動物愛護の話をすると必ず出てくるのが、
「なんで犬や猫の虐待はダメで虫を殺すのはいいのか言ってみろ」という反論ですね。
「同じ命なのに虫はなんの罪悪感もなく殺して、そのくせ犬猫に限って虐待するな殺すなと言うのは筋が通ってないじゃないか」
「犬や猫を殺したり虐待するなと言うなら、他の生き物全てを食べたり殺したりしないと言えるんだな」
という趣旨の批判です。
これを言われると多くの人が黙ってしまうか、「犬や猫には知性があるけど虫にはないから」などと言ってしまい、
「じゃあ、豚や牛には知性があるのになんで美味しいって言って食べるんだよ?」などと反論をされます。
私が思うにこれは『感情移入』できるかできないかという問題なのだと思います。
もし「なぜ人間を虐待したり殺すのはダメなんですか?」と問えば、「同族だから」「社会が正常に機能しなくなるから」などという議論を経て、「それは犯罪だから」「法で禁止されているから」というところにたどり着くと思います。
じゃあ法律で罰せられなければ虐待しても殺してもいいのでしょうか?
2022年2月24日からロシア軍はウクライナを侵略し民間人を虐待しレイプし殺しましたが罰せられません。
強制的に兵士たちを撤退させ逮捕する権限がある国際法も世界軍もありませんからね。
しかし世界中の人々はその行為を非難していますよね?
それはなぜでしょう?
ひどい目に遭っているウクライナの人々に世界の多くの人々が感情移入しているからに他なりません。
一方で外国人や他の民族に感情移入できない人たちにとってはウクライナの人々が惨殺されてようが気にもならないでしょうしそれより電気代の値上がりのほうが心配かもしれません。
海外の大災害も邦人被害者がいなければあまり大きくテレビのニュースで報道しないのは、
そこに日本人の被害者がいるかいないかで大きく視聴者の関心が変わるからです。
つまり、自分が感情移入できる対象を虐待されたり殺されたりすることは、人にとって不快であり許せないけど感情移入できない対象に関してはさほど感情が揺れ動かないということなのです。
ですから動物愛護の感性も国民の大多数が感情移入できる範囲にどこまで含まれるかということがその国の基準となるわけです。
個別には犬猫までの人もいれば牛・豚・鶏も含まれる人も魚まで含まれる人もいるでしょう。
もちろん、虫も含まれる人もいるでしょうし、細分化して蝶やカブトムシは含まれるがハエやカは含まれないという人もいます。
そして、この感情移入するセンスというものはその国や民族の歴史的背景や民度によって大きく差があるわけです。
英国などは動物倫理に関して高い意識が根付いていますから、犬・猫だけでなくあらゆる野生動物と畜産動物に対しても可能な限り倫理的に接することを法によって義務付けていますし、動物に『物』ではなく『生命』としての権利を保障しています。
アメリカやオーストラリアなども州によって条例は異なりますが、多くの地域で犬や猫が健康に生きる権利を保障し法的に厳しく保護しています。
一方でアジア諸国の多くは動物愛護の意識が低く、長年共に暮らしてきた犬や猫という種族に対しても法的には飼い主の所有物にすぎず、虐待しても殺しても大した罪に問われません。
食糧難でもない国々で犬食・猫食も続いています。
前者と後者の国々の何が違うかといえば、
平均的な教育水準、文化水準、マナーレベル、倫理観などの成熟度の差と言えるでしょう。
そして「なんで犬や猫の虐待はダメで虫を殺すのはいいのか言ってみろ」などと感情移入能力の低いことを言っている連中がその国の民度を下げているのです。
どこまでが女性蔑視なのか判断ができないじいさんと同じレベルのモラルの低さであり、自分がどれほど恥ずかしいことを言っているかの判断ができないだけのことです。
では「なんで犬や猫の虐待はダメで虫を殺すのはいいのか言ってみろ」にお答えしましょう。
多くの人々の感情移入の感性がまだ虫に対してまで至っていないからです...
倫理観がもっと成熟していけば虫を殺すことにも違和感を感じるようになるでしょう。
そしてなぜ犬や猫の虐待が非難されるようになったかといえば、
まずは歴史的に長く共生してきた犬や猫から感情移入して愛情を持って倫理的に接しましょうよ
という世界的な気運が高まり、まともな感性を持っている人ならそれが当然だと感じ取れるからでしょうね。
ちなみに私は園芸もたしなみますが、園芸愛好家の中には虫を殺すことを嫌って無農薬で植物を育てている人々も少なくありません。
自分の狭隘な先入観だけで世の中の人誰もが虫なら安易に殺すと思わないで欲しいものです...