中学受験に合格した私は日本に帰国し、キリスト教主義の私立中高一貫校である、同志社国際中学校に進学しました🏫
アメリカをはじめ、様々な国からの帰国子女が多く、生徒の個性を尊重する自由な校風でした🌈
ですが、日本人学校でのいじめで傷ついた私は、予防線を張ることを余儀なくされ、近寄り難い人を演じていました😒
初めは警戒していた私ですが、学校で活躍できるようになったきっかけは「合唱フェスティバル」でした❣️
いわゆる「合唱コンクール」のようなものですが、課題曲はなくクラスの皆で自由に決めるため、そもそも合唱用の曲ではないこともしばしば😲
私は自分が弾くピアノ伴奏を耳コピで採譜し、作曲家志望のクラスメートは合唱のパートを編曲、吹奏学部の部員はサックスやフルートでアドリブを入れました🎷
クラスの皆で1つの音楽を作り上げるクリエイティブな活動はとても楽しかったです😆
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ところが、3年生の時に、ショパンの有名な曲をバリバリ弾く男の子が同じ学年に転入してきました💪
私から見れば、彼の演奏は力任せの乱暴なものでした❗️ですが、当時私が弾いていた曲は皆の知らない曲が多く、パッとしないと思われたのかもしれません😔
クラスメート達の人気は一気に彼に持って行かれてしまいました🍂そして、その後の音楽会では彼が伴奏を弾くことになりました🎹
ところが、楽譜を読むのが苦手だったのか、はたまた苦手なジャンルだったのか、その男の子は伴奏を全体練習までに間に合わせることができなかったのです💦
そこで、私が本番までの間の練習を、急遽代役で務めることになりました🆘
本番の演奏は、彼が先生に付き添われながら何とか弾きましたが、本番も私に弾いてほしかったという声が多かったです🙏
この一件で、私は学校での人気と信頼を再び取り戻すことができました😌
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高校になると、毎朝の礼拝がより大きなホールで行われるようになり、毎日本物のパイプオルガンの音色を聴いていました🎶
学校の音楽イベントがなくなったことに物足りなさを感じていた私は、パイプオルガンの隣で賛美歌を歌っていた聖歌隊に入隊しました✝️
毎年同系列の学校で集まり開催される
キャンドルライトサービス🕯️
中央手前にいるのが私です🙋♀️
聖歌隊の活動は、学校では「奉仕活動」というボランティアのような位置付けでした🍀
部活とは違い、放課後の練習を強制されないため、ピアノの練習で部活に入れなかった私でも参加することができたのです💡
アカペラでの合唱が多い中、絶対音感のある私は練習や音取りで役に立つことができたので、「人間ピアノ」と呼ばれて中心的な役割を果たすことができました🎹
また、大学で和声法や対位法などの音楽理論を勉強する助けにもなりました✏️
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中高6年間の音楽活動への貢献が評価され、高校の卒業パーティーでは、母の振袖を着て演奏することができました👘
この時弾いたのはリストのため息🥺
手の交差が多い曲のため
袖が重く弾きにくかったですが
音抜けは防げたかと😊
とても嬉しかったのは、イベントのBGMのようなものだろうと思っていたら、多くのクラスメート達が真剣に私の演奏を聴いてくださったことです😌
一気に中学高校生活を駆け抜けましたが、今度はもう一度中学時代まで遡り、恩師との出会いについて書いていきますよ✨