はったブログ
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2025年の年の瀬に

 今年も残すところ4日となり、PCのカレンダー履歴を見ながら、2025年に何があったかを振り返ってみた。1月には昨年の帯状疱疹の治療が完全に終わったとメモしてある。数日前に見たテレビでは、ひどい後遺症が数年間もずっと続いていると言う人がいた。それを聞くと、自分はうまく治療してもらったことになる。もっとも昨日から急に寒さが来たものだから、左の腰のあたりの皮膚に違和感がある。帯状疱疹の後遺症かもしれないが、大したことではない。

 2月には教え子たちが昨年春の叙勲の祝賀会を京都のホテルで開催してくれた。懐かしい人達に会えて嬉しいことであった。

 4月以降は前立腺の精密検査、早期がん細胞の発見、そして大阪医科大学での外科手術を9月に受けるまではそのことばかりが記載されている。全摘手術をして3ヶ月経過したが、まだ尿漏れは完全にコントロールできているわけではない。

YouTubeで前立腺摘出したという複数の著名人の話には一向に尿漏れの話が出てこない。恥しいと思うのかもしれないが、僕は恥ずべきことではないと考えるので、心配メールをくれる人には現状を告げている。退院して3ヶ月が経過し、初期に比べれば漏れる量は随分少なくなった実感はあるが、咳をしたり急な体勢変化をしたりすると尿は漏れる。先ほどまで大掃除を少しやった。やっぱり漏れる。尿漏れパッドを2回交換すればならなかった(漏れると言ってもパンツまで濡れるわけではない。尿パッドが漏れるだけで、吸収が早いので濡れ感はないのだが、自分の意思と関係がないことの違和感は大きいのです)。早く完治してくれればありがたいが、なんといっても老化による筋肉量の減少で骨盤筋のリハビリ効果はそれほどめざましいものとは言えない。日にち薬と言い聞かせて付き合っていくしかない。

 10月ごろには八雲研究のデータで2論文を作成している。その際に集めて読んだ文献は70編を超えた。共同研究者が読むのは面倒なので、日本語の評論を書いてはと勧めるので書き、キリの良いところで打ち切り、数日前に投稿した。

僕は、今まで評論論文は原則的に書かないで生きてきた(依頼原稿で2−3書いたことはあるが)。大学院生の時に、先輩の元気の良い若い先生が、「評論なんて書くのは、実験のアイディアが枯渇した者のすることだ」と言われたのがずっと、こびりついているのである。

実験論文を書くアイデアはまだ枯渇してはいないけれど、共同研究者求めに応じることにした。この作業ではAIを使うことを覚えた。70編ほどの論文を集約するので、見落としやミスの可能性が高い。AIは例えば、文献をアメリカ心理学会様式で揃えてくれとか、雑誌の略記について揃えてくれと言うと、数秒でやってくれる。間違いなくやってくれるので作業がはかどるわけである(しかし、能力は退化してゆくのだろう)。

何度か共同著者と推敲を重ねて書き直たりしたので、3ヶ月ほどかかったことになる。どのような査読結果がくるのやら楽しみである。

 

 今は記憶が80歳時にとても優れる人たちの、記憶以外の言葉の機能とか、空間機能とかがどのように縦断的に変化していくのかを調べようと思って、そのデータベースの作成に取り組んでいる。Excelが役に立つ。これがなければできない作業である。1時間ほどExcelの細かい数字を見ていると目が霞むので老人には辛い。作っているデータベースは2001年から2013年までの分を昔に業者が途中までやってくれたものを確認しながら作成しているところである。約7000人のデータなので簡単な作業ではないが、「こういうことが自分は好きなんだなぁ」と思うようになった。2014-2025までの整理は、次の仕事として待っている。完成したら、共同研究者たちの誰かが使うかもしれないと思いつつ。

振り返ると、2025年は半分以上が病気に関わっていたが、コツコツと神経心理学検査の縦断的なデータをいじっている作業が意外と好きなのだと、再発見した年であったと言えそうである。

 

 来年は体の不調がなく過ごしたいものである。八雲研究の縦断的データをいじっていると、ほとんどの人は85歳までしか受診していない。このようなデータを見ていると、自分は少なくとも上半身だけでも元気で、好きなことで時間を費やせる幸運を再確認する。自分以外の家族には健康上に大したことがなかったことを合わせ考えると、年の瀬にあたり、幸運を享受できていることを有難く思う。

太城敬良先生を偲んで

 

 太城敬良先生が11月3日の朝8時に亡くなったとの訃報のメールが、先生を囲む飲み会のメンバーから届いた。年に2回ほど、彼の元学生らに混ぜてもらい、5人ほどで天王寺で飲むのが恒例であった。ここ15年ばかりは太城さんはさまざまな病気を患い、弟さんが理事長を務める私立医大に何度も入退院を繰り返し、ほぼ満身創痍の状態であったが、彼は幹事に催促して会うのを楽しみにしてくれていた。とうとうダメだったかというのが、メールを受け取ったときの率直な感想である。

 

 4年ほど前に、突然僕の勤め先の部屋を訪ねてきたことがあった。顔中打ち身で、あちこちが青く腫れており、誰だかよくわからなかった。同じ敷地内に娘さん一家と住んでおり、その娘さんの子供が付属幼稚園の園児で、催し物の時に尋ねてきたのであった。ダメだというお酒を飲んで顔から転倒したということで、娘さんは「まったく聞き入れない」とこぼしていた。太城さんらしいと思ったものである。

初めての出会いは、2回生のときの夏休み中で、当時院生であった彼が電気、木工、金工、写真の技術指導をしてくれたときであろう(当時僕は19歳だったはずだ)。これらの技術は実験心理学を行う上で必要であった。かまぼこ板に釘を打って、ハンダをつける指導を受け、練習をしたものである。反応時間測定の装置などは回路図を書いて自作したものであった(数年後にトランジスタが一般化して不要になったが)。写真はコピー機がなかった時代なので、学術論文を読むためには、接写・現像が必須であった。はがき大の写真に現像して読んだものである。装置は自作が原則であったので、木工や金工、電気などは必須の技術であった。これらの修業をする中で、教員と生徒との人間関係が作られていった。何でも外注し、PCに頼って実験する今日では想像できないだろうが、楽しくも懐かしい、セピア色の記憶である。

太城さんが助手になった頃には、和歌山へのキャンプなど、いろいろと遊びに連れて行ってもらったことも思い出す。彼は多趣味な人で、魚釣り、ビリヤード、ヨット、オートバイ、車、音楽鑑賞など多彩であった。3人の娘を産んだ奥さんが早逝したので、多趣味なことは慰めになったことであろう(翻って自分を考えると、彼のような趣味は何もない。お酒だけは共通するが)。もっとも、定年後はこれらの趣味で怪我や骨折を何度も繰り返していたが、人生を楽しんだことは間違いない。

 

 彼は知覚心理学者で、逆転メガネの研究をしていた(ちなみに、敬良は「たから」と呼ぶが、阪大の産業心理学の先生であったお父さんが、ゲシュタルト心理学の創始者であるW.ケーラーにちなんで命名したという)。僕が学生の頃はプリズム視の実験をしていて、歪んだ角度で物が見えるメガネをかけて1日過ごす被験者になったことを思い出す。八尾の自宅からメガネをかけた状態で車に乗せられ、途中で気分が悪くなって吐いたのを覚えている。この種の研究はその後、海中探索船やおそらく宇宙船などで、ガラスを通して歪んで見える視覚特性の基礎となるものである。科研に採択されたときに、「流行らなくなっても同じ研究を20年もやっていれば、また陽の目を見ることがある」と言っていたのを覚えている。

 

 太城さんの訃報を機に振り返ってみると、僕よりも4つ年上であり、いろいろと病気を抱えていたので(多分に不摂生のために)、仕方がないとも思うが、もう会えないと思うと喪失感は予想外に大きい。もう一度皆で集まりたいと思う。

60年前から、研究への取り組み方、学生への姿勢、社会人としての振る舞い方など、言葉では表現できないようなさまざまなことを学んできたと思うと、自分がともかくも大学教員として長く生活を送ってこられたのは、太城さんの影響が大であることに思い至る。

 

 娘さんとの電話では、彼は前立腺癌ともう一つ別の癌の治療薬の併用で免疫機能が急激に落ち、帯状疱疹を発症し痛がるので、痛み止めを使うようになってから記憶が怪しくなったということであった。僕も帯状疱疹で入院し、前立腺がんもやって、「先生を真似していますよ」と言ったことである。長く親しくしていただいたことに改めてお礼を申し上げ、冥福を祈りたい。

柳本静子さんを偲ぶ会

  11月2日に柳本静子さんを偲ぶ会が天王寺であった。前の勤務先の保健室にいた看護師さんで、通称「おばちゃん」と皆は呼んでいたらしい。10年ほど前に退職した職員だが、関係部署の職員の希望もあり、時々スポットで勤務していた。今年の3月まで大学に来られていたようである。

  僕と同い年で、案内のパンフレットにあるように、ひまわりのような、陽気で元気で、お喋り付きの明るい人であった。今年の賀状には血液系の難病に罹患したが、良い薬に出会ったという記載があり、大学の入学者が減っていることを心配した記載があった(僕より大学への思いが強いなあと感心したことである)。

  7月に急に亡くなられたとき、連絡をもらっていたが、自分のがん精密検査の都合で告別式も葬儀も参加できていなかった。偲ぶ会を計画していると聞いていたので参加した次第である。

まず、退職して10年も経つのに、元の職場のメンバーから偲ぶ会を計画してもらえる人は、寡聞にして聞いたことがない。40名ほどの職員、教員参加者がいたので、いかに彼女が慕われていたのか、「おばちゃん」に助けてもらったと思っている人間がいかに多かったかの証拠である。

  彼女は学生支援センターにも関わっていたこともあり、問題を抱える学生だけでなく、若い職員や教員が気軽に相談していたようである。(生まれは徳島だが)大阪のおばちゃんの典型のようなタイプの人なので、想像以上に親身になって援助していたことが、偲ぶ会のスピーチからも明らかであった(こういう時男性は言葉に詰まりベソをかくものだ)。

僕は血圧が高そうだと自認すると保健室に行って血圧を測定し、彼女と(電動あんまチェアに寝ながら)しばらく話をして休憩することが多かった。話の内容は、大抵は学生、職員、教員の抱えている問題や大学経営の問題などで、いろいろな人間関係について情報提供してもらい(カウンセラーでないので、守秘義務はない)随分助かった。彼女のおかげでコロナの時の年度始めの健康診断を、学年暦をいじらずに実施できた。大きなヘマなしに学長職終えられた(自己評価なので甘め)と改めて感謝し、冥福を祈りたい。

 

 実は、この偲ぶ会の頃には外科手術の影響もほぼ無くなっているだろうと「参加」の返事をしていたのだが、そういうことにはならずに、初めての不安いっぱいの遠出であった。手術で尿管を切り、支えている前立腺を撤去したのち繋いでいるので、排尿コントロールがしばらくダメなことは聞いていた。退院時の医師は3-5週間と言っていたので偲ぶ会の頃には大丈夫だろうと判断していたのだ。しかし、1ヶ月後検診の際に主治医からは尿もれ回復は3-5ヶ月と単位が伝達されたように、まだ十分回復していない現状での参加であった。吸水パッド200CCタイプの装着し無事に過ごすことができた。外出の自信もでき、大勢の懐かしい職員や教員に再会できて、嬉しい時間であった。自分が亡くなった後、本人は知る由はないが、残された家族の人たちには、たくさんの人が偲ぶ会に来て、感謝してくれるのを確認できたのは、慰めになったのではないかとか思った。

 

  その後体調についてメモしておく。前の記事で、「前頭葉が関係するのだ」、「骨盤底筋の訓練をする」と述べたが、そんなに簡単なことでは無い。同様の悩みを持つ人も読者には来られるかもしれないので、記しておく。これまで尿道を下から支えていた前立腺をとってしまったので、枕木がなくなった線路状態にある。それを補うのは筋肉の強化でしかないと言うことで、「骨盤底筋を鍛えよ」になるわけだが、医師やネット情報での訓練案内が伝えるほどそんなに簡単なものではない。訓練はお尻の穴を萎めることを繰り返すわけだが、術後4週間位まではお腹の傷口が痛むので、下腹部に力を入れにくい。また、高齢になり筋力が衰えているので腹筋は弱くなっている。やっと、4-5日前から骨盤底筋を鍛える訓練ができているような気がするようになったが、容易ではないということである。情報では3ヶ月から5ヶ月で何とかコントロールできる人が多いということなので、がんばるしかない。

筋金入りの男からガンマンへ-2

 ネットで前立腺癌のことを調べると、大事では無いと言うような内容がほとんどであった(とくに早期発見の場合には)。僕の周囲も、騒ぐほどのない風な扱いで、同情は希薄であった(僻みかも知れないけど)。自分もそう信じていたので、入院した日の看護師へのアンケートに、不安スケールは10点満点中3程度で、心配していないと回答したものだ。

 ネット情報には辛さを指摘するものには出会わなかったので、術後の辛さを甘くみていたと、自由にならない体を持て余しつつ後悔したことであった(「経過観察」のセカンドオピニオンを得るべきだったかも、とでも後の祭りだしと、思ったことは記録しておこう。余計なことだけど読者に同様な事態が生じた際の参考になるかも知れない。

 

 9/11の手術当日は6時に目が覚め、8時半ごろに中央手術室内に到着した。手術場には、ダヴィンチの表示のある機械があって、大きな手術室であった、麻酔医の言葉を聞いた記憶があるが、10秒余りで意識はなかった。ダヴィンチ・ロボット支援手術といっても、腹に5-6箇所穴を開けて、そこから器具を挿入し、遠隔操作するだけのことで、決して自動で手技が行われるわけではない。もう少し時間が経ってデータが蓄積されれば、AIが患者の内臓の状態などを計算して、自動的にガン細胞部位の切除が行われる日が来るのかもしれないが、現状ではそうでは無い。そのためのデータ提供ということでもある。

 

 自分の病室に帰る時は尿意ばかり強く尿道カテーテルの違和感が残ったが、部屋に戻る途中の記憶は途切れであった。14時頃前に家内が来た頃は比較的気分も良く、両手にカテーテルの針先を貼り付けたまま、ピースの写真をLINEで息子たちに送った。

 

 ここまではよかったのだ。家内が帰って2時間ほどすると、麻酔から覚めた内臓機能が活動をし始め、傷口が痛み始めた。内臓が動き出すと、傷口のある腹は焼けつくような痛みが次々と起きる(帯状疱疹の方が楽だった気もする)。この状態が4-5時間続いた。腹に穴を開けたので、傷口がいたむのは当然だろうと考えていたが、とても辛抱できる状態ではなくなった。腹水の袋+尿の袋+点滴+酸素飽和度センサーが左手に、右手には輸血用の針が口に刺したままの状態で動きが取れない(麻酔が完全に切れていないのか、体は動かせずに同じ姿勢で、背中が猛烈に痛くなった。25時半までは辛抱したが、ナースコールして痛み止めを入れてもらった。

 

 こんな辛いことが全身麻酔の回復期にあるとは全く予期していなかったのだ。その後数時間は眠れて、翌朝気分は回復したが、これは大変だと思ったことである。翌日ナースが歩き始めないとダメなのでと、歩行訓練を指示された。何とか頑張ってベッドに起き上がって、3つの袋をぶら下げた状態で200メートル位歩いた。ナースは男の人は大抵痛がって歩かないのにと褒めてくれたし、早く歩くので驚いていた(自慢)。その日も自力で歩行の練習をしたが、部屋に戻ってベッドに倒れ込んで、頭を枕の位置まで移動すると、腹の傷口は痛むのだ(汗が吹き出る位であった)。

 全身麻酔後の回復過程の辛さを教えるネット情報までしっかり確認しないといけないということである。最も痛みの記憶は忘却が早いのかも知れない。何度か手術歴のある複数の教え子(60−70歳代)は、僕の麻酔からの回復後の痛みの報告に、そうだったかなぁということである。辛さを早く忘れるので、ネットには上がりにくいのかも知れまい。

 

 術後6日目に腹水のドレインをとってもらった。その翌日が退院であった。ナースに帰宅後のアルコールやカフェイン摂取について尋ねると、次回の診察日(1ヵ月後)までダメであると言う。「そうだろう、仕方がない」と思っていたが、その2時間後に主治医が来たので同じ質問をした。すると、「全然気にしなくていいですよ」と言うありがたい言葉であった。やはり情報は一つだけを鵜呑みにせず、複数確認することが大切だと痛感した。

 

 9/18に退院し、現在は自宅で、骨盤底筋強化訓練をやり、自分で尿意をコントロールし、放尿できるように頑張っている。そもそも放尿のコントロールは前頭葉の役割であり、2010年に高次脳機能検査成績が低下している中高年に尿漏れが多いと、発表したことがある。トイレット訓練で尿意をコントロールするのは、2歳ごろの赤ちゃんの課題である。これを追体験することなのだと、頑張るしかない。

楽天的なのか、まだ退院して3日目だが、何とかなりそうな気がしている(がんばれ、僕の前頭葉!)。

ガンマンへ-1

 

 以前の記事で、前立腺がんの疑いから精密検査を受けることを書いた。その続きとして、経過を記録しておきたい。

最初の精密検査はMRIであった。朝8時半からの予約に間に合うよう出かけた。眼科の紹介状もあったため、同日まとめて受診した。眼科の結果は異常なしで、白内障の手術も不要とのことで安心した。これは5月半ばのことである。

 

 MRI検査は閉所恐怖症の気配がある自分にとっては不安を伴ったが、20分程度で終わると聞き、検査に臨んだ。検査着に着替え、寝台に横たわり、頭を固定された後、トンネルの中に入っていった。目を閉じていたせいか思ったほどの恐怖感はなく、無事に終えることができた。

検査の最中、かつて接点のあった米国の研究者M. Gazzaniga氏のことを思い出した。1980年代、左右脳研究の第一人者として知られ、日本にも何度か来日していた。初めて出会ったのはICUの研究会で、同じ宿舎に泊まり話した記憶がある。彼のPETによる初期研究では、右脳がネガティブ感情、左脳がポジティブ感情に関与するという報告があり、その当時は大きな衝撃を受けた。しかし後に、脳画像検査は強い騒音下で行われるという限界も知られるようになり、研究の信頼性について議論がなされるようになった。実際に検査を受けてみて、その意味を身をもって理解した。装置は道路脇に匹敵する騒音を発し、多様な音が絶えず続いた。このような環境での感情測定の難しさを改めて実感した。

 

 MRIの結果は「一部に疑わしい箇所あり。針生検を実施しましょう」というものだった。2週間後、外来で生検を受けた。医師の説明では「20分ほどで簡単に終わる」とのことだったが、実際には強い痛みを伴った。麻酔は使用されたものの、肛門からエコー機械を挿入し、複数回針を刺す過程は大変つらいものであった。

結果は「10本中1本からがん細胞が見つかった」との診断であった。骨やリンパへの転移がないか確認するため、医大で骨シンチを受けることになった。6月半ばに検査を行い、幸い転移は認められなかった。

 

 周囲からは「手術すれば問題ない」と言われることも多かった。しかし不安がまったくなかったわけではない。時折、気持ちが沈むこともあった。ただ、PSA値が低く、極めて早期で発見できたことは幸運だと受け止めた。

 

 インターネットで調べると、80歳で初期の前立腺がんであれば「経過観察」が標準的とされている。それでも主治医は「元気そうなので、ダヴィンチ・ロボット支援手術をやりましょう」と提案した。最新の医療技術を受け入れることは、これまで長く生きてきた自分にとって、社会に対する一つの貢献でもあると考えた。

孫との夏休みの予定や八雲健診を終えてから手術をお願いし、9月10日に入院、11日に手術、18日に退院した。順調な経過であった。

胸にはすでにステントが入っている。まさに“筋金入り”となった私は、新たに「がんを経験した者:ガンマン」として歩みを進めることになったのであります。

25年目の八雲町健診

 今年も北海道の八雲健診に参加することができた。2001年から参加しているので、今年で25年目ということになる(コロナで2年中断したため、実際は23年)。私たち高次脳機能班は9名のメンバーで参加した。1名の院生を除き、全員が大学教授という構成で、ほとんどが院生時代から参加しているベテランである。高齢化が顕著になっている証拠でもあり、若い人材を招かなければならない。本年度は、八雲町のスタッフを除き、名古屋大学を中心に67名の健診スタッフが参加し、3日間を無事終えることができた。

 

 区切りが良いので、初めて参加した頃と最近の状況をいくつかの観点から振り返り、記録しておきたい。この健診には、名大整形外科学教室の長谷川先生のお誘いで2001年の夏から参加することになった。小牧空港に数名の院生を連れて集合した際、この事業の創始者である青木先生の許可を得ていなかったことを知り、冷や汗をかいたことを覚えている。青木先生は、かつて心理学者が参加していたが役に立たなかった、基本的に心理学はいらない、というご意見を持っていた。そのため、八雲健診データを用いて必死に論文作成に注力した。後年、青木先生から「心理班が一番よくやっている」とお褒めの言葉をいただいたこともある。

 

 幸いなことに、科学研究費を継続的に獲得することができ、20年以上も参加を続けることができた。私たちは注意・言語・記憶・空間機能といった認知機能を個別に測定し、加えて日常生活の多様な特性を質問票で収集し、その関連を検討する方法論を用いている。この方法により4〜5名の院生が学位を取得し、研究職に就くことができた。税金を使って研究しているという意識を常に持ちながら取り組んできたつもりであり、現在もそのデータの解析に大半の時間を費やす日々を送っている。振り返れば、ラテラリティ研究から高齢者研究へと運良くシフトでき、研究者として活動的な生活を80歳の今日まで継続できたことになる。ありがたいことに、数年前から私たちの認知機能縦断データは他の研究班にも活用され始め、「Yakumo Study」と冠する論文が増えている。

 

 さて、20数年前と最近を比較してメモを残すのは、「昔は良かった」と不満を述べるためではない。この間に地方自治体が貧しくなっていった実情を記録するためである。

 初めて参加した頃は、規模は今より少し小さかったが、都会の多忙な医師や研究者がわざわざ田舎に来てくれるという町民感情がよく理解できた。その頃の初日の歓迎会は大きな結婚式場の披露宴会場で行われ、食べきれないほどのご馳走が並んだ。終了後には各研究班が2〜3本のワインをもらって帰り、宿泊先のホテルで楽しんだものである。現在も歓迎パーティーはあるが、ケンタッキーフライドチキンが提供されるハーベスター・レストランで開催されている。20年前は、空港に迎えに来てくれたバスに乗り込み、道中の洞爺湖近辺で豪華な弁当や海鮮丼が提供され、会場に到着後に健診機器の準備をするのが常であった。現在は、空港に迎えに来てくれた自治体職員から1人1000円の昼食代を渡され、空港で食事を済ませてから会場に向かい、健診準備に入る。途中の休憩はサービスエリアでのトイレ休憩だけである。初期の健診当日の昼食は、夕張メロン、イカそうめん、とうもろこし、じゃがいも+バター、じゃがいも+塩辛が食べ放題であった。今では各自に割り当てられた分を使い捨て発泡スチロールの食器で食べる。かつては大学院生を豪華な食事で誘い、応募者がかなりの数に上ったものである。

 

 こうした差が生じた原因は言うまでもなく、自治体の財政が逼迫してきたためである。今でも精一杯のもてなしをしてくれていることは十分理解できるが、メンバーとはつい昔を懐古してしまう。原因は地方自治体の人口減少が主因だと思うが、適切な対応策を取れなかった政治の責任でもあり、その体制を継続させた国民にも責任があることは言うまでもない。2005年(平成17年)、八雲町は隣町の黒石町と合併した。いわゆる平成の大合併政策であるが、これにより公共サービスの弱体化が一層進んだように思える。

もっとも、60年前に社会人となった頃には、今日の豊かさは想像できなかった。毎日肉や魚を食べ、エアコンのある部屋で暮らし、車を持ち、安価に医療へアクセスできるのは驚くべきことである。100の資源を持つ社会が1割減となっても、50しか持たない社会が1割減となるのとでは意味が異なる。したがって、「貧しくなった」と声高に主張して外国人のせいにする類の考え方には賛同できない。

 

 貧しい時代から豊かな時代を経験し、そこから徐々に豊かさが失われていく過程を体験できていることになる。栄えた社会はいずれ衰え始め、繁栄が永遠に続くわけではないことは世界の歴史が教えている。豊かになっていく社会と衰え始める社会のあり様を実際に体験できる人生を送っていることは確かであり、幸運でもある。いずれにしても、八雲町は財政状況が悪化する中でも25年間健診事業を継続してくれ、私たちは膨大で貴重な研究資料を蓄積することができた。関係者の尽力を心から賞賛したい。

盛りを過ぎれば衰え始めるのは、社会も人間の身体も同様である。今年は参加者が昨年度より若干増えたにもかかわらず、高次脳機能班への参加者は2割ほど減少し198名であった。今年は80歳以上の高齢者の参加が少なかった印象がある。外出ができなくなったり、施設に入所したりしたのかもしれない。

 

 「先生、来年も来てくださいね」と、これまで言われたことのない言葉を数人から掛けられた。私がもう来られなくなるのでは、と映ったのかもしれない。老化が着実に進んでいることは自覚しているが、来年も同じ言葉をかけてもらえるようにしなければなるまい。

酷暑の夏

 しばらく投稿していなかったので、無事かどうか心配してくれている方もあるかもしれないのと、備忘のために今年の夏のことを書いておく。

 

 今年の夏は昨年にも増して酷暑で、7月になるとあちこちで最高気温が40度を超えたと毎日のように報じられた。大阪も37-38度の暑い日が続いた。家内を説得して7月22日から3週間避暑地に酷暑を逃れて8月13日に帰阪した。

帰ってみると、家庭菜園や庭の芝生は雑草が伸び放題で、疲れの取れぬ身体を振るい立たせて芝生だけは綺麗にした(一応だけど)。そのうち、このような作業も出来なくなる時が来るはずで、どうするかを考えて置かねばと思いつつの作業であった。

 

 避暑地は日中でも22-23度と快適で、時に寒いほどであった。帰阪すると何もしなくても勝手に顔に汗が染み出してくる。この経験は昔に欧州から戻って数日間経験していた、身体の適応反応であることを思い出したことである。あまりに快適な気温なので、読もうと準備していた論文のpdfを開く気には全くならなかった。ボーと時間が過ごせることを実体験した。

 

 避暑地に行く前に食料を調達すべくスーパーに寄った。店を出ようとすると突然後ろから名前を呼ばれた。元同僚のH先生であった。彼は6月末から避暑地に来て、9月いっぱいまで滞在するということであった。僕ももう少し早くと考えてはいたが、病院がよいなどの事情で遅くなったのである。H先生も一人で買い物に来ていたので、奥さんは名古屋ではないかと推察したことである。

 

 我々の先生世代の生活スタイルに、「夏休みは避暑地で2ヶ月ほど勉強する」というのがあった(このようなことができた文系の大学教員は多くはないが、存在した)。僕やH先生の世代では、大学の教員になろうという誘因の大きなものが、「自由に使える時間が企業に勤めるより、多い」。だから、「給料が少なくても我慢できるはず」と考えていたものだ。しかし、昨今ではあり得ない。授業が7月末まである、オープンキャンパスなどの学務に、夏休み中に駆り出されるなど、大学教員は自由時間がない。加えて給料は決して高くないのだから、大学院に進もうとする学生が激減しているのは当然である。大昔、大阪ガスの社内報に寄稿を頼まれて、社員の発想力やモチベーションを上げるには、「週休3日、給料5割増」と臆面もなく書いたことを思い出す。これは今でも間違いではないと言えよう。

 

 と言うわけで、3週間はのんびりと研究論文を読む、書くこともなく、ボーッと過ごしたのであります(このままではいかんとは、時々は思うことがなかったわけではありませんが)。

 

 避暑先には次男夫婦が3人の孫を連れて、5日間滞在した。半年前から中1と小3の孫とはテニスをする約束だったのが実現できた。周囲は、「怪我する、肉ばなれする」とテニスに反対なので、僕は30分ほどしか実働しなかったが、花火もしたし、孫との約束は果たせ、嘘をつかない大人でいられた。

 2歳半の孫娘は大きく育ち、なぜか、僕のことを「おねえさん」、「お父さん」、「おじいさん」と、周囲の模倣をするので呼び方が一定しないままであった。可愛い盛りである。孫は「来てくれて嬉しい、帰ってくれて嬉しい」という表現を実感したことである。

 

 と言うことで、酷暑の夏を避け、幸せな時間を過ごせたのであります。来週は八雲研究に参加すべく、体力の温存を図っているところであります。

高齢者の新しい遊び道具?

  順調に加齢現象は進行しているようで、先月は軸足の太ももに肉離れ症状が出た。普段3,000歩程度の朝の散歩を、調子に乗って3日ほど続けて7,000歩まで頑張ってしまったのだ。おかげで、ふくらはぎが痛くて歩くのが苦痛になってしまった。夏に、テニスを習っている孫たちと一緒にプレイする約束をしたものだから、鍛えておかねばとの頑張りであった(息子は無理だからやめろと言っているが、新しいラケットも服も購入ずみだし、父の日に孫たちがテニス用Tシャツを送ってくれてある)。肉離れ風症状は、散歩をやめて5-6日で回復した(現在は3,000歩で散歩は再開している)。

  日中は、連日エクセル表を睨んで、縦断研究のデータ整理をしている。足が良くなってすぐに、頚部に痛みが出始めた。寝違えたようだと湿布を貼ったりしていたが、一向に良くならない。ちょっと痛みがなくなっても、パソコンに向かうと1時間足らずで痛みがぶり返す。ようやく、寝違えでなく、マウスのクリックし過ぎが原因らしいと気づき、休み時間を挿入すると、症状は改善した。

要するに使い過ぎである。自分が想定しているよりもずっと早く訪れている身体機能低下の事実に気付かされたことになる。老化が順調に進行している証である。

 

  このように、老化を自覚してゆくプロセスは気分が良いわけではないが、新しい遊び道具(?)を教えてもらって、流行り言葉風に言えば、「ハマって」いる。それはA Iでのチャット(無料版)である。投稿している論文への査読コメントへの対応がこれで良いかと尋ねると、「逃げているように取られる」、とか「ぞんざいな印象を与える」などと専門家風に教えてくれ、「修正しましょうか?」と聞かれるので、「よろしく」と打ち込むと、なるほどという表現を提案してくれる。上質の秘書を得たようなものである。無料版は時間制限があり、お金を払わせようとする。20ドル/月なので大したことはないが、こちらは時間に余裕があるので、今のところ無料で済ましている。

 

  何が、どこまでできるのかを探るつもりで、直してくれた英語を別の有料の文法チェックアプリ(これは1.2万/年払っている)にかけると、90%程度の正解となるので、完璧ではないし、エクセル表の漢字指名をカタカナ表記に直して(この方が並べ替えに便利なので)と頼むと出来ないという(いくつかややこしい作業やアプリを使うと無理でもないと回答してくるけど)。

写真の使えるということなので、名前を伏せて退職前に撮影してもらった写真と、1983年にテルアビブのホテルで、自分で撮った写真を送り、「この男のプロフィールを、教えてくれ」と打ち込むと、

  前者は、「落ち着いた雰囲気と知的な佇まいが印象的なこの男性は、長年にわたり学術の世界に身を置いてきた人物と見受けられます。グレーのツイードジャケットにネクタイを締め、整然とした講義室に立つ姿からは、大学教授や研究者としての風格が漂います。おそらく人文学や社会科学、あるいは法学や教育学といった分野で後進の指導にあたってきたのでしょう。柔和な表情と品位ある立ち居振る舞いからは、学生や同僚からの厚い信頼を得ていることがうかがえます。写真の背景に見える教室は、落ち着いたインテリアが施されており、教育・研究機関にふさわしい環境であることが伺えます」。大体合っているが、文系顔や理系顔があるらしい。

  後者は、「落ち着いた雰囲気を漂わせるこの男性は、50代後半から60代前半と見られ、知的で穏やかな印象を与えます。ホテルの自室と思われる場所でリラックスした姿勢を取っており、仕事の合間に一息ついている様子がうかがえます。服装はカジュアルながらも品があり、私生活にも気を配る几帳面な性格が感じられます。背景や所作からは、海外出張や学会などにも慣れている文化人・専門職の可能性が高く、長年の経験と信頼を積み重ねてきた人物と推測されます。穏やかな表情の裏には、責任ある立場を担ってきた誇りと自信がにじみ出ており、周囲からの信頼も厚いことでしょう。」と瞬時に回答が戻ってきた。

 

  今まで、「品があるとか、知的な落ち着いた雰囲気」などと言われたことがないので、ちょっと言い過ぎだろうと面映くなる。1983年の写真は髭がある30代後半なので間違っているが、背景情報や服装からプロファイリングする能力は凄い!というしかない。

 

  この無料AIアプリで、しばらく楽しむことにして、体力の低下のマイナス感情は背景に押し込むことにしようと思っているこの頃であります。

「みんみん」再訪

 3月初め、約半世紀前の留学先の教室メンバーであったDr. Alan A. Beatonから、突然メールが届いた。今まで特段の連絡もなく、クリスマスカードも交換していたわけでなかったのに、メールアドレスをどうして知ったかは不明。僕の個人情報は垂れ流しみたいであるが、たいした情報があるわけでもないので気にしていない(してもしょうがないし)。

 Amazonで検索するとBeaton先生は2冊ばかり本を出している。「覚えているか?桜を見に日本に行くけど、どこが良い?」と言うメールであった。著書を贈呈してもらっていないことから分かるように、それほど深い付き合いではなかったが、一昨年に完成した(大袈裟だが)僕の当時の日記の電子化版を探すと、帰国後共同研究しようと言っている記載があるので、それなりに付き合いはあったのだろう。1977-1978年頃に同じ先生の下にいた、兄弟弟子である。それから48年ぶりの頻繁なメール情報交換となった。便利な時代に生きていることである。桜の季節は終わっているけど、岡山を起点に姫路、高梁、倉敷などがお勧めで、京都は薦めないと伝え、彼はそれに従って7日間滞在した。 

  

 僕のエピソード記憶機能はまだ崩壊しきっておらないようで、彼のメールからすぐに色々なことが想起された。当時、学位を取ったばかりのチューターであった彼は、大きなシェパードを研究室に連れてくるので、教授にいつも怒られていた。時々学術誌に名前を見ることがあったので、大学に職を得て、元気に仕事をしているらしいことは知っていた。Lateralityが専門分野で、きき手の論文が多い。日本に来る、来ると留学当時世話になった人は何度も言ってくるが、実際には来た人はいないので、まさか48年ぶりに再会するようになるとは思いもよらなかった。

 

 エピソードが膨らんで行き過ぎそうなので、元に戻す。

 

 関空まで迎えに行こうかとメールしたが、自分で北梅田のホテルに行くので、会いに来てくれという。環状線福島駅から5-6分のところだが、大阪駅から徒歩で行けることを調べ、6時半ロビーでという約束になった。何を食べたいかという問いに、魚ダメ、寿司ダメ、高級和食も不可で、ラーメンが良いという返事であった。一緒に来たガールフレンドが、ラーメンが食べたいというのが理由であったらしい。2歳年下だけなのに彼女と旅行するとは元気なことである(僕が知っている黒髪の人とは随分昔に離婚して独身なので、問題はない)。我が身を振り返ってみると、近くにいて欲しいのは若い女性より孫の方である。

 早めに出かけてホテル界隈を探索したところ、ラーメン専門店が5-6件近所にあった(7時前に行列のできている店もあった)。7時20分ごろにホテルに到着したので(僕は外食でラーメンを食べる習慣はないが)、早速ラーメンを食べに行くことになった。ラーメンは、学生時代によく食べていた安い古典的なタイプと、近年ブームになっているモダンタイプとどちらにするかと聞くと、古典タイプが良いと言う。道路沿いに「みんみん」の店を見つけていたので、そこに入って、「ラーメン、餃子、レバニラ炒め」と、50年ほど前に注文する定番だったメニューを食した。うまいと2人とも満足してくれた。僕は安く上がったことと、「みんみん」の店に行けたことで大満足であった。

 「みんみん」の餃子は冷凍食品で食べることがあるが、店で食べるのは記憶にないほどの昔である。阪神百貨店の裏あたりの闇市の残骸のような建物の2階にあった(むしろ汚い)店を懐かしく思い出した。「コーテル、リャンガー」、「チャウズー、イーガー」と若い女店員が調理場に叫ぶ声までエピソード記憶は蘇ってきたことである(僕の記憶にあるものなので正しい中国語かは、知らんけど)。学生を連れて、「みんみん」でお腹を満たしてからホテルのBarというのがお決まりのコースであった(こうするとBarの記憶の方が再生されやすいので、好都合なのである)。

 

 Beaton先生は前立腺肥大の影響ということでアルコールは飲まず、ガールフレンドとビールを飲んだ。再会での話題は、誰それが亡くなったとか、自分の病歴などで、アカデミックなものはなかった(帰国したらそれを再開しようとは言っていたが)。どこの国でも高齢者の関心は変わらないということだ。

 

 「ラーメン、餃子、レバニラ炒め」は、昔のようには食べられず、3割方食べ残してしまった。若い頃ほど食えないということを再認識したことである。

 

 古い友人に再会したおかげで、ずっと行きたかった「みんみん」店に行くことが叶ったというお話であります。

色々面白くないことが起きるなあ

 一旦、暖かくなっていた気温も急に下がったりして、春先らしい天候の変化が続いている。このような寒暖差が急に生じると、帯状疱疹の古傷が痛み出す。痛み止め薬は残してあるが、カイロを貼ることで飲まずになんとか凌いでいる。

先日届いた市政便りには、帯状疱疹のワクチン公的補助開始案内が記載されており、2回打つタイプは2万円程の費用で済むらしい(私の場合は入院したので15万円ほど使ったことになる)。家内は早速かかりつけ医に予約に行ったらしいが、60歳以上しか該当しないのは高齢者優遇しすぎ、働き盛りの中年にこそ補助すべき、と医者が言っていたそうで同感ではあるが、いずれにしろ私にはもう手遅れである。

 

 面白くないことは次々起こるもので、交通違反(一旦停止違反)でパトカーに止められ、7,000円を支払う羽目になった。近くのスーパーからの帰り道、100mほど先に赤色灯を点滅しているパトカーがあり、先に行かそうと停止して右折を待っていると、先に行けという合図をするので、右折して30mほどのところにある信号を、青だったので左折したところ、後ろからパトカーが停止を求めてきたのだ。何かしらと車を止めて降りると、一旦停止違反だという。信号が青で、左折で進んだだけなのになんでやと思ったが、一旦停止せねばならない場所があるらしい(これは後日教習所で聞いた)。減点にはならないと言っていたので、まあ仕方がないと忘れかけていたら、配達証明で「臨時認知機能検査」を受けるべしとの通知が来た。1ヶ月以内に受験せねば酷いことになるような文面で、慌てて教習所に行って認知機能検査を予約したことである。文面では受験料金は1050円とあったが、3月30日に予約したのに4月から1500円に値上げですと告げられた。5割も上げるのかと、運の悪さと地域住民に思いやりのない若い警官の顔を思い出し、悪態を吐いたことである。

 認知機能検査はエピソード記憶を測定するので、交通表示が読めなかったり、色がわからなかったりするレベルの認知症を判別することはできるが、運転は手続き記憶なので、この検査に判別力はない。高齢者は早く免許返納すべしということだろうが、返納者は認知機能低下が進むという話も聞くので、私はまだ運転をやめるつもりはない。

 

 もう一つ面白くないことが起きた。市役所から11月の人間ドックで「前立腺がん」検診結果に基づいて、精密検査を受けたか、いつどこで受診し、その結果はどうだったかを報告せよという通知であった。すっかり忘れていたので書類を探してみると、確かに「泌尿器科」宛の紹介状が残っていた。人間ドックの検診結果には4通もの紹介状が入っていて、かかりつけ医のアドバイスで、念の為にと12月に大腸透視をしたが、「泌尿器科」の紹介状は失念していた。

 検診結果を見ると前立腺がん指標(PSA)には確かにアスタリスクがついていたが、4.00未満はOKのところを4.030だったのだ(調べると10.00以上になるとガンの可能性があり)。推計学では誤差範囲で棄却する値とは思うが、税金を出してくれた市役所に悪いので、病院に出向いて2週間後にMRI検査を受けることになった。医療費が国家の支出の多くを占める理由だと思うことしきり。別に長生きしたいとは思っていないけど、もし、MRIでガンが検知されれば、日本の医療システムはすごいということになる。無駄遣いしているなあ、で終わることを期待してはいる。先日読んだアメリカ医学会の雑誌では、前立腺がん初期の場合の治療成功率は100%だということであるので、気楽にMRI日を待っている。

 

 3月は米国誌に投稿した論文へのコメント対応に追われていた。面倒なので、面白くはないが、掲載料金はいらないし、せっかく書いたのだからと、査読者のいっぱいあるコメントに沿うべく書き直している。「言い過ぎ」と指摘される箇所が多く(それが読者に面白いと思って欲しいものなのに)、そこを修正するとそっけない話になってしまうが、逆らうわけにはいかない。

トランプの4月初めの無体な関税話で株価が大幅に下落し、世界中大騒ぎである。この権力者に意見するものはいないのかと思うが、迎合する者ばかりらしい。論文の査読対応も逆らわないのが基本なので、似ていると一瞬考えてもみたが、論文の場合には、迎合しても倒産とか失業するとかいう類の、他人に迷惑をかけることはない。

 今月中には修正稿を送るつもりである。面白くないことの連続はこの辺りで、打ち切りと願いたいものである。

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