三貴(ジュエリーマキ)民事再生法申請について Part3
1989年5月、私は㈱三貴業務本部デザイナー室に配属された。
オーク池袋ビルの9Fワンフロアを占めるデザイナー室は、宝石・婦人服・子供服のデザイナーの他、
婦人服・子供服のパタンナー総勢160名(9割が20代)によって構成された、男性社員垂涎の部署だった。
何と言っても男性は私を含めたったの4名である。
総責任者である40代後半の統括部長、50歳前後のパタンナー、30代の宝石デザイナー、
それに当時28歳だった私。
ごく普通の企業であれば、私の顔面偏差値が標準よりかなり低めであってもハーレム状態になるのだが、
おそろしく男女交際に厳格な会社だったので、何かあれば、というより、何もないのにただ噂を立てられるだけで、
クビになる可能性は非常に高かった。だからハーレムではなく、拷問と言った方が当たっている。
なぜ、私がそんな部署に配属になったのかと言えば、急に人数が増えた部署なので、
人事評価を行なうフォーマットをつくらせるためだった。
素人にやらせるのではなく、人事部から専門家を派遣するべきだと思ったが、バブル時期のため、
人手が足りなかったらしい。
私の席はこの部署のボスの真ん前で、2人の20代前半の女性が助手として付けられた。
いくらファッション企業とは言え、2人とも信じられないくらいスカートが短く(しかもボディコンです)、
何も指示をしないときは、朝から雑誌(JJ、CamCan、ViVi、Ray、anan More、With等)を眺めて過ごしていた。
ボスは、木村和巨の大学(早稲田)の後輩であるだけでなく、体育会ワンダーフォーゲル部の後輩でもあった、
K統括部長。K氏は三貴の幹部には珍しく、ダンディかつスマートな方だった。
今、どうしていらっしゃるのだろうか。
三貴では年間3回、キャンペーンがあった。
キャンペーンて言っても、特別な何かがあるわけではない。
いつもより少し高めの目標を設定して(キャンペーでなくても高い)、頑張って売りましょうというだけのもの。
キャンペーン期間は1年のうち8ヶ月間。キャンペーンじゃない時のほうが短いなんて変かもしれないけど、
それが三貴だ。
キャンペーン中は、いろんな行事がある。
大塚の天祖神社の宮司に目標達成祈願を依頼したり、大きなダルマを買ってきて役員室に置いたり、
キャンペーンの名称を決めて全社員に連絡したり、・・・
こうしためんどうな裏方を担当するのが、キャンペーン事務局だ。
私は三貴の男性正社員で最も閑職に就いていたので、当然ながらキャンペーン事務局の仕事が回ってきた。
ところで、キャンペーン期間中、電話の応対は下記のようになる。
外線をとる場合、「○○キャンペーンありがとうございます。株式会社三貴でございます。」
内線の場合、「○○キャンペーンご苦労さまでございます。デザイナー室の松谷でございます。」
当然、かなり電話の応対が無駄に長くなるし、掛けた方はイライラする。
それで私は事務局の会議で、次のように提案した。
「キャンペーンて、内輪で盛り上がればいいのだから、掛けてきた相手のことを考えて、
外線では使わないようにしたらどうでしょうか?」
三和銀行出身の副社長であるキャンペーン事務局長のN氏は、私の提案を受け、
木村和巨社長に直談判しに行ってくださったのだが、猛烈に怒られたらしく寂しそうに帰ってきて、
「松谷君、ちょっと難しそうだ。社長がエラくお怒りになってねぇ。」とぽつんとおっしゃったのが印象的。
デザイナー室に、在籍していた間、他部署のあまり知らない男性社員から、
合コンのセッティングを依頼された回数は数知れず、
特定の女性と話すきっかけを作ってほしいという申し出もたくさんあったが、キリがないのですべて断った。
今思い起こすと、バブルは楽しかったな。すべてがキラキラしてた。
恵比寿にガーデンプレイスができる前、サッポロビールの工場の中で、パーティイベントがあった。
数百人(あるいは1000人規模だったか?)の、オシャレをしたサラリーマンとOLが集まった。壮大な合コン。
バブルの頃は、サラリーマンもOLも学生もみんな主役だった。
せいいっぱいオシャレをして、経済合理性のないお金の使い方をして、それで幸せだった。楽しかった。
また、みんなが主役になって楽しくパーティができる時がくればいいのに、そう思う。