今回は、渋谷道劇の踊り子、一宮紗頼さんの演目「しづやしづ」について観劇レポートします。
一宮紗頼さんのステージを観ながら彼女のステージに釘付けになっている自分がいた
今回、改めて魅了してきた魅力とは何か。
まさに「ステージ美」。平安貴族の装束。日本伝統のもつ格式ある衣装には厳かな美しさがある。それが紗頼さんによく似合っているんだなぁ。さすが演劇を志している者の演技力というものか。私を強く惹きつけて離さない。
ポラ時に「今回の演目名はなに」と聞いたら「しづやしづ」と答えてくれた。私はその場ではよく聞き取れずに、次のポラにメモしてほしいとお願いした。「インターネットで検索するとたくさん出てくるわよ。太郎さん、調べるの好きだし得意でしょ」と笑顔で答えてくる。実際、私はインターネットで調べて、この「しづやしづ」に感動したので、後でたっぷり説明する。
その前に、今回の演目「しづやしづ」のステージ模様を語ってみる。
最初に、笛の音が聞こえ、平安貴族の装束に、ピンク色のベールを頭上高く掲げて登場。装束は、メローグリーンというのかな、明るい鮮やかな緑色で、かしこまった正装。腰には黒っぽい濃緑色のベルトを締める。ベルトと同じ布を首の周りにも巻いている。その首輪の下にある小さな飾りが神秘的。黒・白・赤と三つのボタンが縦に並び、その下に白い花模様があり、首から赤と白の紐が絡まる。また、長袖には赤い紐が縫い付けられていて、緑と赤がきれいにコントラストされている。更に、緑の色調が強いので気付かなかったが、よく見たら、上着の色と違う水色のズボンを履いている。後ろ髪を赤いリボンで一本縛っている。きれいな浮世絵を見ている気分。日本の伝統衣装はまさに芸術である。丁度この頃に十二単も登場しているが、洗練された着物文化に発展していく日本人の美意識の礎はこの時代に出来上がっていると云えそう。
後で調べて分かったが、この演目では、白拍子(しらびょうし)をイメージしている。白拍子とは平安末期から鎌倉時代にかけて起こった歌舞の一種であり、それを演ずる芸人を意味している。巫女舞が原典であり、辞書で見ると本来は赤と白を組み合わせた巫女風の衣装のようだ。烏帽子(えぼし)を被ることが多い。烏帽子は男性の帽子なので、今でいえば宝塚歌劇団の男役みたいな感じか。これに対して紗頼さんから次のようなコメントをもらった。「ジャニーズのタッキーが義経の大河ドラマやってたのを見てたので、絵面(えづら)としてはそのイメージが強いです。本当はベッドで、鳥帽子(えぼし)をかぶってみようかなと思ったけど、イメージが限定されるので止めました。」私は大河ドラマを観なかったが、タッキーの義経の衣装は宣伝かなにかで見ていたのでイメージが湧いた。たしかに、この方が一服の絵のようで、見ていてうっとりさせられる。
さて話を戻そう。紗頼さんが裸足で舞う。ベールを取り、黒い笛そして扇子を取り出す。扇子には金と赤の色の上に白い桜が描かれている。
次の場面は、強い笛の音とともに始まり、女性ボーカルの曲「荒城の月」が流れる。厳かな雰囲気の中、白い着物に赤い花模様がプリントされた襦袢姿で登場。帯の赤さがとても鮮やか。髪の結びを解いて髪を垂らし、扇子をもって舞い踊る。
そのまま、ベッドへ。美空ひばりの曲が流れる。
後で「静御前」の話を詳しく語るが、義経への愛を貫き通した彼女の生き様は多くの人に感動を与える。
白拍子というのは、今でいえば高級クラブのホステスみたいなものか。お酒の相手をしたり、客の前で舞を踊ったりする。相当高貴な人のお邸にも出入りしていたので会話も上手で頭もよくなければならない。なにより美人であることが必要最低条件とされた。そのうえ歌舞ができたわけだから、都の男性からはアイドル的な存在でもあった。しかし、時に娼婦としての仕事もあり、身分的には賤しいものとされ、色目で見られたり蔑まされたりした。
その中のトップ白拍子であった静御前が、時のヒーロー義経に見初められ愛人となる。
当時、壇ノ浦の戦いで平家を倒して凱旋して都に入った義経は女性にモテにモテた。たくさんの彼女がいたらしいが、兄・頼朝の反感を買い都落ちするときに、義経と行動をともにしたのは静御前だけ。それだけ義経に対する想いは一途だった。お腹に義経の子供を身籠ってもいた。
後で詳しく述べるが「賤の小田巻」という話のせいで、妾である静御前の方が有名になったが、義経には正妻がいて、最後に平泉で義経は正妻と心中する。それでも静御前の存在は義経の名を高めている。やはり「英雄は色を好む」ということか。
静御前は薙刀の名手でもあり、和歌などの教養も深く、本当にかっこいい。時の権力者である源頼朝と政子夫妻の前で、「賤の小田巻」で見せた静御前の毅然とした態度には誰もが感動する。そして愛する義経の忘れ形見を殺された非情さに涙し、彼女の境遇に同情させられる。
紗頼さんも、そんな静御前に憧れて、今回の演目を演じているのだろう。
ふと、ストリップというのは現代版白拍子かな・・と思う。
微妙な違いはある。ストリップは裸体と芸を見せるが身体は売らない。女体は美であり芸術だから娼婦よりずっと崇高な仕事だと私は思う。客との会話は基本的にないが、客が付かないと成り立たない商売でもある。また、白拍子の客層は貴族だが、ストリップの客層は庶民である。ストリップは白拍子の流れから派生してきた日本独特の庶民文化かもしれないな。
もし昔にストリップがあったら、静御前は踊り子になっていたかもしれないと思うと面白い。紗頼さんを見ていると、演劇の世界からストリップに飛び込んできていることもあり、すごく白拍子っぽい。静御前は紗頼さんっぽい感じの女性かもしれないな(笑)。紗頼さんを見ながら、静御前のストリップを観ている気分になれるなんて最高の贅沢だよん♪
今回は、紗頼さんのステージを通して、歴史秘話に触れ、すごく感動した。紗頼さんと接していると、性的な刺激と合わせ、知的な刺激も味わえ、一粒で二度美味しい。物書きを趣味としている私にとって最高の幸せ感を得られた。
改めて、紗頼さんは今の私にはとても貴重な踊り子さんである。
平成26年7月 渋谷道劇にて
【事後録】
このレポートは、紗頼さんのステージを拝見した日の翌日に書いている。
場所は埼玉県の栗橋。目的はライブシアター栗橋。
なんとも偶然なのだが、栗橋は静御前ゆかりの地。旧村名が静村で、秋には静御前祭りが催される。インターネットで知り、すぐに駅前の「静女の墳」に行った。今まで劇場の方ばかり向いていたので気付かなかったが、逆方向に小さな祠(ほこら)がある。「静桜の里くりはし」とある如く、桜が有名。今度はその時期に来たい。
静御前は義経の後を追って京から平泉に向かう途中、ここ栗橋で病に倒れ悲恋の死を遂げたと言われる。他にもまだ静御前の墓とされる所がいくつかあるようで、今となってはどれが正しいかは確かめようがない。
狭い祠の中に佇むと、はるか彼方の昔に想いを寄せられる。次の話を私と共に味わってほしい。
【解説】賤の小田巻(しづのおだまき)
「しづやしづ しづのおだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもかな」
初めて読む人には何を言っているのか分からないと思うが、これからの話を読むと、この和歌に感動すると思う。
平安時代末期の話。
ある年に、百日も日照りが続き、心配した後鳥羽上皇は100人の僧に読経させるも効験がなかったので、100人の容顔美麗な白拍子を集めて雨乞いの舞をさせた。しかし、だれが舞っても一向に雨が降らない。最後に、当時15歳の静が舞い始めると雨が三日三晩降り続き洪水になるほどだった。大変感心した院が静に「日本一」の院宣を与えた。
ちょうどその「雨乞いの神事」に、兄・頼朝の代官として入京していた義経も見物しており、二人は初めて出会う。義経は静を見初め、召して妾とする。
その後、義経は兄の鎌倉殿(頼朝)の怒りに触れて暗殺者を送り込まれる。院や都の権力者は手の平を返すように冷たくあしらう。義経はついに都にいれなくなる。
義経が都落ちした時、静も一緒についていく。その時、静のお腹には義経の子を身籠っていた。
吉野の山中を身重の体で彷徨い続けて、最後には義経と生き別れになる。静は見つかり山僧に捕えられ、京の北条時政に引き渡される。
さて、ここから「賤の小田巻」の本題に入る。
静は1186年3月に、母の磯禅師(いそのぜんじ)とともに、鎌倉に呼ばれる。表向きは「鎌倉殿(頼朝)の妻、政子が日本一の静の舞を見てみたい」というものだが、その魂胆は、①.血眼になって探している義経捜査のため、②.静の腹の中にいる義経の子供を殺すため。
初めて、静が頼朝と対面したとき、その場で頼朝は「今ここで静の腹を裂いて、赤子を取り出し、目の前で殺してしまえ!」と叫んだそうです。さすがにそれはあまりにも残酷と、その場を仲介した者があり、「今ここで」というのは無理があるという事になるが、のちに出産した時に女子なら助けるが男子であれば即殺すという事に決めた。(結局、静の子は男の子で、生まれると同時に川に投げ込まれる。)
ちなみに、頼朝は若い頃、まだ流人として伊豆にいた時に、一つの恋をして子供が生まれた。ところが世は平家の全盛時代。流罪人頼朝の子は可哀そうに皆で寄ってたかって川に投げ込まれてしまう。しかも頼朝の目の前で。頼朝の異常症はこの時に決定的になったのではないかと推測される。話を戻す。
名目の静の舞は、鶴岡八幡宮で奉納舞することに決まる。八幡宮は源氏の氏神。当然、静は鎌倉万歳を祈る舞をしなければならない。
1186年4月8日当日、今、世を騒がせている義経の愛人が鎌倉万歳を祈って舞うということで、鶴岡八幡宮は異常な盛り上がりをみせた。鎌倉中の人々が集まってくる。高座には頼朝・政子夫婦が並んで座る。そして舞い始める。
「吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき」
これは、まさに義経を想う恋の歌。
この時、頼朝の顔色がサッと変わる。鎌倉万歳どころか、吉野で別れた義経が恋しい・・という歌ですから。続けて、冒頭の歌が登場する。
「しづやしづ しづのおだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもかな」
「おだまき」は小田巻と書いて、昔の糸を操る道具。真ん中が空洞になっていて、糸を巻きつけて使う。くるくる回るので、この「おだまき」は「繰り返し」という言葉の枕詞にもなっている。
「しづの・・・」というのは「賤(シズ)」という布の事。これは身分の低い人が着た衣服の布でした。そこで静は、この「しづの・・・」という言葉に自分の名前「静」をかけました。
白拍子として蔑まれたから鎌倉まで呼びつけられた私だけれども義経を想う心に嘘偽りはありません。「静よ、なぁ、静」と繰り返し私の名を呼んだあの人が輝かしかった頃に、今一度戻りたいものだ、という意味。「昔を今に なすよしもかな」は、どうか昔を今にする方法はないものでしょうか、と言っている。
ちなみに、この歌には本来オリジナルの歌があった。
「いにしえの しずのおだまき 繰り返し 昔を今に なすよしもかな」(伊勢物語)
男が昔付き合っていた女の人に、この歌を捧げて「もう一度昔みたいに会いたいなぁ」と言ったけど、女の人は何の返事もしてくれなかった・・・という意。この歌をパロデイにして想いのたけを読み歌っている。
静に頼朝公が期待していた関東の繁栄を寿ぐ祝儀舞に反して、義経との別れの曲を舞った。当然、頼朝は怒ります。普段冷静な頼朝が、この時ばかりは傍目にも分かるくらいに顔色を変えて怒ったそうです。その頼朝を諌めたのが妻の政子でした。「夫を慕う本心を形にして幽玄である(女の気持ちというのはそういうものです)」と言ったといわれる。(出典「吾妻鏡」は政子が編纂させたもので、当然政子をよく見せる話が多い。)
白拍子を呼びつけて晒し者にしようという企ては見事失敗に終わりました。恥をかいたのは人間性の貧しさを衆人の前でさらし、あげくの果てに妻の一言で尻尾を巻いてしまった頼朝の方でした。
この切羽詰まった状態の中で、静が見せた毅然とした態度は多くの人々に感動をもたらし、この場で謳い上げた義経への愛はそれを受け止めた政子と共に美談として後世に語り継がれていくのでした。
その後、7月29日、静は男の子を産んだ。頼朝の家臣が赤子を受け取ろうとするが、静は泣き叫んで離れなかった。母の磯禅師が赤子を取り上げて家臣に渡し、赤子は由比の浜に沈められた。9月16日、静と磯禅師は京に帰された。憐れんだ政子と大姫が多くの重宝を持たせたという。その後の消息は不明。