ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』

 

□第41章 コロナ禍からようやくストリップ再開だー!の巻

 

 

 ゴールデンウィーク中も一向にコロナ禍が収まらず、当初の緊急事態宣言では5/6までの期限だったが、GW中の5/4に5月末までの延長が発表された。それでもGW明けには通勤する人が徐々に増え始め、社会は少しずつ動き始めた。

 そして、ようやく新型コロナウイルス感染症も収まる兆しが見え始める。TV報道で流れる感染者数が顕著に減ってきた。経済もかなりダメージを受けている。しかし、ここで規制の手を緩めるとコロナ再燃 (いわゆるコロナ第二波) の惧れもある。政府は宣言解除の決断を迫られていた。

 最終的に、コロナ被害の状況に応じて、段階的に宣言解除を行うこととした。

まず5/14、東京都や大阪府などを除く39県で解除する。

次に5/20には、関西3府県も解除となり、残るは首都圏(東京、埼玉、神奈川、千葉)と北海道のみが継続となる。(そして遂に5/25に前面解除となる。)

 

そんな中、ストリップ業界も再開に向け動き出した。

最初に営業再開に踏み出したのは渋谷道頓堀劇場だった。なんとGW明けの5/7(木)から営業を再開すると早々と発表した。当初の期限に合わせる方針のようだ。しかし、さすがにまだコロナ禍が収まっておらず、この時期の再開に驚いた。四人香盤で全員所属の踊り子のみを集めている。踊り子としても覚悟がいるだろう。お客もまだ怖いだろうな。実際、最初の週5/7-10までの客入りは少なく、せいぜい常時10名程度だったらしい。

そのときの劇場の様子を行った客に教えてもらう。

①   パンツ興行・・・ポラはもちろん、ステージでも一切パンツは脱がなかった。

②   一列目のかぶり席は座れない。二列目以降も一個ずつ空けて座る。座れないところに赤のテープで×印が貼ってある。

③コロナ対策として、入場時に検温とアルコール消毒。ポラ撮影前にアルコール消毒。

④フィナーレなしのサクサク進行。四人香盤なので20時には四公演終わる。

 ちなみに、四人香盤ということもあり入場時にスタンプ二個のサービスがあった。

引き続き、二週目からは通常に近い状態で興行が始まった。五人香盤となり、ステージ上でのパンツ興行はなくなる。但し、ポラはパンツを履いたまま撮影を継続する。それ以外のコロナ対応は続けられた。このままの状況で5月いっぱいは営業を継続する。

このときの客入りは平日は常時10人程度。しかし、土日は回数券販売もあり、トリプル・ダブル進行となるほどの客入り。座席数が少ないこともあり、たくさんの客が立ち見となる。

渋谷道劇に続き、次はTS系が動き出す。シアター上野が5/24(日)から、池袋ミカド劇場が5/26(火)から営業を再開する。関西では大阪晃生ショー劇場が5/28(木)からと追随する。

他の劇場は足並みをそろえて、6月1日からの通常営業となる。

無事、これまで通りの営業状態に戻ってくれて、ストリップ・ファンとしては心からホッとしている。

 

さて、ちんぽ三兄弟はじめ、ストリップ常連客はどうしていたのだろうか。

お互い、自宅で自粛している間にストリップ禁断症状の発作が出ていないかと心配になり、頻繁にメールで連絡を取り合っていた。不思議にも、みなさんお行儀よくやっていた。

AVの個人撮影などはやっていたようで、AV好きはそちらに食指を動かした人もいる。また、川崎ロックでは人数限定でライブ撮影会を実施していた模様。予約をとらないといけない。

人よってはお気に入りの踊り子さんのSNS配信で楽しんでいた模様。サービス精神旺盛な踊り子さんも多いんだね。

 

ずっと自宅にいるとどうなるか。

運動不足になるし、TVを観ながら、間食はするし、酒は飲むはで、絶対に太ってしまう。

コロナ明けで再会したら、みなさんコロコロとコロナ太りしていた。踊り子さんも例外ではない。早くステージ慣れして痩せなければと焦っている方を見かける。(笑) いや、笑いごとではない!

 

ストリップ太郎がやってきて、ちんぽ三兄弟に挨拶した。

ストリップ太郎はコロナ太りしている三人を見て笑っていた。そういうストリップ太郎はコロナ自粛期間中どんな生活をしていたのだろうか。

「ほくはね、コロナ期間中、趣味に没頭していたんだ。最初の頃は、これをいい機会にと、これまで未整理だったポラの整理をやった。それもすぐに終わった。

 次に、これまで手が付かなかった長編小説の執筆に挑戦してみた。実は、これまで書き散らしていたものはあったんだけど、どうしても目の前のステージのことを書きたくて手が回らなかった。観劇レポートや短編童話をすぐに踊り子さんに見せたいからね。ところがコロナ自粛中はステージが観れないから、長編小説に取り組む時間がたくさんある。二作品が完成し、いま三作目に取り組んでいる最中だ。長編ものはやはり短編ものと違ったずっしりとした達成感があるね。長年の夢がとうとう叶ったよ。

 ただ、一日中、そればかりに取り組むわけにはいかない。すぐ飽きたり疲れるんだね。趣味だから別に原稿の〆切があるわけでもないし、時間があるのでゆっくり取り組めばいいから、気分はのんびりしている。

そこで気晴らしに、本や漫画や映画を観ている。本は目が疲れるけど、漫画や映画は楽しいね。このコロナ期間中、めちゃくちゃ観たよ。映画はこれまでもたくさん観ている。今は年間200本以上は観ている。今回はとくに漫画にはまったよ。スト仲間に推薦してもらったものやネットで検索して人気のあるやつを片っ端から見たよ。

長編漫画の面白さは「伏線のはり方だ」と気づいて、自分の長編小説にも応用させてもらった。

また深夜まで漫画を読んで布団にパタンキューしていたので、お酒を呑まなくても寝れるようになった。お陰でずっと断酒していたので体調もいいよ。

総じて、すごく充実した期間になったんだ。」

ちんぽ三兄弟は感心して聞いていた。ストリップ太郎が続けて話した。

「正直、コロナ生活にも慣れ、楽しい生活サイクルを見つけたので、もう少しこのままの生活が続いてもいいかなと思っている。

 いずれ高齢になってストリップに行けなくなることを考えると、今回の生活パターンは理想的かもしれない。コロナ生活は、老後に向けた予行訓練だったのかなとも思える。

 ストリップ劇場が再開し出して思うのは、今の巣ごもり生活とストリップ漬けの生活のどちらが楽しいかなと思うことだ。コスト的には、今の生活はせいぜい映画と漫画のレンタル代だけだから安い。劇場通いだと入場料、ポラ代、遠征も含め交通費や宿泊代がかさむ。コスト・パフォーマンスだけ見たらストリップが負けちゃうかもしれない。

 しかし、ストリップが始まると、やっぱりストリップの方に目が向いて、身体が動いちゃうんだね。今回も渋谷の第二週に、お気に入りの踊り子さんがのっていたので我慢できずに、中日あたりから行っちゃった。久しぶりにお会いした踊り子さんから『コロナ明け、おめでとうございます』と言われる。また新人さんも綺麗でびっくり。この時期にデビューするなんて一生忘れないね。正直、劇場に来てコロナに罹って死んでも本望だなぁ~なんて考えたほど。笑

そして、一度ストリップ熱に火が付いたら連日通ってしまった。踊り子さんから『どうかストリップ熱が二度と冷めませんようにww』とポラコメに書かれちゃったよ。笑

 今はAVなど安い風俗などもあるけど、ストリップにはストリップしかない魅力がたくさんある。これらを踊り子さんと我々ストリップファンで守っていかなくてはならない。競う対象は他の風俗だけでなく、他にも娯楽などがたくさんあることに今回気づかされる。ストリップが負けてはいけない。」

「さっき長編小説にチャレンジした話をしたけど、やっぱ人間は自宅にこもってばかりいちゃダメだよね。身体はなまるし、刺激がなさすぎて頭も呆ける。ストリップは最高の気分転換と刺激になる。身体が動くうちは、ずっとストリップを楽しみたい。

 コロナ自粛期間中、いろんなことを教えてもらったよ。いい体験だった。」

 

 

 今回のコロナ自粛生活を総じてみよう。

 ここ20年間という私のストリップ歴の中で、一か月以上に亘り、これほど劇場に行かなかったことはない。10年以上前に、海外出張で上海に一週間ほどいたときに、中国にはストリップはないので、こんな生活に耐えられないなぁと思ったのが記憶に浮かぶ。

 コロナで緊急事態宣言が発令された時も、ほとんどの劇場が4/7で休館したが岐阜まさご座だけ4/10まで営業していたので、最後の二日間のみ遠征した。つまり最後の最後までストリップにしがみつくような生活だった。だから、ストリップのない生活はきっとストリップ禁断症状でも起こるのかなと不安にも感じていた。

 ところが蓋を開けると、すっかりストリップのない生活に慣れてしまった。ストリップが再開されて、むしろ今の慣れた生活を乱されると思えるような気分にもなる。

 

 このことから何が教訓として考えられるか?

 ひとつは気が紛れるもの、気晴らしできるもの、そんなものが見つかればストリップがなくてもなんとかなること。つまりストリップ依存症は治せる。

このことは依存症全般に言えるんだと思う。思えば、学生時代から一日も欠かさずお酒を飲んできた。寝る前にアルコールを飲まないと眠れないほどに。完全なアルコール依存症である。そんな私が全くアルコールを求めない生活ができた。不思議な達成感である。だからこそ、今の生活を維持したいと思えたわけだ。

 

 もうひとつは、ピンチはチャンスになること。

 新聞を見ていたら「かの有名な万有引力の法則は自粛生活から生まれた」という記事があった。英国でペストが猛威をふるった17世紀、若きニュートンはロンドンを離れて郷里の村に避難した。そこでの、わずか一年半の間に、引力のほか微積分と光学という画期的な発見をする。当時、ニュートンは学位を得たばかりで、大学が閉鎖されなければ、思考を深める時間もなかったわけだ。ニュートンのような天才と比べるわけにはいかないが、私もストリップが観れなくなったらどうしようと不安になっていたが、これを機に別のことをやる絶好のタイミングになった。私の場合は、長編小説に取り組むことでようやく長年の夢が叶えられた。内容はストリップ小説なので、ストリップから完全に離れたわけではないが(笑)。

 

「コロナ禍(か)」という言葉が今年の流行語大賞になるんだろうな。

「禍(わざわい)も三年経てば用に立つ」という諺がある。たとえ災害でも、ときが経てば何かの役に立つ。何事も役に立たないものはない。今回のコロナ禍も、経済活動が一時的に停止したことで大気汚染が改善した地域もあるという話だから、2020年はもしかしたら「地球温暖化をくいとめた年」になるかもしれない。また、リモートワークや時差通勤が進む「ワークスタイル変革年」になるかもしれない。

「禍(わざわい)を転じて福となす」になるといいな。

 とにかく、ストリップはもちこたえた。コロナに負けなかった。

 今回の経験をいいように活かしたい。

さあ、新しいストリップの幕開けとして頑張りたい。

 

                                   

2020年5月22日

 

 

 

ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』

 

□第36章 コロナ対策 妖怪アマビエの巻

                                 ~KAERAさん&春野いちじくさん(TS所属)に捧げる~

 

 

 新型コロナウイルスがストリップ業界にも暗い影を落とし始めた。

 最初は営業時間短縮から始まった。次に、都知事の要請などで短期間の休館を実施。ストリップ客の立場としても時に難民のごとく振り回されるわけだが、とりわけ踊り子さんの方のダメージは大きい。時間短縮や休館によりギャラがカットされるわけだから死活問題である。

 ステージに立つと、コロナのことをなにも考えていない客を目の当たりにする。「あんたたち、こんな状況でよくストリップなんか観てられるわね!」

マスクもしないで平然と観劇している客もいる。正直、ポラ撮影なんてやってられない。お客は手の消毒をやっているのか。怖くて握手なんかできない。飛沫が飛ぶから話したくない。熱のある奴までいるではないか・・・あーダメダメダメー!!!

 しかし、踊り子はステージの上で踊ってなんぼの世界。私たちはステージの上ではマスクはできない。マスクどころか、パンツだって付けられないのよ。

コロナは密集を避ける必要があるが、お客が入らないと困るというジレンマがある。

踊り子はいろんなストレスや覚悟をもって仕事を続けている。

 

 そんな中、ある踊り子が異様な格好でステージに登場した。踊り子の名前は伏せてある。

 今SNSで話題になっている妖怪アマビエのコスプレである。長い髪に、菱形の目と耳、鳥のような口ばし、身体は鱗でおおわれ、足は三本。

 彼女はきっと「もうコロナは許せない!」と爆発したのであろう。アマビエを‘女冷え’と置き換えてストリップの危機を主張しているようだ。

 

 ちんぽ三兄弟は物珍し気にステージの妖怪アマビエを眺めていた。

 ずいぶん凝った衣装だな、きっと特注だな。こんなに衣装にこだわっているのだから、きっとKAERAちゃんがコスプレしているんじゃないかな。いや、いつもユニークなステージをやる春野いちじくちゃんかもしれないな。・・・

 早く衣装を脱いでもらってヌードを眺めたいなぁ~

 そんなことを考えながら、アマビエの目をじーっと見る。すると鋭い刺すような視線が返ってきて、ちんぽ三兄弟の背筋がぞっとした。

「もしかしたら、これは本物の妖怪かもしれない・・・」そう思ったときには彼らの足は釘付けになっていて動けなかった。

 それでも、ちんぽ三兄弟は「アマビエは三本足だから、お股は二つあるのかな。いったいあそこの形はどうなっているんだろうか?」とよからぬことを考えた。

 ちんぽ三兄弟のエロエロ視線はアマビエの怖い視線を凌駕した。するとアマビエは頬を赤らめ恥ずかしそうにしてステージからふっと姿を消した。

 ちんぽ三兄弟たちはステージの周りをきょろきょろ見渡した。アマビエはどこにも見当たらない。「きっと妖怪アマビエが、俺たちストリップファンに踊り子さんとストリップのことを守ってくれるように警告しに現れたんだな」と納得した。

 

 

【追記】

 事後的になったが、妖怪アマビエのことを説明しよう。

新型コロナウイルス感染拡大を受け、江戸時代の瓦版に掲載された半人半魚の妖怪「アマビエ」の絵を会員制交流サイト(SNS)に投稿する人が相次いでいる。「病がはやったら私の写し絵を人々に見せよ」と告げて海に消えたとの言い伝えがあり、終息への願いが広がりを見せている。

 長い髪にくちばし、うろこに覆われた胴体。3月に入り、ツイッター上には、瓦版のアマビエを現代風にアレンジした絵がじわじわと増えた。粘土細工や刺しゅう、切り絵、漫画などさまざまな作品の写真も「疫病退散」「早く終息しますように」などの言葉を添えて投稿され続けている。(以上、4/2付け東京新聞より)

 

「アマビエ」は、日本で昔から、天災の前などに現れたとされる妖怪です。

江戸時代、1846年に肥後(現在の熊本)に現れたという時の様子は、かわら版となり、江戸にもその様子は伝えられ、挿絵入りで紹介されました。そのときの資料が、現在も京都大学附属図書館に残っており、今回のコロナの件でアマビエが話題になる中、Twitterで京大附属図書館自らその挿絵を置いていくとツイートしたことも話題となりました。

資料によると、毎夜、海中に光る物体が出没していたため、役人が赴いたところ、それが姿を現した。その者は、役人に対して「私は海中に住むアマビエと申す者なり」と名乗り、「当年より6ヶ年の諸国で豊作が続くが疫病も流行する。私の姿を描いた絵を人々に早々に見せよ」と予言めいたことを告げ、海の中へと帰って行った。というものです。

その姿形は、人魚のようでもあり、ウロコがある胴体、足は無く尾びれがあり、長い髪をして目は赤くひし形、鳥のような口ばしのような口があり、耳は人間のようと言われています。

実は、この妖怪が「アマビエ」として出現したのは、1846年、皇女和宮が誕生した年でありますが、その他にも、九州地方を中心として、新潟や長野などでも出現したという記録があるようで、出現したのちに疫病が流行るので、自分の姿を書き写して人に見せるように言う点など共通点が見受けられます。

その時の名称は「アマビコ」で、「アマビエ」も元々はアマビヱと書いていたので、「アマビコ」の「コ」を書き写す際に歴史的仮名遣いの「ヱ」に間違えたのかもしれないという説があるようです。

また、その姿から「アマビエ」は深海魚の「リュウグウノツカイ」ではないかともいわれているようです。(以上、3/26付けネット記事より)

 

  コロナ騒動で気が滅入る中、神頼みならぬ‘妖怪頼み’といったところだろう。

 妖怪アマビエは妖怪好きには知られているが一般には知られていない妖怪である。なお、人気アニメ『ゲゲゲの鬼太郎』にも『地獄先生ぬ~べ~』にも登場している。

 一般に妖怪というのは人間の怨念や情念から発生したものと思いがちだが、そもそも妖怪は神様が化けたものだ。日本には八百万(やおろず)の神がいて、大きいものでは山にも川にもたとえられ、小さいものでは家具や小道具にまで神はいて、同時にそこに妖怪もいる。これらの妖怪は、極めて日本の風土に根付いており、人間は自然と共生していかなければ生きていけないことを意味している。

 人類は自然から恵みを受けて生きている。ところが人類が傲慢になると自然は牙をむきだして襲いかかる。地震、津波、台風、日照り、竜巻、雷など・・・

 人間は馬鹿だから戦争をしてお互いに殺し合うことまでするが、これまで人類が被った死亡者数では戦争による数はそれほど大きくなく、自然災害の破壊力は桁違いに大きい。そして自然災害で最も脅威なのはウイルス感染なのである。

 

 治療薬のない昔は、人は神頼みするしかなかった。妖怪は人を怖がらせ時に襲うこともあるが、それは神として人間に警告を与えることとの裏表でもある。つまり、神は表面から人間を救おうとし、妖怪は裏面から人間を救おうとしているのだ。

 妖怪アマビエの警告は、こうして現在まで語り継がれた。今回のコロナ騒動で、そのご利益にすがろうとする人々は昔と全く変わらない。

 我々人間はもっと謙虚に妖怪の声に耳を傾けるべきだ。ホラー映画も単に怖がるのではなく、妖怪が訴えている真意をもっと味わうべき。最近はアニメの世界でも、水木しげる作品「ゲゲゲの鬼太郎」を先駆として、「地獄先生ぬ~べ~」「妖怪ウオッチ」など子供たちが妖怪に親しめるものが多く出てきていて、とてもいいことだと思う。とくに表現者を目指す人は妖怪により霊感を高めなければならない。

 かくいう本作品「ちんぽ三兄弟」シリーズでもただいま妖怪ブームになっている。笑

 それにしても、この「アマビエチャレンジ」「アマビエ祭り」なる盛り上がりがお絵描きを伴うところが面白いな。ますます踊り子さんにお絵描きをおねだりしたくなる。

 

                                    おしまい

 

 

ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』

 

□第35章 みんなでコロナウイルスからストリップを守ろう!の巻

 

 

 いっこうに新型コロナウイルスの拡大が収まらない。4月に入り、全世界で感染者が100万人を超え、それによる死者が5万人となる。ヨーロッパでは都市封鎖が実施されている。上からの命令で外出禁止となり人の往来が厳しく制限され始めた。

 それに対し、日本では都市封鎖までは至っておらず、どうにかギリギリのところで留まっている状態。外出禁止も権力による強制でなく要請レベルに留まり、あくまで国民の‘自粛’を呼び掛けているに過ぎない。国民性もあり、現状はけっこう真面目に従っている。

 こうした中、ストリップはどうなっているか。

 

 ちんぽ三兄弟たち劇場常連が話し合っている。

「夜はお酒を呑んで、劇場に来たらアルコール消毒。朝から晩までアルコール漬けの気分だ。」

「冗談はともあれ、こりゃ大変なことになってきたな。最初のうちは他人事のように思っていたが、芸能界やスポーツ界の有名人が連日『まさか自分がコロナに罹るなんて!』と報道されているとゾクッとするな。中でも喜劇王・志村けんさんの死亡がショックだった。まだ70歳だもんな。」

「お陰で劇場はお客が来なくてスカスカだよ。これだと劇場の経営はもたないぞ。」

「こういう時こそ、劇場に行って、お金を落とすようにするのが本当のスト客だよな。踊り子さんも淋しがっているだろう。」

「そうかな。踊り子さんの対応もいろいろだよ。あまりにも客が少なくて唖然としている人もいるけど、客がたくさん入っていると『あなたたち、こんな状況の中、よくストリップに来る気になったわね』と呆れた目で訴えてくる踊り子さんもいるよ。」

「要は、若者が外出の自粛を守らず、平気で動き回り、ウイルスを拡散させていると非難されているのと同じだと言うわけだ。若者は、コロナは持病持ちや体力のない高齢者だけ重症になり、自分たち若者は罹っても軽症で済むと思い込んでいる。だから平気で夜中も遊びまわっている。外でウイルスに感染し仮にその若者が発症しなくても、そのウイルスを家族や職場に持ち込むと高齢者が感染してしまうことを見逃している。自分がウイルスの運搬車になっていることが分かっていない。人の迷惑を全く考えていないことになる。これと同じように、スト客が全国を遠征することは若者と同じことだと捉えられるよ。外出自粛を守らないということは不謹慎を通り越して非国民と思われても仕方ない。」

 一体どうしたらいいのかと悩む。

 そこに、物知りのおじいさんが口を挟んできた。

「いまはストリップ始まって以来の危機だと感ずる。一人でもスト客から感染者が発生したら全国すべての劇場が閉まることになる。一旦閉まると劇場は潰れ、踊り子は仕事を失い、もうストリップの再開はできなくなる。そうなるとストリップはお終いじゃ。」

「スト仲間同士、万一コロナに感染しても絶対にストリップ劇場に行ったなんて言わないようにしようなと話している。」とちんぽ三兄弟はフォローする。

「そんなことは期待できない。中にはポロリと話してしまう奴もいるだろう。」

「そう言えば、つい先日、スト常連のおじいちゃんが朝早くから劇場に来ていて、いつものようにかぶり正面の席に座るのかと思っていたら、舞台最前列の端席に座っていた。どうしたのかなと思っていたら、おじいちゃんと馴染みのお姐さんとの会話が聞こえてきた。『おとうさん、熱があるんだったら劇場に来ちゃダメでしょ。万一、コロナに感染したら大変よ。』と話していた。おじいちゃんは70歳をゆうに越えている。万一コロナに罹ったら命の危険となる。そうした本人の問題もあるが、周りから見ていると気持ちが悪くなる。あぁ~たまらん。」

「この時期に熱があるのに劇場に来る人の気が知れないな。コロナじゃなくても、そもそも感染予防の観点から風邪をひいたら劇場に来ないのがルール(マナー)だろう。困ったもんだ。そんな奴もいるんだから、今や入場前に検温もやるべきだね。蕨ミニ劇場は既に検温を実施している。蕨ミニは劇場が狭いので密着せざるを得ないからだろうが、今や他の劇場でも、入場前にアルコール消毒をシュッシュッとやるだけでは足りない。やれることは徹底的にやるべきだね。」

「まだまだ自覚が足りない人がいるんだね。情けないことだ。毎日のようにストリップを観ないでいられない病気の人も多いからなぁ。。。」

「劇場側や踊り子さんもかなり目の色が変わってきた。マスク着用しないと観劇できないと決めた劇場も出てきた。音響を小さくして、窓や扉を解放したまま上演したり。ある踊り子さんは『どうせ場内は空いているんだから、かぶりにかたまらないで離れて座ってよ』とまで言っていた。そういえば、かぶりド真ん中の席が使用禁止になっていたな。」

「あ、それは椅子が故障していて修理していないだけだよ。」(笑)

「いずれ座席もコロナ・シフトになっていくのかな~!?」

 

 物知りのおじいさんが襟を正すように続けて話しだした。

「わしは、今回の新型コロナウイルスは自然による人類に対する報復だと思っている。

考えてみろ、コロナはそもそも自然災害だが今や人災になっている。もともと中国の武漢地区で起こったが、みるみる世界全体に広がった。これはインターナショナルな人の往来によりウイルスを人間が世界中に運んだからだ。

 東日本大震災のときに津波だけに留まらず、人間が原発事故という人災を起こしてしまった。人間のエゴが被害を拡大させたんだ。それと同じだ。

 今回のコロナは、人間の傲慢さに対して自然がしっぺ返しをしていると感ずるんだ。コロナは本来動物がもつ病気だ。人間が自然破壊して動物に近づき過ぎたために感染してしまった。人間の身勝手な都市開発で動物たちも生存場所がなくなってきたので、人里に近づき、そして未知のウイルスが人間を襲うようになったのだ。ましてや地球温暖化で自然環境が狂い始めている。今後もこうした現象は続いていくことだろう。

 過去、ペストは19世紀前半ヨーロッパの人口の三分の一を死に追いやった。第一次世界大戦中の1918年に始まったスペイン風邪も5000万人もの死者を出した。最近でも2003年のSARSや2012年のMERSなどウイルス感染が頻繁に起こりだした。今回のコロナ対策に人間がどう対処するかを自然が試しているように感じてならない。コロナは自然の人間に対する警告なんだ。あー怖い!怖い!」

 続けて「わしはしばらくストリップ観劇を控えようと思っている。高齢だしね。」

「ぼくらは劇場が潰れないようにスト通いを続けるよ。」とちんぽ三兄弟は言う。

 人それぞれにSTRIP LOVEの形は違う。家族がいる人は家族の手前もあり、ストリップ観劇で外出するのは避けた方がいいね。人によって立場・環境が異なるだろう。でも、なんとかストリップを守っていきたいと思う気持ちは皆一緒だ。

ある踊り子さんが「世界中が大変な状況の中でも、こうして劇場で踊ることができて幸せなんです。みんなで乗り越えようね!!」とポラのコメントで書いてくれた。

ストファンみんなで協力して、この危機を乗り越え、ストリップを守っていきたい。

 

 

                                    おしまい

 

 

ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』

 

□第34章 コロナウイルスに振り回される!の巻

 

 

 新型コロナウイルスが収まらない。ついに2020年の東京オリンピック・パラリンピックも延期が決まる。増え続ける感染者の状況を踏まえ、小池都知事は首都閉鎖(ロックダウン)を視野に入れることを報道するまでになる。

 ストリップにはどう影響するか。

 ただ今、3月27日(金)早朝。昨日、関東地区は各知事より不要不急の外出制限が出たことを受け、都内の劇場で28~31日まで休館が相次ぐ。予定していた劇場が休館したため、ストリップ難民が出てきた。東日本大震災ぶりだ。あの日は地震の中、TSミュージックだけが営業を続けたが、今回は同じTS系列の池袋ミカドとシアター上野が早々と休館を決めた。ストリップ客は都内以外の郊外の劇場に足を向けだしている。

 

 ちんぽ三兄弟は冷静に状況を見ていた。

「おれたちストリップファンは一日たりとも劇場に行かないではいられない。ストリップ中毒なんだから、ストリップ劇場通いは不要不急ではない。行かないと死んじゃうもん。」

「そうだそうだ!」

「コロナ関連の法律(特別措置法)が制定され、知事の権限で大規模イベントの中止、さらには映画館などの娯楽施設も閉鎖できるようになったな。ストリップ劇場も大丈夫かな?」

「おれが聞いた情報だと、ストリップ劇場は濃厚接触になるほど混雑していないと認識されているようだ。だからストリップ劇場まで規制するとは思えん。実際問題、当局はそこまで手が回らないようだ。」

「しかし、劇場側が自主的に動き出した。短期間ではあるが休館する劇場も出てきており、これから先、心配だよな。」

「おれたちは新型コロナウイルスで死ぬ前に、劇場に行けなくなって死んじゃうかもな。」

 ストリップの強者(つわもの)たちはストリップ難民にならないように、あちこちの劇場を動き回っている。

 

 相変わらず、マスク不足の問題が続いている。元々マスクは低価格のため今や国内生産では採算が合わず殆どは中国などからの輸出になっていたところに、コロナ発生のため中国からの輸入が途絶えたのがマスク不足の原因になっている。そのうえ、不当な買い占めをする輩が現れ、事態を最悪にした。

「相変わらず、マスクが手に入らないな。最近は、マスクの代わりにプロレス用のマスクをしている人も見かけるよ。飛沫防止には効果があるようだ。中にはトランプ大統領の顔のマスクまでしているらしい(笑)」

「おれたちはパンプレをかぶろうか?」

「さすがに劇場の外ではまずいだろ!」(笑)

「最近、劇場に来る客は、自己防衛からマスクをしている客が増えたな~。とくにかぶり客は皆、ずらりとマスクをしているじゃないか。」

「今後はマスク持参じゃないと入場できなくなるかもしれんぞ。そうなったらマスクが手に入らないと困るな。」

「自分でマスクを作るしかないな。最近は、裁縫のできる女性たちは布やガーゼを買って、自分でマスクを作っている話をよく聞く。」

「マスクだけじゃなく、今度はマスク用の布が不足してしまうんじゃないのか。」

「あ!布だったらいっぱいあるよ。パンプレでもらったやつが山のようにある。」

 

 翌日、ちんぽ三兄弟は自製のマスクをして劇場にやってきた。

 白だけじゃなく、ピンクや水色や、紫や黒まである。カラフルである。

 スト仲間たちが感心していた。

「すごいね。君たちは裁縫もできるんだね!」

ちんぽ三兄弟は自慢げに答える。「当然だよ。‘能ある鷹はちんぽを隠す’と言うだろ!」(苦笑)

 よく見たら、マスクには踊り子さんのサインが書かれてある。あらあら・・(笑)

 

 

                                    おしまい

 

ストリップ童話『ちんぽ三兄弟』

 

□第33章 コロナウイルスに負けるな!の巻

 

 

 2020年は新型コロナウイルス感染から始まった。中国の武漢から発生した新型コロナウイルスは瞬く間に世界に広まった。当初は隣の国のこととして他人事のように感じていたが、人の往来の多い現代は一気に感染が拡大し身近に迫ってきた。

 3月に入り、学校の休校に始まり、人が集まるイベントがどんどん中止や延期となる。ことはそれだけに留まらず日本全体が自粛ムードになり、不採算からお店が閉まりだし経済にも大きなダメージとなる。実際に生活面がどんどん不便になってきているのを感ずる。

 ストリップにもじわじわと影響が始まる。2月の後半から渋谷道頓堀劇場は感染予防から、踊り子は客と握手を交わさなくなった。その動きは踊り子を通じ全国の劇場に広まる。全く気にしない踊り子も中にはいるが殆どの踊り子は握手をしないようになる。

 握手どころの話ではない。劇場の観客が軒並み減少している。特に感染すると体力のない高齢者は死亡率も高いため、シルバーを中心に観客が激減している。ストリップに行って死んでもいいと思っている常連客は別にして、それ以外のシルバーは劇場に足を運ばなくなっている。

 

 朝、劇場前に、いつものおじいちゃん連中が屯(たむろ)して雑談が聞こえてくる。

「わしらが行くところがどんどん無くなっている。スポーツジム、フィットネスクラブ、ヨガ、サウナ等どんどん営業を止め出した。カラオケまで閉まってきている。寄席や吉本といった娯楽まで行けなくなってしまった。もう行けるのはストリップ劇場ぐらいだよ。」

「ストリップだってどうなるか分からんぞ。今のところは、感染者が出た施設が中心になり閉まっている。警察が感染者に行った場所を詳しく調査するらしいからね。ところが、感染者もさすがにストリップに行ったとは言いづらくて話さないらしい。が、実際には感染者の中にはストリップに行った者がいるらしいと、ストリップ常連の間で噂になっているようだ。」

「今のところ、新型コロナウイルスで休館にする劇場はない。ただ、シアター上野は3月頭のラスト三日間だけ休館にしたのと、今後もしばらく三回公演にするらしい。それにならって平日の公演数を減らす劇場が増えてきているようだ。客が減っているのでこの先もどうなるか分からない。ストリップ界にも夏のオリンピック前に一波乱ありそうで怖いなぁー。」

 

 ちんぽ三兄弟は相変わらず元気いっぱい。お姐さんたちも「あんたたちは別ね。抵抗力が強そうだわ。」とあきれているほど。

「おれたちは絶対にコロナには罹らない。なんせ、もうストリップ中毒になっているから、他の黴菌が入ってくる余地はないんだ。」そうだそうだと頷く。

「劇場も空いているから、まったりしていて遊びやすい。いつものようなポラ行列もない。劇場側も保健所からの指導があり、こまめに換気しているので空気もいい。だからストリップ劇場内は快適空間になっている。

 遠征もらくちん。電車・新幹線、夜行バス、がらがらだ。みんな接触を避けているから乗り物に乗らない。本来3月は繁忙期で夜行バスは満杯なのだが、今年は違う。東京ディズニーランドと大阪ユニバーサルスタジオジャパンが休園している影響が大きく、春休みなのに学生も外国人も全く移動していない。がらがらなはずだ。逆に客が少なくて間引き運転や運休になる懸念があって困るほど。」

「その点、ストリップは、死んでもいいと思っている濃い客のお陰でなんとか成り立っている(笑)。ただ感染予防からマスクをしている客は多いな。

 一方、踊り子の方はマスクをして踊るわけにはいかない。覚悟をもってステージに立つしかない。なお毎年この時期はインフルエンザで休む踊り子が出ているが、今年は感染予防の意識が高いのか、そうした踊り子の話は聞かないね。」

 

 新型コロナウイルスは迷惑なことばかり。少しはいいこともないのかな。

「最近、思うんだ。日本人全員がずいぶん手洗いをしっかりやるようになったな。従来、男性の二割近くがトイレ後に手を洗わないという統計値がある。信じられない話だ。そう考えたら、ストリップでの握手も不潔だよね。これを機に、全員が手洗いをするようになったらいいね。

 他にも、人の手が触れるところは徹底的に拭いたり、アルコール消毒したりしている。

 新型コロナウイルスが収まる頃には日本全体が衛生的で清潔な国になってオリンピックを迎えたいものだな。」

早くコロナ騒動が収まることを祈る。

 

                                    おしまい

 

 

 

 

今回は、「ストリップと作家」というテーマで書いてみました。

 

 

先ほど、ストリップへの女性パワー台頭という話をした。

渋谷道劇では初日に続いて、二日目の朝からも若くてかわいい女の子二人組が入場していた。もしかしたら、踊り子になりたくて見学に来た娘かなと思ったが、そうでもなく普通の観客みたい。ひととおり、一ステージを観てから帰って行った。

そんな女性客の様子を横目で見ながら、スト仲間と話したら、興味深い話をしてくれた。女性が観劇に来るのは渋谷など一部の劇場の現象ではなく全国的なものだ。それは、直木賞作家が女性週刊誌などにストリップ・レポを掲載して話題になっていることが強く影響している。相田樹音さんとの対談も有名になったよ。女性の作家だが名前までは覚えていないな。・・・

私は早速、携帯しているノートパソコンで検索してみた。彼女の名前は桜木紫乃(しの)さん。2013年の第149回直木賞を小説「ホテルローヤル」で受賞している。当時48歳なので今は50歳くらいか。北海道の釧路出身。私は仕事で釧路に何度も出張したので親近感を覚えた。ストリップ・ファンで札幌道頓堀劇場に通っていたという。

こういう有名人がストリップの魅力をアピールしてくれるのは誠に有難いこと。もっともっと著名人がストリップを盛り上げてくれないかな・・・たとえば、奥さんが元踊り子という萩本欽一さんやビートたけしさんあたりが宣伝してくれたら効果が大きいだろうになぁー。

先日も、ある踊り子さんから私のストリップ・レポートやエッセイを褒められて「本にしたら話題になりますよー」と言ってもらえた。なんらかの形で世に問いたいと密かに考えているが、家族や仕事を考えたら、今はまだその時期ではない。ストリップの神様が書け!書け!と言ってくれるので、今はひたすら書き続けようと思っている。

 

私は劇場内のロビーなどでパソコンを打ったり、ステージ中もメモをとったりしているので、かなり目立つらしい。ステージ中にメモをとるのは気が散るので止めてほしい!と踊り子さんや劇場の方から注意されることもあり私なりに結構苦心している。私のレポートを楽しみにしてくれる、かつメモをとっても怒らない方のみ対象にするようにしている。

 

先日、あるスト仲間が、私のことを「平成の永井荷風だね!」と評してくれた。

「ふらんす物語」で有名な永井荷風が風流人であることは知っていたが、ストリップ好きであることを初めて聞いた。1879.12.3~1959.4.30(満79歳没)明治12年生まれで大正・昭和にかけて戦前戦後を駆け抜けた人なんだね。ストリップに関しては、1949年(70歳)から翌年にかけて、浅草ロック座などで「渡り鳥いつ帰る」「春情鳩の街」「裸体」などの荷風作の劇が上演され、荷風自身特別出演として舞台に立ち、楽屋では踊り子たちと談笑する姿が新聞に載るなど話題を集めたようだ。

 

永井荷風は「ストリップを観ると執筆意欲が湧く」とストリップ通いしていたらしい。この点は私と共通している。私もエッセイや童話・ポエムを始め、これまでいろんなテーマで書き綴ってきたが、そのテーマのひとつとしてストリップが登場し、今やストリップだけを書く対象にしている。書くからこそのストリップ通いであり、書くことを趣味にしていなかったら、いくらヌード好きとはいえ、ストリップ通いも途中で飽きてしまったかもしれない。いずれにせよ、ストリップと書くという二つの趣味が融合し、年がら年中のストリップ人生となってしまった。

 まさに、平成の永井荷風になるのが私の夢である。

 

 

平成27年7月                           渋谷道劇にて

 

 

 

 

 

今回は、「昭和の映画史を飾った名俳優たち」と題して語ります。

 

 

昨年は、昭和映画史を彩った名俳優たちが次々と亡くなった。

その一人は、李香蘭(りこうらん)。戦前の中国、満州国、日本で女優・歌手として活躍。終戦を香港で迎えた彼女は、中国政府から漢奸(かんかん)罪(中国人として祖国を裏切った容疑)で逮捕されたが日本人であることが証明され国外追放となった。日本に戻り山口淑子という名前で芸能人、政治家として活躍した。

2014(H26)年9月7日、心不全にて満94歳の命を閉じる。

 

私は山口淑子死去のニュースが報道されたばかりの9月18日、大和ミュージックに行き、そこで一宮紗頼さんが李香蘭の作品を披露しているのにビックリした。

「15日の四回目からはニュースを受け急遽作った李香蘭追悼作を今週限定で。一日で作った即席ですが・・・」紗頼さんの凄さは、舞台人としてのスパンの広さとその感性、そして行動力にある。改めて彼女の才能に脱帽させられた。

そのとき、紗頼さんが舞台の上で歌っていた「蘇州夜曲」が心に沁みた。舞台人として敬愛する李香蘭の死を悼む紗頼さんの心情がひしひしと伝わって来た。

「蘇州夜曲」は、李香蘭主演の映画「支那の夜」(1940(昭和15)年6月公開)の劇中歌で、李香蘭の歌唱力を前提に作られた名曲。聴きながら歌の世界に引き込まれた。

「蘇州夜曲」(作詞:西條八十  作曲:服部良一)

君が御胸に抱かれて聞くは

夢の舟歌 鳥の詩

水の蘇州の花散る春を

惜しむか 柳がすすり泣く ♪

 

私は、この一度きりの観劇に感動し、もう一度その李香蘭の作品が観たくて紗頼さんに頼んでみた。前回は思いが募って即行で演ったので、また機会があれば再構成して披露するかも、と話してくれた。

そして、それは五か月後に実現した。

翌年、2015(H27)年2月27日(金)、TSミュージックで拝見できた。もしかしたら、私のリクエストに応えて、わざわざ私のホームで演じてくれたのかも・・行くのが遅くなって御免ねー。

私は嬉しくて、レポートするつもりでメモしながら観劇した。

 

白いチャイナドレスで登場。チャイナドレスらしく、足元はサイドに切れ込みがある。枝にとまっている小鳥がたくさんプリントされていて、とても品のいいドレス。

後ろ髪をリボンで結び纏めている。気品ある髪型。

大きなピンクの羽根を持ち、優雅に踊る。最初の曲が「蘇州夜曲」で、また三曲目で歌なしで流れる。前回の大和ではここで紗頼さんの生歌が披露されたので、期待しながら眺めていた。ところが唄わなかった。紗頼さんに聞いたら「TSは狭いので声が舞台映えしないので止めました」と話してくれた。

次に、オレンジのドレス姿でベッドショーへ。安全地帯の曲がしっとり絡む。私は舞台に近い方の花道サイドに座っていたので、下半身はよく見えなかったが(笑)、お顔をすごく近くで拝見できた。気持ちをのせて迫真の表情で演じていた。私は紗頼さんのお顔に萌え萌えしていた。(笑)

 

 

ところで、昨年H26は後半に入って次々と昭和の名俳優を失う。高倉健さんが11月10日死去された報道が流れる。日本で一番ストイックな俳優と言われた彼の死は全国民に大きな衝撃を与えた。享年83歳だった。そして11月28日には菅原文太さん死去のニュースが続く。享年81歳。高倉健さんに続く映画界の大スターの死に全国民が言葉を失う。文太さんは私の第二の故郷・仙台市出身ですごく愛着を感じていた方だった。

李香蘭を含め、この三人は私の上の世代にとってはヒーローであり、その存在感の大きさは当然我々の世代も十分に認識している。

私は正直な話、李香蘭に続き、高倉健さんや菅原文太さんも、紗頼さんに演じてほしいなと頭の片隅に浮かんだ。(笑)

そうしたら、同じ道劇の有馬美里さんがお正月にやってくれた!!!

作品「賭博師リマ」は、黒い着物を着て、サイコロと花札を演ずる。

最近の有馬さんは、作品の空気を作るのが非常に上手くなった。今回も、強い目力で、我々を作品の世界に惹きこむ。高倉健さんや菅原文太さんのヤクザ映画を彷彿させられた。

ベッド曲に、弘田三枝子さんの名曲「人形の家」。1969年の懐メロが、しっとりと絡む。

 

 

渋谷道劇の踊り子二人により、私は昭和を懐かしむことができた。

今年は平成に入り早27年目、戦後70年になるが、昭和のよさは映画に残っており、そしてそれをストリップで味わうことができた。

表現者は、時代を紡ぐことが大切な使命。歌舞伎役者は伝統芸能を紡ぎ、映画関係者は記録を紡ぐ。太平洋戦争も東日本大震災も後世に紡いでいく必要がある。

ストリップも、ステージや自分の身体を通じて、何かを紡いでいる。しかも、深い感動を与えながら。なんと素晴らしいことかな。

 

 

平成27年2月                               

 

 

 

【閑話休題】

 

 高倉健さんのことをインターネットで検索していて、元妻とのエピソードに触れ、泣けた。紹介したい。以下、文中では高倉健さんの愛称‘健さん’を使わせて頂く。

 

 

 高倉健さんは、歌手で売れっ子の江利チエミさんと1959年に結婚した(健さん28歳、江利さん22歳)。

 彼らが結婚した当時、確かに江利チエミは大スターで、健さんはまだ駆け出し。

 出会いは、56年東映映画「恐怖の空中殺人」の共演だった。美空ひばりさん、雪村いずみさんと「三人娘」と呼ばれていた江利チエミさんは健さんと交際を続ける。仕事が多忙で交際当初になかなか会うことができずにいた二人。あるとき健さんが「風邪をひいて入院した」と嘘の連絡をした。心配したチエミさんは急いで健さんのところに駆け付けたが「どうしても君に逢いたいための仮病なんだ」と頭を下げたとか。また、静岡の浜松で撮影があったときに「10分でも君に会いたい」と夜行列車でチエミさんの仕事場の大阪に毎日駆け付け、ひとときの逢瀬を楽しみ、朝までに帰ることを繰り返していたという。

 結婚した後も、二人の仲の良さは続いた。チエミさんは健さんのことを人前でもはばからずに「ダーリン、ダーリン」と呼び、健さんのロケ地に差し入れを持って行った。そのたびに健さんは人前からいなくなる。人前で「ダーリン」と呼ばれるのが照れ臭かったようだ。笑

二人の幸せな家庭生活は永遠に続くものと思われたが、不運が二人を引き裂く。

1962年に待望の子宝に恵まれたもの、流産してしまう。さらに不幸が重なり、チエミさんがかわいがっていた甥の電車事故死、そして1970年には自宅が全焼し、ついには翌71年に離婚することになる。

実は、江利さんの異父姉Yさんが嫉妬から二人の間を引き裂いた。Yさんは様々な事情からチエミさんの実母と幼くして生き別れる。名古屋で結婚していたYさんはふとしたことで江利チエミが異父の子供(異父妹)である事実を知る。「離婚して生活に困っている」と彼女に近づき、家政婦として家に入る。チエミさんを信用させ、実印を預かり経理を任されるようになる。ここから嫉妬に狂ったサスペンスドラマ(※)ばりの展開が始まる。健さんとチエミさんにでっちあげの誹謗中傷を吹聴、別居に追い込み、離婚の足掛かりを作る。チエミさんの銀行預金を使い込み、高利に借金をし、ついに不動産を抵当に入れてしまう。彼女の横領と虚言がマスコミをにぎわせるようになり、江利さんがこれ以上迷惑をかけられないと一方的に離婚を申し出た。憎しみからではなく愛するがゆえの決断だった。

当時のことを振り返り、健さんは次のようなインタビューを残している。「自分の女房に突然離婚を宣言されるなんてことは、誰にでもあることではないと思うんです。結構うまくいっていると自分では思ってましたが」

江利さんは異父姉が作った2億とも4億とも言われる膨大な借金を返済するために仕事に没頭し、一人で借金を完済し自宅を取り戻した。また悩みながらも異父姉を刑事告訴し、Yさんは三年の実刑判決になっている。

後に、江利さんが異父姉の事情を話し、健さんにお詫びした。江利さんと親交の深かった清川虹子さんが後にこんなことを明かしている。「チーちゃんは健ちゃんと約束していたんです。‘世の中が私たちのことを忘れたら、ダーリンまた一緒になってくれる?’と。それに対して健ちゃんも‘そうしよう’って答えたんです」

しかし、その約束は果たされなかった。江利さんは享年45歳の若さで、1982年2月自宅マンションで脳卒中で突然死する。

高倉さんは日本を代表する俳優として第一線で活躍し続けたが、生涯再婚することはなかった。その間、ある大物女優が健さんと映画で共演して健さんに惚れ込み激しく求愛したこともあったようだが健さんは決して首を縦に振らなかった。チエミさんへの愛を貫き通したのだろう。

チエミさんへの殉愛を示すエピソードがある。チエミさんが亡くなって四年後の1986年、離婚前年に全焼した家の跡地に約二億円の豪邸を立て直した。もちろんチエミさんとの思い出の詰まった場所ということもあったが、チエミさんの墓はそこから200mほど離れたところにあり、健さんはチエミさんの命日には必ず墓前で手を合わせていたそうです。

 

※. 林真理子が小説「テネシーワルツ」(1988年講談社文庫)で小説にしている。

 

 蛇足ながら、少し感想を述べたい。

 映画人として私生活は一切オープンにしたがらなかったという芸能界一のストイックな高倉健さんに、こんな波乱万丈の人生があったことに今更ながら感動した。映画以上に映画的に感じさせられる。改めて名作『幸せの黄色いハンカチ』のラストシーンは倍賞千恵子さんではなく江利チエミのことをイメージさせられた。

 高倉健さんと江利チエミさんとの愛は本物だった。これだけ好きだった相手と出会い、一時と云えども伴侶となれたということは、人生として幸せだったと考えたい。

 私も長距離恋愛だったので、健さんの「たった10分だけでもいいから逢いたい」という気持ちは痛いほど分かる。今でも、好きな踊り子さんができるとどこへでも遠征したくなる気持ちと同じ。いくつになっても、こうした純粋な気持ちになれるストリップに感謝する。

 それにしても、Yさんは許しがたい。自分の不幸な境遇から、大スターになった妹を逆恨みした。どんな事情があったとしても、人の恋路や幸せを邪魔する奴は馬に蹴られて死んでしまえばいいと思う。周りの人がみんな幸せになれば、必ず自分にも幸せが回ってくるもの。「情けは人のためならず」自分のためなのだ。Yさんの言動はとても実刑三年で許されることとは思えない。 

 ストリップというのも、みんなで楽しめる素晴らしい世界。みんなで楽しめば幸せになれる。なのに楽しみ方の知らない悪意ある誹謗中傷の横行や、弱い者いじめする警察権力の横暴に腹が立ってならない。

 なにはともあれ、高倉健さんと江利チエミさんという大スターが残してくれた映画や歌に感謝するとともに、お二人のご冥福を心から祈りたい。

 

 

 

 

 

今回は、渋谷道劇の踊り子、一宮紗頼さんの演目「しづやしづ」について観劇レポートします。

 

 

 

 

一宮紗頼さんのステージを観ながら彼女のステージに釘付けになっている自分がいた

今回、改めて魅了してきた魅力とは何か。

まさに「ステージ美」。平安貴族の装束。日本伝統のもつ格式ある衣装には厳かな美しさがある。それが紗頼さんによく似合っているんだなぁ。さすが演劇を志している者の演技力というものか。私を強く惹きつけて離さない。

 ポラ時に「今回の演目名はなに」と聞いたら「しづやしづ」と答えてくれた。私はその場ではよく聞き取れずに、次のポラにメモしてほしいとお願いした。「インターネットで検索するとたくさん出てくるわよ。太郎さん、調べるの好きだし得意でしょ」と笑顔で答えてくる。実際、私はインターネットで調べて、この「しづやしづ」に感動したので、後でたっぷり説明する。

 

 その前に、今回の演目「しづやしづ」のステージ模様を語ってみる。

 最初に、笛の音が聞こえ、平安貴族の装束に、ピンク色のベールを頭上高く掲げて登場。装束は、メローグリーンというのかな、明るい鮮やかな緑色で、かしこまった正装。腰には黒っぽい濃緑色のベルトを締める。ベルトと同じ布を首の周りにも巻いている。その首輪の下にある小さな飾りが神秘的。黒・白・赤と三つのボタンが縦に並び、その下に白い花模様があり、首から赤と白の紐が絡まる。また、長袖には赤い紐が縫い付けられていて、緑と赤がきれいにコントラストされている。更に、緑の色調が強いので気付かなかったが、よく見たら、上着の色と違う水色のズボンを履いている。後ろ髪を赤いリボンで一本縛っている。きれいな浮世絵を見ている気分。日本の伝統衣装はまさに芸術である。丁度この頃に十二単も登場しているが、洗練された着物文化に発展していく日本人の美意識の礎はこの時代に出来上がっていると云えそう。

 後で調べて分かったが、この演目では、白拍子(しらびょうし)をイメージしている。白拍子とは平安末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の一種であり、それを演ずる芸人を意味している。巫女舞が原典であり、辞書で見ると本来は赤と白を組み合わせた巫女風の衣装のようだ。烏帽子(えぼし)を被ることが多い。烏帽子は男性の帽子なので、今でいえば宝塚歌劇団の男役みたいな感じか。これに対して紗頼さんから次のようなコメントをもらった。「ジャニーズのタッキーが義経の大河ドラマやってたのを見てたので、絵面(えづら)としてはそのイメージが強いです。本当はベッドで、鳥帽子(えぼし)をかぶってみようかなと思ったけど、イメージが限定されるので止めました。」私は大河ドラマを観なかったが、タッキーの義経の衣装は宣伝かなにかで見ていたのでイメージが湧いた。たしかに、この方が一服の絵のようで、見ていてうっとりさせられる。

さて話を戻そう。紗頼さんが裸足で舞う。ベールを取り、黒い笛そして扇子を取り出す。扇子には金と赤の色の上に白い桜が描かれている。

次の場面は、強い笛の音とともに始まり、女性ボーカルの曲「荒城の月」が流れる。厳かな雰囲気の中、白い着物に赤い花模様がプリントされた襦袢姿で登場。帯の赤さがとても鮮やか。髪の結びを解いて髪を垂らし、扇子をもって舞い踊る。

そのまま、ベッドへ。美空ひばりの曲が流れる。

 

後で「静御前」の話を詳しく語るが、義経への愛を貫き通した彼女の生き様は多くの人に感動を与える。

白拍子というのは、今でいえば高級クラブのホステスみたいなものか。お酒の相手をしたり、客の前で舞を踊ったりする。相当高貴な人のお邸にも出入りしていたので会話も上手で頭もよくなければならない。なにより美人であることが必要最低条件とされた。そのうえ歌舞ができたわけだから、都の男性からはアイドル的な存在でもあった。しかし、時に娼婦としての仕事もあり、身分的には賤しいものとされ、色目で見られたり蔑まされたりした。

 その中のトップ白拍子であった静御前が、時のヒーロー義経に見初められ愛人となる。

 当時、壇ノ浦の戦いで平家を倒して凱旋して都に入った義経は女性にモテにモテた。たくさんの彼女がいたらしいが、兄・頼朝の反感を買い都落ちするときに、義経と行動をともにしたのは静御前だけ。それだけ義経に対する想いは一途だった。お腹に義経の子供を身籠ってもいた。

 後で詳しく述べるが「賤の小田巻」という話のせいで、妾である静御前の方が有名になったが、義経には正妻がいて、最後に平泉で義経は正妻と心中する。それでも静御前の存在は義経の名を高めている。やはり「英雄は色を好む」ということか。

静御前は薙刀の名手でもあり、和歌などの教養も深く、本当にかっこいい。時の権力者である源頼朝と政子夫妻の前で、「賤の小田巻」で見せた静御前の毅然とした態度には誰もが感動する。そして愛する義経の忘れ形見を殺された非情さに涙し、彼女の境遇に同情させられる。

紗頼さんも、そんな静御前に憧れて、今回の演目を演じているのだろう。

 

 ふと、ストリップというのは現代版白拍子かな・・と思う。

 微妙な違いはある。ストリップは裸体と芸を見せるが身体は売らない。女体は美であり芸術だから娼婦よりずっと崇高な仕事だと私は思う。客との会話は基本的にないが、客が付かないと成り立たない商売でもある。また、白拍子の客層は貴族だが、ストリップの客層は庶民である。ストリップは白拍子の流れから派生してきた日本独特の庶民文化かもしれないな。

もし昔にストリップがあったら、静御前は踊り子になっていたかもしれないと思うと面白い。紗頼さんを見ていると、演劇の世界からストリップに飛び込んできていることもあり、すごく白拍子っぽい。静御前は紗頼さんっぽい感じの女性かもしれないな(笑)。紗頼さんを見ながら、静御前のストリップを観ている気分になれるなんて最高の贅沢だよん♪

 

 今回は、紗頼さんのステージを通して、歴史秘話に触れ、すごく感動した。紗頼さんと接していると、性的な刺激と合わせ、知的な刺激も味わえ、一粒で二度美味しい。物書きを趣味としている私にとって最高の幸せ感を得られた。

改めて、紗頼さんは今の私にはとても貴重な踊り子さんである。

 

平成26年7月                           渋谷道劇にて    

 

 

【事後録】

 このレポートは、紗頼さんのステージを拝見した日の翌日に書いている。

 場所は埼玉県の栗橋。目的はライブシアター栗橋。

 なんとも偶然なのだが、栗橋は静御前ゆかりの地。旧村名が静村で、秋には静御前祭りが催される。インターネットで知り、すぐに駅前の「静女の墳」に行った。今まで劇場の方ばかり向いていたので気付かなかったが、逆方向に小さな祠(ほこら)がある。「静桜の里くりはし」とある如く、桜が有名。今度はその時期に来たい。

静御前は義経の後を追って京から平泉に向かう途中、ここ栗橋で病に倒れ悲恋の死を遂げたと言われる。他にもまだ静御前の墓とされる所がいくつかあるようで、今となってはどれが正しいかは確かめようがない。

 狭い祠の中に佇むと、はるか彼方の昔に想いを寄せられる。次の話を私と共に味わってほしい。

 

 

【解説】賤の小田巻(しづのおだまき)

 

「しづやしづ しづのおだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもかな」

 初めて読む人には何を言っているのか分からないと思うが、これからの話を読むと、この和歌に感動すると思う。

 

 平安時代末期の話。

 ある年に、百日も日照りが続き、心配した後鳥羽上皇は100人の僧に読経させるも効験がなかったので、100人の容顔美麗な白拍子を集めて雨乞いの舞をさせた。しかし、だれが舞っても一向に雨が降らない。最後に、当時15歳の静が舞い始めると雨が三日三晩降り続き洪水になるほどだった。大変感心した院が静に「日本一」の院宣を与えた。

 ちょうどその「雨乞いの神事」に、兄・頼朝の代官として入京していた義経も見物しており、二人は初めて出会う。義経は静を見初め、召して妾とする。

 その後、義経は兄の鎌倉殿(頼朝)の怒りに触れて暗殺者を送り込まれる。院や都の権力者は手の平を返すように冷たくあしらう。義経はついに都にいれなくなる。

 義経が都落ちした時、静も一緒についていく。その時、静のお腹には義経の子を身籠っていた。

 吉野の山中を身重の体で彷徨い続けて、最後には義経と生き別れになる。静は見つかり山僧に捕えられ、京の北条時政に引き渡される。

 

 さて、ここから「賤の小田巻」の本題に入る。

 静は1186年3月に、母の磯禅師(いそのぜんじ)とともに、鎌倉に呼ばれる。表向きは「鎌倉殿(頼朝)の妻、政子が日本一の静の舞を見てみたい」というものだが、その魂胆は、①.血眼になって探している義経捜査のため、②.静の腹の中にいる義経の子供を殺すため。

 初めて、静が頼朝と対面したとき、その場で頼朝は「今ここで静の腹を裂いて、赤子を取り出し、目の前で殺してしまえ!」と叫んだそうです。さすがにそれはあまりにも残酷と、その場を仲介した者があり、「今ここで」というのは無理があるという事になるが、のちに出産した時に女子なら助けるが男子であれば即殺すという事に決めた。(結局、静の子は男の子で、生まれると同時に川に投げ込まれる。)

 ちなみに、頼朝は若い頃、まだ流人として伊豆にいた時に、一つの恋をして子供が生まれた。ところが世は平家の全盛時代。流罪人頼朝の子は可哀そうに皆で寄ってたかって川に投げ込まれてしまう。しかも頼朝の目の前で。頼朝の異常症はこの時に決定的になったのではないかと推測される。話を戻す。

名目の静の舞は、鶴岡八幡宮で奉納舞することに決まる。八幡宮は源氏の氏神。当然、静は鎌倉万歳を祈る舞をしなければならない。

1186年4月8日当日、今、世を騒がせている義経の愛人が鎌倉万歳を祈って舞うということで、鶴岡八幡宮は異常な盛り上がりをみせた。鎌倉中の人々が集まってくる。高座には頼朝・政子夫婦が並んで座る。そして舞い始める。

「吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」

 これは、まさに義経を想う恋の歌。

この時、頼朝の顔色がサッと変わる。鎌倉万歳どころか、吉野で別れた義経が恋しい・・という歌ですから。続けて、冒頭の歌が登場する。

「しづやしづ しづのおだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもかな」

「おだまき」は小田巻と書いて、昔の糸を操る道具。真ん中が空洞になっていて、糸を巻きつけて使う。くるくる回るので、この「おだまき」は「繰り返し」という言葉の枕詞にもなっている。

「しづの・・・」というのは「賤(シズ)」という布の事。これは身分の低い人が着た衣服の布でした。そこで静は、この「しづの・・・」という言葉に自分の名前「静」をかけました。

 白拍子として蔑まれたから鎌倉まで呼びつけられた私だけれども義経を想う心に嘘偽りはありません。「静よ、なぁ、静」と繰り返し私の名を呼んだあの人が輝かしかった頃に、今一度戻りたいものだ、という意味。「昔を今に なすよしもかな」は、どうか昔を今にする方法はないものでしょうか、と言っている。

 ちなみに、この歌には本来オリジナルの歌があった。

「いにしえの しずのおだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもかな」(伊勢物語)

 男が昔付き合っていた女の人に、この歌を捧げて「もう一度昔みたいに会いたいなぁ」と言ったけど、女の人は何の返事もしてくれなかった・・・という意。この歌をパロデイにして想いのたけを読み歌っている。

 静に頼朝公が期待していた関東の繁栄を寿ぐ祝儀舞に反して、義経との別れの曲を舞った。当然、頼朝は怒ります。普段冷静な頼朝が、この時ばかりは傍目にも分かるくらいに顔色を変えて怒ったそうです。その頼朝を諌めたのが妻の政子でした。「夫を慕う本心を形にして幽玄である(女の気持ちというのはそういうものです)」と言ったといわれる。(出典「吾妻鏡」は政子が編纂させたもので、当然政子をよく見せる話が多い。)

 白拍子を呼びつけて晒し者にしようという企ては見事失敗に終わりました。恥をかいたのは人間性の貧しさを衆人の前でさらし、あげくの果てに妻の一言で尻尾を巻いてしまった頼朝の方でした。

 この切羽詰まった状態の中で、静が見せた毅然とした態度は多くの人々に感動をもたらし、この場で謳い上げた義経への愛はそれを受け止めた政子と共に美談として後世に語り継がれていくのでした。

 その後、7月29日、静は男の子を産んだ。頼朝の家臣が赤子を受け取ろうとするが、静は泣き叫んで離れなかった。母の磯禅師が赤子を取り上げて家臣に渡し、赤子は由比の浜に沈められた。9月16日、静と磯禅師は京に帰された。憐れんだ政子と大姫が多くの重宝を持たせたという。その後の消息は不明。

 

 

 

 

 

 

 

 

今回は、「ストリップは‘責め絵’か!?」と題して語ります。

 

 

ふと、踊り子さんはどんな気持ちでポラを撮られているのだろうか?と考える。

衣装ポラならば、グラビアを撮られるアイドル気分で快く感じるだろうが、度を超したエロポラは辱めを受けている気分になるのだろうか。大概は慣れてきて、商売として割り切っていくだろう。しかし、ときに、新人の中には「エロポラはできません!」と言って踊り子を辞めていく人もいる。彼女たちにとっては辱め以外の何ものでもないのだろう。

女性ならば誰しも羞恥心があるだろうが、踊り子をやっていれば、ある時点でエロポラは「男性を喜ばせる武器」であり「自分が女性として認められ、オナペットの対象にされた快感」を覚えていくのだろう。エロポラを撮られながら、撮ってくれた男性の愛を感ずることもあろう。いつだったか、ある踊り子さんは「あそこをポラで撮影されていると、まるであそこを舌でチロチロ舐められてる気分になるの。内緒の話よ。」と教えてくれたっけ。

‘責め絵’というのは、SMのジャンルではあるが、SMというのはプレイする同士の愛情がなければ成り立たないものと私は理解している。責めや苦痛が最期に快楽になるのならば、それはSMではないかと思う。そういう意味では、エロポラはストリップ版‘責め絵’といえるかもしれない。

 

ときに、私にはストリップそのものが責め絵的に感ずることがある。

一般の男女間の愛情というのは、相手を他の人に奪われないように、自分だけのものとして独占したくなる。ところが、ストリップというのは自分だけに独占することは許されない。むしろ、たくさんの客に応援してもらわないとステージに乗れないために、自分の愛する踊り子を観て応援してほしいと他の人に勧める。愛する踊り子さんがみんなにちやほやされるのを観て喜ばなくてはいけない。そこに嫉妬の感情をはさむようではストリップファンとしての資格はない。自分の彼女の裸体を沢山の男性の視線に晒して喜ぶなんて考えれば、ストリップというのは異常な世界だよね。

エスキモーは、極寒地のために、お客が泊まる時には自分の女房を湯たんぽ代わりに提供するという話を聞いたことがある。ストリップはそういう世界なのかも。

 

 

変な話をしてしまったが、こんなことを考えるきっかけは、TS所属の時咲さくらさんの演目「お葉」を拝見し、伊藤晴雨と竹久夢二という二人の画家を夢中にさせたモデルのお葉の話を知り、彼らの人間模様に興味をもったことによる。

今回は、その中の一人、伊藤晴雨についてインターネットで調べたことを紹介したい。

伊藤晴雨(いとう せいう 1882明治15ー1961昭和36)は、大正から昭和にかけて「責め絵師」として責められた女体美を生涯描き続けた異端の画家です。

出身は東京市浅草区。父親は旗本橋本大炊頭の子で、没落し彫金師を生業としていた。母親は丹南藩の元家老の娘。その長男として生まれる。幼い頃から絵が得意であったため8歳で琳派の絵師・野沢提雨に弟子入りする。なんと9歳の頃に、両親に連れていかれた芝居にて、女性の折檻シーンや乱れ髪に興奮する。今でいう髪フェチで、女の髪の匂いに言いしれぬ喜びを感ずる少年だった。この三つ子(九つ子?)の魂が彼の一生を貫く。

25歳から新聞社に勤めて、挿絵や評論を書くようになる。

27歳で包茎手術を行い、竹尾という女性と一度目の結婚をする。この頃から挿絵画家としての地位を高めていく。稼いだ金はすべて酒と女など遊興に費やしていた。

34歳でお葉をモデルに責め絵を描く。お葉は13~15歳の三年間、晴雨のモデルとして、また愛人として過ごす。

ところが、お葉は15歳の時、モデルとして竹久夢二に紹介され、夢二に気に入られ同棲するようになる。

お葉と別れることになった伊藤晴雨だが、37歳で、お葉が原因で女房の竹尾と正式離婚。その後、二度目の妻となる佐原キセと所帯を持ち、彼女をモデルに残酷画を描き続ける。39歳で「妊婦逆さ吊り」の実験を行う。彼女も、また美術学校のモデルで24歳。キセは元々そうした性癖があったので、晴雨の要求に協力的でした。10年後キセは、晴雨の食客として置いておいた早稲田出身の文士の卵といい仲になり晴雨の元を去る。三度目の妻は「雪責め」のモデルを務めた。彼女は梅毒症にかかり三年の闘病生活の末、発狂して亡くなる。医療費がかさみ、借金に追われるようになる。その後、晴雨は生涯妻帯しなかった。

めちゃくちゃな人生である。でも、どこか共感させられるところがある。

晴雨自身はすごくストイックな男だと思える。27歳のとき、劇評家の幸堂得知の仲人で結婚することになったので、慌てて挙式三日前に包茎手術をしている。それまで童貞だと言うのだから女を知るのが遅すぎる。しかも、初めて女を知って落胆している。

それからの晴雨は、おそらくは芝居や絵画の中の理想だけを追いかけた。この点、私がストリップを通して自分の童話の中に女性のエロティズムを表現したいという感覚に通じる。ただ、私もエロは大好きだが晴雨が表現するものとは違う。彼が追求しているのはエログロ路線であり、私の追求するファンタジーやジョークの世界とは全く違う。

ただ、彼の求める「エログロ⇒悪」の匂いはあくまで表現される悪、演出される悪であって決して罪になる悪とは思えない。晴雨の出版物は世間の批判を浴び、何度も発禁になったり、本人も何度か警察に留置されたり巣鴨刑務所に収監されたりしている。しかし、彼が出版した『いろは引・江戸と東京 風俗史 全六巻』は風俗史を語る名著とされ、出版禁止になった『責めの研究』は学術的評価が高いものと言われている。

彼は責めの研究を続ける中で、責め場のある芝居を観て歩いたが、大正末になると責め場のある芝居が少なくなり、ついに自分で芝居を組織する。「私がそのとき望んでいたものは、舞台の残虐美の実現であった。女の責め場を美しい女に演じさせる脚本を自ら作り、自ら演出し、自ら背景を描き、自ら興行主となり、大道具方となり、作者となり、諸事万事一切自分の手でやって行くという方針の小劇場を作った」なんというマルチな才能と行動力だろう。

晴雨の弟、順一郎は、兄を「外では放胆な奇人で通っていても、自分の仕事を見る目は厳しい、たいへん努力家でした。」と言う。

晴雨の娘の菊は「父は何事にも徹底してました。わからぬことを、そのまま投げだしておくのを嫌い、調べのつかぬことでもそれなりに必ず心に留めておくように全て常日頃頭を使い、足を使い、目を大きく見開いて物事を注意深くわきまえるように教えられました。」「良いところと悪いところが極端で、真ん中がなかったというのが父の姿だったんでしょうか」と言っている。実の娘が晴雨のことをこれだけ理解してあげていて、最後に看取ってもらえたなんて幸せなことだね。

 

瀬戸内寂聴さんの言葉を借りて言えば、「人に評価されるために生きるのではなく、自分がどう生きるか」だと。晴雨は、「変態画家」「奇人」と言われるも、そんな世間の風とは全く違う場所で、自分らしく生きた人と考えることもできる。大きな賞には恵まれなかった晴雨ではあるが、彼は自分の一生にきっと満足だったことだろう。

実際、いま現時点で世間一般として彼の業績が高く評価されているわけではないが、彼の作品や生き方に共鳴してやまない一部の人たちがいて、彼のことを取り上げてたくさんの書籍や演劇・映画で紹介している。また、彼の書いた絵画は、今でもかなり高い値で売られているみたいだ。中でも、ハリウッドチェーン社長、福富太郎氏は有名なコレクターだ。

以上、伊藤晴雨について調べたことをまとめてみた。私はSMについて造詣を深めるつもりはないが、彼の生き方には深く共感する。

私もここまでストリップ道に嵌まってしまったからには晴雨のようにとことん貫きたい気分だ。私は、ストリップで家族も仕事も失った。もう失うものは何もないと割り切ってストリップ道を心から楽しみたい。伊藤晴雨や竹久夢二たちのように、後先なんか考えず今の自分を信じて自分の進むべき道をひたすら追い求める。そんな気持ちだ。ただ、私の場合は伊藤晴雨や竹久夢二たちとは違い悲しいかな才能がないけど・・ね。

 

 

平成28年9月                         シアター上野にて

 

 

今回は、「竹下夢二の生き方と私のストリップ道」について話したいと思います。

引き続き「浮世絵的美人画」シリーズ(その3)にもなります。なにせ竹久夢二は「大正の浮世絵師」とも呼ばれますからね。

 

竹久夢二に興味をもって色々と調べる中で、私との共通点みたいなものが幾つかあり、ストリップ道を追求したい私として刺激的で学ぶべきことが多いことに気づいた。かなり時間をかけて調べたので、徒然に話してみたい。

一応、次の目次に従って話を進めていく。

 

1.     竹久夢二の生涯

2.     夢二と関わった女性たち

3.     夢二式美人画と芸術性

4.     夢二と私とストリップ

 

 

 

1.竹久夢二の生涯

 

 まずは最初に、竹久夢二の生涯を駆け足で述べます。

 1889年9年16日岡山県邑久郡本庄邑119(現在の瀬戸内市)に、父菊蔵、母也須能(やすの)の次男として生まれる。ただ夢二が生まれた時に兄は既に夭折していたので長男として育つ。姉は松香7歳。本名は竹久茂次郎(もじろう)。

家業は造り酒家だったが、夢二が育った頃は酒の販売と農業の兼業だった。

明徳小学校に入った夢二は馬の絵が得意でした。母方のいとこが馬の絵を好んで描き、夢二によく見せていたと言われてます。高等小学校に上がってからは、鉛筆画を習い、意識して自然を描く方法を考えたそうです。母の実家は紺屋で、母方の祖父は夢二を画家にしようとしたが、父は商業学校に入れて酒屋を継がせようとしていました。

家産が傾き、16歳のとき、神戸で米屋を営む叔父竹久才五郎に身を寄せ、神戸中学校(のちの神戸一中、現在は神戸高校)に入学するが、8ヶ月で中退。父の放蕩が聞こえたために、姉の松香が離縁される。母もしばしば実家に逃げ帰ったそうです。夢二は幼少の頃から、虐げられた弱い女性の姿を見て育ちました。優しい母や姉松香、そして3歳年下の妹栄が竹久夢二の人格形成に大きな影響を与えたと言われている。

明治34年、夢二16歳のとき完全に家業が傾き、父菊蔵は一家をあげて福岡県八幡村(現在の北九州市八幡東区)へ移住。近所の人の話では「突然に一家がいなくなった」ということで、夜逃げ同然に引っ越したようです。折しも開業する官営八幡製鉄所での人夫調達稼業を企てたのだった。夢二も同行し、一時、工場の製図描きになる。

 1901年、17歳の夏に家出して上京する。最初は父の希望に沿う形で早稲田実業高校専攻科に入学する。

苦学生とて、人力車夫や牛乳・新聞の配達をしながら、白馬会の研究所に通い、荒畑寒村のすすめで社会主義雑誌「直言」(平民社)に風刺画をのせ、21歳のときコマ絵が「中学世界」などに当選したのを機に画業に専念することになった。早稲田実業高校専攻科を中退する。

 少年少女雑誌に浪漫的な挿絵や詩を発表して注目された。その後も挿絵、詩文、本や雑誌の装丁に異色ある芸術的天分を発揮する。

特に、目が大きく夢みるように憂愁をたたえた美人画は「夢二式美人」と呼ばれる。それが江戸情緒をたたえた魅力を持つことより「大正の浮世絵師」とも称された。まさに彼は大正ロマンを代表する画家である。

その独自の感傷性豊かな抒情的表現は、大正期の青年子女に多大な影響を及ぼした。ただ、生前の夢二は、独学の「大衆画家」であるがゆえに当時の画壇からは完全に無視されていた。しかし、第二次世界大戦後から、その作品に対する評価は高まっている。

 

1907年 夢二23歳で岸たまきと結婚し、翌年長男虹之助、3年後には次男不二彦が生まれる。

1912年 京都府立図書館で第一回作品展を開き、「さみせんぐさ」の筆名で叙情詩「宵待草」をつくった。その後結ばれた笠井彦乃とは四年ほどで別れさせられた。

関東大震災の頃までは、お葉(佐々木かねよ)と所帯を持ち、その間には夢二の生涯の傑作「山へよする」「砂時計」「長崎十二景」「女十題」を作成。

1931年(昭和6年) 「立田姫」「黄八丈」を発表後、横浜からアメリカに渡る。

アメリカ、ヨーロッパ、そして台湾を旅したが、旅の無理がたたり、結核となる。

1934年(昭和9年)1月、信州富士見の高原療養所へ入院。古くからの友人で詩人でもある正木不如丘所長の好意により、特別病棟に収容され手厚い看護の手を差し伸べられた。同年9月、夢二は「ありがとう・・・」の言葉を最後に一人淋しく幕を閉じる。肉親、知人の看取る者のないまま波乱の一生を終える。

 

 

 

2. 夢二と関わった女性たち

 

竹久夢二の人生は女性たちとの出会いと別れによって彩られている。とりわけ、岸たまき、笠井彦乃、お葉の三人は夢二の人生だけでなく、創作にも大きな影響を与えている。

この三人を抜きには夢二の人生は語れない。順に三人について述べる。

 

①    岸たまき (明治14(1881)-昭和21(1946)61歳死去)

石川県金沢市味噌蔵町(現大手町)に、加賀藩士(後に金沢地方裁判所所長)の娘として生まれ、少女時代までは外出の際にはお付きの者がいたというお嬢様育ち。

日本画家と結婚し二児を設けるが夫が急死したため、子供は人に預け、明治39年、兄を頼って上京する。早稲田鶴巻町に絵葉書店「つるや」を開店。

開店五日後に夢二は客として現われる。夢二は中学時代から野球に興味をもっていて、早慶戦を絵葉書に描いて、新開店の絵葉書屋「つるや」に売り込みに行ったのでした。そこに、金沢から来ていた眼の大きな若き未亡人たまきが、絵の中の美人のように座っていた。夢二は店主のたまきに一目惚れ。そして、その早慶戦の絵葉書は売れました。この時、たまき25歳、夢二22歳。

この二ヶ月後に夢二は結婚を申し込んで翌年の明治40年(1907年)に結婚。翌年には長男虹之助が生まれるも二人の不仲は既に始まる。気性の激しいたまきと、繊細な感受性を持つ夢二。しかも揃って我が強い。二人の間には喧嘩が絶えなかった。

結局2年後の明治42年には性格の不一致から協議離婚するも、その後数年間にわたって同居と別居を繰り返す。

 

夢二はたまきをモデルにした作品を発表し、次第に人気作家となっていく。夢二式美人画は「大いなる眼の殊に美しき人」といわれた「たまき」をモデルにして生まれたもの。協議離婚した後の12月に最初の画集『夢二画集 春の巻』を刊行、一躍売れっ子になる。その頃(明治44年(1911))には二人は同居して次男・不二彦をつくるもまた別居。

大正3年(1914)、夢二30歳。日本橋呉服町に夢二デザインの小間物を扱う「港屋絵草紙店」を開店。たまきはそこの女主人になる。

店の人気は凄まじく、夢二ファンが集まり、その中には19歳の笠井彦乃がいた。この時期の夢二は「第二の女」になる彦乃だけでなく、神楽坂の芸者きく子とも恋愛をしていたようだ。

一方で、夢二は34歳のたまきと店の手伝いをしにきていた初個展をしたばかりの18歳の東郷青児との仲を疑う。嫉妬と不信にかられた夢二は、旅行先の温泉(富山の宮崎海岸)にたまきを呼び寄せ、腕を刺すという事件を起こし(実際は刺した刺さないの喧嘩であろう)、二人はついに破局を迎えた。

そして、五月には昨秋から親交のあった彦乃と堂々と関係を結ぶことになる。

 

たまきは夢二の生涯のうちで唯一戸籍に入り、三人の息子の母になった。

長男虹之助(こうのすけ、明治41年生)ののち、不二彦(ふじひこ、明治44年生)、草一(大正5年生)が誕生しており、たまき以後は夢二に子供はできなかった。

たまきは夢二と別れそうになると夢二を引き止めるかのごとく子供を生んでいる。逆に言うと、別れそうな時ほど相手にしがみつこうと夢二は子供を産ませる行為をしている。

夢二にとってたまきは、母親のようにわがままを許してくれる姐さん女房であり、服従する貞淑な妻だった。甘えん坊の夢二にとって妻は自分だけを絶対視でなければならないから、たまきが他の男と疑いがあることを許せなかった。

 

夢二と別れたたまきは、派出家政婦として働いた。しかし、この派出家政婦は、緊急の場合の1,2週間か、寝たきり老人の世話くらいしか需要がなく、たまきは帰る家のないまま、派出所の狭い部屋で細々と暮らした。

大正13年に夢二は東京郊外の松原に「少年山荘」(別名帰去来荘)を建てていた。昭和3年頃にたまきは、この山荘を訪ね、久しぶりに夢二に会っている。しかし、この頃に夢二は、17歳の岸本雪江と同棲していたため、居場所がなかった。

昭和に入り、先夫との長女で、養女に出した浅岡敏子に引き取られ富山市で暮らす。

その後、昭和9年9月1日に夢二は、信州の富士見高原療養所で50歳目前で亡くなったが、たまきには夢二死後のエピソードがある。その年の10月中旬にたまきは、この療養所を訪ね、「夢二がお世話になりました」といい、3ヶ月にわたりお礼奉公をした。患者達が使った便所の掃除や寝具の仕立て直しなど、人の嫌がる仕事を進んでしたという。

夢二と別れた後のたまきは、天理教に入信したり、家庭などを訪問し、無償で便所の掃除を行うことを活動する「一澄園」に入園したりし、心の渇きを癒やしたという。

昭和20年(1945)7月9日、たまきは富山において脳溢血で亡くなった。64歳であった。その直後に富山は米軍の爆撃を受け、納骨の終わっていないたまきの遺骨は、家ごと焼かれてしまった。

 

たまきの生涯を振り返ると、つくづく不運だったと思える。晩年に先夫の長女に引き取られる場面を見ると、一度は捨てた子供ではあるが、やはり血のつながりがあるのかなと思う。きっと先夫に先立たれなかったら平穏に暮らせたのだろうとも思う。そういう意味では不運であった。

それでも、たまきは夢二と出会ったお陰で、夢二と共に、夢二の絵の中に、こうして後生に名前を残した。たまきは夢二が唯一、戸籍上の妻とした人であり、生涯「夢二の妻」としての自負心、その忸怩たる気持ちがあったからこそお礼宝奉公にも行ったのだと思う。だから、不運ではあったが決して不幸ではなかったと思いたい。

たまきは、夢二が亡くなっても、終生、夢二を慕い続けたという。

 

②    笠井彦乃 (明治29(1896)-大正9(1920))

夢二にとって「最愛のひと」であり「永遠のひと」。

 

山梨県南巨摩郡西島村に生まれる。

明治36年、一家を挙げて上京。父親は日本橋で紙商を営み、のちに宮内省御用達となる。彦乃は裕福に育ち、女子美術学校の学生。

夢二のファンで、絵を習いたいと大正3年に「港屋絵草紙店」を訪問し、夢二と出会い、やがて相思相愛の仲となる。

彦乃の父親は彦乃より11歳年上の夢二と逢うことを固く禁じていたが、彦乃の使用人や友人、小唄の師匠などの協力を得て二人は合瀨を続けた。

父親の反対を押し切って、大正6(1917)年から京都で同棲をはじめる。

夢二は、蒸し風呂のような京都の夏を逃れようと、この夏8月から10月まで、次男の不二彦を連れ三人で北陸旅行に行く。石川県粟津温泉、金沢市、湯涌(ゆわく)温泉を回る。

粟津温泉に滞在後、金沢で不二彦が寝たっきりになり、医療費捻出のためにも展覧会を開くことになる。その金沢で開催された「夢二抒情小品展覧会」において、彦乃は「山路しの」の名で作品を出品。その後、不二彦の病後療養を兼ね、金沢郊外にある湯涌(ゆわく)温泉の「山下旅館」に滞在する。湯涌温泉は、浅野川支流の湯ノ川に望み、養老年間の創業と伝えられる古い湯治場である。9月下旬から10月にかけて三週間ここに滞在。夢二と彦乃にとって、都会の喧騒を逃れた山里でのひとときは、二人の愛を深めることができた幸せのときであり、おそらくは生涯において最高の旅だったと言えよう。

この三週間の思い出は、大正8(1919)年2月に出版された絵入り歌集『山へよする』に、「里居」として納められた十三首の歌にとどめられている。

  湯涌なる 山ふところの 小春日に 眼閉じ死なむと きみのいふなり

とりわけ、お薬師境内に建つ歌碑に刻まれたこの歌には、幸福の絶頂にある二人の哀切な心情が読み取れる。

大正13(1924)年、新聞の連載小説として夢二が発表した『秘薬紫雪』は夢二と彦乃がモデルであり、二人が愛を誓うラストシーンは湯涌温泉が舞台となっている。

湯涌温泉滞在後の大正7(1918)年、彦乃は九州旅行中の夢二を追う途中、別府温泉で結核を発病する。彦乃は父の手によって東京に連れ戻され、お茶の水順天堂医院に入院。夢二もすぐに東京に戻り本郷菊富士ホテルに移るものの、彦乃の父親によって面会を断たれた。

その翌年、傷心を絵筆に託し描いた、夢二の最高傑作といわれる『黒船屋』が完成。その絵を眺めて見ると、黒猫は男性の象徴(夢二自身)であり、それをしっかりと女性が抱きかかえている。その絵には彦乃に会いたくても会えない、辛く切ない思いを黒い猫に託し、猫の息吹が感じせられるほどに描写されている。なお、絵の構図はヴァン・ドンゲンの「黒猫を抱ける女」を参考にしたといわれる。

その翌年の大正9(1020)年1月、彦乃はわずか25歳でその生涯を閉じる。夢二は彦乃の臨終に立ち会うことすら叶わなかった。

夢二は昭和6(1931)年、渡米先から次男の不二彦にあてた手紙に、誕生日を祝ってもらった時のことを書いている。そこで旧友Oの娘が何気なしに聞くところがある。

「いったいあなたの何回目のバアスディですか。」「三十七回目です。」と手巾で口を拭きながら答える。「そうじゃないでしょう」正直にMr.Oが抗議する。「私は三十七の年で死んだことになっているんです。・・・彼女が二十五で、私が三十七で死んだのです」。

25歳で彦乃は死んだ。その時、夢二は37歳。つまり、彦乃が死んだ時、自分も死んでしまった。あとは「ただぼやんと生きているだけさ」というのだ。夢二にここまで告白させた彦乃という女性は、なぜに夢二にとって最愛の人になりえたのだろうか。その理由は、たまきやお葉の場合、夢二が先に惚れ、女性もそれに従ったが、彦乃は自分から夢二を追い求め、愛し、その愛の中で人生を終えた女性だったからだろう。彦乃は芸術を愛し、夢二を師として仰ぐ弟子のような存在であり、また保護しなければならない恋人であった。夢二より先に死んでしまったことで「守り切れなかった」というような後悔が夢二には残った。そのため夢二の心の中で清い存在であり続けたのだろう。

 

夢二の心に安らぎを与え、良きモデルにもなった笠井彦乃は、夢二にとって「永遠のひと」であった。この彦乃をモデルにして次第に夢二の画風は確立、彼独自の省略とデフォルメが生まれていった。自分を「河(川)」そして彦乃を「山」と呼んだ夢二は、ことに晩年、山の絵を好んで描いている。最愛の女性を山の絵に託し、そこに終わることのない永遠の縁を求めようとしたのであろう。

 

③    お葉 (明治37(1904)-昭和55(1980))

お葉については先に述べたので、ここでは概略のみとする。

秋田県河辺町赤平境田に生まれる。

戸籍名は佐々木カ子ヨ(かねよ)。「お葉」は夢二による愛称。

 大正8年、彦乃と引き離され、絵筆をとれないほど落胆した夢二を気遣う友人たちの紹介によって、春頃にモデルとなる。夢二好みの立居振舞を身につけた彼女は、夢二の絵から抜け出したような美人といわれた。

大正14年、お葉は彦乃の面影を追い求める夢二との恋に悩んだ末に自殺未遂をはかり、夢二は彼女の養生先として、金沢郊外の深谷温泉を選んだ。一度は夢二のもとへと帰ったお葉であったが、悩みは去らず、再度訪れた金沢の地で夢二との別れを決意する。

 

若く美しく、他の男がうらやむ女を情人にすることは、人生の成功を物語る勲章。他の男とのスキャンダルがあるほど、その主人である夢二の器は大きくなっていく。夢二は写真が好きであったというが、自分のものである美しいお葉を自慢したくてたくさん写真を残したようだ。

 

 

 

この三人の他にも、夢二に関わった女性を挙げておく。あくまで文献にたびたび登場する方を述べるわけで、これ以外にもたくさんの女性関係があったことは想像に難くない。

 

④    長谷川カタ

長谷川カタ(賢。夢二は「お島さん」と称していた)は、明治23年(1890)10月22日に北海道松前郡松前町で、旧松前藩士の長谷川靖の三女として生まれた。その後、カタは、父の実家の関係で秋田高等女学校(秋田県立秋田北高校)に通い、42年(1909)3月に卒業し、成田高等女学校(私立成田高校)で作法・国語・地理・歴史・英気を教えていた姉シマ(9歳年上)が済む成田市に来て一緒に生活をしていた。

42年の年末、長谷川家は、銚子の海鹿島の「宮下旅館」の隣に転居した。

43年に19歳になったカタは、8月に夏休みを利用して実家を訪れていた。

 

1910年(明治43年)夢二27歳の夏、寄りを戻した岸たまきと長男で2歳の虹之助を伴い、房総方面に避暑旅行する。宮下旅館に滞在した夢二は、そこで美しい娘、長谷川カタに出会う。

夢二はモデルになってほしいと彼女の家に頼みに行く。そして、親しく話すうち彼女に心を惹かれ、夢二は呼び出して束の間の逢瀬を持つ。散歩する二人の姿はしばしば近隣住民にも見られている。しかし結ばれることのないまま、夢二は家族を連れて帰京する。

翌年の44年(1911)の夏に夢二は、再び海鹿島を訪れたが、そこにはカタの姿はなく、カタが結婚するということを知った。カタの父が二人の関係を知り、許嫁との結婚を急いだことによる。

  このときの淡い失恋の心を海岸に咲く「マツヨイ草」(月見草と同種で、群生して可憐な黄色い花を付け、夕刻には開花して夜の間咲き続け、翌朝にはしぼんでしまう)に託した、「宵待草」という詩に結実する。

 

  カタは45年(1912)4月に結婚し、1男3女に恵まれ、温和な日々を送り、昭和42年(1967)7月26日に76歳で亡くなる。

  生前、タカは夢二のことを語ることはなかったようであるが、カタの子息の記録には「あれこれ思い起こしてみると、賢は夢二にある程度好意を寄せていたようだ。しかし、夢二の華やかな女性関係を耳にするにつけて、持ち前の潔癖さがひと夏のめぐり逢いに終わらせたのではないか。」とある。

 

⑤    山田順子(ゆきこ) (1901年6月25日-1961年8月27日)

彼女は、夢二とお葉を別れさせた直接の原因になった人である。

 

順子は、明治34年(1901)6月、秋田県由利郡本荘町(現在の由利本荘市)で廻船問屋を営んでいた山田古雪の長女として生まれた。長谷川カタと同じ県立秋田高等女学校(秋田北高校)を卒業する。当時は女学校まで進学するのは珍しく、その美貌と才媛ぶりは、地元でも評判だった。

大正9年(1920)、19歳のときに、東京帝国大学卒業の弁護士増川才吉と結婚し、小樽に住んでいた。ところが、夫が投機に失敗。生活を立て直すため小説を書く。

13年(1924)3月、23歳のとき、いきなり小説家を目指して上京し、原稿を持って人気小説家・徳田秋声の家を訪れた。夫の友人が新聞記者をしており、その記者の妹が徳田秋声の弟子だった関係で図々しく作品を売り込んだ。このとき、秋声は「瓜実顔の浮世絵風の美人の順子に魅せられた」というが、持参した原稿は未熟さが見られ、出版という訳には至らなかった。

落胆したものの、順子はめげなかった。一旦、帰郷し、12月に夫と離婚し、三人の子供とも別れて再び上京する。

松竹蒲田撮影所の女優研究生になったり、銀座のカフェ「プランタン」の女給になったり、電話交換手になったりして、自立の道を模索する。

そして、ついに順子の第一作『流るるままに』が出版されることになるが、その背後には出版を条件に出版社社長足立欽一と関係をもったのはもちろん、その本の装丁を担当した竹久夢二と恋に落ちる。夢二と一緒に住んでいたお葉の眼を盗んでは二人は男女の関係を持つようになる。そして、二人で一週間余り順子の故郷本荘などの旅行に出掛ける。お葉は、何も言わずに出て行った夢二を心配して、あちこち捜すうちに、順子と本荘に行っていることが分かった。夢二と順子の関係を知ったお葉は自らの境遇に耐えかね、夢二と別れる決意をし、夢二のもとから去って行く。お葉は、夢二が嫌いになったから別れるのではなく、順子との浮気を許すことが出来なかった。

一方、順子は、お葉が山荘にいないことを知ると、山荘に来て、そのまま居座った。このことが新聞に掲載される。お葉は、この新聞記事を読み激怒した。

山荘に来た順子は、夜も昼も布団を敷きっぱなしにし、そこで寝転んで創作をしたり、食事をしたり、酒を飲んだりしていた。これにはさすがの夢二も呆れ、嫌な顔をし、虹之助も順子の顔を見るたびに嫌みを言った。順子は、自尊心を傷つけられ、また、文壇とのコネも付けてくれない夢二に見切りを付け、山荘から出て行った。同棲期間は50日に満たなかった。

次に、順子は、徳田秋声の妻が病死した数日後に徳田宅に現れ、またたくまに徳田秋声と恋愛関係に陥ったのだった。

秋声との関係がズルズル続く間にも、恋愛遍歴は止まりません。痔の手術をしてくれた医者・八代豊雄や、プロレタリア作家・勝本清一郎(後に著名な近代文学者になる)、慶応大学の学生・井本威夫(後に著名な翻訳者になる)などが、順子の魅力にメロメロに・・・。

これだけ自由奔放でスキャンダラスな美女は、なかなかいない。

まさに二十代の過激なる恋愛遍歴である。最後は鎌倉の男性が添い遂げたという。

 

徳田秋声は1935年(昭和10年) 66歳のとき、「順子もの」を集大成した『仮装人物』を完成させ、私小説の代表作となる。29歳下の女性に心惹かれ、そして彼女に振り回されて苦しむ、そんな自身の姿を自嘲的に書いた私小説である。一方、順子はその後も細々と執筆活動を続けるが芽が出なかった。

山田順子は文学作品について語られることは少なく、スキャンダルを以てしてかくの如く、文学史上に名を残した女性である。しかし、彼女の姿は夢二が美しく書き残し、彼女の生き生きした様を徳田秋声が小説として書き残したわけである。これはこれで幸せな人生であったのではないかと思う。

 

⑥    岸本雪江

大正13年(1924)12月、竹久夢二は、東京府荏原郡松沢村松原(世田谷区松原)に自らが設計した「少年山荘」を建てた。

夢二がその松原の山荘に最後に一緒に暮らした女性は、16歳の岸本雪江であった。夢二とは27歳の年の差がある。

二人の出会いは、昭和3年(1928)春。雪江が軽い胸の痛みのため通院していた市電の中、筋違いに座っていた男が雪江をスケッチしていた。それが夢二だった。雪江は、白い肌で、ふさふさした黒髪、丸顔で、全体的に病弱そうな、夢二好みの女性だった。その後、夢二はこの雪江の家を訪れ、雪江の母親の許しを得て、スケッチのために二人で出かけるようになる。

雪江は、夢二の山荘に行き、そのまま夢二と生活するようになる。

夢二と雪江は、たびたび山荘付近を散歩したり、近くの店に行ったり、新宿まで出掛けて食事をしたり、箱根への旅を楽しんだりしていた。

雪江は、夢二と生活する中で、時には楽しく、時には淋しく、また、時にはやるせない気持ちを抱きながら、日々を送っていたという。

夢二と16歳の岸本雪江との同棲は、その後、ゴシップ的に新聞に取り上げられた。「歌人の山田順子と夢二との愛の破局が、まだ世間を騒がしているのに、早くも娘のような年若い女が、夢二の新しい情人になっている。」と報道された。この記事に、夢二は、人目を避けるため、雪江を淀橋区十に社(新宿区西新宿)のお年寄り夫婦が間貸しする六畳一間の部屋に移した。そして、夢二は、2,3日置きぐらいに雪江の元を訪れていた。

そのうち雪江は、隣の部屋の学生と知り合い、学生たちが大勢、雪江の部屋に集まるようになる。そして、雪江は、学生達と毎日のように夜の新宿に出掛け、酒を飲み、酔っ払って帰ってくることも屡々であった。

このことが夢二に知られ、雪江は、再び松原の山荘に戻された。しかし、山荘に雪江が戻ってきたものの、これまでとは異なり、二人で無邪気に遊ぶことはなく、夢二も、毎日、浮かない顔をしていた。家全体が陰気する中で、雪江は、夢二に素直に接することが出来ず、かつて学生達と出掛けた新宿の町が無性に恋しく思い、夢二に縛られることのない、自由な空気を欲するようになったという。

4年(1929)12月、17歳になった雪江は、松原の山荘を去り、夢二と別れ、2年ぶりに母親の家に戻った。そして、翌5年(1930)2月に夢二が銀座の資生堂画廊で個展を開いたとき、雪江は、この個展に出席し、別れてから始めて夢二に会った。夢二が両手を広げて迎えてくれる姿に、雪江の目から自然に涙が溢れたという。

雪江は、展示されている夢二の絵を見る気にもなれず「すぐに帰ります」と言うと、「よろしい。早くお嫁にゆくといいよ。」と言い、さらに「さようならは言わないよ」と。

その後、二人は会うこともなく、雪江は結婚し宇佐美姓となり、三人の子供に恵まれ、昭和40年(1965)には『短歌あゆみ』を主宰するほどに短歌の世界に入る。平成8年(1996)5月31日に享年86歳で亡くなる。

 

 それぞれの方をかなり長く記載した。調べ始めると、どんどん内容が膨らみだし、それぞれが最後にどんな一生を送ったのか、晩年まで興味津々になってきて、最後まで記録しておきたくてたまらなくなった。

 まさに、全ての方に人生がある。夢二と出会ったことで人生を翻弄されてしまった方もいるだろうが、誰も後悔していないように思われる。死別した彦乃を除き、晩年まで苦労しているのは最初の妻のたまきだろう。ところが、夢二が亡くなる時、唯一の戸籍上の妻であったたまきだけがお礼奉公にやってきた。死別した彦乃は別にしても、夢二と関わった多くの女性たちが彼のことを過去にしていったのに対して、たまきだけが晩年まで夢二のことを慕い続けたというのはしんみりさせられ、救われる気分になる。たまきの気持ちは「最後まで夢二の妻であり続けた」ということだろうし、それだけ夢二が男性として魅力的な証なのだろう。

 

 

 

3. 夢二式美人画と芸術性

 

夢二の描く女性は大正時代「夢二式美人」と呼ばれ、大変な人気を博した。大正ロマンの香りが漂うレトロな着物、その着こなしやおしゃれの手本となったのが夢二の美人画でした。

すらりとした手足にしなやかな身体。そこはかとなくにじむ女性の色香。

 

NHKの美の壺という番組が、夢二式美人をよく解説してくれている。

まず、彼の美人画を鑑賞するツボは「しぐさに女性美がある」こと。

夢二の創作の源泉は、彼が愛した女性たち。年上の女性、画学生、モデル。夢二式美人画は彼の愛の遍歴から生まれました。

女性をどう描けば美しく見えるのか、夢二は彼女たちにさまざまなポーズを取らせる。可愛らしさ、奥ゆかしさ、艶やかさ。しぐさが女性独特の美しさを醸し出す。

その特徴のひとつがS字曲線。どの女性もゆるやかなS字のラインで描かれている。そこにしなやかな身体の線を表現している。「口ではNOと言っても、彼女の身体がYESのSの字になっている」と夢二は話している。さすがプレイボーイだね。

もうひとつ、夢二がこだわったのが手のしぐさ。バラエティに富んだ手の表情が何かを語りかけてくる。

他にも、着物の着こなしや色づかいなど、オシャレ感覚な見所がたくさんある。

お洒落は、コーディネート。女の心が、動いて出てくるような、やさしく楽な着こなし。

配色の妙は、リズミカルな色の配置。まさに目で見る音楽。

 

夢二式美人というのは、S字にくねるほっそりした肢体に大きな手足、愁いを帯びた瓜実顔、長いまつげと伏し目がちな眼、そして焦点の定まらないうつろな視線・・・に特徴がある。それらの絵は見ていると悲しく、はかなくなる。

つまるところ、夢二式美人とは、美しい容貌だけでなく、女性を感じさせる仕草、曲線、しなやかさを持った女性、つまり「美しさの中に憂いがある女性」。だからこそ、センチメンタルな雰囲気を醸し出している。

今日でも多くのファンを魅了してやまない夢二の世界。

 

□. 夢二の作風

 モダニズムが成立し、大衆文化が繁栄を始めた時代において、彼は社会主義思想やエキゾティズム(南蛮趣味)、さらには西欧美術からはアール・ヌーヴォー、ビアズリーやロートレックらの世紀末象徴主義的な作品に影響を受けていると考えられています。

 

 夢二の本領は、時代の生活感情を反映しながらも、藤島武二や青木繁の浪漫主義を受け継ぎ、それに世紀末的耽美主義、懐古趣味、異国趣味を持った表現にあった。

 

□. 夢二の多才ぶりには脱帽!

 夢二の才能は絵画にとどまらない。まさに美術全般に及んでいる。

 大正3年、東京に趣味の店「港屋」をひらき、商業デザインも手がける。多くの書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけており、日本の近代グラフィック・デザインの草分けのひとりとも言える。

 

 世の動きとしてみた場合、当時の画壇ではさまざまな芸術思潮が交錯し、ある意味で胎動期の不安定のさなかである。都市における大衆文化の開花による消費生活の拡大を背景とした、新しい応用美術としてのデザインというものの黎明の時代であり、夢二もこれに着目した。

 生涯の後期に至っては、彼の図案家としての才能の実績において、生活と結びついた美術を目指し、あるいは産業と融合すべきとの理念を持ち、むしろ積極的に、商業美術(後にいわれるグラフィック・デザイン)の概念を描いていたようである。泰名山産業美術研究所の構想や、先進欧米視察への野望がこのことを裏付けている。

 

 

以下に、竹久夢二伊香保記念館の夢二作品の紹介案内文をそのまま掲載する。

・絵画

 「夢二式美人」という言葉があります。描かれたのは絶世の美人なのでしょうか。少女たちは・・・絵の中の人のようになりたいと思います。願えば誰もがなれそうな・・・夢二が描いたのは、そんな女性だからかもしれません。夢二が描いたのは、生活の歓びや哀しみだったからかもしれません。少女たちは・・・わが想いを画面の中に描かれた女性の想いに重ねたのです。

 夢二の絵は哀しく、はかない。人としての哀しみを知る絵描き・・・それだから・・・夢二の絵はやさしい。

 

・生活美術

 日頃生活の中で使われるもの、そのひとつひとつに夢二はやさしい目を向けました。思いがいつまでも残る・・・祝儀袋や便箋、封筒、夢二はそれにやさしさを・・・。身につけては心弾む半襟や帯、浴衣、夢二はそれに歓びを・・・。華や草、小鳥や昆虫など、身近なものをいとおしみ、夢二はそれをモダンな図案にしました。生活にうるおいを・・・。夢二が求めたもの・・・それは生活と美術との出会いでした。

 

・商業美術

 パッケージやラベル、ポスターに商標。夢二の手にかかればそこに無限の夢が広がります。商品のデザインに美を・・・。大量に複製されるものには温もりを・・。奇抜で斬新な構図に優しい気持ちを・・・。夢二の美意識はあらゆるものに美しさと浪漫の世界を広げました。夢二は「芸術」を身近なものにした人です。

 

・挿絵

 表紙をめくると出てくる挿絵。本の世界へ夢つながって、知らない世界に出会います。夢の世界が広がって、優しい気持ちがふくらみます。夢二の挿絵に魅せられて、多くの人が夢見ます。同じ想いが重なって、新たな世界が広がります。

 

・著書

 夢二残した著書、57冊。表紙や挿絵は美しく、もられた詩や歌や物語・・・みんなみんな詩情ゆたかな光を放つ。夢二芸術のエッセンス。時々出して見て下さい。そこには夢二のやさしさが鏤められていますから。時々開けて見て下さい。きっとあなたも夢二が好きになるでしょう。

 

・装幀

 書き手の心がたくさん詰まった本に美しい着物を着せる仕事・・・装幀。夢二は200数十冊の本に美し着物を着せました。書き手と読み手を結ぶ大切な仕事。本の表紙は作品への道案内。表紙から見返しへ、そして扉へ読者を本の世界へと誘い込む。優れた文学作品を人々の手にそっと注ぎ込むとても大切な仕事です。

小さくて可愛くて手にとってみたくなる本。心地よい重みと肌ざわり、いつも身近に置きたい本。そんな本を夢二はたくさん世に送りました。

 

・楽譜

 夢二の仕事は広がり、楽譜にまで美しい着物を着せました。その数300余り・・・曲を1曲1曲聴いてそれを一枚の絵に表現したセノオ楽譜シリーズ。耳を澄ますと音が聞こえてきます。鐘が鳴り、美しい旋律の風の音が聞こえます。タイトル文字の美しさ、色彩と構図の妙。楽譜の表紙を見て下さい。いろんな曲が聞こえてきます。それは夢二の交響曲(シンフォニー)。

 

 

 

4.    夢二と私とストリップ

 

思いつくことを徒然に書き綴ってみた。

 

□. 夢二と私との接点

 

 夢二のことを調べる中で、ささやかな事柄ながら、私との接点があることに気づき、ますます興味を持つようになった。

 ひとつは、八幡製鉄所で働いたことがあること。夢二は16歳のとき父親に連れられて北九州に行き、父親と一緒に官営八幡製鉄所に勤務。製図の仕事をした。実は私の社会人スタートは八幡製鉄所だった。

 もうひとつ、夢二が秋田美人を好んだこと。私は秋田出身で、見合いで秋田の女性と結婚した。

 お葉は典型的な秋田美人。夢二とお葉が別れる直接の原因になった山田順子(ゆきこ)も同じ秋田の同郷。しかも、順子は秋田県由利郡本荘生まれ。なんと私の地元出身ではないかー☆これには超―びっくりした!

 夢二は順子と一緒に本荘を旅行している。そのとき夢二が本荘をスケッチしたものが後に見つかっている。

更に、詩『宵待草』のモデルになった長谷川カタさん(お島さん)も秋田出身なのに驚いた。お葉と山田順子の他にも秋田出身者がいるとは驚きを通り越して呆れてしまった(笑)。ほんと夢二は秋田美人が好きだったんだね。秋田美人といえば色白で瓜実顔、今なら藤あや子さんや壇蜜さんを思い浮かべればいいんじゃないかな。納得するでしょ!

更に、金沢出身のたまきまで入れれば、夢二は日本海側の女に弱いとも言えるかな。(笑)

 

 

□. 夢二は学歴コンプレックスがあった!

 

 夢二は昔から絵が上手でしたが、彼の出発点において、誰にも絵を学んでいない。美術学校を出ていないので、アカデミックな美術教育は受けていません。要するに、勝手に絵描きになりたくて、絵を描いてお金を得ていたという、日本におけるイラストレターの第一号でした。そして、美術世界を離れた一般大衆からは、昔も今もファンがいる希有な画家です。

 

 たまきの前夫は日本画家であり美大出身だったため、またたまき自身も絵心があり、夢二が制作をする際には助言をしたという。そのため夢二はたまきに大きなコンプレックスを持っていたという。

「一時は中央画壇への憧れもあったようだが受け入れられず、終生、野にあって新しい美術のあり方を模索した」と解説される。

 昔は「女の数は男の甲斐性」という風潮もあるにはあったが、夏目漱石や藤島武二といったアカデミックの頂点に立った文化人たちは女遊びをしていなかった。夢二は才能豊かではあったものの、学歴コンプレックスをもっているがゆえに、中央画壇から正当な評価を受けることができないと考え、ますます恋愛遍歴の愛欲生活に走って行ったのではなかろうか。

 

 私は学歴コンプレックスはないが、身障者であったがゆえに思春期の恋愛に悩んだ。運良く見合い結婚できたにもかかわらず、ストリップに嵌まっていったのには、このときの身障者恋愛コンプレックスがあった。

 私にとってストリップ劇場は踊り子に恋する場。自分が身障者であることを忘れ、手紙を通して恋愛ゲームを楽しめる。

 次から次へと女を変えていく夢二のやり方は無茶苦茶であるとは感じながらも、次々と新人に触手を伸ばす私自身も彼のことは非難できない。ただ、ストリップは自由恋愛ゲームみたいなもので実際に手を出したりするわけではないから、夢二のように女性スキャンダルになるような世界とは違うとは思うが・・。(笑)

 

 

□. 夢二の女好き!について思うこと

 

  夢二の女性遍歴を追ってきたわけであるが、彼が無類の女たらしであることは誰も否定しないであろう。

 これだけのハイセンスな売れっ子画家だから、プレイボーイになれて当然ではある。

 

たしかに、夢二は絵描きなので、女性に話しかけやすいという役得があるね。

お島さんの時がいい例。夢二は「絵のモデルになってほしい」と彼女の家に頼みに行く。そして、親しく話すうち彼女に心を惹かれ、呼び出して束の間の逢瀬を持つ。散歩する二人の姿はしばしば近隣住民にも見られている。しかし結ばれることのないまま、夢二は家族を連れて帰京する。まぁ、復縁したばかりの妻がいるのに若い娘を好きになる夢二もどうかと思うが、これが詩「宵待草」という素晴らしい文学作品になるわけだから芸術家というのは大したものである。

晩年の岸本雪江の時もそう。43歳のおじさんが16歳の高校生に声をかけられたのは絵描きだからだよ。雪江もスケッチを見て安心したわけ。そうでなかったら犯罪だよね。

 

夢二の肩を持つわけではないが、「絵描きとしての創作意欲をかき立てるためにモデルとして女性が要る!」ことは確かだろう。

  私も執筆意欲をかき立てるためにストリップ通いしているし・・。ははは・・・

 しかも、夢二は惚れやすい性格なんだな。若い子が好きだし。

 この点は、私がストリップで新人好きというのと通じる。オキニのお姐さんがいようと新しい子が入ったら見ておきたい。彼女に対する恋心がまた執筆意欲を湧き立てる。

 ストリップおいて新人好きは許されるが、夢二の場合はすぐにスキャンダルになる。まぁ最近の私はすぐに爆サイで騒がれるから同じようなものかな(苦笑)。

 

ネットで検索していて、「竹久夢二の女性遍歴の底にひそむもの」という記事があり、夢二が次々と女を変えていく真相を垣間見た気がした。

「金沢文学」に発表された「夢二式美人画に潜むもの」と題する一文がある。・・・

 夢二は女と心身を共にしながら醒めていく自分を視ていたに違いない。たまきにしても、彦乃、お葉にしても夢二にとっては画のための人形でしかなかった。人形は次の画のために取り替えなくてはならなかった。取り替えた先に、また別の<艶麗な、かつ不幸な女>を夢見なければならなかった。それはどこに起因するのだろう。

 そこには不幸だった母、也須能(やすの)と、最愛の姉、松香への思慕が潜んでいた。夢二の父は愛人がおり、そのために松香は婚家を追われた。夢二はこの姉を終生、敬愛したという。あの美人画からにじむ哀感は、也須能と松香の苦悩する姿であった。夢二の女性遍歴もそこにある。母と姉、この<かけがえのない二人の女性>を追い求めて、夢二は漂泊した。しかし、その<二人と同じ女性>には永遠に出会うことはなかった。夢二は愛した女たちの中に、悲しみを追った母と姉の面影を視ようとしたのではなかったかーー。」

 何度も女性を替えたのは、単に女好きで性欲のためにしたのではないということだ。

夢二の作品を見ても、病的と思えるほどに女性を描き、美人画だけでなく、デザインの世界でも、様々な仕事をしている。その繊細な感覚は、単なる女好きの芸術家にはとても持ち得ないものだ。この説にしごく納得である!

 

 

□. 夢二の放浪癖とストリップ遠征

 

 夢二は旅が好きだった。

 竹久夢二は、孤独な漂泊者としてその生涯を終えた人である。数多い女性との噂は、スター的存在としての夢二像を生んだが、心の奥底には、抗し難い寂しさがいつも潜んでいた。その寂しさを埋めるため、彼は永遠の旅人として、放浪し続けた。それは、女性のうち、自然のうちに、そしてまた一冊の聖書のうちに、「癒し」を求める旅であったともいえよう。

 その足跡は、国内では東北から九州まで及び、旅先では、特に哀愁漂う古びた港や海、芸妓といった画題を愛し、絵や詩に描いた。晩年に実現した欧米への外遊においては、世界恐慌のさなかで苦境に陥りながらも多くスケッチを残し、ベルリンでは日本画を教えている。一方で、ユダヤ人の救済に加わったという証言もある。

 

さて、私のストリップ遠征について話す。

東京都内にたくさんのストリップ劇場があるわけで、都内の劇場を回るだけでもあっという間に一公演の10日間が経っていく。遠征費用も馬鹿にならないので最初のうちは都内の劇場を回っていたのだが、次第に、仕事のある平日は都内の劇場を回るも、土日の休みは遠征するようになった。遠征というのは旅行気分で、まさに気分転換になる。私のように童話の創作などを趣味にすると気分転換はとても重要になる。

昔の詩人、西行、松尾芭蕉、山頭火など、旅に人生を求めた方はたくさんいる。以前、

私はこんなエッセイを書いている。

「ふと不思議な感慨が襲ってきた。大好きな踊り子さんを追いかけて、いま大阪の下町で一人酒を飲んでいる。そして物語の構想を練ったり、ポエムの言葉探しをする。まるで自由な放浪詩人みたい。憧れの山頭火になった気分かな。普通のサラリーマンでは味わえない気分をストリップを通して味わっている。(中略)まさしく私はストリップ物語を書き続ける放浪するファンタジー吟遊詩人か。」

 

 

□. 夢二の宗教観と聖書

 

 女好きの夢二が常に聖書を持ち歩くクリスチャンであったことに興味をもった。女性とのスキャンダルはその女性を不幸にする。そうした罪の意識を彼はどうやって心の整理をしたのだろうか。

聖書や彼の宗教観に関わる記事をネットから拾ってみた。

 

明治末期から大正初期にかけて、夢二は人気の絶頂期にあったのだが、彼の心にはいつも苦しみがあり、それを打ち消すことができなかった。明治41(1908)年秋、夢二は革製の豪華な『新旧約聖書』を購入している。聖書に関心を持ったのは神戸中学在学中ともクリスチャンであった妻・たまきの影響ともいわれるが、これは、彼の生涯につきまとっていた「我はユダなり」という罪の意識から、彼を解き放ってくれる唯一のものだったのであろう。夢二は心の支えとして『聖書』を生涯大切に持ち歩いていたといわれる。

 

明治43(1910)年、たまきの故郷・金沢を訪れた時も、当時のキリスト教青年教会との交流を深めている。大正元年のクリスマス、京都の教会で説教の勧めに応じ、悔い改めの列に加わり、たまきにそれを報告したという話も有名である。

 

夢二の絵には、教会のある風景や十字架など「キリスト教的な世界」を感じさせるものが数多く見出される。それらには、エキゾチックな雰囲気とともに、どこか夢二の澄み切った哀愁が感じられる。孤独と愛に向き合った彼自身の押え難い哀しみから涌き上がってくる、「救い」を求める祈りの思いが込められているためではないだろうか。

 

 

□. ストリップにひそむ虚しさと生きることの哀しさ

 

私には、自分にとってストリップは何か?なぜストリップに嵌まったのか?ということをとことん突き詰めていった時期があった。

私は、秋田の田舎者ではあるが、ずっと学校の成績がよく、一流の大学を卒業し、一流の企業に就職できた。お見合いではあったが素敵な伴侶と結婚ができ、三人の子宝にも恵まれた。みんな良い子に成長し社会人になっている。マイホームも手に入れた。誰が見ても、申し分のない人生である。

それなのに40歳を過ぎた頃からストリップに嵌まり、毎日のように劇場通いをし出した。最初のうちは当然に遊びと思っていて、家庭を壊すつもりは更々無かった。

ストリップというのは単に女性のヌードを拝見できるだけでなく、絶世の美女たちと仲良くなれる。相手は商売上の対応だとは分かっていながら、恋心が芽生える。疑似恋愛の対象として恋愛ゲームを楽しむ。私には手紙という武器があった。文通が楽しかった。

自分は足の悪い身障者で、青春時代は恋愛に苦しんだ。失恋するたびに自分の身障者としての身の上を嘆いた。一生結婚できないかもしれないと考え自殺まで頭を過ぎったこともある。

頑張って生きてきて人並み以上の幸せな生活を得てきたはずである。それで満足すべきところが、ストリップにより昔の辛い失恋体験が蘇ってきて、それを癒やすごとく楽しむことができた。

たまたま私は文章を書くことが好きだった。手紙で終わらず、それがエッセイや観劇レポートになり、そして童話やポエムに発展してきた。自己表現の手段となり、そして自己実現へと向かう。ストリップと執筆という二つの趣味が相乗効果をあげて私のLIFEワークとなっていった。

これまでは、家族と過ごす時間、仕事をしている時間が私の時間の大半であったのが、趣味のストリップが入り込んで私の時間の大層を占めていく。家族は犠牲にして、しかもストリップを楽しむために仕事をしている感覚に陥る。

家族に嘘をついてストリップを観に行くようになり、自然と家庭は壊れていった。私は「ストリップは単なる遊び」と主張しても妻は許してくれず離婚。そのとき子供たちが社会人になっていたのがせめてもの救いだった。これからの私の人生は、身障者の私の伴侶になってくれた元妻と家族に対する懺悔、たった一人の女性をも幸せにできなかった後悔がきっと‘業’となっていくことだろう。

 

青春時代の恋というのは極めてピュアなもの。それが自分が身障者であるという負い目を背負っているがゆえに恋が成就できない。このやるせなさは誰にも分からない。これが私の心の奥に‘業’となって巣くっていた。

お見合い結婚は親から与えられたものであった。一方、ストリップはお金を払えば遊べる自由空間。小遣いの範囲で楽しめる自由恋愛。もちろん疑似恋愛であるわけだが、私はそこに執筆という自己実現をもちこんだ。

ステージを観ながら、そこからインスピレーションを得て、童話やポエムなどの創造の世界を楽しめた。ヌードというのは世間一般には禁じられたもの。ところがストリップはそれが許される世界。大好きなヌードを心置きなく楽しめるまさに竜宮城の世界。心が解放され、極めてピュアな気分になれる。それが創造の翼を広げてくれた。ストリップは私に二重の刺激と興奮を与えてくれたわけだ。

これが、これまで抱いていた‘やるせなさ’と‘業’からの解放になってくれた。

 

しかし、ストリップというのは空蝉の世界。お金を払えば入場を許されるヌードの世界であって、そこに愛や夢などの真の癒やしの時空はない。

実際、嫉妬心などからネット上の餌食となり、家庭ばかりか仕事まで失ってしまった。

今は失業中なので家でごろごろすることもあるが、これだと本当に人間がダメになるね。ストリップがあるお陰で、とりあえず淋しさを紛らわせる。そして、こうして書きたいだけ執筆に勤しんでいる。ただこのままではジリ貧なので、いずれ働くつもりではいる。

人間というのは、生きること自体が淋しさとの戦いなのかも。一人では生きていけないから仕事をして社会と関わりを持ち、かつ支え合う最小限の単位として家族をもつ。社会の仕組みがそう出来ている。男女が好き合い家庭を持つように生物学的にもできている。それにあがなっては生きていけないのだ。

それを成り立たせようと人は生きていくのだが、なかなか十二分に満足できることは難しい。希望の学校に進めない、思うような仕事に就けない、十分な給与が得られない、人間関係がうまくいかない、好きな異性と結婚できない、などなど、不満だらけ。家庭に恵まれないとか、身体的な欠陥など、不遇な環境もあるだろう。だからこそ、人は生きることが哀しく、常に満たされない淋しさを抱えている。

そうした‘やるせなさ’と‘業’から解放されたくてもがいているのが人間の生きる姿なのである。

 

夢二の生き方や人生を観てきて、彼の絵描きとしての類希な才能、不遇な家庭環境と学業コンプレックス、たくさんの交友関係と女性関係、これらを織り交ぜながら生きてきたのを感ずる。

根底にあるのは、生きることの哀しさである。

夢二は真の表現者であるがゆえに、それが夢二式美人画に昇華され結実した。

 

そして、彼は心が満たされない淋しさや生きることの哀しみから逃れるために、絵を描き続けた。女を求めたのも、絵を描きたい題材のひとつに過ぎない。自然や人々の生活を描くために旅をし、数々の女性遍歴もした。しかし、女性を抱きながらも心は常に満たされなかったのだろう。

先ほど述べたように、夢二式美人の眼の奥には、優しかった母親や姉の不遇な哀しみの眼差しがあったという深層心理は納得させられるが、おそらく生きることの哀しさは生きている間中消えない。

夢二が聖書を常に携えていたというのもよく理解できる。キリスト教にいう罪の意識、仏教にいう無常観、それら宗教の全てが、人間が生きていく哀しみからの「救い」なのである。

夢二は、女性に真の美しさと優しさを求めようとした。その点、エロティズムを求めて責め絵を描いた伊藤晴雨とは全く違う。夢二は、美しい女性が大好きだったわけだが、女性にピュアで清いものを求め過ぎた。他の男性の匂いを感ずる妻のたまきやモデルのお葉とは長い間ぐずぐず関係を保ちながらも結局は別れてしまう。ましてや男殺しの山田順子にはすぐに我慢できなくなる。ちなみに、幼い岸本雪江は高齢の夢二では最初から釣り合わない。エロ爺さんの単なる遊びみたいなものか。夢二の人生の中で、彼女たちは通過点に過ぎない気がする。ただ、彼女たちは夢二式美人画を完成させる上でも、極めていい役割を演じた。たまきは年上の女房として、夢二に女というものを教える指南役になった。夢二は、女性の美しさを知るとともに「女性という不思議な存在」そして不可解な難しさを知る。お葉は魅力的であったが、結局は彦乃の残影に叶わなかった。つまるところ、夢二は自分だけの処女姓が理想だったのだ。だからこそ、淡い恋で結ばれなかったお島さんとは「宵待草」という詩に昇華することができた。そして、彦乃だけが「永遠のひと」として最後まで夢二の心に残ったのである。

 

 

 これから先、執筆でストリップ道を追い求めていく中で、竹久夢二の作品に癒やされ、彼の生き方に共感したいと強く思っている。おときさんのお陰で竹久夢二に出会えて感謝している。彼を私のこれからのLIFEワークのひとつとしたい。

 

平成28年10月