がんばること、考えること。
諏訪中央病院院長であった(現在は名誉院長)鎌田實(かまたみのる)氏の著作に、
「がんばらない」という本がある。
ベストセラーなので、読んだ方も多いのではないかと思う。
病気と闘う上で、「がんばらない」というと、(病を、あるいは運命を)「受け入れる」ことに近いが、
鎌田氏のもう一冊のベストセラー「あきらめない」という本が示すとおり、
「がんばらない」=「あきらめる」ということではない。
私は鎌田氏と面識があるわけではないし、取り立てて尊敬しているわけでもない。
以前、NHKで瀬戸内寂聴との対談を見たことがあって、その時の印象で言えば、
むしろあまり好意を持てなかった。
個人的にヒゲ面が嫌いというのもあるが、言葉遣いがややぞんざいで、
相手に対するいたわりの気持ちが伝わってこなかったから、というのが理由としては大きい。
だが、「がんばらない」という心の持ちようには理解を示すことができる。
私は会社内で「頑張るな、考えろ。」と言い続けている。
「頑張るな、考えろ!」というのは、私が10代の頃から漠然と持っている座右の銘のようなものだ。
「頑張る」という言葉には、
「固定的で直線的な、しかも他者から強制された意に沿わない努力」というイメージがある。
もちろんこれは私の主観であって、「がんばれ!」と言われると、
脳内にドーパミンとアドレナリンが一気に満ちあふれ、
目標に向かってひたすら努力し続けられるという人もいるかもしれない。
だが私の場合、昔から「がんばれ!」と言われると、やる気が失せる天の邪鬼体質なのだ。
そのルーツは中学生時代にあるように思う。
中学生の頃、私は柔道部に在籍していた。
県内でもほどほどに有名で、ほどほどの強豪校だった。
「ほどほどに」、というのがポイントで、ほどほどのレベルを維持するために、練習は意味もなくハードだった。
一年生の頃、グランドを3~5周うさぎ跳びし、すぐに板の間に30分ほど正坐させられ、
その正座している「もも」の上に先輩が全体重を預けるように両足を乗せ、
さらに屈伸をするように体重をかけてくる。
しびれた足が悲鳴をあげ、苦痛に顔を歪めると先輩が声を浴びせてくる。
「がんばれ、がんばれ!」
そうした基礎練習が何時間も続く中、水分を摂ることが許されないので、夏の練習は特にきつかった。
さらに冬。
今ではあまり降り積もることはないようだが、昔の富山は豪雪地帯だったから冬は雪が降る。
柔道場の屋根から軒下までつららが伸び、寒暖計の目盛りが0℃を大きく下回る中、
一年生は裸足のまま外での練習が待っていた。
氷と雪と砂が混ざってザラメ状になったグラウンドをランニングし、
踏み固められた雪の上で受け身の練習をさせられた。
笑い声に混ざって先輩の叱咤激励の言葉が降ってくる。
「がんばれ、がんばれ!」
では、こうした痛くて辛い練習に明け暮れた一年が過ぎて、柔道が強くなっていたのかというと、
相も変わらず「ほどほど」でしかなかった。
どうせ辛い思いをするなら、本当に柔道が強くなる練習がしたかったというのが本音だ。
こうして、私はがんばるという行為や言葉が嫌いになった。
がんばるという行為に移る前段階にもっと大切なステップがあることに気づいたのは、19歳の頃だった。
富山の新設の普通科高校を遊び呆けながら何とか卒業した私は、
予想通り大学受験に失敗し、家出同然で東京に出てきた。
働くところはもちろん住むところさえないホームレスに近い状態だったが、
運よく住み込みの新聞奨学生になることができた。
今も当時と同じ場所にある、日本経済新聞駒沢専売所。
奨学生という体裁をつくろうため、早稲田ゼミナールという予備校に籍を置くことにもなった。
入学金や授業料はもちろん、家賃と朝晩の食費も無料(食べ放題)で、その上給与まで支給されるという、
実際に始めてみるまでは夢のような待遇だった。
朝、3時50分にベルが鳴り響いて起床する。
作業場に下り、チラシを配達する新聞に一部ずつ折り込んでいく。
配達エリアは世田谷区深沢。
250部ほど配る朝刊の半分を、自転車の前にある籠と後ろの荷台に括りつけて、4時半頃に専売所をスタート。
中間点に先輩が予め置いてくれていた残り半分の新聞を自転車に載せ、
午前7時までに全部数を配り終えて専売所に戻らなくてはならない。
晴れた日だけではない、雨、台風、凍てつくような雪の日もある。
7時から食事。
9時半から始まる授業に合わせ、早稲田ゼミナールへ向かう。
新玉川線(現 田園都市線)で駒沢大学から渋谷へ、渋谷から山手線に乗り換えて高田馬場へ、
高田馬場で地下鉄東西線に乗り換えて早稲田という順路だったが、
新玉線と東西線の混み具合が、富山しか知らない私には耐えられないほど苦痛で、
しかも偏差値が40以下だった私には、予備校の授業は高度すぎて全く理解できず、
結局1週間ほどで止めてしまった。
午後3時半には専売所に戻って夕刊を配達。
夕食前後に次の日のチラシを新聞に折り込みやすいように、まとめる作業が入る。
その他に集金や拡張業務が付加されていた。
集金は時間を奪い、拡張は精神に苦痛を与える業務だった。
拡張コンクールというのが年に何度かあって、誰が何件獲得したかがひと目でわかるよう、
食堂にグラフに張り出されていた。
私は10人ほどいる所員の中でいつも最低の成績だった。
見知らぬ人の家の呼び鈴を押して、必要かどうかも分からない新聞を取ってくれと頼む。
断られると傷つくし、運よく取ってくれることになっても、配達部数が一部増えるだけのこと。
つまりどちらに転んでも心か身体、いずれかの負担になるという業務だったということだ。
何度か荷物をまとめて専売所から逃げ出そうとしたが、いつもできなかった。
最終的に私が選んだのは、大学に合格して専売所の所長や仲間に笑顔で見送られる、
というシナリオだった。
脳内でのシナリオは完ぺきだったが、現実はそれほど甘いものではなかった。
7月、とにかく今の自分の実力を知ろうと代々木ゼミナールの模試を受けた。
偏差値は英語が35、国語が45、社会が40で、総合では37くらいだった。
簡単言えば、その時点で私が合格できる大学は日本にほぼ存在しないという結果。
ともあれこうした現実を受け入れて、最も効率的な受験勉強方法について一ヶ月間ほど考えた。
隣りの部屋に住んでいた、代々木ゼミナールに通っていた服部くんにも相談し、
一ヶ月後に編み出した勉強法が、テキストを20回声に出して読んで丸暗記するいうシンプルなものだった。
まず集中したのは英語。
中学2年と3年の教科書を約1ヶ月かけて丸暗記。
それからさらに2カ月かけて、50ページくらいの薄い大学受験用長文読解問題集を買って同じく丸暗記。
英文だけを読んでも覚えられないので、最初に訳文を読んで何が書かれているかを理解してから、
英文を暗記した。
長文を暗記することで、わからない単語や熟語の意味が類推できるようになったことが大きい。
こうして11月に受けた模試で、英語の偏差値が生まれて初めて60を超えた。
社会は世界史を選択したが、時間がないので現代から遡るように暗記した。
テキストは山川出版の世界史教科書だけ。
国語は、英語と同じように薄い問題集で古文を暗記し、漢文は時間がないので捨てた。
12月、3科目総合偏差値は65になった。
私立文系で合格確率が50%以下の大学がほぼゼロになり、私は受験勉強をストップし、
当時巷で大流行していたインベーダーゲームに熱中して過ごした。
いくつかの波乱はあったが、ほぼ狙った大学には合格できた。
もちろん予定通り、日本経済新聞の専売所のない京都の大学を選んだ。
1980年3月下旬、シナリオ通り所長や仲間に見送られ、私は専売所を後にした。
住み込みで新聞配達をしていた一年、頑張ったなあと思うのは、
台風の日の配達や、うだるような暑さの中での集金、
それに東山魁夷のポスターを拡材とした拡張業務の日々だ。
エピソードもある。
私の配達区域に、当時経済企画庁長官だった小坂徳三郎氏の自宅があった。
ある日、私は小坂氏の家に配達し忘れてしまった。(不着)
小坂氏は、日経本社に電話をし、「新聞が届いていない。」とクレームをつけたそうだ。
所長は日経本社の販売担当役員から直々に怒られたという。
語弊がないように伝えるなら、方向性や方法論が決まっていて、
努力の質ではなく量だけで結果が決まってしまうような場合は、
やはり頑張らなくてはならない。
けれども、限られた条件の中で最大のパフォーマンスを求められる場合、
環境を分析した上で、方向性と方法論を最適化しなくては、
直線的な(量的)努力だけでは、目標に達しない場合が多い。
大学時代、私は家庭教師のバイトしていたことがあるが、
英語の受験勉強を行なうのに熟語と単語の暗記を主体に行なう、
あるいは歴史の勉強をするのに古代から順に暗記する、
という方法と私の編み出した方法では、同じレベルまで達するのに3倍以上の差があった。
うまく言えないが、イチローや北島康介がすごいのは頑張っているからだけではない、
頑張る以前に考えていることがすごいのだと、私は思う。
イチローや北島と同じように頑張っても、同じレベルには到達できないのだ。
ソニーの業績が良くないという。
ビジネスで必要なのは、「始めること」、「やめること」、「続けること」の意思決定を的確に行うことだ。
ただ頑張ったからと言って、業績が上向くわけではない。
こうした経験を踏まえて、私は「頑張るな、考えろ。」と自分にも周りにもずっと言い続けている。