三貴(ジュエリーマキ)民事再生法申請について Part2 | 曇りときどき晴れ

三貴(ジュエリーマキ)民事再生法申請について Part2

引き続き、三貴ネタを書きますが、その前に入社してからの配属先を時系列で整理してみる。


1988年 5月 ㈱三貴入社 銀座じゅわいよくちゅーるマキ渋谷109店配属

1988年 8月 銀座じゅわいよくちゅーるマキ川崎モアーズ店に店長として配属

1988年10月 銀座じゅわいよくちゅーるマキ東武池袋店に店長として配属

1989年 5月 業務本部デザイナー室 主任として配属

1989年10月 業務本部宝石商品企画部ファンジュエリーエブ係 主任として配属

1990年 4月 業務本部宝石商品企画部ファンジュエリーエブ係係長に昇格

1992年 6月 大宮商品センターに降格の上、配属

1992年 6月 ㈱三貴自己都合退職  


上記のように、私が三貴に在籍していたのは、4年1ヶ月に過ぎない。

ただ、在籍していた年からも容易に推測できると思うが、バブル経済のピークであり、

同時に三貴という会社にとっても日本の宝石業界にとっても、まさに最盛期に当たる時期だった。

1939年生まれの木村和巨社長も、経営者としてのピークにさしかかろうとしていた。

こうした時期に、三貴の中枢とも言うべき木村和巨直轄の経営戦略策定部署である業務本部に在籍することで、

比較的大きな権限を持つ仕事をまかせられたり、通常業務以外の様々なプロジェクトに参加したり、

あるいはアメリカ・香港などへの海外研修に派遣されたりと、つらかったことや残念に思うことは多々あったが、

三貴で得たメリットもかなり大きかった。


1988年10月に話を戻す。

入社から4ヶ月半、店長経験2か月で、全国のマキの中で常に売上トップ10以内にランクされていた、

基幹店、東武池袋店に配属された。

まだ、東武百貨店が今の建物に建て替えられる前で、マキは2Fにあった。

すぐ目の前(約2メートル)にココ山岡が出店しており、東武百貨店側からも三貴側からも、

ライバルとして比較されるのが苦痛ではあった。私が店長になってからのマキの月間売り上げは、

3,500~4,000万円、一方の山岡の売り上げは1億前後で、マキは山岡のライバルではなかった。

池袋東武百貨店だけが特殊だったのではなく、同一ショッピングセンター内にマキと山岡が出店している場合、

マキが山岡の数字を上回ることは非常にレアケースだった。

上司からは、事あるごとに「山岡との差を何とかして詰めて、追い抜け。」と指示されていたが、

私が在籍していた6か月の間に山岡の売上を超えたのはたった1度だけだった。

それも山岡側に高額商品の返品があったからで、自力のせいとは言えなかった。


店舗を統括しているのは、小売事業部という部署で、北海道、東京(東北・北信越・関東・中京)、

大阪(近畿・中国・四国)、九州と、4つの地域ユニットに分かれて管理されていた。

各地域ユニットごとに部長(役員含む)を配し、その下に100店舗程度をマネージメントする管理マネージャー、

さらにその下に10~20店舗を担当するタスクフォースという役職が置かれていた。

私の直属の上司であるタスクは、主に岩手や青森の店舗を担当していて東京にいる時間がすくなかったため、

必然的にさらのその上司である管理マネージャーから指示を受けることが多かった。

管理マネージャー「I氏」は、高校時代サザンオールスターズの桑田圭祐と同級生だったとのことで、

I氏が店長時代、桑田氏が店まで訪ねてきたという逸話が残っている。

当時、三貴の本部は、豊島区東池袋1-21-11のオークビルにあった。

東武百貨店は本部から非常に近いので、様々な部署の役職者や役員がよく見学に訪れていたため、

気を抜くことはできなかった。

また、三貴の販売方法は特殊で、百貨店の販売方法と相いれない部分があったり、

1989年4月から施行された消費税の導入に当たり、百貨店側との意見調整に手間ったり、

単に人事管理や売上をどうするか以外の気遣いは他の店舗では経験できないものだった。

1988年から1989年へ、時はバブルのピークに向けてぐんぐん加速していた。

店舗の販売員にも恵まれたし、売上は右肩上がりで伸びて行った。

唯一、40代の女性販売員のご主人が急死されたことだけが今も重く胸に残る。


マキの販売方法は、おおむねお客に無理強いして買わせるようなものではない。

ただしお客に対しある種の心理的圧迫を与えたり、負債感情を生じさせるような接客テクニックが、

使われていた。

当時一般的だった接客の流れは、ショッピングセンター入口付近で、ジュエリー無料クリーニング券と印刷された

ハンドビラ(約10cm×20cm大)を配布し、ショップへの来店を促す。

汚れが落ちるまで3~4分かかると伝えた上で、お客から指輪やネックレスなどを預かり簡易洗浄機に入れ、

その間にショーケースから商品を取り出し、とにかく身体に着けさせ、鏡に装着した姿を映して見せて、

すかさず褒めて、買わせる、というものだった。

こうしてお客がクリーニングに預けた商品を「返して」と言い出しにくい状況を作り出せば、

ほぼ販売側の思う壺になる。それでも商品を何も買わず帰ろうとするお客には、

「ペリシャス」という350円の洗浄剤を販売していた。

三貴の接客マニュアルでは、ハンドビラ→クリーニング→ペリシャスの販売→商品の販売→

さらにもう何点か勧めてセット販売に持ち込むと、なっているはずだが、

現実的には、ペリシャスは何も売れなかった場合、0円を防止するための

最後の手段として用いられるケースが多かったはずだ。

上記は接客上のテクニックであるが、プレゼンテーションでは値引きPOPが特徴と言える。

会社から決められている特定商品群(ベビーリング、マリッジリング、ブランド展開商品など)を除くと、

基本的には50%~70%という値引き販売が基本だった。

もちろん、表示している定価から50%~70%値引きしても、会社が必要としている利益率が確保できるよう、

値入率はコントロールされていたのは言うまでもない。

「いつまで値引きセールをやっているの?」とお客から訊ねらた時は、辛かった。

渋谷店にいたときは、「今だけです。」と消え入りそうな小さな声で答え、

川崎では「本部の指示があるまで続けることになると思います。」と自己責任を回避する言い方に変え、

東武では「当分続けます。」と正直に答えていた。


残念なことだが、実態のない定価からの値引き販売は、業界の慣習として現在でも散見される。

ネット上のオークションサイトやショッピングサイトでも、通常販売価格○○円のところ、

今だけ○○円という表示をときおり見かけるが、個人的に強い嫌悪感を覚える。


悲喜こもごも、充実した毎日を送っていた私に、1989年5月、異動命令が下った。

業務本部デザイナー室という部署だった。