今回は、「竹下夢二の生き方と私のストリップ道」について話したいと思います。

引き続き「浮世絵的美人画」シリーズ(その3)にもなります。なにせ竹久夢二は「大正の浮世絵師」とも呼ばれますからね。

 

竹久夢二に興味をもって色々と調べる中で、私との共通点みたいなものが幾つかあり、ストリップ道を追求したい私として刺激的で学ぶべきことが多いことに気づいた。かなり時間をかけて調べたので、徒然に話してみたい。

一応、次の目次に従って話を進めていく。

 

1.     竹久夢二の生涯

2.     夢二と関わった女性たち

3.     夢二式美人画と芸術性

4.     夢二と私とストリップ

 

 

 

1.竹久夢二の生涯

 

 まずは最初に、竹久夢二の生涯を駆け足で述べます。

 1889年9年16日岡山県邑久郡本庄邑119(現在の瀬戸内市)に、父菊蔵、母也須能(やすの)の次男として生まれる。ただ夢二が生まれた時に兄は既に夭折していたので長男として育つ。姉は松香7歳。本名は竹久茂次郎(もじろう)。

家業は造り酒家だったが、夢二が育った頃は酒の販売と農業の兼業だった。

明徳小学校に入った夢二は馬の絵が得意でした。母方のいとこが馬の絵を好んで描き、夢二によく見せていたと言われてます。高等小学校に上がってからは、鉛筆画を習い、意識して自然を描く方法を考えたそうです。母の実家は紺屋で、母方の祖父は夢二を画家にしようとしたが、父は商業学校に入れて酒屋を継がせようとしていました。

家産が傾き、16歳のとき、神戸で米屋を営む叔父竹久才五郎に身を寄せ、神戸中学校(のちの神戸一中、現在は神戸高校)に入学するが、8ヶ月で中退。父の放蕩が聞こえたために、姉の松香が離縁される。母もしばしば実家に逃げ帰ったそうです。夢二は幼少の頃から、虐げられた弱い女性の姿を見て育ちました。優しい母や姉松香、そして3歳年下の妹栄が竹久夢二の人格形成に大きな影響を与えたと言われている。

明治34年、夢二16歳のとき完全に家業が傾き、父菊蔵は一家をあげて福岡県八幡村(現在の北九州市八幡東区)へ移住。近所の人の話では「突然に一家がいなくなった」ということで、夜逃げ同然に引っ越したようです。折しも開業する官営八幡製鉄所での人夫調達稼業を企てたのだった。夢二も同行し、一時、工場の製図描きになる。

 1901年、17歳の夏に家出して上京する。最初は父の希望に沿う形で早稲田実業高校専攻科に入学する。

苦学生とて、人力車夫や牛乳・新聞の配達をしながら、白馬会の研究所に通い、荒畑寒村のすすめで社会主義雑誌「直言」(平民社)に風刺画をのせ、21歳のときコマ絵が「中学世界」などに当選したのを機に画業に専念することになった。早稲田実業高校専攻科を中退する。

 少年少女雑誌に浪漫的な挿絵や詩を発表して注目された。その後も挿絵、詩文、本や雑誌の装丁に異色ある芸術的天分を発揮する。

特に、目が大きく夢みるように憂愁をたたえた美人画は「夢二式美人」と呼ばれる。それが江戸情緒をたたえた魅力を持つことより「大正の浮世絵師」とも称された。まさに彼は大正ロマンを代表する画家である。

その独自の感傷性豊かな抒情的表現は、大正期の青年子女に多大な影響を及ぼした。ただ、生前の夢二は、独学の「大衆画家」であるがゆえに当時の画壇からは完全に無視されていた。しかし、第二次世界大戦後から、その作品に対する評価は高まっている。

 

1907年 夢二23歳で岸たまきと結婚し、翌年長男虹之助、3年後には次男不二彦が生まれる。

1912年 京都府立図書館で第一回作品展を開き、「さみせんぐさ」の筆名で叙情詩「宵待草」をつくった。その後結ばれた笠井彦乃とは四年ほどで別れさせられた。

関東大震災の頃までは、お葉(佐々木かねよ)と所帯を持ち、その間には夢二の生涯の傑作「山へよする」「砂時計」「長崎十二景」「女十題」を作成。

1931年(昭和6年) 「立田姫」「黄八丈」を発表後、横浜からアメリカに渡る。

アメリカ、ヨーロッパ、そして台湾を旅したが、旅の無理がたたり、結核となる。

1934年(昭和9年)1月、信州富士見の高原療養所へ入院。古くからの友人で詩人でもある正木不如丘所長の好意により、特別病棟に収容され手厚い看護の手を差し伸べられた。同年9月、夢二は「ありがとう・・・」の言葉を最後に一人淋しく幕を閉じる。肉親、知人の看取る者のないまま波乱の一生を終える。

 

 

 

2. 夢二と関わった女性たち

 

竹久夢二の人生は女性たちとの出会いと別れによって彩られている。とりわけ、岸たまき、笠井彦乃、お葉の三人は夢二の人生だけでなく、創作にも大きな影響を与えている。

この三人を抜きには夢二の人生は語れない。順に三人について述べる。

 

①    岸たまき (明治14(1881)-昭和21(1946)61歳死去)

石川県金沢市味噌蔵町(現大手町)に、加賀藩士(後に金沢地方裁判所所長)の娘として生まれ、少女時代までは外出の際にはお付きの者がいたというお嬢様育ち。

日本画家と結婚し二児を設けるが夫が急死したため、子供は人に預け、明治39年、兄を頼って上京する。早稲田鶴巻町に絵葉書店「つるや」を開店。

開店五日後に夢二は客として現われる。夢二は中学時代から野球に興味をもっていて、早慶戦を絵葉書に描いて、新開店の絵葉書屋「つるや」に売り込みに行ったのでした。そこに、金沢から来ていた眼の大きな若き未亡人たまきが、絵の中の美人のように座っていた。夢二は店主のたまきに一目惚れ。そして、その早慶戦の絵葉書は売れました。この時、たまき25歳、夢二22歳。

この二ヶ月後に夢二は結婚を申し込んで翌年の明治40年(1907年)に結婚。翌年には長男虹之助が生まれるも二人の不仲は既に始まる。気性の激しいたまきと、繊細な感受性を持つ夢二。しかも揃って我が強い。二人の間には喧嘩が絶えなかった。

結局2年後の明治42年には性格の不一致から協議離婚するも、その後数年間にわたって同居と別居を繰り返す。

 

夢二はたまきをモデルにした作品を発表し、次第に人気作家となっていく。夢二式美人画は「大いなる眼の殊に美しき人」といわれた「たまき」をモデルにして生まれたもの。協議離婚した後の12月に最初の画集『夢二画集 春の巻』を刊行、一躍売れっ子になる。その頃(明治44年(1911))には二人は同居して次男・不二彦をつくるもまた別居。

大正3年(1914)、夢二30歳。日本橋呉服町に夢二デザインの小間物を扱う「港屋絵草紙店」を開店。たまきはそこの女主人になる。

店の人気は凄まじく、夢二ファンが集まり、その中には19歳の笠井彦乃がいた。この時期の夢二は「第二の女」になる彦乃だけでなく、神楽坂の芸者きく子とも恋愛をしていたようだ。

一方で、夢二は34歳のたまきと店の手伝いをしにきていた初個展をしたばかりの18歳の東郷青児との仲を疑う。嫉妬と不信にかられた夢二は、旅行先の温泉(富山の宮崎海岸)にたまきを呼び寄せ、腕を刺すという事件を起こし(実際は刺した刺さないの喧嘩であろう)、二人はついに破局を迎えた。

そして、五月には昨秋から親交のあった彦乃と堂々と関係を結ぶことになる。

 

たまきは夢二の生涯のうちで唯一戸籍に入り、三人の息子の母になった。

長男虹之助(こうのすけ、明治41年生)ののち、不二彦(ふじひこ、明治44年生)、草一(大正5年生)が誕生しており、たまき以後は夢二に子供はできなかった。

たまきは夢二と別れそうになると夢二を引き止めるかのごとく子供を生んでいる。逆に言うと、別れそうな時ほど相手にしがみつこうと夢二は子供を産ませる行為をしている。

夢二にとってたまきは、母親のようにわがままを許してくれる姐さん女房であり、服従する貞淑な妻だった。甘えん坊の夢二にとって妻は自分だけを絶対視でなければならないから、たまきが他の男と疑いがあることを許せなかった。

 

夢二と別れたたまきは、派出家政婦として働いた。しかし、この派出家政婦は、緊急の場合の1,2週間か、寝たきり老人の世話くらいしか需要がなく、たまきは帰る家のないまま、派出所の狭い部屋で細々と暮らした。

大正13年に夢二は東京郊外の松原に「少年山荘」(別名帰去来荘)を建てていた。昭和3年頃にたまきは、この山荘を訪ね、久しぶりに夢二に会っている。しかし、この頃に夢二は、17歳の岸本雪江と同棲していたため、居場所がなかった。

昭和に入り、先夫との長女で、養女に出した浅岡敏子に引き取られ富山市で暮らす。

その後、昭和9年9月1日に夢二は、信州の富士見高原療養所で50歳目前で亡くなったが、たまきには夢二死後のエピソードがある。その年の10月中旬にたまきは、この療養所を訪ね、「夢二がお世話になりました」といい、3ヶ月にわたりお礼奉公をした。患者達が使った便所の掃除や寝具の仕立て直しなど、人の嫌がる仕事を進んでしたという。

夢二と別れた後のたまきは、天理教に入信したり、家庭などを訪問し、無償で便所の掃除を行うことを活動する「一澄園」に入園したりし、心の渇きを癒やしたという。

昭和20年(1945)7月9日、たまきは富山において脳溢血で亡くなった。64歳であった。その直後に富山は米軍の爆撃を受け、納骨の終わっていないたまきの遺骨は、家ごと焼かれてしまった。

 

たまきの生涯を振り返ると、つくづく不運だったと思える。晩年に先夫の長女に引き取られる場面を見ると、一度は捨てた子供ではあるが、やはり血のつながりがあるのかなと思う。きっと先夫に先立たれなかったら平穏に暮らせたのだろうとも思う。そういう意味では不運であった。

それでも、たまきは夢二と出会ったお陰で、夢二と共に、夢二の絵の中に、こうして後生に名前を残した。たまきは夢二が唯一、戸籍上の妻とした人であり、生涯「夢二の妻」としての自負心、その忸怩たる気持ちがあったからこそお礼宝奉公にも行ったのだと思う。だから、不運ではあったが決して不幸ではなかったと思いたい。

たまきは、夢二が亡くなっても、終生、夢二を慕い続けたという。

 

②    笠井彦乃 (明治29(1896)-大正9(1920))

夢二にとって「最愛のひと」であり「永遠のひと」。

 

山梨県南巨摩郡西島村に生まれる。

明治36年、一家を挙げて上京。父親は日本橋で紙商を営み、のちに宮内省御用達となる。彦乃は裕福に育ち、女子美術学校の学生。

夢二のファンで、絵を習いたいと大正3年に「港屋絵草紙店」を訪問し、夢二と出会い、やがて相思相愛の仲となる。

彦乃の父親は彦乃より11歳年上の夢二と逢うことを固く禁じていたが、彦乃の使用人や友人、小唄の師匠などの協力を得て二人は合瀨を続けた。

父親の反対を押し切って、大正6(1917)年から京都で同棲をはじめる。

夢二は、蒸し風呂のような京都の夏を逃れようと、この夏8月から10月まで、次男の不二彦を連れ三人で北陸旅行に行く。石川県粟津温泉、金沢市、湯涌(ゆわく)温泉を回る。

粟津温泉に滞在後、金沢で不二彦が寝たっきりになり、医療費捻出のためにも展覧会を開くことになる。その金沢で開催された「夢二抒情小品展覧会」において、彦乃は「山路しの」の名で作品を出品。その後、不二彦の病後療養を兼ね、金沢郊外にある湯涌(ゆわく)温泉の「山下旅館」に滞在する。湯涌温泉は、浅野川支流の湯ノ川に望み、養老年間の創業と伝えられる古い湯治場である。9月下旬から10月にかけて三週間ここに滞在。夢二と彦乃にとって、都会の喧騒を逃れた山里でのひとときは、二人の愛を深めることができた幸せのときであり、おそらくは生涯において最高の旅だったと言えよう。

この三週間の思い出は、大正8(1919)年2月に出版された絵入り歌集『山へよする』に、「里居」として納められた十三首の歌にとどめられている。

  湯涌なる 山ふところの 小春日に 眼閉じ死なむと きみのいふなり

とりわけ、お薬師境内に建つ歌碑に刻まれたこの歌には、幸福の絶頂にある二人の哀切な心情が読み取れる。

大正13(1924)年、新聞の連載小説として夢二が発表した『秘薬紫雪』は夢二と彦乃がモデルであり、二人が愛を誓うラストシーンは湯涌温泉が舞台となっている。

湯涌温泉滞在後の大正7(1918)年、彦乃は九州旅行中の夢二を追う途中、別府温泉で結核を発病する。彦乃は父の手によって東京に連れ戻され、お茶の水順天堂医院に入院。夢二もすぐに東京に戻り本郷菊富士ホテルに移るものの、彦乃の父親によって面会を断たれた。

その翌年、傷心を絵筆に託し描いた、夢二の最高傑作といわれる『黒船屋』が完成。その絵を眺めて見ると、黒猫は男性の象徴(夢二自身)であり、それをしっかりと女性が抱きかかえている。その絵には彦乃に会いたくても会えない、辛く切ない思いを黒い猫に託し、猫の息吹が感じせられるほどに描写されている。なお、絵の構図はヴァン・ドンゲンの「黒猫を抱ける女」を参考にしたといわれる。

その翌年の大正9(1020)年1月、彦乃はわずか25歳でその生涯を閉じる。夢二は彦乃の臨終に立ち会うことすら叶わなかった。

夢二は昭和6(1931)年、渡米先から次男の不二彦にあてた手紙に、誕生日を祝ってもらった時のことを書いている。そこで旧友Oの娘が何気なしに聞くところがある。

「いったいあなたの何回目のバアスディですか。」「三十七回目です。」と手巾で口を拭きながら答える。「そうじゃないでしょう」正直にMr.Oが抗議する。「私は三十七の年で死んだことになっているんです。・・・彼女が二十五で、私が三十七で死んだのです」。

25歳で彦乃は死んだ。その時、夢二は37歳。つまり、彦乃が死んだ時、自分も死んでしまった。あとは「ただぼやんと生きているだけさ」というのだ。夢二にここまで告白させた彦乃という女性は、なぜに夢二にとって最愛の人になりえたのだろうか。その理由は、たまきやお葉の場合、夢二が先に惚れ、女性もそれに従ったが、彦乃は自分から夢二を追い求め、愛し、その愛の中で人生を終えた女性だったからだろう。彦乃は芸術を愛し、夢二を師として仰ぐ弟子のような存在であり、また保護しなければならない恋人であった。夢二より先に死んでしまったことで「守り切れなかった」というような後悔が夢二には残った。そのため夢二の心の中で清い存在であり続けたのだろう。

 

夢二の心に安らぎを与え、良きモデルにもなった笠井彦乃は、夢二にとって「永遠のひと」であった。この彦乃をモデルにして次第に夢二の画風は確立、彼独自の省略とデフォルメが生まれていった。自分を「河(川)」そして彦乃を「山」と呼んだ夢二は、ことに晩年、山の絵を好んで描いている。最愛の女性を山の絵に託し、そこに終わることのない永遠の縁を求めようとしたのであろう。

 

③    お葉 (明治37(1904)-昭和55(1980))

お葉については先に述べたので、ここでは概略のみとする。

秋田県河辺町赤平境田に生まれる。

戸籍名は佐々木カ子ヨ(かねよ)。「お葉」は夢二による愛称。

 大正8年、彦乃と引き離され、絵筆をとれないほど落胆した夢二を気遣う友人たちの紹介によって、春頃にモデルとなる。夢二好みの立居振舞を身につけた彼女は、夢二の絵から抜け出したような美人といわれた。

大正14年、お葉は彦乃の面影を追い求める夢二との恋に悩んだ末に自殺未遂をはかり、夢二は彼女の養生先として、金沢郊外の深谷温泉を選んだ。一度は夢二のもとへと帰ったお葉であったが、悩みは去らず、再度訪れた金沢の地で夢二との別れを決意する。

 

若く美しく、他の男がうらやむ女を情人にすることは、人生の成功を物語る勲章。他の男とのスキャンダルがあるほど、その主人である夢二の器は大きくなっていく。夢二は写真が好きであったというが、自分のものである美しいお葉を自慢したくてたくさん写真を残したようだ。

 

 

 

この三人の他にも、夢二に関わった女性を挙げておく。あくまで文献にたびたび登場する方を述べるわけで、これ以外にもたくさんの女性関係があったことは想像に難くない。

 

④    長谷川カタ

長谷川カタ(賢。夢二は「お島さん」と称していた)は、明治23年(1890)10月22日に北海道松前郡松前町で、旧松前藩士の長谷川靖の三女として生まれた。その後、カタは、父の実家の関係で秋田高等女学校(秋田県立秋田北高校)に通い、42年(1909)3月に卒業し、成田高等女学校(私立成田高校)で作法・国語・地理・歴史・英気を教えていた姉シマ(9歳年上)が済む成田市に来て一緒に生活をしていた。

42年の年末、長谷川家は、銚子の海鹿島の「宮下旅館」の隣に転居した。

43年に19歳になったカタは、8月に夏休みを利用して実家を訪れていた。

 

1910年(明治43年)夢二27歳の夏、寄りを戻した岸たまきと長男で2歳の虹之助を伴い、房総方面に避暑旅行する。宮下旅館に滞在した夢二は、そこで美しい娘、長谷川カタに出会う。

夢二はモデルになってほしいと彼女の家に頼みに行く。そして、親しく話すうち彼女に心を惹かれ、夢二は呼び出して束の間の逢瀬を持つ。散歩する二人の姿はしばしば近隣住民にも見られている。しかし結ばれることのないまま、夢二は家族を連れて帰京する。

翌年の44年(1911)の夏に夢二は、再び海鹿島を訪れたが、そこにはカタの姿はなく、カタが結婚するということを知った。カタの父が二人の関係を知り、許嫁との結婚を急いだことによる。

  このときの淡い失恋の心を海岸に咲く「マツヨイ草」(月見草と同種で、群生して可憐な黄色い花を付け、夕刻には開花して夜の間咲き続け、翌朝にはしぼんでしまう)に託した、「宵待草」という詩に結実する。

 

  カタは45年(1912)4月に結婚し、1男3女に恵まれ、温和な日々を送り、昭和42年(1967)7月26日に76歳で亡くなる。

  生前、タカは夢二のことを語ることはなかったようであるが、カタの子息の記録には「あれこれ思い起こしてみると、賢は夢二にある程度好意を寄せていたようだ。しかし、夢二の華やかな女性関係を耳にするにつけて、持ち前の潔癖さがひと夏のめぐり逢いに終わらせたのではないか。」とある。

 

⑤    山田順子(ゆきこ) (1901年6月25日-1961年8月27日)

彼女は、夢二とお葉を別れさせた直接の原因になった人である。

 

順子は、明治34年(1901)6月、秋田県由利郡本荘町(現在の由利本荘市)で廻船問屋を営んでいた山田古雪の長女として生まれた。長谷川カタと同じ県立秋田高等女学校(秋田北高校)を卒業する。当時は女学校まで進学するのは珍しく、その美貌と才媛ぶりは、地元でも評判だった。

大正9年(1920)、19歳のときに、東京帝国大学卒業の弁護士増川才吉と結婚し、小樽に住んでいた。ところが、夫が投機に失敗。生活を立て直すため小説を書く。

13年(1924)3月、23歳のとき、いきなり小説家を目指して上京し、原稿を持って人気小説家・徳田秋声の家を訪れた。夫の友人が新聞記者をしており、その記者の妹が徳田秋声の弟子だった関係で図々しく作品を売り込んだ。このとき、秋声は「瓜実顔の浮世絵風の美人の順子に魅せられた」というが、持参した原稿は未熟さが見られ、出版という訳には至らなかった。

落胆したものの、順子はめげなかった。一旦、帰郷し、12月に夫と離婚し、三人の子供とも別れて再び上京する。

松竹蒲田撮影所の女優研究生になったり、銀座のカフェ「プランタン」の女給になったり、電話交換手になったりして、自立の道を模索する。

そして、ついに順子の第一作『流るるままに』が出版されることになるが、その背後には出版を条件に出版社社長足立欽一と関係をもったのはもちろん、その本の装丁を担当した竹久夢二と恋に落ちる。夢二と一緒に住んでいたお葉の眼を盗んでは二人は男女の関係を持つようになる。そして、二人で一週間余り順子の故郷本荘などの旅行に出掛ける。お葉は、何も言わずに出て行った夢二を心配して、あちこち捜すうちに、順子と本荘に行っていることが分かった。夢二と順子の関係を知ったお葉は自らの境遇に耐えかね、夢二と別れる決意をし、夢二のもとから去って行く。お葉は、夢二が嫌いになったから別れるのではなく、順子との浮気を許すことが出来なかった。

一方、順子は、お葉が山荘にいないことを知ると、山荘に来て、そのまま居座った。このことが新聞に掲載される。お葉は、この新聞記事を読み激怒した。

山荘に来た順子は、夜も昼も布団を敷きっぱなしにし、そこで寝転んで創作をしたり、食事をしたり、酒を飲んだりしていた。これにはさすがの夢二も呆れ、嫌な顔をし、虹之助も順子の顔を見るたびに嫌みを言った。順子は、自尊心を傷つけられ、また、文壇とのコネも付けてくれない夢二に見切りを付け、山荘から出て行った。同棲期間は50日に満たなかった。

次に、順子は、徳田秋声の妻が病死した数日後に徳田宅に現れ、またたくまに徳田秋声と恋愛関係に陥ったのだった。

秋声との関係がズルズル続く間にも、恋愛遍歴は止まりません。痔の手術をしてくれた医者・八代豊雄や、プロレタリア作家・勝本清一郎(後に著名な近代文学者になる)、慶応大学の学生・井本威夫(後に著名な翻訳者になる)などが、順子の魅力にメロメロに・・・。

これだけ自由奔放でスキャンダラスな美女は、なかなかいない。

まさに二十代の過激なる恋愛遍歴である。最後は鎌倉の男性が添い遂げたという。

 

徳田秋声は1935年(昭和10年) 66歳のとき、「順子もの」を集大成した『仮装人物』を完成させ、私小説の代表作となる。29歳下の女性に心惹かれ、そして彼女に振り回されて苦しむ、そんな自身の姿を自嘲的に書いた私小説である。一方、順子はその後も細々と執筆活動を続けるが芽が出なかった。

山田順子は文学作品について語られることは少なく、スキャンダルを以てしてかくの如く、文学史上に名を残した女性である。しかし、彼女の姿は夢二が美しく書き残し、彼女の生き生きした様を徳田秋声が小説として書き残したわけである。これはこれで幸せな人生であったのではないかと思う。

 

⑥    岸本雪江

大正13年(1924)12月、竹久夢二は、東京府荏原郡松沢村松原(世田谷区松原)に自らが設計した「少年山荘」を建てた。

夢二がその松原の山荘に最後に一緒に暮らした女性は、16歳の岸本雪江であった。夢二とは27歳の年の差がある。

二人の出会いは、昭和3年(1928)春。雪江が軽い胸の痛みのため通院していた市電の中、筋違いに座っていた男が雪江をスケッチしていた。それが夢二だった。雪江は、白い肌で、ふさふさした黒髪、丸顔で、全体的に病弱そうな、夢二好みの女性だった。その後、夢二はこの雪江の家を訪れ、雪江の母親の許しを得て、スケッチのために二人で出かけるようになる。

雪江は、夢二の山荘に行き、そのまま夢二と生活するようになる。

夢二と雪江は、たびたび山荘付近を散歩したり、近くの店に行ったり、新宿まで出掛けて食事をしたり、箱根への旅を楽しんだりしていた。

雪江は、夢二と生活する中で、時には楽しく、時には淋しく、また、時にはやるせない気持ちを抱きながら、日々を送っていたという。

夢二と16歳の岸本雪江との同棲は、その後、ゴシップ的に新聞に取り上げられた。「歌人の山田順子と夢二との愛の破局が、まだ世間を騒がしているのに、早くも娘のような年若い女が、夢二の新しい情人になっている。」と報道された。この記事に、夢二は、人目を避けるため、雪江を淀橋区十に社(新宿区西新宿)のお年寄り夫婦が間貸しする六畳一間の部屋に移した。そして、夢二は、2,3日置きぐらいに雪江の元を訪れていた。

そのうち雪江は、隣の部屋の学生と知り合い、学生たちが大勢、雪江の部屋に集まるようになる。そして、雪江は、学生達と毎日のように夜の新宿に出掛け、酒を飲み、酔っ払って帰ってくることも屡々であった。

このことが夢二に知られ、雪江は、再び松原の山荘に戻された。しかし、山荘に雪江が戻ってきたものの、これまでとは異なり、二人で無邪気に遊ぶことはなく、夢二も、毎日、浮かない顔をしていた。家全体が陰気する中で、雪江は、夢二に素直に接することが出来ず、かつて学生達と出掛けた新宿の町が無性に恋しく思い、夢二に縛られることのない、自由な空気を欲するようになったという。

4年(1929)12月、17歳になった雪江は、松原の山荘を去り、夢二と別れ、2年ぶりに母親の家に戻った。そして、翌5年(1930)2月に夢二が銀座の資生堂画廊で個展を開いたとき、雪江は、この個展に出席し、別れてから始めて夢二に会った。夢二が両手を広げて迎えてくれる姿に、雪江の目から自然に涙が溢れたという。

雪江は、展示されている夢二の絵を見る気にもなれず「すぐに帰ります」と言うと、「よろしい。早くお嫁にゆくといいよ。」と言い、さらに「さようならは言わないよ」と。

その後、二人は会うこともなく、雪江は結婚し宇佐美姓となり、三人の子供に恵まれ、昭和40年(1965)には『短歌あゆみ』を主宰するほどに短歌の世界に入る。平成8年(1996)5月31日に享年86歳で亡くなる。

 

 それぞれの方をかなり長く記載した。調べ始めると、どんどん内容が膨らみだし、それぞれが最後にどんな一生を送ったのか、晩年まで興味津々になってきて、最後まで記録しておきたくてたまらなくなった。

 まさに、全ての方に人生がある。夢二と出会ったことで人生を翻弄されてしまった方もいるだろうが、誰も後悔していないように思われる。死別した彦乃を除き、晩年まで苦労しているのは最初の妻のたまきだろう。ところが、夢二が亡くなる時、唯一の戸籍上の妻であったたまきだけがお礼奉公にやってきた。死別した彦乃は別にしても、夢二と関わった多くの女性たちが彼のことを過去にしていったのに対して、たまきだけが晩年まで夢二のことを慕い続けたというのはしんみりさせられ、救われる気分になる。たまきの気持ちは「最後まで夢二の妻であり続けた」ということだろうし、それだけ夢二が男性として魅力的な証なのだろう。

 

 

 

3. 夢二式美人画と芸術性

 

夢二の描く女性は大正時代「夢二式美人」と呼ばれ、大変な人気を博した。大正ロマンの香りが漂うレトロな着物、その着こなしやおしゃれの手本となったのが夢二の美人画でした。

すらりとした手足にしなやかな身体。そこはかとなくにじむ女性の色香。

 

NHKの美の壺という番組が、夢二式美人をよく解説してくれている。

まず、彼の美人画を鑑賞するツボは「しぐさに女性美がある」こと。

夢二の創作の源泉は、彼が愛した女性たち。年上の女性、画学生、モデル。夢二式美人画は彼の愛の遍歴から生まれました。

女性をどう描けば美しく見えるのか、夢二は彼女たちにさまざまなポーズを取らせる。可愛らしさ、奥ゆかしさ、艶やかさ。しぐさが女性独特の美しさを醸し出す。

その特徴のひとつがS字曲線。どの女性もゆるやかなS字のラインで描かれている。そこにしなやかな身体の線を表現している。「口ではNOと言っても、彼女の身体がYESのSの字になっている」と夢二は話している。さすがプレイボーイだね。

もうひとつ、夢二がこだわったのが手のしぐさ。バラエティに富んだ手の表情が何かを語りかけてくる。

他にも、着物の着こなしや色づかいなど、オシャレ感覚な見所がたくさんある。

お洒落は、コーディネート。女の心が、動いて出てくるような、やさしく楽な着こなし。

配色の妙は、リズミカルな色の配置。まさに目で見る音楽。

 

夢二式美人というのは、S字にくねるほっそりした肢体に大きな手足、愁いを帯びた瓜実顔、長いまつげと伏し目がちな眼、そして焦点の定まらないうつろな視線・・・に特徴がある。それらの絵は見ていると悲しく、はかなくなる。

つまるところ、夢二式美人とは、美しい容貌だけでなく、女性を感じさせる仕草、曲線、しなやかさを持った女性、つまり「美しさの中に憂いがある女性」。だからこそ、センチメンタルな雰囲気を醸し出している。

今日でも多くのファンを魅了してやまない夢二の世界。

 

□. 夢二の作風

 モダニズムが成立し、大衆文化が繁栄を始めた時代において、彼は社会主義思想やエキゾティズム(南蛮趣味)、さらには西欧美術からはアール・ヌーヴォー、ビアズリーやロートレックらの世紀末象徴主義的な作品に影響を受けていると考えられています。

 

 夢二の本領は、時代の生活感情を反映しながらも、藤島武二や青木繁の浪漫主義を受け継ぎ、それに世紀末的耽美主義、懐古趣味、異国趣味を持った表現にあった。

 

□. 夢二の多才ぶりには脱帽!

 夢二の才能は絵画にとどまらない。まさに美術全般に及んでいる。

 大正3年、東京に趣味の店「港屋」をひらき、商業デザインも手がける。多くの書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけており、日本の近代グラフィック・デザインの草分けのひとりとも言える。

 

 世の動きとしてみた場合、当時の画壇ではさまざまな芸術思潮が交錯し、ある意味で胎動期の不安定のさなかである。都市における大衆文化の開花による消費生活の拡大を背景とした、新しい応用美術としてのデザインというものの黎明の時代であり、夢二もこれに着目した。

 生涯の後期に至っては、彼の図案家としての才能の実績において、生活と結びついた美術を目指し、あるいは産業と融合すべきとの理念を持ち、むしろ積極的に、商業美術(後にいわれるグラフィック・デザイン)の概念を描いていたようである。泰名山産業美術研究所の構想や、先進欧米視察への野望がこのことを裏付けている。

 

 

以下に、竹久夢二伊香保記念館の夢二作品の紹介案内文をそのまま掲載する。

・絵画

 「夢二式美人」という言葉があります。描かれたのは絶世の美人なのでしょうか。少女たちは・・・絵の中の人のようになりたいと思います。願えば誰もがなれそうな・・・夢二が描いたのは、そんな女性だからかもしれません。夢二が描いたのは、生活の歓びや哀しみだったからかもしれません。少女たちは・・・わが想いを画面の中に描かれた女性の想いに重ねたのです。

 夢二の絵は哀しく、はかない。人としての哀しみを知る絵描き・・・それだから・・・夢二の絵はやさしい。

 

・生活美術

 日頃生活の中で使われるもの、そのひとつひとつに夢二はやさしい目を向けました。思いがいつまでも残る・・・祝儀袋や便箋、封筒、夢二はそれにやさしさを・・・。身につけては心弾む半襟や帯、浴衣、夢二はそれに歓びを・・・。華や草、小鳥や昆虫など、身近なものをいとおしみ、夢二はそれをモダンな図案にしました。生活にうるおいを・・・。夢二が求めたもの・・・それは生活と美術との出会いでした。

 

・商業美術

 パッケージやラベル、ポスターに商標。夢二の手にかかればそこに無限の夢が広がります。商品のデザインに美を・・・。大量に複製されるものには温もりを・・。奇抜で斬新な構図に優しい気持ちを・・・。夢二の美意識はあらゆるものに美しさと浪漫の世界を広げました。夢二は「芸術」を身近なものにした人です。

 

・挿絵

 表紙をめくると出てくる挿絵。本の世界へ夢つながって、知らない世界に出会います。夢の世界が広がって、優しい気持ちがふくらみます。夢二の挿絵に魅せられて、多くの人が夢見ます。同じ想いが重なって、新たな世界が広がります。

 

・著書

 夢二残した著書、57冊。表紙や挿絵は美しく、もられた詩や歌や物語・・・みんなみんな詩情ゆたかな光を放つ。夢二芸術のエッセンス。時々出して見て下さい。そこには夢二のやさしさが鏤められていますから。時々開けて見て下さい。きっとあなたも夢二が好きになるでしょう。

 

・装幀

 書き手の心がたくさん詰まった本に美しい着物を着せる仕事・・・装幀。夢二は200数十冊の本に美し着物を着せました。書き手と読み手を結ぶ大切な仕事。本の表紙は作品への道案内。表紙から見返しへ、そして扉へ読者を本の世界へと誘い込む。優れた文学作品を人々の手にそっと注ぎ込むとても大切な仕事です。

小さくて可愛くて手にとってみたくなる本。心地よい重みと肌ざわり、いつも身近に置きたい本。そんな本を夢二はたくさん世に送りました。

 

・楽譜

 夢二の仕事は広がり、楽譜にまで美しい着物を着せました。その数300余り・・・曲を1曲1曲聴いてそれを一枚の絵に表現したセノオ楽譜シリーズ。耳を澄ますと音が聞こえてきます。鐘が鳴り、美しい旋律の風の音が聞こえます。タイトル文字の美しさ、色彩と構図の妙。楽譜の表紙を見て下さい。いろんな曲が聞こえてきます。それは夢二の交響曲(シンフォニー)。

 

 

 

4.    夢二と私とストリップ

 

思いつくことを徒然に書き綴ってみた。

 

□. 夢二と私との接点

 

 夢二のことを調べる中で、ささやかな事柄ながら、私との接点があることに気づき、ますます興味を持つようになった。

 ひとつは、八幡製鉄所で働いたことがあること。夢二は16歳のとき父親に連れられて北九州に行き、父親と一緒に官営八幡製鉄所に勤務。製図の仕事をした。実は私の社会人スタートは八幡製鉄所だった。

 もうひとつ、夢二が秋田美人を好んだこと。私は秋田出身で、見合いで秋田の女性と結婚した。

 お葉は典型的な秋田美人。夢二とお葉が別れる直接の原因になった山田順子(ゆきこ)も同じ秋田の同郷。しかも、順子は秋田県由利郡本荘生まれ。なんと私の地元出身ではないかー☆これには超―びっくりした!

 夢二は順子と一緒に本荘を旅行している。そのとき夢二が本荘をスケッチしたものが後に見つかっている。

更に、詩『宵待草』のモデルになった長谷川カタさん(お島さん)も秋田出身なのに驚いた。お葉と山田順子の他にも秋田出身者がいるとは驚きを通り越して呆れてしまった(笑)。ほんと夢二は秋田美人が好きだったんだね。秋田美人といえば色白で瓜実顔、今なら藤あや子さんや壇蜜さんを思い浮かべればいいんじゃないかな。納得するでしょ!

更に、金沢出身のたまきまで入れれば、夢二は日本海側の女に弱いとも言えるかな。(笑)

 

 

□. 夢二は学歴コンプレックスがあった!

 

 夢二は昔から絵が上手でしたが、彼の出発点において、誰にも絵を学んでいない。美術学校を出ていないので、アカデミックな美術教育は受けていません。要するに、勝手に絵描きになりたくて、絵を描いてお金を得ていたという、日本におけるイラストレターの第一号でした。そして、美術世界を離れた一般大衆からは、昔も今もファンがいる希有な画家です。

 

 たまきの前夫は日本画家であり美大出身だったため、またたまき自身も絵心があり、夢二が制作をする際には助言をしたという。そのため夢二はたまきに大きなコンプレックスを持っていたという。

「一時は中央画壇への憧れもあったようだが受け入れられず、終生、野にあって新しい美術のあり方を模索した」と解説される。

 昔は「女の数は男の甲斐性」という風潮もあるにはあったが、夏目漱石や藤島武二といったアカデミックの頂点に立った文化人たちは女遊びをしていなかった。夢二は才能豊かではあったものの、学歴コンプレックスをもっているがゆえに、中央画壇から正当な評価を受けることができないと考え、ますます恋愛遍歴の愛欲生活に走って行ったのではなかろうか。

 

 私は学歴コンプレックスはないが、身障者であったがゆえに思春期の恋愛に悩んだ。運良く見合い結婚できたにもかかわらず、ストリップに嵌まっていったのには、このときの身障者恋愛コンプレックスがあった。

 私にとってストリップ劇場は踊り子に恋する場。自分が身障者であることを忘れ、手紙を通して恋愛ゲームを楽しめる。

 次から次へと女を変えていく夢二のやり方は無茶苦茶であるとは感じながらも、次々と新人に触手を伸ばす私自身も彼のことは非難できない。ただ、ストリップは自由恋愛ゲームみたいなもので実際に手を出したりするわけではないから、夢二のように女性スキャンダルになるような世界とは違うとは思うが・・。(笑)

 

 

□. 夢二の女好き!について思うこと

 

  夢二の女性遍歴を追ってきたわけであるが、彼が無類の女たらしであることは誰も否定しないであろう。

 これだけのハイセンスな売れっ子画家だから、プレイボーイになれて当然ではある。

 

たしかに、夢二は絵描きなので、女性に話しかけやすいという役得があるね。

お島さんの時がいい例。夢二は「絵のモデルになってほしい」と彼女の家に頼みに行く。そして、親しく話すうち彼女に心を惹かれ、呼び出して束の間の逢瀬を持つ。散歩する二人の姿はしばしば近隣住民にも見られている。しかし結ばれることのないまま、夢二は家族を連れて帰京する。まぁ、復縁したばかりの妻がいるのに若い娘を好きになる夢二もどうかと思うが、これが詩「宵待草」という素晴らしい文学作品になるわけだから芸術家というのは大したものである。

晩年の岸本雪江の時もそう。43歳のおじさんが16歳の高校生に声をかけられたのは絵描きだからだよ。雪江もスケッチを見て安心したわけ。そうでなかったら犯罪だよね。

 

夢二の肩を持つわけではないが、「絵描きとしての創作意欲をかき立てるためにモデルとして女性が要る!」ことは確かだろう。

  私も執筆意欲をかき立てるためにストリップ通いしているし・・。ははは・・・

 しかも、夢二は惚れやすい性格なんだな。若い子が好きだし。

 この点は、私がストリップで新人好きというのと通じる。オキニのお姐さんがいようと新しい子が入ったら見ておきたい。彼女に対する恋心がまた執筆意欲を湧き立てる。

 ストリップおいて新人好きは許されるが、夢二の場合はすぐにスキャンダルになる。まぁ最近の私はすぐに爆サイで騒がれるから同じようなものかな(苦笑)。

 

ネットで検索していて、「竹久夢二の女性遍歴の底にひそむもの」という記事があり、夢二が次々と女を変えていく真相を垣間見た気がした。

「金沢文学」に発表された「夢二式美人画に潜むもの」と題する一文がある。・・・

 夢二は女と心身を共にしながら醒めていく自分を視ていたに違いない。たまきにしても、彦乃、お葉にしても夢二にとっては画のための人形でしかなかった。人形は次の画のために取り替えなくてはならなかった。取り替えた先に、また別の<艶麗な、かつ不幸な女>を夢見なければならなかった。それはどこに起因するのだろう。

 そこには不幸だった母、也須能(やすの)と、最愛の姉、松香への思慕が潜んでいた。夢二の父は愛人がおり、そのために松香は婚家を追われた。夢二はこの姉を終生、敬愛したという。あの美人画からにじむ哀感は、也須能と松香の苦悩する姿であった。夢二の女性遍歴もそこにある。母と姉、この<かけがえのない二人の女性>を追い求めて、夢二は漂泊した。しかし、その<二人と同じ女性>には永遠に出会うことはなかった。夢二は愛した女たちの中に、悲しみを追った母と姉の面影を視ようとしたのではなかったかーー。」

 何度も女性を替えたのは、単に女好きで性欲のためにしたのではないということだ。

夢二の作品を見ても、病的と思えるほどに女性を描き、美人画だけでなく、デザインの世界でも、様々な仕事をしている。その繊細な感覚は、単なる女好きの芸術家にはとても持ち得ないものだ。この説にしごく納得である!

 

 

□. 夢二の放浪癖とストリップ遠征

 

 夢二は旅が好きだった。

 竹久夢二は、孤独な漂泊者としてその生涯を終えた人である。数多い女性との噂は、スター的存在としての夢二像を生んだが、心の奥底には、抗し難い寂しさがいつも潜んでいた。その寂しさを埋めるため、彼は永遠の旅人として、放浪し続けた。それは、女性のうち、自然のうちに、そしてまた一冊の聖書のうちに、「癒し」を求める旅であったともいえよう。

 その足跡は、国内では東北から九州まで及び、旅先では、特に哀愁漂う古びた港や海、芸妓といった画題を愛し、絵や詩に描いた。晩年に実現した欧米への外遊においては、世界恐慌のさなかで苦境に陥りながらも多くスケッチを残し、ベルリンでは日本画を教えている。一方で、ユダヤ人の救済に加わったという証言もある。

 

さて、私のストリップ遠征について話す。

東京都内にたくさんのストリップ劇場があるわけで、都内の劇場を回るだけでもあっという間に一公演の10日間が経っていく。遠征費用も馬鹿にならないので最初のうちは都内の劇場を回っていたのだが、次第に、仕事のある平日は都内の劇場を回るも、土日の休みは遠征するようになった。遠征というのは旅行気分で、まさに気分転換になる。私のように童話の創作などを趣味にすると気分転換はとても重要になる。

昔の詩人、西行、松尾芭蕉、山頭火など、旅に人生を求めた方はたくさんいる。以前、

私はこんなエッセイを書いている。

「ふと不思議な感慨が襲ってきた。大好きな踊り子さんを追いかけて、いま大阪の下町で一人酒を飲んでいる。そして物語の構想を練ったり、ポエムの言葉探しをする。まるで自由な放浪詩人みたい。憧れの山頭火になった気分かな。普通のサラリーマンでは味わえない気分をストリップを通して味わっている。(中略)まさしく私はストリップ物語を書き続ける放浪するファンタジー吟遊詩人か。」

 

 

□. 夢二の宗教観と聖書

 

 女好きの夢二が常に聖書を持ち歩くクリスチャンであったことに興味をもった。女性とのスキャンダルはその女性を不幸にする。そうした罪の意識を彼はどうやって心の整理をしたのだろうか。

聖書や彼の宗教観に関わる記事をネットから拾ってみた。

 

明治末期から大正初期にかけて、夢二は人気の絶頂期にあったのだが、彼の心にはいつも苦しみがあり、それを打ち消すことができなかった。明治41(1908)年秋、夢二は革製の豪華な『新旧約聖書』を購入している。聖書に関心を持ったのは神戸中学在学中ともクリスチャンであった妻・たまきの影響ともいわれるが、これは、彼の生涯につきまとっていた「我はユダなり」という罪の意識から、彼を解き放ってくれる唯一のものだったのであろう。夢二は心の支えとして『聖書』を生涯大切に持ち歩いていたといわれる。

 

明治43(1910)年、たまきの故郷・金沢を訪れた時も、当時のキリスト教青年教会との交流を深めている。大正元年のクリスマス、京都の教会で説教の勧めに応じ、悔い改めの列に加わり、たまきにそれを報告したという話も有名である。

 

夢二の絵には、教会のある風景や十字架など「キリスト教的な世界」を感じさせるものが数多く見出される。それらには、エキゾチックな雰囲気とともに、どこか夢二の澄み切った哀愁が感じられる。孤独と愛に向き合った彼自身の押え難い哀しみから涌き上がってくる、「救い」を求める祈りの思いが込められているためではないだろうか。

 

 

□. ストリップにひそむ虚しさと生きることの哀しさ

 

私には、自分にとってストリップは何か?なぜストリップに嵌まったのか?ということをとことん突き詰めていった時期があった。

私は、秋田の田舎者ではあるが、ずっと学校の成績がよく、一流の大学を卒業し、一流の企業に就職できた。お見合いではあったが素敵な伴侶と結婚ができ、三人の子宝にも恵まれた。みんな良い子に成長し社会人になっている。マイホームも手に入れた。誰が見ても、申し分のない人生である。

それなのに40歳を過ぎた頃からストリップに嵌まり、毎日のように劇場通いをし出した。最初のうちは当然に遊びと思っていて、家庭を壊すつもりは更々無かった。

ストリップというのは単に女性のヌードを拝見できるだけでなく、絶世の美女たちと仲良くなれる。相手は商売上の対応だとは分かっていながら、恋心が芽生える。疑似恋愛の対象として恋愛ゲームを楽しむ。私には手紙という武器があった。文通が楽しかった。

自分は足の悪い身障者で、青春時代は恋愛に苦しんだ。失恋するたびに自分の身障者としての身の上を嘆いた。一生結婚できないかもしれないと考え自殺まで頭を過ぎったこともある。

頑張って生きてきて人並み以上の幸せな生活を得てきたはずである。それで満足すべきところが、ストリップにより昔の辛い失恋体験が蘇ってきて、それを癒やすごとく楽しむことができた。

たまたま私は文章を書くことが好きだった。手紙で終わらず、それがエッセイや観劇レポートになり、そして童話やポエムに発展してきた。自己表現の手段となり、そして自己実現へと向かう。ストリップと執筆という二つの趣味が相乗効果をあげて私のLIFEワークとなっていった。

これまでは、家族と過ごす時間、仕事をしている時間が私の時間の大半であったのが、趣味のストリップが入り込んで私の時間の大層を占めていく。家族は犠牲にして、しかもストリップを楽しむために仕事をしている感覚に陥る。

家族に嘘をついてストリップを観に行くようになり、自然と家庭は壊れていった。私は「ストリップは単なる遊び」と主張しても妻は許してくれず離婚。そのとき子供たちが社会人になっていたのがせめてもの救いだった。これからの私の人生は、身障者の私の伴侶になってくれた元妻と家族に対する懺悔、たった一人の女性をも幸せにできなかった後悔がきっと‘業’となっていくことだろう。

 

青春時代の恋というのは極めてピュアなもの。それが自分が身障者であるという負い目を背負っているがゆえに恋が成就できない。このやるせなさは誰にも分からない。これが私の心の奥に‘業’となって巣くっていた。

お見合い結婚は親から与えられたものであった。一方、ストリップはお金を払えば遊べる自由空間。小遣いの範囲で楽しめる自由恋愛。もちろん疑似恋愛であるわけだが、私はそこに執筆という自己実現をもちこんだ。

ステージを観ながら、そこからインスピレーションを得て、童話やポエムなどの創造の世界を楽しめた。ヌードというのは世間一般には禁じられたもの。ところがストリップはそれが許される世界。大好きなヌードを心置きなく楽しめるまさに竜宮城の世界。心が解放され、極めてピュアな気分になれる。それが創造の翼を広げてくれた。ストリップは私に二重の刺激と興奮を与えてくれたわけだ。

これが、これまで抱いていた‘やるせなさ’と‘業’からの解放になってくれた。

 

しかし、ストリップというのは空蝉の世界。お金を払えば入場を許されるヌードの世界であって、そこに愛や夢などの真の癒やしの時空はない。

実際、嫉妬心などからネット上の餌食となり、家庭ばかりか仕事まで失ってしまった。

今は失業中なので家でごろごろすることもあるが、これだと本当に人間がダメになるね。ストリップがあるお陰で、とりあえず淋しさを紛らわせる。そして、こうして書きたいだけ執筆に勤しんでいる。ただこのままではジリ貧なので、いずれ働くつもりではいる。

人間というのは、生きること自体が淋しさとの戦いなのかも。一人では生きていけないから仕事をして社会と関わりを持ち、かつ支え合う最小限の単位として家族をもつ。社会の仕組みがそう出来ている。男女が好き合い家庭を持つように生物学的にもできている。それにあがなっては生きていけないのだ。

それを成り立たせようと人は生きていくのだが、なかなか十二分に満足できることは難しい。希望の学校に進めない、思うような仕事に就けない、十分な給与が得られない、人間関係がうまくいかない、好きな異性と結婚できない、などなど、不満だらけ。家庭に恵まれないとか、身体的な欠陥など、不遇な環境もあるだろう。だからこそ、人は生きることが哀しく、常に満たされない淋しさを抱えている。

そうした‘やるせなさ’と‘業’から解放されたくてもがいているのが人間の生きる姿なのである。

 

夢二の生き方や人生を観てきて、彼の絵描きとしての類希な才能、不遇な家庭環境と学業コンプレックス、たくさんの交友関係と女性関係、これらを織り交ぜながら生きてきたのを感ずる。

根底にあるのは、生きることの哀しさである。

夢二は真の表現者であるがゆえに、それが夢二式美人画に昇華され結実した。

 

そして、彼は心が満たされない淋しさや生きることの哀しみから逃れるために、絵を描き続けた。女を求めたのも、絵を描きたい題材のひとつに過ぎない。自然や人々の生活を描くために旅をし、数々の女性遍歴もした。しかし、女性を抱きながらも心は常に満たされなかったのだろう。

先ほど述べたように、夢二式美人の眼の奥には、優しかった母親や姉の不遇な哀しみの眼差しがあったという深層心理は納得させられるが、おそらく生きることの哀しさは生きている間中消えない。

夢二が聖書を常に携えていたというのもよく理解できる。キリスト教にいう罪の意識、仏教にいう無常観、それら宗教の全てが、人間が生きていく哀しみからの「救い」なのである。

夢二は、女性に真の美しさと優しさを求めようとした。その点、エロティズムを求めて責め絵を描いた伊藤晴雨とは全く違う。夢二は、美しい女性が大好きだったわけだが、女性にピュアで清いものを求め過ぎた。他の男性の匂いを感ずる妻のたまきやモデルのお葉とは長い間ぐずぐず関係を保ちながらも結局は別れてしまう。ましてや男殺しの山田順子にはすぐに我慢できなくなる。ちなみに、幼い岸本雪江は高齢の夢二では最初から釣り合わない。エロ爺さんの単なる遊びみたいなものか。夢二の人生の中で、彼女たちは通過点に過ぎない気がする。ただ、彼女たちは夢二式美人画を完成させる上でも、極めていい役割を演じた。たまきは年上の女房として、夢二に女というものを教える指南役になった。夢二は、女性の美しさを知るとともに「女性という不思議な存在」そして不可解な難しさを知る。お葉は魅力的であったが、結局は彦乃の残影に叶わなかった。つまるところ、夢二は自分だけの処女姓が理想だったのだ。だからこそ、淡い恋で結ばれなかったお島さんとは「宵待草」という詩に昇華することができた。そして、彦乃だけが「永遠のひと」として最後まで夢二の心に残ったのである。

 

 

 これから先、執筆でストリップ道を追い求めていく中で、竹久夢二の作品に癒やされ、彼の生き方に共感したいと強く思っている。おときさんのお陰で竹久夢二に出会えて感謝している。彼を私のこれからのLIFEワークのひとつとしたい。

 

平成28年10月