はったブログ
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記憶―高齢者の脳特性?

 2週続けて古い友人らとの食事会があり、記憶の不思議さを経験したので、記録しておこうと思う。

 一つ目は、先輩から直接聞いた話。この先輩を囲んでの飲み会は、先輩の教え子から半年程間を置いて連絡が届く。先回はご本人の入院騒ぎで延期となったが、その時の事情は次のようなことである。体調が悪いので、飲み会への参加が不可という連絡をしようとしたら、携帯電話の使い方がわからないのに気づいた(これは手続き記憶の障害で行為障害と見做せる)。自分の記憶に何か欠損があるような気がしたし、今も何か記憶が欠落している気がすると言う。屋敷内の別棟にいる娘に幹事役に連絡してもらうことで、僕のところにも幹事役からメールが届いた(この時、携帯電話のブロック解除番号が分からず、苦労したということ。僕は翌日家内に番号を教えたことである)。

 この記憶の怪しさは、足首が浮腫んでいたので利尿剤を大量に使ったことが原因と、弟さんの病院に入院して診断・治療されたようで、その後は特に問題がないようである(だから今回の食事会が再会できたのだが)。

 このエピソードから、記憶障害は梗塞や血管破裂で脳組織が失われるのが原因とテキストに書いてきたが、血液中の成分(例えばカリウム)の適正濃度が損なわれると同じように記憶障害が起きるのを知ったことになる(利尿剤を大量摂取させて記憶を失わせる犯罪小説は可能かも知れないと妄想したが、未着手)。加えて、記憶を構成する要素として、エピソード記憶、展望記憶、手続き記憶などの要素を想定するのが現在の記憶研究であるが、最も加齢に対して頑健とされる手続き記憶がダメなのに、一番脆弱とされる予定の記憶(展望記憶)が残っていたのも驚きである(集まって、飲みたい欲求の反映でしょう)。

 今回の記憶障害状況で、飲み会の予定を忘れなかった先輩のエピソードからは、「記憶を構成する諸要素を統制する中央実行系みたいなもの」の存在がありうるなあ、と考えたことであります。

 

 二つ目の記憶の不思議さは、人物の長期記憶検索についてである。叙勲の副産物で高校時代の友人から連絡があり、長浜で食事をした。高卒以来(60年)一度もあっていないM君と、年賀状のやり取りはあるが、30年前の同窓会で会ったきりのSさん、17年前に名古屋で会ったNさん3名がメンバーで、死ぬ前にもう一度会っておきたいということになり、指定された電車に乗って出かけた。

記憶による人物同定は、最後に会った時からの時間の関数で困難度が違うのかに関心があったが、この仮説は成立せず、見てもわからないのではないかという疑いは無用であった。M君もどこかに昔の面影があり、判別は簡単で自分でも驚いた。

 寿司屋で大量の料理を食べ(長浜は安い!)、恩師や同級生の誰それが亡くなったというたくさんの情報を交換した。高校の同級生の半数近くが鬼籍に入ったが、驚くことではない。

 食事の後、6-7年前から描き出した水彩画を見てほしいということで、美術部のメンバーであったM君の自宅を訪問した。かなりな腕前のように思えた。その際、6年目に開催されたという中学の同窓会(僕は参加していない)の記念写真を見ることになった。

 僕は誰一人、同定できる人はいなかった。70歳過ぎの高齢者の集合写真から中学生の頃の人物の判別は全くできなかった。次いで、Sさんが携帯電話を取り出し、4月に大阪の美術館に行ったときの写真を見せてくれたが、その写真と目の前にいる本人が全く同定できないのだ。写真から人物同定ができないのは僕の記憶力の問題ではなく、皇居内での集合写真を見た3人は15人程の(服装は類似してはいるが)老人群から僕を探し出すことはできなかった。

 迎えに来てくれた駅で会った時に、いとも簡単に人物が同定できたのは2次元静止状態の顔と、生きている顔がもたらす情報量の違いで、顔という材料の記憶は特別!ということである。それぞれが持つその人のイメージを大事にしようと言うことで、記念の写真は撮らないことにした。80歳近い我々の写真で老いを確認するよりも、古い記憶の中にイメージを抱いていることが楽しいのではと言うことである。「またね!」と言い合って別れたものの、再会はあるのか分からないのであります。

 

 斯く左様に、人の記憶というものを生み出す脳の働きの不思議さを味わう2つの食事会でありました。

 

 新着の米国の学術誌に、アルツハイマーになった神経学者のインタビューが掲載されていた。徐々に進行する認知症の症状の中で、ブログを書くのが早めにダメになるということが記されていた。まだ、自分は2,000字ほどの文章がまだ書ける(そのつもり)のを、ありがたいと思った次第。インタビューの最後にI’m just taking it a day at a time, and still enjoying life.(私は一日一日を大切にしながら、人生を楽しんでいる)とありました。そんな風にありたいと思うこと、しきりであります。

叙勲騒動記-2

 この度の叙勲を喜んでくれたのは郷里の兄夫婦や親戚一同で、早速お祝い会を計画すると言ってきた。勲章を持ち帰り、仏壇に報告して親戚一同に披露するという一連のプロセスをするのが、郷里を離れて暮らす人間にも、自明のように科される古い土地柄なので、その圧力には従うことにした。

 

 昨年も退職祝いをしてもらっており、すでにイトコが祝賀会を長浜市にあるホテルで準備中だったが、今回は僕が親戚一同を招待し、日頃の無沙汰を謝す感謝の会にしたいということで了解してもらい、父親の兄姉の子孫(イトコ)と甥姪を含めた14人を会食に招いた。

招待状には1964年(昭和39年)に大学に進学してから丁度60年の区切りであること、皆さんのご支援の賜物であること、大学合格祝いの会に受け取った母親からの「祝吟」に、「皆のご恩に報いよ」というようなことがあることを理由とした感謝の会である旨を書いておいた。

 

 当時の田舎では大学進学は珍しかったので、両親らが興奮したのか、健康診断のために大阪に出かけた本人欠席でのお祝い会があったのだ。その折の参加者からの「祝吟」の短冊は郷里を出る時に持たされた(この何とも雅な風習は今ではないが、以前にこのコラムに詳細を書いた記憶がある)。叔父が全員の歌や漢詩を短冊に書いた。達筆のせいで全部が読めないが今でも手元にある。昨今の大学生には、「親がうるさいので、大学に入ってやった」などというも者もいるが、今からは想像し難い状況が60年前にはあったのだ。

 

 僕の父親は6人兄姉の末っ子で「八田家」に養子に入った人で、高等教育を受けたかったのだろうが叶わず、次男である僕の進学には寛容であった(大学院に進むことにも何も言わなかった)。義理の父親(祖父)は「八田家」の長男ながら、家督を継がず、遊び人風に生きた人である。特に意図したわけではないのだが、真面目に勉強したこともあり、大学院に入り、幸運にも心理学研究を続け、教職に50年も携わったので、両親には合わせる顔が「ない」と言うことでもない生き方をしてきたと思うが、直接伝えることは叶わない。

 

 東京行きの疲れと昔のバイト先の先輩らのお祝い会などに出かけ、過労気味だったのだろう、この感謝の会の2日ほど前から、風邪の症状が出て、喉の痛みと咳がでていた。微熱はあったが、日程変更も難しいので会は強行した。僕の風邪症状は3日ほどで良くなったが、その後家内に同じような症状が出た。家内は薬が乏しくなったと、かかりつけ医に行って検査をした。コロナ陽性であった。僕もコロナであったのだろう。感謝の会から2週間が経過し、実家に電話すると義姉はひどい咳声で、4人がコロナ感染であったということであった。

 

 感謝の会で食事を提供し、コロナウイルスも提供したことになる。申し訳ないが、どうしようもない。幸い全員入院には至らず快方に向かっているらしい。いつもしてもらうばかりで恐縮し、今回は僕がというような慣れないことをしたためかもしれないが、この一連の騒動は、後年も語り継がれることであろう(まさに、Troubles make my life memorableである)。

 

 昨夜、大学時代のクラブの先輩が電話をくれた。新聞発表時に叙勲を知ったが、すぐの電話では大変だろうと、一段落した頃と考えてということであった。「水嶋君が生きていたら良かったのになあ」と思いを共有した。舞鶴在住の先輩は、神戸であったOBの演奏会に出たということで、誰それは椅子に座って歌っていたとか、誰それが亡くなったという情報も知らせてくれた。同年代のクラブのメンバーも櫛の刃が抜けるように欠けてゆく。改めて、元気な時期に叙勲されたことの幸運を思い知ることである。併せて、「散る桜、残る桜も散る桜」という一節も想起されるのである。

 

 孫の夏休み計画は、昨年は猛暑下灼熱のU S J行きで大変であったが、今夏は涼しいところにということで、予定が決まった。1週間一緒に過ごす計画は、ゲシュタルト心理学でいう「図」に浮かび上がりそうな「散る桜」の一節を「地」に追いやる効果がある。自分でも不思議ではある。楽しみな予定は生きるエネルギーなのだ。

叙勲騒動記-1

 春の叙勲で瑞宝中綬章をいただいた。教育に功労があったということである。慌しかった1ヶ月ほどが経過したので、その間のファクトをメモしておこう。

 昨年9月に名大から申請してくれていたが、教育関連分野では80歳以上にならないと順番は来ないと聞いていたので、2-3年後だろうと考えていた。昨年夏に結構面倒な申請資料の整理の一部を自分でした。昔の講座制の大学では(大抵は弟子筋の)助手の仕事であったようだが、昨今の大学ではあり得ないことで、担当の職員は恐縮してくれた。その人には面倒な余計な仕事を増やして、申し訳ないことであった。

 3月14日にその職員から電話で内示の連絡が来た時には、予期していなかったので何?という感じであった。予想よりも早く頂けたのは、担当職員の申請書の書き方が上手だったのだろう。内示の連絡を受けてもあまり興奮するような感覚は生じなかった。受賞を待たずに鬼籍に入る先輩をここ数年は多数見てきたし、期待している人で残念がった人も少なくないだろうという思いの方が強かった。

 

 内示があっても最終的に閣議決定される4月16日までは口外禁止で、その間に複数回、申請後元気でいるか?犯罪に関わっていないか?の確認があった。求められる度に、生存や出席可能性が怪しくなる年齢であることを思い知り、元気なうちにいただけた幸運を噛み締めたことである。

 

 新聞に名簿が掲載された4月29日に、朝一番に先輩からお祝いの電話があった(耳が遠くなっておられるので詳細なやりとりは出来ず)。教え子たちからはLineでお祝いが届いた。そして祝電が届き始めた(配達員が玄関のポストでO Kかと確認するほど何度も配達された)。知らない国会議員からも結構届いた。豪華な色紙がついており、こんなところに政策活動費とやらが使われるのかと、裏金問題が喧しい時期なので思いを巡らせたことである。

 続いて、記念品や額を売る業者からのパンフレットが届き始めた。片手で持つのも重くて大変という豪華本を含めて15社以上からの送付であった。勲章を飾る額は3-150万くらいの幅があり(柿の木で作る額が一級品であることを知った)、記念品やパーティの代行など、叙勲事業は一大産業を構成している経済規模の小さくないイベントであることを知った(パンフに記載されていた勲章の伝達式から皇居までの振る舞い方の情報は参考になった)。

 

 勲章の伝達式はホテル・ニューオオタニ東京で5月13日に行われた。ドレスコードがあるので着替えが面倒だろうと伝達式場に前泊した(東京在住の教え子2名がホテルに来てくれて、夕食をご馳走してくれた。幸せな、教師冥利に尽きる時間であった)。

当日は、11時半からの受付でホテル内の会場(省庁毎に会場は別)に集合し、簡単な式典の後、文科省の職員が(予想したより大きく、重い)勲章を首に掛けてくれた。それからそのままの格好で20名ずつ指定されたバスに乗り皇居に向かった。当日は今年最悪という大雨であった。各省庁別に10-15台くらいのバスで皇居に移動した。食事は出ないので、ホテルの部屋に備え付けの水ボトルだけで、5時半頃まで皇居にいた。皇居内の駐車場でのバス内待機が長かった。雨の中、広大な駐車場の端にあるトイレに行く着物姿の女性は気の毒であった。皇居の建物内には何も持ち込めず、杖以外は全てバスに残していかねばならなかった。

 豊明殿に入り、省庁別の叙勲者と配偶者そして付き添いが200名ほど着席して待ち、侍従を従え入場された天皇陛下から祝辞と慰労の言葉があった。その後、フロアに降りて来られて5人と個別に言葉を交わされた(車椅子、女性、というように配慮が伺えた)。

その後、次の省庁の叙勲者群と入れ替わるので、豊明殿の入り口のロビーでの記念撮影へと移動した(天皇は大変な重労働と、同情したことである)。指定されたバスごとに撮影が行われたのだが、これに長い時間を要した。皆な年寄りなので迅速に移動ができない。次の省庁の叙勲者らが豊明殿に入る時間帯(40−50分を要した)は撮影が中断されるのであった。

 この頃は5時近くであり、帰りの交通機関の予約を気にし出す人がざわついていた。自分も、ホテルに戻って着替え新幹線でと考えると、今日中に帰れるかしら?と心配になってきていた。5時過ぎにやっと、撮影の順番が来て、その後、バスで東京駅、ホテルへと移動した。雨は依然として止んではいなかった。バスの中で、賜り物ですと言って皇居の絵葉書セットと、お菓子の箱をいただいた(菊の紋章の焼印入りの餡巻が3個入っていた。家内によれば、製造年月日や製造所、賞味期限などの情報が付いていない、と感心していた)。早朝から年寄りの世話を一日中せねばならない若い職員には申し訳ない気持ちで同情するばかりであった。

 

 バスは5時半に東京駅経由でホテルに戻った。大急ぎでモーニングから私服に着替え(靴も履き替え)ダッシュで(雨まだ降り止まず。傘をさして、キャリーケースを引きずって)J R四ツ谷駅に駆け込んだ。このホテルはJ R利用が便利であることを何度か来たことがあり承知していた。ホテル発は6時ジャストであったが、6時39分発の「のぞみ」に駆け込めたのでした(心臓に負担をかけたかも)。

空腹を忘れてしまい、疲労感だけ味わいながら、新幹線では何も口にせず、連絡が良かったので、9時半には自宅に戻った。食欲はなかったように思う。ともかく、慌ただしい1日で、ちょっと身体に負担をかけすぎたと反省したことであった。

運転免許更新のために

 

  75歳以上になると運転免許証の更新は自動的というわけにはいかない。Mediaで高齢者の人身事故が集中的に報道され、「高齢者には運転免許を更新させるな」ふうな社会運動の賜物である(統計学的データで他の年齢群と正確に比較して議論されているのかは、怪しい。知らんけど)。

  高齢者が自動車を運転しなくなって、自動車産業が成立するの?その経済的影響は?と考えると、事故が起こらない自動車を作ることや道路整備の方が肝心ではないかと、高齢者側に所属する僕は言いたくなるのだが、ともかくも高齢者講習が必要になるのだ。無事、関門をクリアできたので、来月あたりに更新手続きの書類が届くはずである。

 

  4月初めに通知が来た。実地運転技能検査+認知機能検査+高齢者講習の全てをクリアしなければ、更新はできないという通知である。自動車教習所での予約は3ヶ月先しか取れない場合もあると大きな赤字で印刷された封筒が届いた。「早急に検査・講習の申し込みをせよ」とあった。時間の余裕はあるので、すぐに予約をした。3週間先が空いていた。高齢者講習は10人ほどの単位での実施なので混むのである。

僕には2年ほど前にスピード違反歴があったので(ガラガラの右車線を通り抜けると渋滞気味の左車線に埋もれていたパトカーを追い抜いたようで、すぐに後ろからサイレンが聞こえ、停車。人生で初めての経験であった。ずっと運が良かっただけなのだが)、高齢者講習が必須となっていた。2,900円が余計にかかり、加えて認知機能検査と運転技能検査、合わせて4,600円が必要であった。スピード違反はその罰金だけでは終わりでないということだ。

 

  高齢者講習は、教習所の中を実際に車で走るもので、隣にいる検査員の指示に従って、左右に曲がったり、信号で停止したりするのである。一番難度が高いのは「段差乗り上げ、急停止」で、コンビニ駐車場で高齢者がブレーキとアクセルを踏み損ねて突っ込む事故からの想定と思われた。僕の車には自動ブレーキ等のサポート機能が装備してあるので意味ないなと思いつつ、従順に運転して満点の運転成績であった(誰でもじゃないかと思うけど)。

 

  この日に他の検査をしてくれればありがたいのだが、そうは行かない。また予約を取り直し、4週間後に認知機能検査と運転技能検査を受けた。知人(教習所の所長歴あり)は試験準備をして受けたと聞いたので、自分もやるか、と認知機能検査の対策を講じた。

有難い時代で、U-Tubeでたくさんの動画が出ている。無料で練習できるのだ。試験の関門は手がかり再生記憶検査である。U-Tubeでは4つ物品の図が4個で1セットの問題が、4パターン存在し、合計64個の図を記憶すれば良いと教えられ、自分なりに工夫をして記憶するようにした。例えば、「カブトムシライオンとうもろこしフライパンで茹でて食べさせた」と勝手に文章を作成、下線部分を再生すれば良いとした。

  この方式で準備した結果、記憶検査は満点であった(はず)。あとは見当識(年月日など)問題なので、自慢するほどのことではないが、認知機能検査は問題なくクリアできた。全部できると気分は良い。

 

  話が逸れるが、毎年実施している北海道での住民健診で、我がチームは前頭葉機能検査の項目の一つに文章記憶課題を行っている。長文を2度聞いてもらい、文章の再生を求めるものである。文章のパターンは年度で変えるのだが、住民の中には「みんなで練習してきたのに、去年と違う」という人が毎年何人かいる。こんなふうに健診のために認知行動が増えるのは高齢者の脳機能低下対策になっていると考えているが、自分の今回の一連の行動は、同じことをしていたことになる。

 

  高齢者の運転免許更新は、高齢者から免許を取り上げるのが目的とばかり考えていたが、実は高齢者の脳機能低下対策なのかもしれないと思ったことである。

 

  やっと自由な時間が持てるようになったので、今しばらくは、自分の車はサポート機能満載にしてあるので、自動車運転は楽しみたいと思っているのであります。

入れ歯生活が始まった

 3週間ほど前に、目覚め際に口の中で奥歯が揺れるのに気づいた。40代の頃に何本も虫歯が見つかり(それまで歯医者にかかった事がなかったのだ、)その時に両端の歯に被せる形で3本分の奥歯が治療されていた、左の上顎の被せ物がダメになったのだ。

次男の同級生で、車で5分ほどの場所に10年ほど前に開業した歯医者がかかりつけなので(半年に1度の検診には必ず出かけ、あまり変化はなかったのだが)、揺れる奥歯の状態で見てもらうこととなった。奥歯を支える骨が被せ物を支えきれなくなっていること、もう歯を支えるには骨は頼りなくて、骨に埋め込む義歯は無理と診断されてしまった。軟口蓋に薄い金属の橋を掛けるようにして、左奥歯(偽歯)を右奥歯とで橋渡しする入れ歯を作る羽目になった。1週間で入れ歯は完成し(細かい作業をするものだと、感心したことである)、使用しはじめた2-3日は入れると肩こりが酷かったが、調整に通い違和感は減少した。医者は慣れるというので、なるべく入れ歯を入れて生活するようにしている。右の奥歯も被せ物がしてある元気でない歯なので、万が一、右の奥歯がダメになった時に困るはずと、入れ歯の左奥歯を使うように練習中なのである。

 

 この部分入れ歯を使い始めて、泳ぎに変化に影響があることに気づいたのだ。日曜日には、ルーチンとしてスイミングプールに行く生活スタイルを続けている(運動しましょうと、健診の際に住民に言っている手前、「あんたもね!」と言われないためでもある)。

 長男が小4くらいの時に肥満児傾向と言われ水泳教室に連れて行ったことがあった。自宅はJRや阪急の北側にあり、その頃これらの鉄道線路を越える場所には複数のスイミングスクールがあったが、線路の北側地域の、それも車で10分弱の距離にスイミングスクールが新しくできた。そのスクールの隣には看護学校があり、僕は駐車を許可してもらっていたので好都合でもあったのだ。もっとも、今ではその看護学校の跡には高層マンションが2棟立っている。スイミングスクールも20年ほど前に経営者が代わり名称も変わったが、中の設備に変わりはない。今風の筋トレマシーンなどはなく、プールとサウナが装備されているだけなので、会費は割安ですむ。そこに、長男が入会した際の家族会員証があるので自分だけは30年以上通っている。

 7時半に泳ぎ始めて1時間ほどで帰宅し、朝ご飯というのが日曜日のルーティン。最近は25mプールを15往復クロール+10-15往復の水中歩行と決めている(時々、まだ泳いでいますかと聞かれることがあるので、辞めにくいのだ。そう言えば、浜寺水練学校卒の故宮田洋先生には必ず聞かれたものである)。

 

 日曜日の早朝は自分より高齢と思しき男女14-15人が水中歩行をしている。若い人(中年のこと)はもちろん威勢よく泳いでいる。だいたい見かけるのは決まったメンバーなので、声はかけ合わないが、会釈くらいはする(老女達はずーと喋りながら横並びで歩行するので、邪魔だが、関わりあわない)。昔は20往復を30分程度でという時もあったが、今は早く泳げないが、この泳ぎのときの調子で体調のモニタリングをしている。予定通りに泳いで帰る車中で、「まだ元気みたい」と自分に言い聞かせる。体調が悪いと朝食後、うたた寝をしてしまうが、良い時はそのまま自室に篭れるのです。

 

 先日、泳ぎはじめ、普通でない、泳ぎ難いことに気づいた。(泳ぐのは泳げたけど)息つぎがしにくい気がしたのだ。そこで思い当たったのが、入れ歯を入れていたことである。長々と書いたが、要するに、老人の典型的な身体の変化である歯についにガタが来た。そして、まだ入れ歯使用練習中の状態で泳いでしまったというわけ。そうしたら、口中の空気が入る容積が少なくなり(おそらくだけど)、息苦しいと感じたのだ。入れ歯が占める体積はごく僅かなはずなのに、老人でも人間の自己受容感覚の精密さは凄い!と感じたということである。

 

 入れ歯を入れた状態への順応は今しばらく時間を必要としそうな状況で、右側の奥歯達の頑張りに縋るしかない。

それにしても、30歳代までにもっと丁寧に歯磨きをして、歯科医師の指導を受けておけばと、今更、詮無いけれども後悔している。若い読者は、ご用心を!

1年が経過した

 退職してから1年が経過した。勤めていたのがずっと遠い昔の出来事のような気がして、新たな日々のルーティンで動いているが、3月に入って、旧在籍学科の催しや学内学会に招かれて講演することが重なり、意識にポップアップすることのなかった頃のことが思い出されるようになった。メンタルな時間と物理的な時間経過の大きな乖離を体験したことである。

 学部の設置などの理由で、ハンティングした数名の先生も退職となり、3度ばかり楽しく昔話をしながら会食を楽しんだ。話題は学生募集の不振に見舞われている学内状況など、あまり楽しいものでなかったが、そこでの話題をここで披瀝するわけにはいかない(誰かの悪口が含まれるからで、今の所、前頭葉の抑制機能はまだ大丈夫である。ただ、血が騒ぐと言うのであろうか、大学のグランドデザインのあり方を議論した昔の経緯などが反芻されて、会食した夜の睡眠状態は芳しくなかった。あれから、まだ1年しか経っていないのかと言うのが正直な現在の心境である。

 

 定年退職した人達は、退職後の1年をどのような気持ちで過ごすのだろうか。「何をして時間を過ごして良いかわからない」、「やりたいことが山ほどあって」という2つのタイプのスペクトラムのどこかで、時の流れを受け止めているのであろう。幸いなことに自分は「やりたいことが山ほどあって」に近い位置で1年を過ごしたように思える。ありがたいことで、退職後の「うつ症状の出現」は回避できたようだ。ただ、この1年で了解できたのは、自由な時間があるからといってやりたいことがサクサクとできていくわけではないことだ。忙しかったはずの昨年まで以下のパフォーマンスで4度目の新しい研究生活1年目が過ぎた。4-5編の論文を書けそうと考えていたが、結局2編半ほどで終わってしまった。理由は明白で、起床時間が5時から6時ごろと睡眠時間が長くになり、パソコンに向かっての頭脳を使う集中力は1-2時間と減じているためである(これが老化なのだろうけれども)。生き急ぐこともないのではないかとか、細々と課題に取り組んだ方が暇がつぶれる、という類の潜在意識がペースダウンをさせるのだろう。

 

 パソコンに向かう時間は増えたが、you-tubeでいわゆるネットサーフィンで映画を見たりする時間は増えた。ありがたい時代で、無料で種々な情報を入手できる。前回の記事に書いたように、入手した情報で、柑橘類のピール造りにまだハマっている。ゆず、柚香、スイート・スプリング、文旦、はるか、と種類を変えて合計8回ピール造りをやった(メモしてあるので、正確)。造り初めの頃、知人にお裾分けしたら褒めてくれたので、調子に乗ってというのと、SDGsに協賛するためである(砂糖を使っているので怪しいが)。もう、タブレット片手に調理という必要はなく、砂糖の量も目分量で自分流にできるようになっている。面白がって沢山作ってしまったので、ネットで販売するという手立ても知らないし、冷蔵庫に溜まっているピールは血糖値に留意しつつ、ウイスキーと楽しむことになろう。

 

閑話休題

 急に暖かい日が続くようになったので、庭に出てみると、ほったらかしの畑や雑草が気になり出した。思い立って雑草引きを少しやったら、半時間ほどなのに、腰や内腿は筋肉痛である。たくさん収穫できたブロッコリーは始末した。玉ねぎは順調に生育中である。

嬉しいことに、プランターに2年前に植えたアスパラガス(昨年は光合成をと放置していた)に新芽が出ていた。鉛筆ほどの細さだが、早速4本を食したことである。

 

 朝の散歩中に天王山あたりを見やれば、所々に桜と思しき白い斑点が浮かんでいた。確実に春が来ているのだ。今年度はメンタルな時間と物理的な時間経過の大きな乖離はどうなるのであろうかと思うのであります。

最後の最終講義

 最終なのだから「最後の」というのはおかしいとお気づきかもしれませんが、字句の誤りではありません。昨春退職した大学の学内学会での講演に呼ばれて、また最終講義をしたのです。

名古屋大学に移籍するとき、名古屋大学を退職する際にと、2度も最終講義をさせて貰ったので3度目です。本当にもう最後になるはずです。

講演依頼の時には、テレビ出演の裏話でもいかがですかと言われましたが、芸人でないので90分も間が持たないし、昨春、退職時に依頼されて多忙なのでと断っていたこともあり、多忙でなくなったので、最終講義にするかと決めた次第です。10年以上在籍したそれぞれの勤務先で最終講義をして、15年の痕跡を話すのも良いかもと考えたわけです。有り難いですことであります。

 

 最終講義はいつの頃からか大学教員が退任時にするものとなっており(著名な教授の最終講義を収録した「最終講義」というタイトルの大部の本(角川書店)を読んだ記憶があります)、1週間前にも名古屋大学での後輩教員の最終講義に出席しました。コロナ禍で久しくこの種の催しは無かったのですが、自分の過去の研究を紹介し、指導学生から花束をもらうという昔ながらのスタイルでした。久しぶりに出かけた名古屋大学は図書館前の芝生が大規模な工事中でありました。何でも地下に建物を作り、完成時にはまた芝生に戻すそうで、見てみたいものだと思ったことです。

 ちなみに、自分の最終講義で1年ぶりに訪れた大学は何も変わっていないなあ、と感じました(大学自体の活力の差異なのかもしれません)。

 

 最終講義では冒頭に、この種の講義は他人の自慢話を聞かされるので苦痛でしょうが、加齢に伴う脳の機能低下には「回想、懐かしさの感覚」は有効性が高いという最近の研究結果があるので、辛抱してほしいと断って話しました。1週間ほど前に世話役の先生にパワーポイントの資料を送付していたのですが、前日に自分が研究を始めた1960年代の社会の出来事や研究道具(手回し計算機や数表本)を付け加えることをしました。

 講演はともかく終わり、懐かしい教職員との再会を喜んだのち、(講演料をいただいたので)若い教職員と上本町で飲み会をしました。皆からまだ若い!の声を聞かされ、調子に乗って久しぶりに11時過ぎの帰宅となりました。翌朝は二日酔い気味でしたが、自宅で過ごして就寝。その次の日の寝入りばなに、最後に付け加えたスライドの年代表記の間違いに気づきました。1964年の東京オリンピック(大学入学)、1968年3億円事件(大学卒業)、1969年東大安田講堂事件、…、1977年大学入試センター発足(大教大助手)と社会情勢のスライドを作っていたのです。この最後の1977年の記載は、大教大助手は1972年が正しいので、間違いなのです。その間違いを36時間後に誤りに気づいたことになります。

 

 この記憶再生メカニズムはどうなっているのだろうと気になっています。心理学徒は「運動学習レミニッセンス」という現象を知っています。一定の運動を練習して中断すると、中断後再開時に運動成績が上がる現象で、運動に使われるネットワークが、物理学でいう慣性の法則のように継続するのだろうと解釈されます(多分そうだったのでは?レベルの知識ですが)。

 

 人の時間記憶は物理的なものと同一ではありません。Mental Time Lineは変なもので、近い記憶は遠いものとして、遠い昔の記憶は近いものとして感じられる特徴があります。30年前の出来事がまるで昨日の出来事のように、2-3日前の出来事はずっと昔の出来事であったかのように心的に認識される特徴があり、高齢になるとこの歪みは拡大すると思われます。最近特にこのことを実感している毎日です。「ご飯を食べたのを忘れてしまう」は認知症の典型的なエピソードとされていますが、事実の忘却ではなく、Mental Time Lineのさせることかもしれないと考えたりしています。

 僕のスライド記載事項の間違いに発表を終わって1日以上も後になって気づくというのは、「記憶のレミニッセンス」現象かも、と考え、調べねばと思っています。

 

 もっとも、ここ2週間ほどは柑橘類の皮を使ったお菓子「ピール」作りにハマっています。柚子、文旦、柚香、スイートスプリングの4種について生産しました。ウイスキーの当てには絶好であると吹聴し、今日までに少しだけお裾分けした9人には(真実は?ですが)好評です。30個くらいの柚香の皮で300個くらいのピースを作るので、それを乾燥のために、一片ずつ並べている時間は、無心になれるなあと気に入っている作業なのです。

 まだ、冷蔵庫にはもらった柚香が30個ほど残っており、これもピールにせねばなりません。こちらの優先順位が高いので、「記憶のレミニッセンス」現象の解明は、先行きが見通せません。

前途多難な2024年かも?

  正月早々能登半島輪島沖を震源とする大地震が起きた。その時は自室でパソコンに向かっていた。かなり長い時間の比較的長い周期の横揺れがあった。大地震であったのだ。正月に里帰りをしていた人たちや帰郷する家族を待ち、楽しんでいた人たちには残酷な正月となってしまった。輪島の朝市の家並みが消火活動もされずに燃え盛っていく映像を見ていた。見舞う言葉も見つからない。暖かい部屋で被災画像を見ていると、身の置き所がない感じであった。

  輪島の朝市や被災した珠洲、七尾などは30年近く前に、学生の実習巡回の際にレンタカーで回ったことがあり、海岸沿いを車で走りながら、「津波が来たら、ひとたまりも無いなあ」と何度か思ったことを思い出す。台湾とブラジルの知人から地震見舞いのメールが届いた。「レジリンス力を信じている」とあった。同感である。

 

  被災者には申し訳ないが、3日から長男夫婦と下関の角島に車で出かけた。玄界灘の潮の流れがぶつかる光景は見応えがあった。帰路山口市にも寄った。院生の頃から15年ほど、毎年、ドサ周りと称していた山林労働者のレイノー病検診手伝いで宿泊した湯田温泉の林野庁の宿舎は無くなっていたが、道向かいの高級旅館「松田屋」は健在であった。いつかここに泊まろうと言っていた記憶があるが、メンバーには鬼籍に入ったものも出始め、思いは叶わずじまいになりそうである。あいにく瑠璃光寺は工事中で、美しい塔は見えずであったが(翌日に山口がNew York Timesが推薦する「2024年世界で今年行くべき観光地)の3位に挙げられたというNewsがあり、大丈夫?と思ったことである)、中原中也記念館(昔はなかった)に出かけた家族と離れて、僕は「山頭火の句碑」を探し出したり、必ず一度は食べた角のそば寿司の店を探したりで、古い記憶の確認ができた。

 

  1月12日には、1歳の誕生日を迎える孫娘のお祝いに、3泊で仙台に出かけた。昨年はこの時期寒波襲来で、這々の体で空港に辿り着いて生まれたばかりの小さな赤ん坊を確認し、残雪のある凍った道路に苦戦したが、今年は穏やかで上天気であった。上の2人の孫には「一升(一生)餅」のイベントをしてあるので、3人目だからと言って省略するのは、後々不都合な事になろうと、出かけたのである。嫌がる孫に風呂敷包みを背負わせて歩かせる証拠写真は撮れた。誕生日の当日、この娘を預けられて1時間ほど留守番をしている間、たまたまiPadを弄っているときに、立ち上がり、2歩ほど2度歩いたのを動画に収めることができた。歩いたのはその時だけで、歩行器で歩く練習はしているようだが、3週間が経つがまだ歩いたとは聞かないので、遠路来た祖父母に特別サービスをしたのかもしれない。であれば、なかなかのものである。孫たちは順調に育っており、自分はこういう幸福な事で良いのかと思った事である。外食した先の帰りに店の階段を踏み外して転んだ(飲んでいた)が、気にするほどのことはなかった。

  しかし、3日前に外出先で両手にものを持った状態で、同じように階段を踏み外し、転んだ。一瞬誰かを呼ばねばと思った転び方であったが、何とか駐車場までゆき、骨に異常はないと言い聞かせて車で帰宅できたが、左足は何かが変で、湿布を数枚貼り、眠剤の力を借りて寝ることができた。翌朝から太もも、足首、ふくらはぎ、膝裏、肩と、湿布を貼っていない場所に次々と痛みが生じて、4日目にも違和感は残り、完全に治った感じがしていない。

 

  正月に2度も転倒するとは、明確に体幹、バランス機能、筋力が弱化している証拠で、老人になっていることを思い知らされたことである。約束していた先輩との飲み会は欠席することになった。

  自分だけに幸せな時間が長く続くものではなく、「禍福は糾える縄の如し」である。転倒しても、大した怪我なく済んだのはまだ元気な証拠だと、Positiveに考えようとしないでもないが、ちょっと無理なように思えるのである。

 

  今年はこれまで幸福であったお返しが来るやも知れぬと、覚悟しておかねばなるまい。何があっても受け入れる覚悟はできている(つもりの)2024年の正月であります。

年の瀬に

 昨年末から今年末に掛けて、年齢が近い知人が次々とアッチの方に行ってしまった。知らせを聞いても感情が大きく揺れることがない自分に気づく。「誰それが亡くなった」としか言わないのを長男夫婦は「何ともないの?」と訝しがっていた。老化による感情鈍麻ということもあろうが、コロナ以降、家族葬とかで葬式に出なくなったために、棺の中の当人を確認して涙が出るという体験が失われてしまったことの影響も大きいと思う。現実なのか実感が伴わないのだ。

 

 20年以上前のことになるが、母や父の葬儀は、自宅から会場までを近親者が棺を担いで行列し、沿道で大勢の人たちの見送りを受けて、地区内の寺の本堂で式典を行うものであった。2人とも12月の葬式で、白い装束を着て棺を担ぐ僕は寒くて震えながらであったが、沿道に人たちが並んで見送ってくれるのを嬉しく思ったものである。息子や家内は「江戸時代や」と呆れていたが、古い歴史を持つコミュニティの温かさを感じた。コロナ以降の社会情勢の変化として、人が集まることが激減しているのは、費用がかからない利点もあるが、面倒だという理由だけなら何とも寂しい気持ちになる(何といっても、式典や宴会文化が染み込んだ昭和人だもの)。

 

 アッチの方に行ってしまった一人一人にまつわる記憶をメモしておかないと、後年このブログを読み返す際に訳がわからなくて困るかもしれないので、2023年アッチに行ってしまった知人の手掛かりだけを記しておく(このように書いていて、潜在的に自分はまだ生きているつもりなのだとrealizeした)。田巻義孝さんは、関学出身で信州大学を定年後、関西福祉科学大学に来た人で文博・医博の両方の学位をもっていた。単身赴任中の大阪の部屋で倒れていたところを運良く見つかり、一命を取り留めたのであった。教育学部申請に関して随分と助けてもらった。長野市の自宅を訪れた際に目にしたリハビリへの取り組みは、知的に優れる人の意志と根気の強さを確認したことであった。高坂祐夫さんは関西医大衛生学教室の助手の頃からの細川先生を囲む汀会のメンバーで、後年、大阪信愛女学院短大の学長をしていた。廣澤巌夫さんは同じく汀会員。山口大の公衆衛生学教室の助手の頃からの付き合いで、山林労働者の検診でずっと一緒であった。湯田温泉の営林署の宿で枕投げをしていた院生の頃から関西福祉科学大学で同僚となるまでの長い付き合いである。僕の着任時は学科長で、真面目な質なので会議が長くて皆は閉口していたものである。いつも彼の部屋で弁当を食べたことを思い出す。水嶋義次さんは先回紹介した通り、グリークラブに誘ってくれた人である。斎藤洋典さんは5-6歳年下で、彼が関学の院生の頃からの知り合いで、一緒に翻訳を出したりした。彼が誘ってくれたことで名大に移籍できたのである。名大では漢字の読み処理の国際学会を一緒にやった(中国の研究者はこちらからお金が出ないと来日できなかったので、工面に苦労したことを思い出す。研究環境は30年ほどの間に日中すっかり逆転した印象がある。日本の高等教育政策のエビデンスの一つである。政治は結果だと嘯く政治家は「精査しないと云々と言い逃れるだろうけど」)。

 アッチに行ってしまった知人の名前を書き出すと次々エピソードが蘇ってくるが、ともかくも、僕の自己形成に影響したことは確かで、改めてご厚誼にありがとうと言いたい。

 

 昨今は、幸いにも研究室をあてがわれ、週に2回ほど出かけて、機嫌よく研究者風の生活を送っている。春先には、時間に余裕があるので年内に4、5本論文を書き上げることは可能かもと考えていたが、2本目が8割程度のままで、歳を越しそうである。時間があるので、文献検索や参考文献読みの程度に歯止めがなくなる、作業課題の切り替えが下手になる、集中力が持続しないなど、振り返れば理由はいくつも見つかるが、能力と加齢が原因と帰属する事にしておこう。しかし、論文を書いて投稿し、見も知らぬ査読者の文句を聞くプロセスが自分は結構楽しいと思えるらしいことを確認した。今春から整理してきたdatabaseからは4、5本の論文が書けるはずで、来年も楽しめそうである。

 

 10月初めに研究フィールドである北海道に夏休みの検診結果の説明会に出かけ、「80歳以上でも50-60歳代の記憶機能を持つsuper-agerになりましょう」と話した際に、「エスカレーターのように、一人でに辿り着けるわけではないので、自分からの努力も大切ですよ」と締め括ったのを思い出した。「アンタもな!」と言われないように、今年は宛名ソフトを使っていたのをやめて、漢字を忘れないように、数を200枚に減らして年賀状の宛名書きを手書きにした。まだ、漢字を忘れていないことが確認できたし(自己効力感が得られた)、知人がどこに住んでいるのかが再確認できたのも良い副産物であった。

 

 上記したように、年齢が近い友人らが次々と鬼籍に入った年で、自分の順番の近づいていることをひしひしと感じ、自分の時はどのようにして欲しいとメモしておくべきか、自分ではわからないことなので、残されたものの好きにするのが良いと放念しておくべきのか、思案を始めている年の瀬である。

惜別:水嶋義次 君

 大学時代からの一番の友人、水嶋義次君が亡くなっていた。水嶋義次君と書くとしっくり来ない。「ヨシジ」と呼んだ以外はあまり記憶にない。

 コロナで途絶えているグリークラブの昭和42-44年卒あたりのメンバーが年に1−2度集まって飲みながら、たわいもない昔話をする会がある。その会に舞鶴から遠路参加している先輩が11月10日に、水嶋と連絡が取れない、電話が使われていない、8月に電話した時、体調が悪いと言っていたけど、何かあったのか知らないかと自宅に電話してきた(一番親しいのは自分であると誰もが認識しているので)。

 慌てて、僕も「ヨシジ」宅に電話したが、出ない。メールを出したが、使われていないのか送信できなかった。そこで、彼の姉夫婦に情報をくれるように、僕のメールアドレスと電話番号を書いた葉書送っておいた。14日に葉書を見た「ヨシジ」の義兄から家内に電話があり(高齢になると音声言語では適切に情報が伝達できないことは留意事項である)、11月3日に亡くなり、葬儀を終えた、詳細は次女に聞くようにと、次女の携帯電話番号が別に送られていたEメールに記されていた。数回電話をかけてみたが、出ない(知らない番号には出ないのだろう。こう言う最近の常識も疎ましいが)。翌日の夕方、再度「ヨシジ」の家に電話をしたら奥さんが出て、11月1日(この日が正しい)に亡くなったということであった。

 

 奥さんは足も目も悪いと聞いていたので、線香を上げに行っても良いか確かめ、11月16日に家内と九条の家に出かけ、2時間ばかり話すことができた。遺影と遺骨を前にして思わず嗚咽してしまった(写真は大フィル出演時の正装姿であり、送られて来たら自室に飾る予定)。まだ、感情鈍麻のレベルは老化しすぎていないことに自分でも驚いた。奥さんの足の状態も目の状態も予想していたほどではなく、何十年ぶりかの再会を果たした。寂しいと漏らしていた(翌日家内への電話では、我々に会って話をしたせいか、久しぶりによく眠れたということで安堵した)。

 

「ヨシジ」は5-6年前に咽頭癌になり(これは以前にも聞いており、酒を飲まなくなっていた)、最近は抗がん剤治療の副作用とかで間質性肺炎を併発していたとのことであった。10日ほど前に、テレビを見ていてソファから落ちた時に肋骨を折り、救急車で入院。その後転院した先の病院で、トイレに行く際に酸素を吸入する管が抜けたということであった。あっけない最後である。

 

 僕の大学時代の記憶は「ヨシジ」抜きでは語れない。1歳年上の彼には兄弟のように仲良くしてもらった。西区の九条商店街近くの実家には数えきれないほど泊めてもらい、ネジ問屋の主であるオヤジさん夫婦や兄弟姉妹にも本当によくしてもらった。田舎からポッと出てきた18歳が、都会人・大阪人の振る舞いを学んだ場所であった。振り返ってみると、学生生活に適応して行けた原動力でないかと思う。初めて知り合った頃、僕は新しい学生服姿であったが、彼は濃い赤のジャンパーで通学していた。都会人であったのだ(姉が服飾関係の大学を出ており、着せられていたらしい)。「ハッタ、来てんのか、麻雀する?」という同居している姉さんの甲高い声が鮮明に蘇る。彼や家族と一緒に、クラシックのコンサートや演劇を見に行くという田舎者が知らない生活スタイルも教えてもらった(高槻の郊外に転居して以降、足は遠のいたが)。

 

 店を閉めて近所に飲みに行って戻ってきたオヤジさんのイビキが聞こえる頃になると、2人で台所に降りて行って、冷蔵庫の「サントリー角瓶」を盗み飲みしたこと(当時学生はサントリーレッドを飲んでいたので、憧れの酒であった)、親父さんは必ず家族に手土産を下げて帰ること、難波のミュンヘンに何度も連れて行ってもらったことなどを記憶している。

 

 僕をグリーに引き入れたのは「ヨシジ」で、地理学を専攻していた。彼はセカンドテノールからバスまで幅広く歌うことができた。卒業後は大フィル合唱団で活躍した。

 

 グリークラブでの活動にまつわる膨大なエピソードは別にして、信州での夏合宿を終えた2年の時だったと思う。3大祭を見ようと2人で東北を旅行したことがあった。磐梯山の麓の宿の女子中学生が一緒に山に登ると親に言うので困惑したこと、弘前ねぶたを見るべく、宿をどうしようと駅のホームにいたところを行商姿のお婆さんに誘われて、恐々彼女だけが住む家に2泊も泊めてもらったこと、焼きイカと大きなおにぎりを弘前まで行く弁当に持たせてくれたこと、大鰐温泉の知り合いの旅館で温泉にタダで入れくれるよう頼んでもらったことなどが次々と思い出される。「長利つき」というこのお婆さんには帰阪後2人で電気あんま器をお礼に送った。達筆の礼状が届いた(2人はきっと偉くなると書いてあったので保存していたが、いつの間にか無くしたので、証拠品はないけど)。津軽半島の竜飛岬や下北半島の恐山にも行ったので、何日旅をしたのだろう。

 

彼は卒業後高槻市役所に勤めたが、途中から兄と一緒に父親の会社で仕事をし、趣味の合唱や音楽鑑賞、落語鑑賞を楽しんでいた。僕は本を出版すると必ず送っていた。彼はそのことを家族や周囲に自慢してくれ、弟が活躍するのを喜ぶような風であった(この気配は何度か気付かされたことがある)。一度も諍うことのなかった有り難い友人である。

 

 彼との記憶を書き始めると際限がない。60年間も仲良くしてくれてありがとうと直接言う機会がなかったのが悔やまれる。夜中に目を覚ますと、「ヨシジ」にまつわるエピソードがいろいろと惹起され、再入眠が容易でないのは、しばらくは仕方のないことだろう。

 

 「ヨシジ」が亡くなっていたことを複数の先輩に連絡し、「俺ら生きていても良いんのかなあ」と呟きあったことである。先の記事に記したような、健康で幸福な高齢者生活を送らせてもらえている幸運に感謝しながら、今しばらく生きていくしかないけど。

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