作で「九月の空」という小説があるのだが、

連作の短編集になっていて、他に「五月の傾斜」と「二月の行方」という短編が一緒に収められている。

蛇足だけど、小説としては芥川賞をとった「九月の空」よりも「五月の傾斜」の方が秀作であると思う。


2月にいろんなことがあって、その2月を象徴する言葉を探していて、急に思い出したのが、

「二月の行方」だったというわけ。

なんかきれいなタイトルです。


百貨店のあかるい未来

百貨店業界が販売不振に陥ってから長い時間が過ぎている。

バブル崩壊の1991年を境に業績が悪化しだしたので、立派な「構造不況業種」と言って差し支えないと思う。

百貨店の売り場は、地階が食料品、1階が化粧品と低価格帯のアクセサリー、

2階から上が婦人服、紳士服、雑貨、高級時計・宝飾品、そして催事場で構成されている。

各フロアのいちばん目立つ場所に、有名ブランドショップを配している。

三越、高島屋、大丸、松坂屋・・・、どの地域にあるどの店に入っても、売り場構成やブランド構成はほぼ同じだ。

買い物が終わって包装紙に包んでもらった時点で初めて、どの店で購入したのかを意識することになる。


「百貨店」というからには、文字通り、百に及ぶジャンルの幅広い品ぞろえを行なっていなければならない。

今は、意味を考えながら「百貨店」という文字を見ると少し哀しくなる。

私がまだ幼なかったころ、百貨店は本当の意味で「百貨店」だった。

我が家は貧乏だったから、お中元とお歳暮の時期にだけ、町の目抜き通りにあった百貨店に出かけ、

満員電車のように混み合った店内を迷子にならないよう、両親の手をしっかりと握って、

売り場から売り場へと必死に移動した記憶が焼きついている。

買い物を済ませ、最上階にあった食堂で食券を購入して「ライスカレー」や「オムライス」を食べ、

それから屋上にあったミニ遊園地で遊んだ。

写真が趣味だった父はカメラ売り場で足を止めてニコンの新製品に見入り、

洋裁をしていた母は、ツイッギーの影響で時の総理大臣(佐藤栄作)夫人まで身に着けるようになった

ミニスカートをショーウインドー越しに食い入るように見つめていた。

最後に家族全員で家電売り場に向かい、家具のように荘重なデザインのカラーテレビを眺めてから

帰路についたのを思い出す。

午前中に出かけたのに、帰宅したときにはあたりは薄暗くなっていた。

40年も前のことだ。


百貨店。

百種類もの商品を販売しているわけではないのから、デパートという名称の方がしっくりくる。

デパートは、デパートメントストアの略称で、もちろん日本がオリジナルではない。

1852年、パリに世界で最初のデパートメントストアである、ボンマルシェが誕生した。

ボンマルシェのコンセプトは、「掛け売りなしの対面現金販売を行なう大規模店舗」というものだった。

つまり当時の大規模店舗は「掛け売り」販売が主流だったということである。


今から105年前の1904年、越後谷呉服店が三越の店名でデパートメントストア宣言を行なったのが、

日本における百貨店の初まり。

店頭における販売は現金を主体にし、外商が担当する上顧客に対しては呉服屋時代からのノウハウである、

掛け売りを採用することで旧来のビジネスモデルとの折り合いをつけている点がいかにも日本的である。

百貨店のルーツは、三越のような江戸期の呉服屋を母体とするものと、

小田急・阪急・東急のように鉄道を母体とするものとがあるが、基本的にビジネスモデルは同じである。

なお店頭においては店側が定めた以上の値引き販売は行われないが、

外商から顧客が購入する場合は逆に定価販売が行なわれることの方がレアである。

外商は、決算期の売上不足を補うための数字をつくる役割=「押し込み販売」を担っているため、

顧客との関係が相対的に弱くなり、必然的に「値引き」という麻薬に手を染めざるをえないという、

構造的な問題点を抱えている。

バブル崩壊後の一時期、決算前に上顧客に帳簿上で販売し決算後に返品処理を行なうという、

「架空売り上げ」が常態化していたが、外商ならではの裏ワザである。


値引き販売を行なければならないという外商の宿命を逆に取って考え出されたのが、

「ごほうび」作戦だと言われている。

定価がはっきりしている商品は、値引きをするとその分だけ百貨店側の利益が減少するが、

価格決定要因があいまいな商品を推奨販売することで、逸失利益を小さくすると同時に、

見かけの値引き率を大きくすることで顧客の満足度も高めることが可能だった。

「ごほうび」の「ご」は「呉服」、「ほう」は「宝飾品」、「び」は「美術工芸品」。

いずれも原価がよくわからない商品である。

「呉」と「宝」と「美」をたくさん販売することで、百貨店に文字通り「ごほうび」をもたらしたわけである。


100有余年にわたる歴史を持つ日本における百貨店は、長きにわたり名実ともに流通業界のキングだったが、

今はスーパーやコンビニ、さらには家電量販店にも後塵を拝するようなありさまだ。

大店法や消防法などの法規制や、モータリゼーションの発達によるショッピングエリアの変化など、

外的要因も大きいが、百貨店業界のあまりの保守的で官僚的な放漫経営が凋落の最大の原因だ。

この数年、生き残りをかけ業界再編が進んでいる。

三越伊勢丹ホールディングズ、Jフロントリテーリング(大丸+松坂屋)、ミレニアムリテーリング(西武+そごう)、

エイチツーオーリテーリング(阪急+阪神) + 高島屋。

では合併することが本当に次世代のデパートメントストアを創造することにつながるのだろうか?


コンビニエンスストアと異なり、デパートメントストアという業態には「規模の経済」が効かない。

扱っている商品のプライスゾーンが高く、ターゲットにしている顧客層の嗜好があまりにも多岐にわたる上、

対面販売中心という労働集約型のビジネスモデルであることがその理由だ。

店名を同じにすることで広告宣伝費などの間接コストは集約できるが、

よほどドラスティックな商品政策をとらない限り仕入れコストはほとんど下がらない。

売り場面積の増大も、コストの増大に比例した売上・利益拡大には結び付かない。

大阪駅周辺では売り場面積の増大戦争が行なわれているが、

商圏内の顧客数が増加したり、一人当たり消費支出が増大するというこも考えられないので、

どこかが勝ち組になってどこかが負け組にならざるをえない。

つまり利益なきシェア競争=ゼロサムゲームがさらに大規模になるだけのことだ。

ゲームの脱落者は吸収合併の対象になるか、倒産することになる。


アメリカにも多くのデパートメントストアがある。

ニーマンマーカス、サックスフィフスアベニュー、ブルーミングデール、メイシーズ、ノードストロームなどが

日本でも知られていると思う。

(個人的にはJCペニーがデパートメントストアに含まれるとは考えにくいので、あえて除外した)

デパートメントストアは、日本にチェーンストア中心のリテールマーケティングが紹介された際、

「専門大店」と訳された。ファッショングッズを中心として扱う大型店舗のことだ。

こちらの方が意味を考えるとしっくりくる。

日本のデパートとの違いは、食品の取り扱いの有無だけと言ってよい。

ただプレゼンテーションの技術の高さや、カラーバリエーションを美しく見せる圧倒的なボリューム陳列は、

日本とレベルが違う。

たとえばノードストロームの靴売り場を見たことがある人ならば、売場を見ただけで、

「感動する」という意味を理解してもらえるはずだ。

売場の適当な販売員に声を掛けて、自分がほしいと思っている靴のデザインと色とサイズを言えば、

即座に数足の靴を持って来てくれるはずだ。そしてひざまずいてシューフィット作業に入る。

私は、50歳代のマネージメント層と思われるスタッフに声をかけたのだが、

彼自身が私のひどい英語に耳を傾けた上、靴をセレクトしてていねいにフィッティングしてくれた。

同じことを日本の百貨店でもテストしたことがあるが、エライひとは自分では動かない。

近くにいるスタッフを呼んで私の希望を聞くように指示したり、

ひどいのになると30メートルほど離れた販売員を指差し、「あの人間に聞いて下さい」と言われたこともある。

本社の役員が売り場のチェックにやって来ている時はひどい。

後ろ手を組んでお客を押しのけるように通路の真ん中を数人の部下を引き連れながら堂々と歩いている。

売り場の販売員が恭しく挨拶するのを、軽く会釈しながら睥睨するように見ながら通り過ぎていく。

変わらなくてはならないのは、マネージメント層だ。

役員が週に一度は売り場に立って顧客のに耳を傾けなくては、問題点の本質は見えないだろう。


ホスピタリティの向上とともに百貨店が行わなければならないのは、売場のSPA化だと思う。

自分たちで販売するモノを自分たちの責任でつくる。

洋服だけではなく、バッグやアクセサリーも含め、「ファッションとは何か?」を

お客にも自分たちにも問いかける売り場を創造できれば、

コンセプトのないセレクトショップのような百貨店からは少しは良くなる可能性がある。

少なくとも全売り場面積の1/3をSPA化することで、利益構造は全く異なるものになるはずだ。

もちろん流通業ではなく不動産業になって久しい百貨店にはかなるハードルの高い注文ではある。


たまには小説を読むのもいいんじゃないか

あまり小説を読まなくなった。

いつもバッグの中に数冊の雑誌と書籍が入っているけど、小説がその中に含まれていることはあまりない。

ちなみに今バッグの中にあるのは、「日経ビジネス2009年2月16日号」、「スティーブ・ジョブズの流儀」、

「人は意外に合理的」の3冊。

どれも「おもしろいから」という理由で読んでいるわけではない。

必要に駆られて、どちらかと言えば、「仕方なく」読んでいる感じ。

書店に入っても、おもしろそうだと思って本を手に取ることがなくなった。

ついビジネスのヒントにでもならないかとか、これから世の中はどう変化していくのかと、

左脳で選んでしまう。

右脳をあまり使わなくなった。


いちばん小説を読んだのは、10代~20代にかけてだった。

その頃の小説は時代を映す鏡のような役割を果たしてもいた。

中学の終わり頃、庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」をきっかけに純文学を読むようになった。

そして高校一年の時、村上龍のデビュー作「限りなく透明に近いブルー」に出会う。

村上龍のデビューに前後して、宮本輝、三田誠広、立松和平、池田満寿夫、

そして少し遅れて村上春樹らがデビューしている。

1970年代後半の数年間は、日本純文学史上最も多くの才能が世に出た稀有な年代だ。

ワインで言えば、1989年とか1995年みたいな年代。


1976年、村上龍は「限りなく透明に近いブルー」でデビューし、

そのデビュー作がいきなり100万部を超えるベストセラーになり、芥川賞を受賞した。

村上龍は芥川賞の授賞式に、サングラスをかけ、ジーンズにカーキ色のプルオーバーを着て出席した。

当時の日本にはまだ、全共闘の臭いが生々しく立ち込めていたのだと思う。

それから4年後の1980年、芥川賞は受賞しなかったものの、全くそれまでとは異なる手法で、

純文学に挑み、社会現象にまでなった小説が現れた。

田中康夫の「なんとなく、クリスタル」だ。


2冊の本を続けて読んでみると、日本の現代化、あるいは戦後レジウムからの脱却が、

この4年の間に行われたことがはっきりと理解できる。

「限りなく透明に近いブルー」に書かれた世界は、もう歴史の一部になっているが、

「なんとなく、クリスタル」には、現代に続く時代のスタート地点のように感じられる。


話が少しずれてしまったが、とにかく20代半ばくらいまで、私は純文学を中心に読んでいた。

別に私が特別なのではなく、周りにいた友人たちもまるで呼吸をするように純文学を読んでいた。

だから小説家志望の文学青年も少なくなかった。

尤も、もう僕らの年代には書くべきテーマがあまりなかったようにも思う。

だから、同年代で比較的成功した純文学作家と言えば、島田雅彦と山田詠美くらいだ。


先日、読売文学賞の授賞式があって、同年代の作家が小説賞を受賞した。

日本アカデミー賞を総なめにした、「おくりびとの」脚本を書き、

読売文学賞の戯曲・シナリオ賞を受賞した小山薫堂が脚光を浴びてしまうが、

小説賞を受賞した黒川創の「かもめの日」は静謐な佳品だ。

とても丹念に、ひとつひとつのエピソードや言葉を大切に選んで熟成された、

芳醇なワインを想起させる作品に仕上げられている。

何十万部も売れないし、「限りなく透明に近いブルー」や「なんとなく、クリスタル」のように、

時代を変えるパワーはないが、メンデルスゾーンのピアノ曲のようにホッとする。

黒川創作品をこれまでいくつか読んでいるが、「かもめの日」が個人的にはいちばん好きだ。


慌ただしい毎日を送っているからこそ、たまには小説を読むのもいいんじゃないか、そう思う。

がんばること、考えること。

諏訪中央病院院長であった(現在は名誉院長)鎌田實(かまたみのる)氏の著作に、

「がんばらない」という本がある。

ベストセラーなので、読んだ方も多いのではないかと思う。


病気と闘う上で、「がんばらない」というと、(病を、あるいは運命を)「受け入れる」ことに近いが、

鎌田氏のもう一冊のベストセラー「あきらめない」という本が示すとおり、

「がんばらない」=「あきらめる」ということではない。


私は鎌田氏と面識があるわけではないし、取り立てて尊敬しているわけでもない。

以前、NHKで瀬戸内寂聴との対談を見たことがあって、その時の印象で言えば、

むしろあまり好意を持てなかった。

個人的にヒゲ面が嫌いというのもあるが、言葉遣いがややぞんざいで、

相手に対するいたわりの気持ちが伝わってこなかったから、というのが理由としては大きい。


だが、「がんばらない」という心の持ちようには理解を示すことができる。

私は会社内で「頑張るな、考えろ。」と言い続けている。

「頑張るな、考えろ!」というのは、私が10代の頃から漠然と持っている座右の銘のようなものだ。


「頑張る」という言葉には、

「固定的で直線的な、しかも他者から強制された意に沿わない努力」というイメージがある。

もちろんこれは私の主観であって、「がんばれ!」と言われると、

脳内にドーパミンとアドレナリンが一気に満ちあふれ、

目標に向かってひたすら努力し続けられるという人もいるかもしれない。

だが私の場合、昔から「がんばれ!」と言われると、やる気が失せる天の邪鬼体質なのだ。


そのルーツは中学生時代にあるように思う。

中学生の頃、私は柔道部に在籍していた。

県内でもほどほどに有名で、ほどほどの強豪校だった。

「ほどほどに」、というのがポイントで、ほどほどのレベルを維持するために、練習は意味もなくハードだった。

一年生の頃、グランドを3~5周うさぎ跳びし、すぐに板の間に30分ほど正坐させられ、

その正座している「もも」の上に先輩が全体重を預けるように両足を乗せ、

さらに屈伸をするように体重をかけてくる。

しびれた足が悲鳴をあげ、苦痛に顔を歪めると先輩が声を浴びせてくる。

「がんばれ、がんばれ!」

そうした基礎練習が何時間も続く中、水分を摂ることが許されないので、夏の練習は特にきつかった。

さらに冬。

今ではあまり降り積もることはないようだが、昔の富山は豪雪地帯だったから冬は雪が降る。

柔道場の屋根から軒下までつららが伸び、寒暖計の目盛りが0℃を大きく下回る中、

一年生は裸足のまま外での練習が待っていた。

氷と雪と砂が混ざってザラメ状になったグラウンドをランニングし、

踏み固められた雪の上で受け身の練習をさせられた。

笑い声に混ざって先輩の叱咤激励の言葉が降ってくる。

「がんばれ、がんばれ!」


では、こうした痛くて辛い練習に明け暮れた一年が過ぎて、柔道が強くなっていたのかというと、

相も変わらず「ほどほど」でしかなかった。

どうせ辛い思いをするなら、本当に柔道が強くなる練習がしたかったというのが本音だ。


こうして、私はがんばるという行為や言葉が嫌いになった。

がんばるという行為に移る前段階にもっと大切なステップがあることに気づいたのは、19歳の頃だった。


富山の新設の普通科高校を遊び呆けながら何とか卒業した私は、

予想通り大学受験に失敗し、家出同然で東京に出てきた。

働くところはもちろん住むところさえないホームレスに近い状態だったが、

運よく住み込みの新聞奨学生になることができた。

今も当時と同じ場所にある、日本経済新聞駒沢専売所。

奨学生という体裁をつくろうため、早稲田ゼミナールという予備校に籍を置くことにもなった。

入学金や授業料はもちろん、家賃と朝晩の食費も無料(食べ放題)で、その上給与まで支給されるという、

実際に始めてみるまでは夢のような待遇だった。


朝、3時50分にベルが鳴り響いて起床する。

作業場に下り、チラシを配達する新聞に一部ずつ折り込んでいく。

配達エリアは世田谷区深沢。

250部ほど配る朝刊の半分を、自転車の前にある籠と後ろの荷台に括りつけて、4時半頃に専売所をスタート。

中間点に先輩が予め置いてくれていた残り半分の新聞を自転車に載せ、

午前7時までに全部数を配り終えて専売所に戻らなくてはならない。

晴れた日だけではない、雨、台風、凍てつくような雪の日もある。

7時から食事。

9時半から始まる授業に合わせ、早稲田ゼミナールへ向かう。

新玉川線(現 田園都市線)で駒沢大学から渋谷へ、渋谷から山手線に乗り換えて高田馬場へ、

高田馬場で地下鉄東西線に乗り換えて早稲田という順路だったが、

新玉線と東西線の混み具合が、富山しか知らない私には耐えられないほど苦痛で、

しかも偏差値が40以下だった私には、予備校の授業は高度すぎて全く理解できず、

結局1週間ほどで止めてしまった。


午後3時半には専売所に戻って夕刊を配達。

夕食前後に次の日のチラシを新聞に折り込みやすいように、まとめる作業が入る。

その他に集金や拡張業務が付加されていた。

集金は時間を奪い、拡張は精神に苦痛を与える業務だった。

拡張コンクールというのが年に何度かあって、誰が何件獲得したかがひと目でわかるよう、

食堂にグラフに張り出されていた。

私は10人ほどいる所員の中でいつも最低の成績だった。

見知らぬ人の家の呼び鈴を押して、必要かどうかも分からない新聞を取ってくれと頼む。

断られると傷つくし、運よく取ってくれることになっても、配達部数が一部増えるだけのこと。

つまりどちらに転んでも心か身体、いずれかの負担になるという業務だったということだ。


何度か荷物をまとめて専売所から逃げ出そうとしたが、いつもできなかった。


最終的に私が選んだのは、大学に合格して専売所の所長や仲間に笑顔で見送られる、

というシナリオだった。

脳内でのシナリオは完ぺきだったが、現実はそれほど甘いものではなかった。

7月、とにかく今の自分の実力を知ろうと代々木ゼミナールの模試を受けた。

偏差値は英語が35、国語が45、社会が40で、総合では37くらいだった。

簡単言えば、その時点で私が合格できる大学は日本にほぼ存在しないという結果。


ともあれこうした現実を受け入れて、最も効率的な受験勉強方法について一ヶ月間ほど考えた。

隣りの部屋に住んでいた、代々木ゼミナールに通っていた服部くんにも相談し、

一ヶ月後に編み出した勉強法が、テキストを20回声に出して読んで丸暗記するいうシンプルなものだった。

まず集中したのは英語。

中学2年と3年の教科書を約1ヶ月かけて丸暗記。

それからさらに2カ月かけて、50ページくらいの薄い大学受験用長文読解問題集を買って同じく丸暗記。

英文だけを読んでも覚えられないので、最初に訳文を読んで何が書かれているかを理解してから、

英文を暗記した。

長文を暗記することで、わからない単語や熟語の意味が類推できるようになったことが大きい。

こうして11月に受けた模試で、英語の偏差値が生まれて初めて60を超えた。


社会は世界史を選択したが、時間がないので現代から遡るように暗記した。

テキストは山川出版の世界史教科書だけ。

国語は、英語と同じように薄い問題集で古文を暗記し、漢文は時間がないので捨てた。


12月、3科目総合偏差値は65になった。

私立文系で合格確率が50%以下の大学がほぼゼロになり、私は受験勉強をストップし、

当時巷で大流行していたインベーダーゲームに熱中して過ごした。


いくつかの波乱はあったが、ほぼ狙った大学には合格できた。

もちろん予定通り、日本経済新聞の専売所のない京都の大学を選んだ。

1980年3月下旬、シナリオ通り所長や仲間に見送られ、私は専売所を後にした。


住み込みで新聞配達をしていた一年、頑張ったなあと思うのは、

台風の日の配達や、うだるような暑さの中での集金、

それに東山魁夷のポスターを拡材とした拡張業務の日々だ。


エピソードもある。

私の配達区域に、当時経済企画庁長官だった小坂徳三郎氏の自宅があった。

ある日、私は小坂氏の家に配達し忘れてしまった。(不着)

小坂氏は、日経本社に電話をし、「新聞が届いていない。」とクレームをつけたそうだ。

所長は日経本社の販売担当役員から直々に怒られたという。



語弊がないように伝えるなら、方向性や方法論が決まっていて、

努力の質ではなく量だけで結果が決まってしまうような場合は、

やはり頑張らなくてはならない。

けれども、限られた条件の中で最大のパフォーマンスを求められる場合、

環境を分析した上で、方向性と方法論を最適化しなくては、

直線的な(量的)努力だけでは、目標に達しない場合が多い。


大学時代、私は家庭教師のバイトしていたことがあるが、

英語の受験勉強を行なうのに熟語と単語の暗記を主体に行なう、

あるいは歴史の勉強をするのに古代から順に暗記する、

という方法と私の編み出した方法では、同じレベルまで達するのに3倍以上の差があった。


うまく言えないが、イチローや北島康介がすごいのは頑張っているからだけではない、

頑張る以前に考えていることがすごいのだと、私は思う。

イチローや北島と同じように頑張っても、同じレベルには到達できないのだ。


ソニーの業績が良くないという。

ビジネスで必要なのは、「始めること」、「やめること」、「続けること」の意思決定を的確に行うことだ。

ただ頑張ったからと言って、業績が上向くわけではない。


こうした経験を踏まえて、私は「頑張るな、考えろ。」と自分にも周りにもずっと言い続けている。



まいったなあ、まったく

今日、本当は書こうと思っていたことがあったのに、

朝から、エライことに巻き込まれてしまい、それどころではなくなった。


いつものように銀座の店に出勤し、金庫室を開けると、壁に穴があいていて

金庫が無残に打ち壊されていた。

金庫の中はからっぽ。

中にあった宝飾品や現金がすべて持ち去られていた。

msn産経ニュース


110番通報から30分もしないうちに警官がやってきて、実況見分が始まった。

店の外はメディアのカメラが砲列をなし、店の中を狙っていた。

ご近所には迷惑をかけ申し訳ないと思う。


今までテレビニュースの中だけのできごとだと思っていたのに、自分に降りかかるとは思ってもみなかった。

ふだんあまり連絡をとっていない人からもお見舞いの言葉をいただいた。

ま、たいへんはたいへんだけど、社員に危害が加えられたわけではなくてよかった。

それだけは感謝している。


返してほしい商品あるんだけどなあ、かなり。

もう二度と手に入れられないと思われるものもあった。

せちがらい世の中です、皆さんも気をつけてください。