今回は、「ストリップは‘責め絵’か!?」と題して語ります。
ふと、踊り子さんはどんな気持ちでポラを撮られているのだろうか?と考える。
衣装ポラならば、グラビアを撮られるアイドル気分で快く感じるだろうが、度を超したエロポラは辱めを受けている気分になるのだろうか。大概は慣れてきて、商売として割り切っていくだろう。しかし、ときに、新人の中には「エロポラはできません!」と言って踊り子を辞めていく人もいる。彼女たちにとっては辱め以外の何ものでもないのだろう。
女性ならば誰しも羞恥心があるだろうが、踊り子をやっていれば、ある時点でエロポラは「男性を喜ばせる武器」であり「自分が女性として認められ、オナペットの対象にされた快感」を覚えていくのだろう。エロポラを撮られながら、撮ってくれた男性の愛を感ずることもあろう。いつだったか、ある踊り子さんは「あそこをポラで撮影されていると、まるであそこを舌でチロチロ舐められてる気分になるの。内緒の話よ。」と教えてくれたっけ。
‘責め絵’というのは、SMのジャンルではあるが、SMというのはプレイする同士の愛情がなければ成り立たないものと私は理解している。責めや苦痛が最期に快楽になるのならば、それはSMではないかと思う。そういう意味では、エロポラはストリップ版‘責め絵’といえるかもしれない。
ときに、私にはストリップそのものが責め絵的に感ずることがある。
一般の男女間の愛情というのは、相手を他の人に奪われないように、自分だけのものとして独占したくなる。ところが、ストリップというのは自分だけに独占することは許されない。むしろ、たくさんの客に応援してもらわないとステージに乗れないために、自分の愛する踊り子を観て応援してほしいと他の人に勧める。愛する踊り子さんがみんなにちやほやされるのを観て喜ばなくてはいけない。そこに嫉妬の感情をはさむようではストリップファンとしての資格はない。自分の彼女の裸体を沢山の男性の視線に晒して喜ぶなんて考えれば、ストリップというのは異常な世界だよね。
エスキモーは、極寒地のために、お客が泊まる時には自分の女房を湯たんぽ代わりに提供するという話を聞いたことがある。ストリップはそういう世界なのかも。
変な話をしてしまったが、こんなことを考えるきっかけは、TS所属の時咲さくらさんの演目「お葉」を拝見し、伊藤晴雨と竹久夢二という二人の画家を夢中にさせたモデルのお葉の話を知り、彼らの人間模様に興味をもったことによる。
今回は、その中の一人、伊藤晴雨についてインターネットで調べたことを紹介したい。
伊藤晴雨(いとう せいう 1882明治15ー1961昭和36)は、大正から昭和にかけて「責め絵師」として責められた女体美を生涯描き続けた異端の画家です。
出身は東京市浅草区。父親は旗本橋本大炊頭の子で、没落し彫金師を生業としていた。母親は丹南藩の元家老の娘。その長男として生まれる。幼い頃から絵が得意であったため8歳で琳派の絵師・野沢提雨に弟子入りする。なんと9歳の頃に、両親に連れていかれた芝居にて、女性の折檻シーンや乱れ髪に興奮する。今でいう髪フェチで、女の髪の匂いに言いしれぬ喜びを感ずる少年だった。この三つ子(九つ子?)の魂が彼の一生を貫く。
25歳から新聞社に勤めて、挿絵や評論を書くようになる。
27歳で包茎手術を行い、竹尾という女性と一度目の結婚をする。この頃から挿絵画家としての地位を高めていく。稼いだ金はすべて酒と女など遊興に費やしていた。
34歳でお葉をモデルに責め絵を描く。お葉は13~15歳の三年間、晴雨のモデルとして、また愛人として過ごす。
ところが、お葉は15歳の時、モデルとして竹久夢二に紹介され、夢二に気に入られ同棲するようになる。
お葉と別れることになった伊藤晴雨だが、37歳で、お葉が原因で女房の竹尾と正式離婚。その後、二度目の妻となる佐原キセと所帯を持ち、彼女をモデルに残酷画を描き続ける。39歳で「妊婦逆さ吊り」の実験を行う。彼女も、また美術学校のモデルで24歳。キセは元々そうした性癖があったので、晴雨の要求に協力的でした。10年後キセは、晴雨の食客として置いておいた早稲田出身の文士の卵といい仲になり晴雨の元を去る。三度目の妻は「雪責め」のモデルを務めた。彼女は梅毒症にかかり三年の闘病生活の末、発狂して亡くなる。医療費がかさみ、借金に追われるようになる。その後、晴雨は生涯妻帯しなかった。
めちゃくちゃな人生である。でも、どこか共感させられるところがある。
晴雨自身はすごくストイックな男だと思える。27歳のとき、劇評家の幸堂得知の仲人で結婚することになったので、慌てて挙式三日前に包茎手術をしている。それまで童貞だと言うのだから女を知るのが遅すぎる。しかも、初めて女を知って落胆している。
それからの晴雨は、おそらくは芝居や絵画の中の理想だけを追いかけた。この点、私がストリップを通して自分の童話の中に女性のエロティズムを表現したいという感覚に通じる。ただ、私もエロは大好きだが晴雨が表現するものとは違う。彼が追求しているのはエログロ路線であり、私の追求するファンタジーやジョークの世界とは全く違う。
ただ、彼の求める「エログロ⇒悪」の匂いはあくまで表現される悪、演出される悪であって決して罪になる悪とは思えない。晴雨の出版物は世間の批判を浴び、何度も発禁になったり、本人も何度か警察に留置されたり巣鴨刑務所に収監されたりしている。しかし、彼が出版した『いろは引・江戸と東京 風俗史 全六巻』は風俗史を語る名著とされ、出版禁止になった『責めの研究』は学術的評価が高いものと言われている。
彼は責めの研究を続ける中で、責め場のある芝居を観て歩いたが、大正末になると責め場のある芝居が少なくなり、ついに自分で芝居を組織する。「私がそのとき望んでいたものは、舞台の残虐美の実現であった。女の責め場を美しい女に演じさせる脚本を自ら作り、自ら演出し、自ら背景を描き、自ら興行主となり、大道具方となり、作者となり、諸事万事一切自分の手でやって行くという方針の小劇場を作った」なんというマルチな才能と行動力だろう。
晴雨の弟、順一郎は、兄を「外では放胆な奇人で通っていても、自分の仕事を見る目は厳しい、たいへん努力家でした。」と言う。
晴雨の娘の菊は「父は何事にも徹底してました。わからぬことを、そのまま投げだしておくのを嫌い、調べのつかぬことでもそれなりに必ず心に留めておくように全て常日頃頭を使い、足を使い、目を大きく見開いて物事を注意深くわきまえるように教えられました。」「良いところと悪いところが極端で、真ん中がなかったというのが父の姿だったんでしょうか」と言っている。実の娘が晴雨のことをこれだけ理解してあげていて、最後に看取ってもらえたなんて幸せなことだね。
瀬戸内寂聴さんの言葉を借りて言えば、「人に評価されるために生きるのではなく、自分がどう生きるか」だと。晴雨は、「変態画家」「奇人」と言われるも、そんな世間の風とは全く違う場所で、自分らしく生きた人と考えることもできる。大きな賞には恵まれなかった晴雨ではあるが、彼は自分の一生にきっと満足だったことだろう。
実際、いま現時点で世間一般として彼の業績が高く評価されているわけではないが、彼の作品や生き方に共鳴してやまない一部の人たちがいて、彼のことを取り上げてたくさんの書籍や演劇・映画で紹介している。また、彼の書いた絵画は、今でもかなり高い値で売られているみたいだ。中でも、ハリウッドチェーン社長、福富太郎氏は有名なコレクターだ。
以上、伊藤晴雨について調べたことをまとめてみた。私はSMについて造詣を深めるつもりはないが、彼の生き方には深く共感する。
私もここまでストリップ道に嵌まってしまったからには晴雨のようにとことん貫きたい気分だ。私は、ストリップで家族も仕事も失った。もう失うものは何もないと割り切ってストリップ道を心から楽しみたい。伊藤晴雨や竹久夢二たちのように、後先なんか考えず今の自分を信じて自分の進むべき道をひたすら追い求める。そんな気持ちだ。ただ、私の場合は伊藤晴雨や竹久夢二たちとは違い悲しいかな才能がないけど・・ね。
平成28年9月 シアター上野にて