曇りときどき晴れ -3ページ目

天賞堂銀座本店 高級腕時計3億円盗難事件 その2 と デフレ対策

朝から慌ただしい。
天賞堂の時計盗難事件の余波がなぜか私に押し寄せてくる。
朝からテレビ局や雑誌、新聞、通信社から何件も取材の電話がかかってきている。

いちばん厄介なのはテレビ局で、「今から取材に行くので(昨年被害に遭った)銀座店の内部に
カメラを入れさせてほしい。」などと無茶なことを言ってくる。

新聞は電話で「すぐ終わりますから」なんていいながら、
「天賞堂事件とセルビー銀座店の事件は同一犯だと仕業だと思いますか?」(警察に訊いてくれ)
「盗まれた時計はどこでどうやって換金されると思いますか?」(こっちが聞きたい)
「天賞堂はいくらぐらいの保険に入っていたと思いますか?」(天賞堂にきいてくれ)
などと、信じられないようなコメントを求めてくる。

リーマンショック以来、高級時計・宝飾品はパッタリ売れなくなってるから、
こんな形でしか業界が話題にならないのはさびしい。

先日会社の社員と「デフレ&不景気対策はどうすればいいのか?」について話し合ったとき、
私は「とにかく浪費しまくること、そして浪費がかっこいいことであるという
社会的コンセンサスをつくるため、マスコミと政府が一緒になってキャンペーンを行なうことだ。」
と意見を述べた。
私は金持ち(総資産10億円以上)がいかんと思う。
今、金持ちの間では投資で儲けることがかっこいいことになってしまっている。
投資で資産が増えても、さらにまた投資にお金を回してしまう。
外部環境の変化によって、投資ポートフォリオが変動するくらいのものだ。

本宮ひろしの漫画「俺の空」で、後に主人公安田一平と結婚することになる東北の老人の孫、
御前一十三(みさきひとみ)に、財界のボンたちが竹取物語ように求婚の証として、
プレゼントを用意するというシーンがあった。
プレゼントの内容が、人気野球球団とかオーガスタゴルフクラブとか、冗談みたいなのが多かった。

1989年には実際にあったことだけど、三菱地所がニューヨークのロックフェラーセンターを買収した。
確かあのディールをまとめたのは、当時42歳だかの三菱地所の歴史上もっとも切れ者と言われた
最年少役員だったように記憶している。
ホンダだって、スーパーカブで一発当てた時、社員全員で一晩京都の夜を買い切るという、
バカげた飲み会を催している。30~40年も前の話だけど、一晩でちょうど一億円飲んだという。
メイテックという会社は、関口房朗が社長の頃、社員用に2~3台フェラーリを所有していた。
簡単な手続きと、数千円と言うレンタル料で免許を持ってる社員なら誰でも借りられた。

縮こまってないで、このデフレだからこそ、この100年に一度の不景気だからこそ、
儲かってる会社や個人は、バーンと使ってほしい。
知的に見られたいからなどというちんけな理由でプリウスやインサイトなんか買わないで、
快楽のいっぱい詰まったフェラーリやアストンやロールスやマイバッハを買いましょう。

世界を変える力があるのは、快楽だけです。
うち?うちは、まだ去年の盗難事件のキズが癒えてないのよ、ホント。

壁に穴!高級時計3億円相当、銀座で盗まれる

MSN産経ニュース
2日午前10時25分ごろ、東京都中央区銀座の時計・貴金属店「天賞堂銀座本店」で、
壁に穴が開けられ、高級腕時計「ロレックス」などの時計200点(計約3億円相当)が
盗まれているのを出勤してきた店員が発見、ガードマンを通じて110番通報した。
警視庁築地署は窃盗事件として捜査している。

同署の調べによると、隣のビルとの間にある路地側の壁に約50センチ四方の穴が、
切り取るようにして開けられており、地下1階の高級時計売り場にあるショーケース
約10カ所が壊され、時計が盗まれていた。
同店は先月30日午後6時に閉店。1月2日午前11時から初売りの予定で、
午前10時20分ごろに出勤してきた男性店員が被害を確認した。
銀座では昨年2月にも、貴金属店で壁に穴が開けられ、金庫から現金約100万円と指輪、
ネックレスなど約130点(約5000万円相当)が盗まれる窃盗事件が発生している。

↑に記載されている昨年2月の事件と言うのが、うちの事件です。
MSNのニュースサイトで検索窓に「セルビー」と入力すると一番上に表示されます。
天賞堂とうちの事件は確かに似ているけど、当事者である私からするといくつか相違点も見える。
いちばんの違いは、向こうが銀座のど真ん中に立地しているということ。
ほかにもいくつか気づく点はあるけど、うちの事件もまだ犯人が捕まっていないから公にできない。

いずれにしても、朝出社して現場にいつも通り何気なく入った社員はビックリしただろうな。
報告を受けた社長も驚いたと思う。
どのくらい驚いてどのくらい衝撃を受けたか、手に取るようにわかる。
1年前に私が経験したことだから。
私の場合、現場を見た瞬間、本当に声に出して
「なんじゃ、こりゃ!」と松田優作のように叫んでました、はい。

天賞堂の社長に銀座で盗難被害に遭った先輩としてひと言申し上げるなら、
「社員やお客さんにけが人がでなかったことが何より、そう思うしかないじゃん。」っていうこと。
私もそう思って、自分を慰めました。

2010.1.1 Happy New Year

あめ早いものでもう2010年。
あのミレニアムの喧騒(世界中でカウントダウンが行なわれていた)から10年もの時間が過ぎた。
早い速いはやい、とは言え、ある意味時間が過ぎていくスピードは主観的なもの。
現実には遅く感じる時もあるし早く感じる時もある。
一般的に快楽の時間より苦痛の時間の方が長く、能動的であるより受動的である方が長く感じられる。
それに若い時よりも年齢を重ねてからの方が同じ長さの時間を経験しても短く感じるように思う。
フランスの哲学者アンリ・ベルクソンは、1896年に上梓した「物質と記憶」の中で、
「純粋な現在とは、未来を喰っていく過去の捉えがたい進行である。
実を言えば、あらゆる知覚とはすでに記憶なのだ。」と述べている。
難しいけど、人間はタイムラグの中に生きていて、今起きていることを感覚で捉え、
それをデータベース化するため記憶に変換する作業を常に行なっているということらしい。
ちなみに人間の身体の中(脳を含め)には、記憶(=過去の感覚)をそのままずっと保存するための
メモリーデバイスにあたる部位はない。
人間の細胞は、数週間から数カ月で完全に入れ替わってしまうので、
記憶も細胞と一緒に体外に排出されてしまうのだ。
では、なぜ完全に記憶がなくならないのかと言えば、すべての細胞が一度に入れ替わるのではなく、
ジグソーパズルのピースが少しずつ脱落し、またもとのピースとそっくりのものと置き換わるから。
あるピースがなくなっても、それがどのような形だったかは周りのピースから類推することができる。
何度も繰り返し想起される記憶は、他の記憶との連携も手伝って強化されていくため、
容易に忘れたりしない。けれども細胞が入れ替わるごとに少しずつ記憶は変化していく。
たとえば10代の頃に経験した失恋の辛さ(感覚)は、5年、10年と時を経るうちに、
まるでワインの熟成が進むかのように少しずつ甘酸っぱい記憶へと変化して行く。
年をとると感覚が衰えてしまい、記憶の世界に生きるようになる。
「昔はよかったなあ」そう感じる頻度が多くなってきたら、老化が進んだ証拠だ。
私はもちろん、かなり自覚症状があります。

私の会社は今年10年目を迎える。
振り返ってみると辛いことはあまりなかったように思う。
それに今ほど業界内の競争は激しくなかったし景気も悪くなかった。
だからついつい、以前の方が努力の量と成果の比例関係が強かったと考えてしまいがちになる。
でもきっと昔は昔でたいへんだったにちがいないし、今もそれはあまり変わらないはず。
何といっても記憶は自分をもだましてしまうのだから。
そう言えば創業以来ずっと年末年始も一日も休まず御徒町の店を開けている。
そう、この文章を紡ぎだしているのは御徒町店の奥にあるパソコン。
「正月ぐらい休んでも何も変わらないのに。」、そうかもしれないけど、
創業したころは、正月やお盆やゴールデンウィークを休むことさえ怖くてできなかったのだ。
毎年一人で静かな店内で時間を過ごしていると、日常に追われつい忘れそうになっていた
会社の原点を比較的正確に思い起こすことができる。

楽しいことばかりではないし、難しいことばかりだけど、
自分だけではなく自分と関わりのあるすべての人がハッピーになれるよう努力したい。
これが2010年最初の日である今日立てた今年の目標。
一年の計は元旦にあるっていうけど、いったいいつまで覚えているのだろうか?





クリスマスイブ by 山下達郎

20年ほど前、インターネットも携帯電話もメールもなかった。
IT技術の恩恵にあずかっている今からすれば、どうやってコミュニケーションとってたんだろう、
って、不思議に感じてしまう。
たとえば、友達や恋人との待ち合わせ。
道路が渋滞して時間通りに待ち合わせ場所に行けない時、
今なら「ごめん、今、レインボーブリッジを渡って浜崎橋ジャンクションの合流地点にいるんだけど、
30分くらい遅れるかもしれない。」って、メールをすれば済むのに、
20年前は、待つ方も待たせる方もただイライラする以外すべはなかった。
今のほうがまちがいなく便利になった。
そのかわり、何かが失われたように感じる。

ところで、山下達郎の「クリスマスイブ」が、オリコンで24年連続!ベスト100にランクされた。
http://www.youtube.com/watch?v=-5xLR4q1VGw

山下達郎のクリスマスイブは、1983年に発表になった曲。
キャッチーなメロディに、メロウでロマンティックな詩、
そして一人アカペラによるパッフェルベルのカノンをモチーフにした美しい間奏が、
当時でも話題になり、ヒットした。
それからクリスマスシーンズンになると毎年ラジオから流れるようになった。

何と言ってもクリスマスイブが、一躍メジャーになったのは、
JR東海のクリスマスエクスプレスのCMに使われるようになってから。
今、1988年から1992年のCMをYOU TUBEで観ることができる。
http://www.youtube.com/watch?v=ZGu7SGxNWyo&feature=related

あの頃、コミュニケーション手段が発達していなくて不自由だったけど、
便利になることで失くしてしまったことも確かにある、
JR東海の5本のCMを見ると、そう感じてしまう。
ハラハラ、ドキドキ、ワクワク・・・、今はそんなふうになることもあまりない。
失くしてしまった「何か」というのは、もしかすると「感動」かもしれない。

いずれにしてもクリスマスイブという曲が発表から四半世紀以上経っているにもかかわらず、
全く色あせて聞こえてこないのは本当にすごい。
もっとも、聴く側がノスタルジーやロマンを抱いているからかもしれないけど。

ちなみに、JR東海のCMには携帯電話が普及してからのバージョンがもある。
2000年の冬に放映された。
http://www.youtube.com/watch?v=ruWiLw0ajdg&feature=related

X'mas ExpressのCMがつくられたのは1988年から1992年。
振り返ると、歴史上、日本が最も浮かれていたアノ時代にあたる。
デフレや派遣切りで夢や希望を失いつつある今の日本より、
コミュニケーションが不便ではあったけど、
明日はきっとステキなことが起こる、そう無邪気に信じられたアノ頃の方が幸せに思えるのは、
私だけだろうか。

ともあれ、
Merry X'mas



終末医療のあり方

私の古い友人に医者がいる。
彼は「一般的に、医者は楽な職業ではない。
労働基準監督署がなぜ、病院の勤務実態に対し、改善勧告を出さないのか不思議なくらいだ。
睡眠なしの連続勤務だってざらにある。
でも治った患者の顔を見たり、家族から感謝されたりすると、
一度萎みかけたモチベーションがアップする。
逆に言えばそういうインセンティブ(ご褒美)がなければ、とても続けられない。」
と言う。

長く困難な勉強期間を経て、国家試験に合格したエリートとしての自覚がプライドの源泉だ。
もちろんそれに付随して一般的に社会的信用も高い。
ただ、友人はそれだけでは医者という職業を一生続けるのは困難だという。
手術や治療方針に対する訴訟リスクが高くなっていることや、
新しい器具やオペ、あるいは薬の情報を常に勉強していなくてはならないこと、
困難な容体の患者を抱えている場合は休日も(病院から呼び出しがあるかもしれないので)
リラックスすることがないなど、慢性的な疲労状態にあるという。
それでも「自分の治療で、患者が死を免れたり快方に向かったりすると、
一時的にせよ疲労感がスッとなくなる。医者になってよかったなと素直に思うし、
もっと多くの患者を治さなくてはと、さらなる使命感が湧いてくる。」のだという。
医師がそうであるなら、傍にいる看護師にもおそらく同じことが言えるはずだ。
極度の緊張に長時間さらされる激務でありながら、患者を治すことによって得られる精神的報酬が、
さらなる向上心をつくりだしているのだと思う。

では、ターミナル(終末)医療を担当する医師や看護師はどうなのだろうか?
私は千葉県がんセンターの緩和医療センター以外知らないが
患者に対等の言葉使い(いわゆるタメ口)をする看護士がいたり、
患者のお金がセフティボックスから151,000円も盗まれるような管理体制だったり、
患者が死亡したことを冷たくなるまで気付かないような杜撰なケア体制だったりしたことに対し、
落胆を隠すことができない。
長く困難な勉強期間を経て、国家試験に合格したエリートとしての自覚はお持ちだろう。
けれどもどれだけ厳しい状況にあっても患者を最期まで励ましながら、
自らも諦めずに治療を行なうというモチベーションは持ちようがないし、
治療方針やオペによって患者の生死が決定するというような緊張感も持ちようがないのではないし、
また結果として患者を死に至らしめたとしても、その責任が問われることはない。
それは看護師も同じだ。患者が苦痛を覚えるほど介助行為が乱暴であっても、
モルヒネの量を増やせば済む。

もちろん、ターミナル医療に携わるすべてのスタッフがそうだと言っているのではない。
人間の生命の尊厳を尊重したケア体制をとっているターミナル医療機関が大半であろうと思いたい。
ただ、どれだけお金のかかった立派な施設であっても、人間が血の通った運営を行なわなければ、
ただの「箱」でしかない。

O氏のこと その5

O氏が亡くなったのは、11月26日(木)のことだった。
29日(土)に通夜、30日(日)に葬儀が執り行われた。
言いようのない虚しさが今も私の心を覆っている。

最後に意識のあるO氏に会ったのは、24日(火)、死の2日前。
私が病室に入った時、O氏は眠っていた。
私は声をかけず静かに見守っていたのだが、看護師が無遠慮に病室に入ってくると、
声を抑制することもなく、「最近、昼間から眠ってばかりなんですよ。」と
迷惑そうな顔で私に言った。
看護師の声に反応するように、O氏は目を覚ました。
私がO氏に話しかけると、何かを伝えたいと考えたのか、からだを起こそうと身をよじり始めた。
O氏はからだを起こすのを手伝おうとする私の手をしっかりと握りしめ、
思うように動かないからだを懸命に支えながら、何かを口走った。
私は必死にO氏の言葉を聞き取ろうとしたが、(気管切開のため)喉に通されたカニューレ
(空気の送排の為に喉から気管に挿入するパイプ状の医療器具)から呼気が抜けるため、
どうしても意味の通じる言葉として理解できなかった。
O氏は私に何かを伝えようと数度トライし、もう私に言葉を伝えることができないとわかると、
あきらめたように力を抜いて横になった。そして間もなく目を閉じて眠りについた。

そうしたタイミングを見計らったかのように、
医師から「話があるので、応接室に来てほしい」呼び出された。
医師は、淡々とO氏の病状について語り始めた。
あまり感情のない平坦な口調で、「生命を維持するための様々な機能のレベルが下がってきています。すぐに、ということはないかもしれないが、2週間は持たないと考えてください。」と、
死がひじょうに近いところまでやって来ていることを告げた。
遠からずこういう日がやってくるとわかっていたので「何をどのような順序ですればよいのか」を
考えて始めていたが、いろいろな思いがこみ上げて来て冷静になることはとても難しかった。
その日私がしたのは、週が明けたら緩和医療センターに泊まりこむことに決めたことと、
O氏の自宅近くにある葬儀社に通夜・葬儀について相談をしに行くことだけだった。

それからわずか2日後の26日(木)、朝9時過ぎ、緩和医療センターの看護師から、
「Oさんの呼吸の具合が悪くなっているので、すぐに来てほしい」と電話があった。
私は妻を連れだって車で緩和医療センターへと向かった。
到着したのは11時頃のことだ。
病室に入ると、O氏は先日と同じように静かに眠っているように見えた。
なんとなく違和感があり、あたりを見回すと、布団に乱れがなく、
モルヒネのチューブが取り外され、ベッド回りが妙に綺麗に整頓されていることに気づいた。
O氏の額に手を当てると、冷んやりとした感触が伝わってきた。
「なぜ、もう冷たくなっているのだろう?」そう、私は疑問を感じた。
それからすぐに看護師と医師が病室に入って来て、
「(9時過ぎに)お電話したときには、もう呼吸をしていませんでした」、と、ポツンと言った。
それから悲しみに浸る余裕もなく、親戚や葬儀屋への連絡、荷物整理、
O氏の自宅の清掃などに忙殺された。

蛇足だがその日の夕方、葬儀屋との打ち合わせの最中、猛烈な頭痛に襲われた私は、生まれて初めて救急車で病院に搬送された。CT検査などを行なったが、何も異常は見つからなかった。

疑問点はいくつも頭の片隅をよぎり、今もこびりついたままだ。

看護師から電話をもらい、2時間後に病室に駆け付けた時、O氏の額や手はもう冷たくなりかけていた。死亡時刻について、医師や看護師は言葉を濁して、私に電話をした前後であるかのように答えた。
死亡から僅か2時間であれほど体温が下がるはずがない。
死後5~6時間経過しているのは確実だった。
つまり、O氏が亡くなって少なくとも3~4時間、だれも気づかず放置されていたことになる。
もう少し切迫した状態だと伝えていてくれさえすれば、O氏を見送ることができたのに、
残念だがそれさえ叶わなかった。

O氏が千葉県がんセンターの普通病棟から緩和医療センターへと転院になったのは、10月21日(火)。転院してから死を迎えるまで、僅か5週間ほどしかなかった。
転院する際、「年を越すのは難しいかもしれない。」と、
頭頸(とうけい)科のA医師から宣告されてはいたが、ここまで早いとは思ってはいなかった。
O氏は転院から3週間過ぎた頃から、自力で食事を摂ることが困難になっていた。
その頃から流動性の高い食事に変更されてはいたが、それでもスプーンでふた口ほど食べると、
O氏は「もういらない」と左右に手を振り、がっくりと下を向いていた。
「(病院食が)不味いから、食べたくないんだ。」O氏がそう言うので、
私はウイダーインゼリーを買ってきて、チューブからスプーンに絞り出し食べさせたが、
やはりふた口ほどしか食べられなくなっていた。
「点滴などで栄養不足を補うことはできないのか?」と医師に確認したところ、
「(点滴など)液体をからだに入れると、痰が多くなり窒息するリスクが高くなる。」
とのことだった。
「しかしこのまま摂食できなければ、どんどんからだが弱ってしまうだけではないのか?」と
問いただすと、
「がんは喉でどんどん進行している。食事を摂ることができなければ、現段階まで来てしまうと、
もう手の施しようがないのです。」と少し微笑むように静かに医師は言った。
一日ごとに身体が衰弱していくのがはっきりわかるので、見ている方としては本当に辛かった。
死亡診断書に書かれている死因は「声門部喉頭癌」だが、
私には医療行為放棄による「衰弱死」だったように思えてならない。
治療できないからここへ転院になったということを頭で理解はできても、なんとなく釈然としない。

病室の片づけをしながらふと気付き、セフティボックスを開けO氏の財布を取り出して、
中身を調べてみると、4枚あるはずの千円札が、3枚しか見当たらなかった。
死の二日前の24日に確かめたばかりだから間違いない。
1万円札はすべてO氏の承諾を得て、私が預かった。
千円札は使う可能性あるので、数枚だけ残しておいてほしいとO氏に依頼され、4枚残しておいたのだ。
死を目前にした病人の財布から(ばれないように?)一部だけお金を抜き取るというのは、
いったいどういう神経なのだろうか?
これで、私が把握しているだけで、151,000円ものお金が盗まれたことになる。
命を預かる医療機関に泥棒が出没している事実に、怒りを通り越して、憐れささえ感じてしまった。
「出没」というより、「棲みついている」とか「出勤している」という方が適切かもしれないが。
O氏の遺体を葬儀社のワゴンに乗せるとき、
私は緩和医療センター入口に貼られている一枚の案内に気づいた。
「最近、現金などの貴重品がなくなる事件が多発しています。
センターでも防止策を講じていますが、貴重品の管理は厳重にお願いします。」
紙にはそういう内容が書かれていた。

O氏のこと その4

O氏が緩和医療センターに移ってから、1か月近く過ぎた。
私は週に2~3回、O氏の見舞いに行っている。会うたびに衰弱していくのがわかる。
見ているのが辛くなるほど、その衰弱ぶりは激しい。

2週間前、外出許可が出たのでO氏を奥さんの入所している施設に連れて行った。
もう自力で歩くことはできず、専ら移動は車椅子に頼らざるを得なくなっていた。
それでも疲労は激しそうだった。
その日、O氏が奥さんに会うのは2カ月ぶりのことだった。
O氏の奥さんは、数万人にひとりの割合でしか発症しないと言われる線条体黒質変性症という奇病だ。
発病から数年で身体が全く動かなくなってしまう脳の病気で、
O氏の奥さんも8年ほど前から、発話や食事や寝返りをうったりすることはもちろん、
僅かでも自分の意思で手足を動かすことさえできなくなっている。
自分で動けないので、2~3時間おきに体位を変えなければすぐ辱蒼(床ずれ)ができてしまう。
奥さんも数度辱蒼になり、傷口の両側から皮膚を引っ張ってきて縫い合わせる手術をしたこともある。
5年ほど前、奥さんの脳のCT画像を医師から見せられたが、まるでレンコンかヘチマのように、
脳の断層がスカスカになっているのが素人目にもよくわかった。
医師はCT画像を見せながら、「こんな状態ですから、奥さんはもう意識がないと思いますよ。」
そう冷たく言い放ったのを思い出す。

私が奥さんの入所している部屋に車椅子を押して入ると、
O氏は奥さんの手を握り、下を向いて振り絞るように奥さんの名を呼び、
「僕だよ、わかる?」と問いかけた。
信じられないことだが、意識がないはずの奥さんが小さな嗚咽をもらしたかと思うと、
目からひと筋の涙をすーっと流した。
目の不自由なO氏にはそれを見ることはできなかったはずだが、
握っている手から奥さんの感情が伝わったのか、
「長い間、来てあげられなくてごめんね。」と囁いた。
そばにいた看護師が、奥さんの涙をティッシュでそっと拭った。
そのあとからまた涙がひと筋流れた。
それからO氏は言葉を交わさずにじっと奥さんの手を握っていた。
10分ほどして、O氏は僕に「ありがとう、さあもう行こう」と言って、私を促した。

それから1週間ほど後には、O氏はほとんど食事を摂ることができなくなった。
ゼリーをスプーンですくって口元に運ぶとゆっくりと食べるが、それも3~4口だ。
すぐに「もう食べられない」と、手を左右に振る。

せめてあと一度、「さようなら」を言うためにO氏を奥さんに会わせてあげたいと思うが、
難しいかもしれない。

ところでO氏が入院しているのは、千葉県がんセンターの緩和医療センターという施設だが、
O氏が入院してからO氏の現金が少なくとも2回にわたり、計15万~20万円ほど無くなっている。
O氏は、現金を入れた財布をカギの付いたセフティボックスに入れ、
そのカギをベッドサイドテーブルの上に置いたトランジスタラジオの取っ手部分に絡ませておいていた。
最初に現金が合わないと言ったのは入院から1週間が過ぎた頃だった。
その段階では、私はO氏がいったいいくら手元に持っているのか知らなかったので、
O氏の勘違いのせいではないかと思っていた。
それでその時、改めて財布の中身を私が確認した。
いくらどのようにして入っていたかもはっきりと記憶している。
もちろん、その時は現金が本当になくなっているなんてことは考えてもみなかった。
ところが次の週にO氏といっしょに確認してみると、12万円無くなっているのがわかった。
O氏はモルヒネの注射の針が常に刺してあり、一定時間経つと自動的に薬が入るようになっている。
また夜眠れないので、緩和医療センターに入院する前から睡眠薬を服用している。
だからO氏は昼でも眠っている時がある。
こうした情報を知っているのは、医師か看護師か掃除婦の誰かということになる。
もちろん、他の入院患者やその家族も怪しいと言えば怪しいが、
死を目前に控えた患者やその家族が他人をお金を計画的に盗もうとは思わないはずだ。

要約すると、怪しまれずにいつでもO氏の部屋に入ることができて、薬の効き具合が理解できていて、
セフティボックスのカギの置き場所を知っている人間に限定される。
お金が盗まれたことはたいへんなことだが、死と向き合う(つまり生とは何なのかを突きつけられる)
緩和医療センターで盗犯の常習者がいることに怒りと嫌悪感をおぼえるし、
そういうスタッフのいる病棟でO氏が最期を迎えなくてはならないことが残念でならない。



O氏のこと その3

O氏には娘が二人いる。
話の流れからおわかりただけるかと思うが、O氏の長女が私の連れ合いである。
連れ合いとの結婚前後の時期、O氏の私に対する印象はあまり芳しいものではなかった。
まず、私は結婚式のわずか2週間後に無職になってしまい、
職が決まるまでの3か月の間、連れ合いの雇用保険で生活することになってしまった。
いきなり「ヒモ」のような新婚生活がスタートしたわけである。

もちろん無職になったのには事情はある。
私が㈱三貴(ジュエリーマキ)でサラリーマン生活を送っていたことは1月のブログで書いたが、
実は連れ合いも㈱三貴(ジュエリーマキ)の社員だった。
それも木村氏(社長)のお気に入りの秘書だった。
私はと言えば、木村氏の大嫌いな社員だった。
木村氏は大嫌いな社員である松谷とお気に入りの秘書が結婚することに腹を立てた。
「おそらくお気に入りの秘書は大嫌いな松谷に騙されているに違いない」と考え、
結婚を阻止するため妨害行為を開始した。
人事担当の役員Mに、連れ合いの実家(つまりO氏宅)に、
「松谷のようなロクでも社員とお宅のお嬢さんが結婚するのは賛成できない。
今(結婚式の2週間前)からでも式を取りやめたほうがよい、そう社長が心配していらっしゃる。」
と電話を掛けさせた。
娘の勤務する社長名で「結婚を取りやめろ。」と人事担当役員から言われ、O氏は腰を抜かすほど驚いた。
当時の㈱三貴(ジュエリーマキ)は売上高2,000億円、社員数7,000名の大企業だ。
その大企業の役員が社長の名代で直々に電話を掛けてくるというのはよほどのことだ、
O氏でなくてもそう考えるのは普通だと思う。
O氏は長女(つまり私の連れ合い)に私のことを「本当に松谷君は大丈夫か?」と確認したらしいが、
連れ合いは世の中から少しずれた感覚を持っている人なので、「何が?」と聞き返した。
O氏はガクッとしながら、娘がいいというなら仕方がない、と観念して結婚式に臨むことにしたという。

その後も、㈱三貴(ジュエリーマキ)側から私に対する攻撃は執拗に続いた。
結婚式の1週間ほど前になって、降格・異動を命ぜられた。
直属の上司であるK部長が木村氏に呼ばれ、何やら5分ほどこそこそと話し合っていたかと思うと、
戻ってくるなり、私に「私物を整理して今すぐに大宮商品センターに行け。異動だ。」と命じた。
私は「辞令はあるんですか?」上司に訊ねると、「そんなもんはない。」と言われた。
「それはおかしい、文書になってるものをよこせ」とか何とかとでひと悶着あったが、
K部長がかわいそうになった私は、異動を受け入れ荷物をまとめた。
最後に木村氏に何かひとこと言ってやろうと、木村氏のテーブルに歩を進めだした瞬間、
数人の同僚や上司から羽交い絞めにされて止められた。
周囲からは私が何をしでかすかわからないように映ったようだ。
ちなみにK部長には仲人をお願いしていたのだが、この時、私の方から断った。
K部長が三貴で生きていくには、私と係わらない方がいいと判断したからだが、
3~4年前、ある三貴OBの通夜で出会った時、私が仲人を断ったことを根に持っていて驚いた。

その時は単に異動だと思っていたが、その後給与をもらったとき初めて、
常識では考えられないほどの降格だったことがわかった。
職位は入社した時よりも下(新入社員以下)だったし、給与は半分以下の水準に落とされていた。
堂々と理由を説明し辞令を出した上で、降格なり減給に処すればいいのに、一切説明はなかった。
「卑怯な会社だし、ケツの穴の小さい社長だな。」と、その場で退職届を書いて提出した。
辞めるまで毎日人事担当の役員当てに電話して、「降格理由を役員本人から説明させろ」と、
言い続けたが、役員のMが逃げ続けて直接話をすることもできなかった。

O氏は心配をして、私に再就職先を世話することをにおわせたが、私は断った。
1992年の夏、すでにバブル崩壊は顕在化していた。
2年ほど前までいくらでもあった求人が、ほとんどなくなっていた。
でも32歳の私が3か月で再就職できたということは、今よりはまだましだったのかもしれない。
ところが苦労して再就職した会社をも、一年後、私はまたも飛び出してしまう。
そして、知人といっしょに御徒町にダイヤモンドの卸会社を設立することになる。
O氏はやはり心配だったらしく、どのような事業を行なうのか何度も確認してきたが、
当時の私にも何ができるのか、どのくらいのことができるのか皆目見当がつかなかった。
何度か話し合った末、O氏私が知人と会社を設立することについて、渋々承諾してくれた。

私と連れ合いが結婚した2年後、O氏夫妻は愛知県から首都圏郊外の田園都市に一軒家を購入し、
引っ越してきた。私と連れ合いは1年間、その家に寄宿させてもらった後、
同じ町内にできたマンションへと引っ越した。

O氏の夫人が「線条体黒質変性症」という難病を発症したのは、それから僅か2年後のことで、
以来今日まで、O氏は夫人の看病と自身の病気や怪我との戦いを続けている。

O氏のこと その2

日本の高度経済成長期は、1956年から1973年までの18年間であったという見方が一般的である。
1945年の敗戦から5年後、1950年の朝鮮動乱をきっかけに成長のあしがかりをつかみ、
戦後10年を経てようやく高度経済成長期に突入する。
「もはや戦後ではない」は、1956年の経済企画庁の年次経済報告に記された有名な言葉だ。
つまりO氏が日本毛織に入社したのは、日本の高度成長期の入り口にあたる時期であった。

少し話がそれるが、日本が高度経済成長を成し遂げた要因について少し整理してみる。
1950年代後半期のの3種の神器(白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機)や1960年代半ばの3C(カラーテレビ、
クーラー、自家用車)から、内需拡大によって高度経済成長が成し遂げられたイメージが強いが、
現実には1950年代は鉄鋼や繊維、1960年代は造船などの重工業製品の輸出によって成し遂げられた。
輸出による高度経済成長が可能となった最大の理由は、為替だ。
1944年のブレトンウッズ体制の確立により、金1トロイオンス(約31グラム)=35ドルという、
金本位制(実はドル基軸通貨制度)が確立し円とドルの交換レートが360円に固定され、
これに基づいて安価な労働力と高度な技術力をバックボーンにした日本のモノづくりが開花していった。
ちなみに1ドル=360円は、円=英語ではcircle=サークル=360°という連想から決定された、
という冗談のような逸話が残っている。
1950年代後半から20年近く日本は年平均10%もの経済成長を成し遂げるが、1970年のニクソンショック、
翌1971年のスミソニアン協定により1ドル=308円、そして1973年の変動相場制へ完全移行するまで、
圧倒的なコスト競争力によって、世界第2位の経済大国にのし上がる。
もし1960年代に変動相場制に移行していたなら、どれだけ日本が高度な製品を作り出す能力が高くても、
日本の高度成長は実現しなかっただろう。
もちろん他にも高度経済成長を実現できた要因はいくつも挙げることができる。
けれども固定相場制が最大の要因であることはまちがいない。
また高度成長期を総括すると、まじめに頑張って努力していれば必ずいつか報われるという、
神話が確立した時代でもあった。

O氏が大学を卒業し、日本毛織に就職したのはそうした高度成長期の黎明期だった。
繊維業界も固定相場によって国際競争力は維持していたが、O氏によれば、
重化学工業やエレクトロ二クス産業との決定的な違いは、「繊維業界の技術が成熟していたことだ」、
という。
新技術の開発は東レやクラレ、帝人などの化繊メーカーが担い、
天然繊維を扱う企業は新技術の開発や新事業分野への投資をほとんど行なわなかった。
「それでも当時は膨大な資産やブランドバリューのおかげで、じゅうぶんな利益をあげることができた、
けれどもそこに落とし穴があった。
新しい分野への挑戦を忌避し、無難なことばかりするようになると組織が官僚化し、
いずれ必ずやってくる世の中の変化に対応できなくなってしまう。
上司は自分の言うことを聞く者だけを昇進させるから、ご機嫌伺いのヒラメ社員ばかりになり、
やる気のある=仕事のできる社員は会社を見限ってしまう。まじめに働く気にならんし、
きっかけがあれば辞めていく。
イエスマンばかりになった会社に危急存亡期を乗り切るだけの能力のある人材が残っているわけがない。
僕が入社した頃はものすごく優秀な若手社員がまだいっぱいいた。彼らの能力をきちんと評価して、
使ってあげなかった当時の会社の幹部の罪は相当重いと思う。」
いつもは口数の少ないO氏だが、若手サラリーマンだった頃の話になると能弁になる。

O氏の日本毛織時代の話で最も興味深かったのは、化粧品事業の話だ。
昭和30年代の前半期、日本毛織は羊の毛に含まれる油の有効活用について若手社員有志が研究していて、
化粧品に転用するのがよいのではないかという結論に至り、まずはスキンクリームの開発に着手した。
O氏が言うには、カネボウがまだ化粧品事業に本格的に参入する前のことだったという。
日本毛織では羊の毛に含まれる膨大な量の油は、お金をかけて処分していた。
つまり化粧品事業に参入することでコスト0円でスキンクリームの原料が手に入るだけでなく、
油の処分コストも不要になり、しかも将来有望な新規事業に早期参入することができるという、
メリットの大きなプロジェクトだった。今なら「エコ」というコンセプトもそれに加わるはずだ。
ところが社内プレゼンで、役員からストップがかかった。
「わが社は毛織物の会社である。これまでもそしてこれからも毛織物一筋で生きていくことが、
創業者である川西清兵衛はじめ先人の苦労に報いる道である。
したがって、毛織物以外の事業にはいっさい金は出さん。」
当時の社長は自慢げにそう言って、プロジェクトをストップさせてしまったという。
O氏は言う。
「本当にもったいないことをした。あの時化粧品事業に参入できていたら、日本毛織は今みたいな、
不動産管理会社みたいになっていなかったかもしれん。優秀な人がいっぱい辞めていった。
経営者がバカだと取り返しがつかない。」
私が「花王でさえ、後発なのにあれだけ化粧品事業を成功させることができたのですから、
資生堂、カネボウに匹敵するほどの規模にまで行けたかもしれませんね。
そうすると、化粧品業界地図が今とは全く別物になっていた可能性もありますね。」そう言うと、
O氏は苦笑いをして静かに続けた。
「それはどうやろうなあ、わからん。日本毛織というか繊維業界は男尊女卑的でねえ、
男性用衣料になる原材料を提供している企業や部門は発言力が強いけど、女性のものを扱っている所は、
いい意見を持っていても予算をとったり人を動かしたり、業界内でプレゼンスを示すことは難しいんだ。
だから化粧品がうまくいったとしても、よほど力のある人が部門のトップになっていなかったら、
予算も人も思い通りにならんかったかもしれん。
極端な話、化粧品は失敗していてもよかったんや。あたらしいことに挑戦する、あるいはやらせてくれる
っていうことが若手に伝われば、組織は活性化するもんだから。
僕もいっぱい提案したけど、ことごとく上につぶされた。まあ、そういう会社はダメになるよ。」

反逆児だったO氏は40代の前半、日本毛織から片道切符を持たされて小さな関連会社へ出向になった。
時期的に日本毛織の役員待遇だったO氏の父親の影響力が完全になくなるのを待って、
事実上のリストラを勧告したようにも思える。
O氏は、出向先の町工場のような会社を10年かけて売り上げを10倍以上に引き上げた。
職人の経験に頼っていたモノづくりの現場に、組織論を持ち込み品質管理という概念を植え付けた。
日本毛織時代の腹心の部下を呼び、工場の要所に配するなど地道な努力の結果、
大手自動車取引メーカーと直接取引ができるほどにまで成長させた。

O氏のこと その1

O氏は今月末に76歳の誕生日を迎える。

残念なことだが、おそらくO氏は77回目の誕生日を迎えることができない。

治療が不可能なほど喉頭癌が進行してしまったためだ。

来月からは緩和医療病棟に移らなければならない。

医師が言うには、長くてあと半年。

今年に入ってから10kg以上も体重が減少したため、以前はやや肥満気味だったO氏の後ろ姿は小さく見える。

O氏は、緑内障のためほとんど目が見えない。

その上、一時は腰骨にまで転移していた前立腺癌の治療も続けている。

O氏の夫人は線条体黒質変性症という数万人に一人という難病のせいで、施設で寝たきりの生活を送っている。

O氏は、自宅から徒歩10分ほどのところにある夫人が入所している施設に通うのを日課にしていた。

まるで悟りを開いたかのように穏やかな表情でO氏は私に言う。

「僕が先に死んだら、家内のことが心配でたまらない。」


私が初めてO氏に出会ったのは19年前のことだ。

それから縁があって今日まで付き合いが続いている。

とは言っても、お互いが心を開いて話せるようになってからまだ3~4年しか経っていない。

この8年間、私はほぼ毎週O氏に会い、いろんな話を聞いた。

最初は他人の批判ばかりだったが、次第に貴重な昔話を聞かせてくれるようになった。

気管切開手術をしたために、話せなくなってしまったO氏から聞いたことを忘れないように記述しておくことが、

せめてO氏への感謝の気持ちになるのではないかと思う。


O氏は、昭和8年10月、千葉県市川市で生まれた。

今のニッケコルトンプラザという広大なショッピングセンターのすぐ近くにO氏の生家があった。

ニッケコルトンプラザができるずっと前、そこは日本毛織の中山工場だった。

ニッケとは日本毛織の略称。

O氏が生を受けた時、O氏の父親は日本毛織中山工場の工場長だった。

男5人女5人の10人兄弟の末っ子として、O氏はだれからも可愛がられて育ったそうだ。

長兄は大阪大学から富士通に入り、2番目からすぐ上の兄までは慶応大学を出て銀行員になったが、

O氏は加古川東高校から父親と同じ名古屋工業大学に進学し、父親の後を追うように日本毛織に入社した。

最初に配属になったのは岐阜工場だった。


「伊勢湾台風のことはよく覚えているよ。僕は岐阜工場の寮に住んでいた。

ものすごい風でね、寮の仲間と内側から扉を外に向かって押して風の侵入を防いでいたんだ。

風が部屋に入ると、屋根が台風の風圧で吹き飛ばされてしまうからね。

次の日、飛ばされた屋根が工場の敷地内に散乱してたのを思い出すよ。」

「でも仕事はぜんぜんおもしろくなかった。」

「仕事って、何百人かいる女工さんの管理だよ、大学で学んできたことなんて何一つ役に立たない。

当時、名工大のトップクラスはトヨタ自動車に入社した。成績の悪い奴はどこも受からなくて、

デンソーとかアイシンとかホンダに行った。でも20年もしたら、成績の悪かった奴のほうが出世してた。

僕はそれほど優等生だったわけではないけど、デンソーやアイシンへ行った連中よりはずっとできたよ。」

O氏が就職したのは昭和31年。まだ日本は高度成長期には突入していなかった。

高度成長期を経て繊維産業は弱体化し、代わりに自動車産業は日本経済の屋台骨を支える基幹産業になった。