今回は、「昭和の映画史を飾った名俳優たち」と題して語ります。

 

 

 昨年は、昭和映画史を彩った名俳優たちが次々と亡くなった。

 その一人は、李香蘭(りこうらん)。戦前の中国、満州国、日本で女優・歌手として活躍。終戦を香港で迎えた彼女は、中国政府から漢奸(かんかん)罪(中国人として祖国を裏切った容疑)で逮捕されたが日本人であることが証明され国外追放となった。日本に戻り山口淑子という名前で芸能人、政治家として活躍した。

 2014(H26)年9月7日、心不全にて満94歳の命を閉じる。

 

 私は山口淑子死去のニュースが報道されたばかりの9月18日、大和ミュージックに行き、そこで一宮紗頼さんが李香蘭の作品を披露しているのにビックリした。

 「15日の四回目からはニュースを受け急遽作った李香蘭追悼作を今週限定で。一日で作った即席ですが・・・」紗頼さんの凄さは、舞台人としてのスパンの広さとその感性、そして行動力にある。改めて彼女の才能に脱帽させられた。

 そのとき、紗頼さんが舞台の上で歌っていた「蘇州夜曲」が心に沁みた。舞台人として敬愛する李香蘭の死を悼む紗頼さんの心情がひしひしと伝わって来た。

「蘇州夜曲」は、李香蘭主演の映画「支那の夜」(1940(昭和15)年6月公開)の劇中歌で、李香蘭の歌唱力を前提に作られた名曲。聴きながら歌の世界に引き込まれた。

「蘇州夜曲」(作詞:西條八十  作曲:服部良一)

君が御胸に抱かれて聞くは

夢の舟歌 鳥の詩

水の蘇州の花散る春を

惜しむか 柳がすすり泣く ♪

 

 私は、この一度きりの観劇に感動し、もう一度その李香蘭の作品が観たくて紗頼さんに頼んでみた。前回は思いが募って即行で演ったので、また機会があれば再構成して披露するかも、と話してくれた。

 そして、それは五か月後に実現した。

 翌年、2015(H27)年2月27日(金)、TSミュージックで拝見できた。もしかしたら、私のリクエストに応えて、わざわざ私のホームで演じてくれたのかも・・行くのが遅くなって御免ねー。

 私は嬉しくて、レポートするつもりでメモしながら観劇した。

 

 白いチャイナドレスで登場。チャイナドレスらしく、足元はサイドに切れ込みがある。枝にとまっている小鳥がたくさんプリントされていて、とても品のいいドレス。

 後ろ髪をリボンで結び纏めている。気品ある髪型。

 大きなピンクの羽根を持ち、優雅に踊る。最初の曲が「蘇州夜曲」で、また三曲目で歌なしで流れる。前回の大和ではここで紗頼さんの生歌が披露されたので、期待しながら眺めていた。ところが唄わなかった。紗頼さんに聞いたら「TSは狭いので声が舞台映えしないので止めました」と話してくれた。

 次に、オレンジのドレス姿でベッドショーへ。安全地帯の曲がしっとり絡む。私は舞台に近い方の花道サイドに座っていたので、下半身はよく見えなかったが(笑)、お顔をすごく近くで拝見できた。気持ちをのせて迫真の表情で演じていた。私は紗頼さんのお顔に萌え萌えしていた。(笑)

 

 

 ところで、昨年H26は後半に入って次々と昭和の名俳優を失う。高倉健さんが11月10日死去された報道が流れる。日本で一番ストイックな俳優と言われた彼の死は全国民に大きな衝撃を与えた。享年83歳だった。そして11月28日には菅原文太さん死去のニュースが続く。享年81歳。高倉健さんに続く映画界の大スターの死に全国民が言葉を失う。文太さんは私の第二の故郷・仙台市出身ですごく愛着を感じていた方だった。

李香蘭を含め、この三人は私の上の世代にとってはヒーローであり、その存在感の大きさは当然我々の世代も十分に認識している。

私は正直な話、李香蘭に続き、高倉健さんや菅原文太さんも、紗頼さんに演じてほしいなと頭の片隅に浮かんだ。(笑)

そうしたら、同じ道劇の有馬美里さんがお正月にやってくれた!!!

作品「賭博師リマ」は、黒い着物を着て、サイコロと花札を演ずる。

最近の有馬さんは、作品の空気を作るのが非常に上手くなった。今回も、強い目力で、我々を作品の世界に惹きこむ。高倉健さんや菅原文太さんのヤクザ映画を彷彿させられた。

ベッド曲に、弘田三枝子さんの名曲「人形の家」。1969年の懐メロが、しっとりと絡む。

 

 

 渋谷道劇の踊り子二人により、私は昭和を懐かしむことができた。

 今年は平成に入り早27年目、戦後70年になるが、昭和のよさは映画に残っており、そしてそれをストリップで味わうことができた。

 表現者は、時代を紡ぐことが大切な使命。歌舞伎役者は伝統芸能を紡ぎ、映画関係者は記録を紡ぐ。太平洋戦争も東日本大震災も後世に紡いでいく必要がある。

 ストリップも、ステージや自分の身体を通じて、何かを紡いでいる。しかも、深い感動を与えながら。なんと素晴らしいことかな。

 

 

平成27年2月                               

 

 

 

【閑話休題】

 

 高倉健さんのことをインターネットで検索していて、元妻とのエピソードに触れ、泣けた。紹介したい。以下、文中では高倉健さんの愛称‘健さん’を使わせて頂く。

 

 

 高倉健さんは、歌手で売れっ子の江利チエミさんと1959年に結婚した(健さん28歳、江利さん22歳)。

 彼らが結婚した当時、確かに江利チエミは大スターで、健さんはまだ駆け出し。

 出会いは、56年東映映画「恐怖の空中殺人」の共演だった。美空ひばりさん、雪村いずみさんと「三人娘」と呼ばれていた江利チエミさんは健さんと交際を続ける。仕事が多忙で交際当初になかなか会うことができずにいた二人。あるとき健さんが「風邪をひいて入院した」と嘘の連絡をした。心配したチエミさんは急いで健さんのところに駆け付けたが「どうしても君に逢いたいための仮病なんだ」と頭を下げたとか。また、静岡の浜松で撮影があったときに「10分でも君に会いたい」と夜行列車でチエミさんの仕事場の大阪に毎日駆け付け、ひとときの逢瀬を楽しみ、朝までに帰ることを繰り返していたという。

 結婚した後も、二人の仲の良さは続いた。チエミさんは健さんのことを人前でもはばからずに「ダーリン、ダーリン」と呼び、健さんのロケ地に差し入れを持って行った。そのたびに健さんは人前からいなくなる。人前で「ダーリン」と呼ばれるのが照れ臭かったようだ。笑

 二人の幸せな家庭生活は永遠に続くものと思われたが、不運が二人を引き裂く。

 1962年に待望の子宝に恵まれたもの、流産してしまう。さらに不幸が重なり、チエミさんがかわいがっていた甥の電車事故死、そして1970年には自宅が全焼し、ついには翌71年に離婚することになる。

 実は、江利さんの異父姉Yさんが嫉妬から二人の間を引き裂いた。Yさんは様々な事情からチエミさんの実母と幼くして生き別れる。名古屋で結婚していたYさんはふとしたことで江利チエミが異父の子供(異父妹)である事実を知る。「離婚して生活に困っている」と彼女に近づき、家政婦として家に入る。チエミさんを信用させ、実印を預かり経理を任されるようになる。ここから嫉妬に狂ったサスペンスドラマ(※)ばりの展開が始まる。健さんとチエミさんにでっちあげの誹謗中傷を吹聴、別居に追い込み、離婚の足掛かりを作る。チエミさんの銀行預金を使い込み、高利に借金をし、ついに不動産を抵当に入れてしまう。彼女の横領と虚言がマスコミをにぎわせるようになり、江利さんがこれ以上迷惑をかけられないと一方的に離婚を申し出た。憎しみからではなく愛するがゆえの決断だった。

 当時のことを振り返り、健さんは次のようなインタビューを残している。「自分の女房に突然離婚を宣言されるなんてことは、誰にでもあることではないと思うんです。結構うまくいっていると自分では思ってましたが」

江利さんは異父姉が作った2億とも4億とも言われる膨大な借金を返済するために仕事に没頭し、一人で借金を完済し自宅を取り戻した。また悩みながらも異父姉を刑事告訴し、Yさんは三年の実刑判決になっている。

後に、江利さんが異父姉の事情を話し、健さんにお詫びした。江利さんと親交の深かった清川虹子さんが後にこんなことを明かしている。「チーちゃんは健ちゃんと約束していたんです。‘世の中が私たちのことを忘れたら、ダーリンまた一緒になってくれる?’と。それに対して健ちゃんも‘そうしよう’って答えたんです」

しかし、その約束は果たされなかった。江利さんは享年45歳の若さで、1982年2月自宅マンションで脳卒中で突然死する。

高倉さんは日本を代表する俳優として第一線で活躍し続けたが、生涯再婚することはなかった。その間、ある大物女優が健さんと映画で共演して健さんに惚れ込み激しく求愛したこともあったようだが健さんは決して首を縦に振らなかった。チエミさんへの愛を貫き通したのだろう。

 チエミさんへの殉愛を示すエピソードがある。チエミさんが亡くなって四年後の1986年、離婚前年に全焼した家の跡地に約二億円の豪邸を立て直した。もちろんチエミさんとの思い出の詰まった場所ということもあったが、チエミさんの墓はそこから200mほど離れたところにあり、健さんはチエミさんの命日には必ず墓前で手を合わせていたそうです。

 

※. 林真理子が小説「テネシーワルツ」(1988年講談社文庫)で小説にしている。

 

 蛇足ながら、少し感想を述べたい。

 映画人として私生活は一切オープンにしたがらなかったという芸能界一のストイックな高倉健さんに、こんな波乱万丈の人生があったことに今更ながら感動した。映画以上に映画的に感じさせられる。改めて名作『幸せの黄色いハンカチ』のラストシーンは倍賞千恵子さんではなく江利チエミのことをイメージさせられた。

 高倉健さんと江利チエミさんとの愛は本物だった。これだけ好きだった相手と出会い、一時と云えども伴侶となれたということは、人生として幸せだったと考えたい。

 私も長距離恋愛だったので、健さんの「たった10分だけでもいいから逢いたい」という気持ちは痛いほど分かる。今でも、好きな踊り子さんができるとどこへでも遠征したくなる気持ちと同じ。いくつになっても、こうした純粋な気持ちになれるストリップに感謝する。

 それにしても、Yさんは許しがたい。自分の不幸な境遇から、大スターになった妹を逆恨みした。どんな事情があったとしても、人の恋路や幸せを邪魔する奴は馬に蹴られて死んでしまえばいいと思う。周りの人がみんな幸せになれば、必ず自分にも幸せが回ってくるもの。「情けは人のためならず」自分のためなのだ。Yさんの言動はとても実刑三年で許されることとは思えない。 

 ストリップというのも、みんなで楽しめる素晴らしい世界。みんなで楽しめば幸せになれる。なのに楽しみ方の知らない悪意ある誹謗中傷の横行や、弱い者いじめする警察権力の横暴に腹が立ってならない。

 なにはともあれ、高倉健さんと江利チエミさんという大スターが残してくれた映画や歌に感謝するとともに、お二人のご冥福を心から祈りたい。