曇りときどき晴れ -6ページ目
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フリーズ(デフレ前夜)

正式な経済用語にはないが、現在の経済の状況を一言で表すなら「フリーズ」ということになろうか。

とにかくモノやお金が動いていない。

ミクロ的には、特定の企業の工夫や努力によってモノやサービスは消費されているのは確かだが、

マクロでみると、鉱工業生産指数は2008年10月から11月にかけての1ヶ月で8.1%も下落している。

生産が落ちれば雇用にも影響を及ぼすわけで、2007年11月には1.00倍だった有効求人倍率は、

2008年11月には0.76倍に下落した。

雇用不安が広がれば、消費が落ち込むのも当然で、11月から12月にかけて百貨店の売上は対前年比で、

10%も下落している。


2008年前半は、コモディティの異常な値上がりが話題になっていた。

原油は7月に1バレル当たり147ドル(WTI)をつけた。

原油だけではない。鉄スクラップ価格も、トン当たり4万円という異常な価格にまで高騰していたし、

貴金属であるプラチナも2008年3月にグラム当たり7800円という史上最高価格をつけていた。

それが昨年末には、原油は40ドル以下、鉄スクラップは1万円、プラチナは2500円と、

軒並み1/3以下の水準にまで急劇に下落してしまった。


ものをつくるメーカーにとって、原材料価格の下落は悪いことではないが、1年の間に3倍以上も価格が動くと、

売上や利益はおろか在庫までもコントロールできなくなる。

原材料価格の高騰時に、元請けに値上がり分を転嫁した価格で納入できた中小の下請けなど皆無だろう。

それでいて原材料価格が下がると、値下げを要求される。

要求を断ると仕事が減らされたり、取引停止になったりしかねない。

よほど在庫回転率が高く、またリーマンショック以降も順調に販売が進んだ業界でなければ、

メーカーや卸の持つ在庫は、まだ原材料が高騰していた頃の高コストのものが多いだろう。


自動車や家電などの完成品メーカーの在庫調整は、順調に進んでも2009年いっぱいはかかると思われる。

つまり下請けは高コストの部品を回転させることができずに、ストックし続けなくてはならない。

とりあえず、政府の緊急経済対策による信用保証協会の保障制度によって当面の資金繰りはついている。

けれども、モノは動いていない。モノが動いていなければ、お金も入ってこない。


こうしたフリーズ現象はいろんな業界で見られる。

たとえば、マンションディベロッパー。

今、ディベロッパーが所有しているマンション建設用地は、プチバブル時に仕入れた高コストの土地だ。

マンションを建てても価格が高いと判断され、販売が難しい。

と言って、借入によって入手した土地なので、所有しているだけでもコストはかかるし、

損失を出さずに(というか最小限に抑えて)不動産を売却するのは、現在の情勢では絶望的と言える。

したがってファイナンスが続く限り、塩漬けの状態が続く。


ファイナンスが途切れたとき、マーケットに堰を切ったようにモノがあふれる。

投げ売りによる本格的なデフレの始まりだ。


あまり先行きの暗いことを言いたくはないが、現在の「フリーズ」状態は、「デフレ」に至るプロセスであると、

言わざるを得ない。


三貴(ジュエリーマキ)民事再生法申請について Part4

1989年10月、私は業務本部宝石商品企画部に異動になった。


業務本部は、木村和巨社長自らが本部長を兼ねる直轄部署で、宝石商品企画部の他、婦人服商品企画部、

子供服商品企画部、販促を担当する業務企画部、広告と店舗設計を担当するジェイハウスと、

全部で5つの部に分かれていた。

木村のデスクは、部屋の隅々までが見渡せるフロアのほぼ中央に位置し、会議や外出がないときは、

ほぼ業務本部フロアで稟議書にサインをしたり、各部からの報告を受けたりしていた。


当時の三貴は、宝石の他、婦人服、子供服の専門店を展開するマスマーチャンダイジングチェーンストアで、

アメリカで開発されたリテール(小売業)マーケティング理論を元に、独自の経営手法を開発していた。

ちなみにチェーンストアとは、ひとつの資本のもとで11店以上の店舗が最適に運営されるよう、

仕入、販売、販促、物流、人事管理などを本部が統一的に運営する仕組みを言う。

「11店舗」という定義は、だいたいこのくらいの店舗数を境に、店舗マネージメントの方法がガラっと変わるからと、

チェーンストアの教科書には書いてある。

マスマーチャンダイジングチェーンストアは、200店舗以上を指す。

チェーンストア理論を細かく述べると本が何冊もかけてしまうので省くが、

三貴はこのマスマーチャンダイジングチェーンストア理論を下敷きに、

原材料の仕入れから製造、販売まですべての工程を自社で行なうという、垂直統合ビジネスモデルである、

独自のコンストラクチャル・コンセプト・マーケティング(CCM)を、経営の柱としていた。

現在ユニクロがSPAという業態で実現しているビジネスモデルとほぼ同一のものと思っていただいていい。


宝石事業では今回のように事実上の倒産となってしまったが、アパレル部門をうまくコントロールできれば、

また能力のある経営者に恵まれれば、ユニクロと同レベルの企業になっていた可能性もゼロではない。


残念だが、木村は起業家としての能力はあったのかもしれないが、

マーケットの変化に合わせて事業モデルを変えるというようなフレキシビリティがなかった。

何より性格に問題があり、理性的な意思決定ができない。

世の中の進む方向と彼の考え方の方向に合致している時には、信じられないほどスムーズに成長するが、

ズレができてきたとき、彼には自分の考え方を修正することができない。

自分に自信がありすぎて、人の言うことも信用できない。

事業を行って、成功すればすべて自分の能力の高さのせいで、失敗したらすべて部下の責任、

という考え方が徹底していた。


責任をとらせるとは、事実上の解雇になるだけではなく、事業の失敗によって被ったと思われる金額を

無理やり算定して損害賠償訴訟を起こすということだ。

キレると、鬼気迫る怒り方をする。その上、常識では考えられくらいに執念深い。

最近、パワーハラスメント、略してパワハラという言葉をよく聞くが、木村からパワハラを受けた人間は、

世間のパワハラなんて蚊が刺した程にも感じないと思う。


木村の考え方と世の中の方向性のズレが顕在化してきたのが、私が宝石商品企画部に在籍していた、

1989年~1992年にかけてではなかっただろうか?






三貴(ジュエリーマキ)民事再生法申請について Part3

1989年5月、私は㈱三貴業務本部デザイナー室に配属された。


オーク池袋ビルの9Fワンフロアを占めるデザイナー室は、宝石・婦人服・子供服のデザイナーの他、

婦人服・子供服のパタンナー総勢160名(9割が20代)によって構成された、男性社員垂涎の部署だった。

何と言っても男性は私を含めたったの4名である。

総責任者である40代後半の統括部長、50歳前後のパタンナー、30代の宝石デザイナー、

それに当時28歳だった私。

ごく普通の企業であれば、私の顔面偏差値が標準よりかなり低めであってもハーレム状態になるのだが、

おそろしく男女交際に厳格な会社だったので、何かあれば、というより、何もないのにただ噂を立てられるだけで、

クビになる可能性は非常に高かった。だからハーレムではなく、拷問と言った方が当たっている。


なぜ、私がそんな部署に配属になったのかと言えば、急に人数が増えた部署なので、

人事評価を行なうフォーマットをつくらせるためだった。

素人にやらせるのではなく、人事部から専門家を派遣するべきだと思ったが、バブル時期のため、

人手が足りなかったらしい。

私の席はこの部署のボスの真ん前で、2人の20代前半の女性が助手として付けられた。

いくらファッション企業とは言え、2人とも信じられないくらいスカートが短く(しかもボディコンです)、

何も指示をしないときは、朝から雑誌(JJ、CamCan、ViVi、Ray、anan More、With等)を眺めて過ごしていた。

ボスは、木村和巨の大学(早稲田)の後輩であるだけでなく、体育会ワンダーフォーゲル部の後輩でもあった、

K統括部長。K氏は三貴の幹部には珍しく、ダンディかつスマートな方だった。

今、どうしていらっしゃるのだろうか。


三貴では年間3回、キャンペーンがあった。

キャンペーンて言っても、特別な何かがあるわけではない。

いつもより少し高めの目標を設定して(キャンペーでなくても高い)、頑張って売りましょうというだけのもの。

キャンペーン期間は1年のうち8ヶ月間。キャンペーンじゃない時のほうが短いなんて変かもしれないけど、

それが三貴だ。

キャンペーン中は、いろんな行事がある。

大塚の天祖神社の宮司に目標達成祈願を依頼したり、大きなダルマを買ってきて役員室に置いたり、

キャンペーンの名称を決めて全社員に連絡したり、・・・

こうしためんどうな裏方を担当するのが、キャンペーン事務局だ。

私は三貴の男性正社員で最も閑職に就いていたので、当然ながらキャンペーン事務局の仕事が回ってきた。

ところで、キャンペーン期間中、電話の応対は下記のようになる。

外線をとる場合、「○○キャンペーンありがとうございます。株式会社三貴でございます。」

内線の場合、「○○キャンペーンご苦労さまでございます。デザイナー室の松谷でございます。」

当然、かなり電話の応対が無駄に長くなるし、掛けた方はイライラする。

それで私は事務局の会議で、次のように提案した。

「キャンペーンて、内輪で盛り上がればいいのだから、掛けてきた相手のことを考えて、

外線では使わないようにしたらどうでしょうか?」

三和銀行出身の副社長であるキャンペーン事務局長のN氏は、私の提案を受け、

木村和巨社長に直談判しに行ってくださったのだが、猛烈に怒られたらしく寂しそうに帰ってきて、

「松谷君、ちょっと難しそうだ。社長がエラくお怒りになってねぇ。」とぽつんとおっしゃったのが印象的。


デザイナー室に、在籍していた間、他部署のあまり知らない男性社員から、

合コンのセッティングを依頼された回数は数知れず、

特定の女性と話すきっかけを作ってほしいという申し出もたくさんあったが、キリがないのですべて断った。


今思い起こすと、バブルは楽しかったな。すべてがキラキラしてた。

恵比寿にガーデンプレイスができる前、サッポロビールの工場の中で、パーティイベントがあった。

数百人(あるいは1000人規模だったか?)の、オシャレをしたサラリーマンとOLが集まった。壮大な合コン。

バブルの頃は、サラリーマンもOLも学生もみんな主役だった。

せいいっぱいオシャレをして、経済合理性のないお金の使い方をして、それで幸せだった。楽しかった。


また、みんなが主役になって楽しくパーティができる時がくればいいのに、そう思う。





三貴(ジュエリーマキ)民事再生法申請について Part2

引き続き、三貴ネタを書きますが、その前に入社してからの配属先を時系列で整理してみる。


1988年 5月 ㈱三貴入社 銀座じゅわいよくちゅーるマキ渋谷109店配属

1988年 8月 銀座じゅわいよくちゅーるマキ川崎モアーズ店に店長として配属

1988年10月 銀座じゅわいよくちゅーるマキ東武池袋店に店長として配属

1989年 5月 業務本部デザイナー室 主任として配属

1989年10月 業務本部宝石商品企画部ファンジュエリーエブ係 主任として配属

1990年 4月 業務本部宝石商品企画部ファンジュエリーエブ係係長に昇格

1992年 6月 大宮商品センターに降格の上、配属

1992年 6月 ㈱三貴自己都合退職  


上記のように、私が三貴に在籍していたのは、4年1ヶ月に過ぎない。

ただ、在籍していた年からも容易に推測できると思うが、バブル経済のピークであり、

同時に三貴という会社にとっても日本の宝石業界にとっても、まさに最盛期に当たる時期だった。

1939年生まれの木村和巨社長も、経営者としてのピークにさしかかろうとしていた。

こうした時期に、三貴の中枢とも言うべき木村和巨直轄の経営戦略策定部署である業務本部に在籍することで、

比較的大きな権限を持つ仕事をまかせられたり、通常業務以外の様々なプロジェクトに参加したり、

あるいはアメリカ・香港などへの海外研修に派遣されたりと、つらかったことや残念に思うことは多々あったが、

三貴で得たメリットもかなり大きかった。


1988年10月に話を戻す。

入社から4ヶ月半、店長経験2か月で、全国のマキの中で常に売上トップ10以内にランクされていた、

基幹店、東武池袋店に配属された。

まだ、東武百貨店が今の建物に建て替えられる前で、マキは2Fにあった。

すぐ目の前(約2メートル)にココ山岡が出店しており、東武百貨店側からも三貴側からも、

ライバルとして比較されるのが苦痛ではあった。私が店長になってからのマキの月間売り上げは、

3,500~4,000万円、一方の山岡の売り上げは1億前後で、マキは山岡のライバルではなかった。

池袋東武百貨店だけが特殊だったのではなく、同一ショッピングセンター内にマキと山岡が出店している場合、

マキが山岡の数字を上回ることは非常にレアケースだった。

上司からは、事あるごとに「山岡との差を何とかして詰めて、追い抜け。」と指示されていたが、

私が在籍していた6か月の間に山岡の売上を超えたのはたった1度だけだった。

それも山岡側に高額商品の返品があったからで、自力のせいとは言えなかった。


店舗を統括しているのは、小売事業部という部署で、北海道、東京(東北・北信越・関東・中京)、

大阪(近畿・中国・四国)、九州と、4つの地域ユニットに分かれて管理されていた。

各地域ユニットごとに部長(役員含む)を配し、その下に100店舗程度をマネージメントする管理マネージャー、

さらにその下に10~20店舗を担当するタスクフォースという役職が置かれていた。

私の直属の上司であるタスクは、主に岩手や青森の店舗を担当していて東京にいる時間がすくなかったため、

必然的にさらのその上司である管理マネージャーから指示を受けることが多かった。

管理マネージャー「I氏」は、高校時代サザンオールスターズの桑田圭祐と同級生だったとのことで、

I氏が店長時代、桑田氏が店まで訪ねてきたという逸話が残っている。

当時、三貴の本部は、豊島区東池袋1-21-11のオークビルにあった。

東武百貨店は本部から非常に近いので、様々な部署の役職者や役員がよく見学に訪れていたため、

気を抜くことはできなかった。

また、三貴の販売方法は特殊で、百貨店の販売方法と相いれない部分があったり、

1989年4月から施行された消費税の導入に当たり、百貨店側との意見調整に手間ったり、

単に人事管理や売上をどうするか以外の気遣いは他の店舗では経験できないものだった。

1988年から1989年へ、時はバブルのピークに向けてぐんぐん加速していた。

店舗の販売員にも恵まれたし、売上は右肩上がりで伸びて行った。

唯一、40代の女性販売員のご主人が急死されたことだけが今も重く胸に残る。


マキの販売方法は、おおむねお客に無理強いして買わせるようなものではない。

ただしお客に対しある種の心理的圧迫を与えたり、負債感情を生じさせるような接客テクニックが、

使われていた。

当時一般的だった接客の流れは、ショッピングセンター入口付近で、ジュエリー無料クリーニング券と印刷された

ハンドビラ(約10cm×20cm大)を配布し、ショップへの来店を促す。

汚れが落ちるまで3~4分かかると伝えた上で、お客から指輪やネックレスなどを預かり簡易洗浄機に入れ、

その間にショーケースから商品を取り出し、とにかく身体に着けさせ、鏡に装着した姿を映して見せて、

すかさず褒めて、買わせる、というものだった。

こうしてお客がクリーニングに預けた商品を「返して」と言い出しにくい状況を作り出せば、

ほぼ販売側の思う壺になる。それでも商品を何も買わず帰ろうとするお客には、

「ペリシャス」という350円の洗浄剤を販売していた。

三貴の接客マニュアルでは、ハンドビラ→クリーニング→ペリシャスの販売→商品の販売→

さらにもう何点か勧めてセット販売に持ち込むと、なっているはずだが、

現実的には、ペリシャスは何も売れなかった場合、0円を防止するための

最後の手段として用いられるケースが多かったはずだ。

上記は接客上のテクニックであるが、プレゼンテーションでは値引きPOPが特徴と言える。

会社から決められている特定商品群(ベビーリング、マリッジリング、ブランド展開商品など)を除くと、

基本的には50%~70%という値引き販売が基本だった。

もちろん、表示している定価から50%~70%値引きしても、会社が必要としている利益率が確保できるよう、

値入率はコントロールされていたのは言うまでもない。

「いつまで値引きセールをやっているの?」とお客から訊ねらた時は、辛かった。

渋谷店にいたときは、「今だけです。」と消え入りそうな小さな声で答え、

川崎では「本部の指示があるまで続けることになると思います。」と自己責任を回避する言い方に変え、

東武では「当分続けます。」と正直に答えていた。


残念なことだが、実態のない定価からの値引き販売は、業界の慣習として現在でも散見される。

ネット上のオークションサイトやショッピングサイトでも、通常販売価格○○円のところ、

今だけ○○円という表示をときおり見かけるが、個人的に強い嫌悪感を覚える。


悲喜こもごも、充実した毎日を送っていた私に、1989年5月、異動命令が下った。

業務本部デザイナー室という部署だった。

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