O氏のこと その5 | 曇りときどき晴れ

O氏のこと その5

O氏が亡くなったのは、11月26日(木)のことだった。
29日(土)に通夜、30日(日)に葬儀が執り行われた。
言いようのない虚しさが今も私の心を覆っている。

最後に意識のあるO氏に会ったのは、24日(火)、死の2日前。
私が病室に入った時、O氏は眠っていた。
私は声をかけず静かに見守っていたのだが、看護師が無遠慮に病室に入ってくると、
声を抑制することもなく、「最近、昼間から眠ってばかりなんですよ。」と
迷惑そうな顔で私に言った。
看護師の声に反応するように、O氏は目を覚ました。
私がO氏に話しかけると、何かを伝えたいと考えたのか、からだを起こそうと身をよじり始めた。
O氏はからだを起こすのを手伝おうとする私の手をしっかりと握りしめ、
思うように動かないからだを懸命に支えながら、何かを口走った。
私は必死にO氏の言葉を聞き取ろうとしたが、(気管切開のため)喉に通されたカニューレ
(空気の送排の為に喉から気管に挿入するパイプ状の医療器具)から呼気が抜けるため、
どうしても意味の通じる言葉として理解できなかった。
O氏は私に何かを伝えようと数度トライし、もう私に言葉を伝えることができないとわかると、
あきらめたように力を抜いて横になった。そして間もなく目を閉じて眠りについた。

そうしたタイミングを見計らったかのように、
医師から「話があるので、応接室に来てほしい」呼び出された。
医師は、淡々とO氏の病状について語り始めた。
あまり感情のない平坦な口調で、「生命を維持するための様々な機能のレベルが下がってきています。すぐに、ということはないかもしれないが、2週間は持たないと考えてください。」と、
死がひじょうに近いところまでやって来ていることを告げた。
遠からずこういう日がやってくるとわかっていたので「何をどのような順序ですればよいのか」を
考えて始めていたが、いろいろな思いがこみ上げて来て冷静になることはとても難しかった。
その日私がしたのは、週が明けたら緩和医療センターに泊まりこむことに決めたことと、
O氏の自宅近くにある葬儀社に通夜・葬儀について相談をしに行くことだけだった。

それからわずか2日後の26日(木)、朝9時過ぎ、緩和医療センターの看護師から、
「Oさんの呼吸の具合が悪くなっているので、すぐに来てほしい」と電話があった。
私は妻を連れだって車で緩和医療センターへと向かった。
到着したのは11時頃のことだ。
病室に入ると、O氏は先日と同じように静かに眠っているように見えた。
なんとなく違和感があり、あたりを見回すと、布団に乱れがなく、
モルヒネのチューブが取り外され、ベッド回りが妙に綺麗に整頓されていることに気づいた。
O氏の額に手を当てると、冷んやりとした感触が伝わってきた。
「なぜ、もう冷たくなっているのだろう?」そう、私は疑問を感じた。
それからすぐに看護師と医師が病室に入って来て、
「(9時過ぎに)お電話したときには、もう呼吸をしていませんでした」、と、ポツンと言った。
それから悲しみに浸る余裕もなく、親戚や葬儀屋への連絡、荷物整理、
O氏の自宅の清掃などに忙殺された。

蛇足だがその日の夕方、葬儀屋との打ち合わせの最中、猛烈な頭痛に襲われた私は、生まれて初めて救急車で病院に搬送された。CT検査などを行なったが、何も異常は見つからなかった。

疑問点はいくつも頭の片隅をよぎり、今もこびりついたままだ。

看護師から電話をもらい、2時間後に病室に駆け付けた時、O氏の額や手はもう冷たくなりかけていた。死亡時刻について、医師や看護師は言葉を濁して、私に電話をした前後であるかのように答えた。
死亡から僅か2時間であれほど体温が下がるはずがない。
死後5~6時間経過しているのは確実だった。
つまり、O氏が亡くなって少なくとも3~4時間、だれも気づかず放置されていたことになる。
もう少し切迫した状態だと伝えていてくれさえすれば、O氏を見送ることができたのに、
残念だがそれさえ叶わなかった。

O氏が千葉県がんセンターの普通病棟から緩和医療センターへと転院になったのは、10月21日(火)。転院してから死を迎えるまで、僅か5週間ほどしかなかった。
転院する際、「年を越すのは難しいかもしれない。」と、
頭頸(とうけい)科のA医師から宣告されてはいたが、ここまで早いとは思ってはいなかった。
O氏は転院から3週間過ぎた頃から、自力で食事を摂ることが困難になっていた。
その頃から流動性の高い食事に変更されてはいたが、それでもスプーンでふた口ほど食べると、
O氏は「もういらない」と左右に手を振り、がっくりと下を向いていた。
「(病院食が)不味いから、食べたくないんだ。」O氏がそう言うので、
私はウイダーインゼリーを買ってきて、チューブからスプーンに絞り出し食べさせたが、
やはりふた口ほどしか食べられなくなっていた。
「点滴などで栄養不足を補うことはできないのか?」と医師に確認したところ、
「(点滴など)液体をからだに入れると、痰が多くなり窒息するリスクが高くなる。」
とのことだった。
「しかしこのまま摂食できなければ、どんどんからだが弱ってしまうだけではないのか?」と
問いただすと、
「がんは喉でどんどん進行している。食事を摂ることができなければ、現段階まで来てしまうと、
もう手の施しようがないのです。」と少し微笑むように静かに医師は言った。
一日ごとに身体が衰弱していくのがはっきりわかるので、見ている方としては本当に辛かった。
死亡診断書に書かれている死因は「声門部喉頭癌」だが、
私には医療行為放棄による「衰弱死」だったように思えてならない。
治療できないからここへ転院になったということを頭で理解はできても、なんとなく釈然としない。

病室の片づけをしながらふと気付き、セフティボックスを開けO氏の財布を取り出して、
中身を調べてみると、4枚あるはずの千円札が、3枚しか見当たらなかった。
死の二日前の24日に確かめたばかりだから間違いない。
1万円札はすべてO氏の承諾を得て、私が預かった。
千円札は使う可能性あるので、数枚だけ残しておいてほしいとO氏に依頼され、4枚残しておいたのだ。
死を目前にした病人の財布から(ばれないように?)一部だけお金を抜き取るというのは、
いったいどういう神経なのだろうか?
これで、私が把握しているだけで、151,000円ものお金が盗まれたことになる。
命を預かる医療機関に泥棒が出没している事実に、怒りを通り越して、憐れささえ感じてしまった。
「出没」というより、「棲みついている」とか「出勤している」という方が適切かもしれないが。
O氏の遺体を葬儀社のワゴンに乗せるとき、
私は緩和医療センター入口に貼られている一枚の案内に気づいた。
「最近、現金などの貴重品がなくなる事件が多発しています。
センターでも防止策を講じていますが、貴重品の管理は厳重にお願いします。」
紙にはそういう内容が書かれていた。