郵政民営化問題と学会の案内
昨年あたりから、学会の案内が宅配メール便でくることが多くなった。おそらく、値段が安いからだと思うのだが、思わぬ副作用もあるようで、事務局の人も困っていた。それは、住所が変わった人には転送されないということだ。
郵便であれば、届けを出しているというのが前提だが、引っ越してから1年間は新たな住所に転送してくれる。しかし、宅配各社はそのようなデータをもっていないので、そうはいかないらしい。
民営化しても同じようなサービスが維持されるのだろうか。人間誰しも便利なものになれてしまうと、なかなかそれを手放すことはできない。もちろん、このような転送サービスを維持するコストを無視して議論はできない。我々がそのコストを料金として負担するとしたら、いくらぐらいだったら利用するのだろうか。
ファイト(NHK朝の連続ドラマ)
自動車通勤の自分は、車中でTVを聞いている(見ている、ではありません)ことが多い。
まあ、何となく昔から習慣でNHK朝の連ドラを見ているので、その時間帯はこのドラマを聞く。それ以外は、朝の場合、ワイドショーでネタを仕込むこともある。
昔から、TVに登場する大学教員という生き物は、やたら権力欲や金銭欲が強い。そして周りが持ち上げるというか、あがめるというか。
今日の「ファイト」でも、大学病院の慰安旅行か何かで、原田大二郎扮する「教授」に、徳井優扮するおそらく助教授であろう人物が「教授、教授」とおべっかをつかう。教授が温泉に入るというと、その他大勢も「はい」といって一斉に立ち上がる。う~ん、本当に不思議な光景だ。
本当に私立文系の場合、講座制とか研究室とかがないので、教授になったって部下になる人がいないし、人事権もないし、本当に偉くも何ともない。天下もとれません。仲間内で、「教授」なんて呼びませんよ。教授もごろごろいるし。基本はさん付け。まあ、目上の人には先生で呼ぶ場合もあるかな。
しかし、TVのステレオ・タイプの教授像、本当にどうにかなりませんかね。絶対に世間で誤解されてる。
試験への持ち込み物件
最近、試験ネタばっかりですので、その勢いで。
これはオリジナルネタではなく、昔ニュースグループで読んだネタですが、ちょっとうろ覚えのところもあって、本来のネタとは少し変わっているかもしれません。でも、個人的には結構うけて、講義で試験の説明をしているときに織り込むと、学生にもちょっと受けます。それは、
「英語の試験で、『持ち込み自由』とあったので、英文科の彼女を持ち込んだら、先生がユーモア賞ということで単位をくれた。」
というものです。さらに続きがあったのですが、個人的にはこの「英文科の彼女を持ち込んだ」というところをアレンジしてネタにしています。要するに、その科目に関する専門家を連れてくる、ということは駄目だよ、という感じだったり、学生との会話で、たとえば、「○○法の講義、何でも持ち込みか何ですけど、何かいい本ありませんか」、と聞かれたら、「弁護士でも持ち込めばいいじゃん」と答えたりする訳です。
カンニングを見逃すことがあるのか
先日のカンニング・ペーパーのネタ、以前もほとんど同じような内容を書き込んでいました。ちょっと言い訳モードにはいるのですが、アメブロの検索機能、おそらく先日のメンテナンスの影響でしょうか、過去のエントリーがカバーされなくなったようです。 書き込むときには検索して同じようなネタがないことを確認していたのですが、お恥ずかしい。
さて、表に出ないコメント(?)で、「カンニングを見逃すことがあるんですね」というコメントをいただきましたので、ちょっとこの点について書いてみます。
通常、カンニングを捕まえると、いろいろな手続きが必要になります。学生の事情聴取に始まり、教授会での懲戒手続きなど。懲戒手続きは学生に大きな影響を及ぼしますので、臨時教授会を開く場合もあります。このようなことを嫌って、よっぽど悪質ではない場合などは見逃す人がいるもは事実です。たとえば、勤務先の場合、机の中にカンニング・ペーパーを忍ばしていても本来はカンニングとなるのですが、それを見ている事実を確認しない限り捕まえないとか、そばに立って、見たくても見ることができないようにすることも。
また、たいていの場合、カンニングは証拠物件(カンニング・ペーパーとか、持ち込みが認められないテキストを机の下に開いておいてあるとか)がないと捕まえられません。ですから、隣とか前の人の答案用紙をのぞくようなカンニングは、捕まえることができません。そのような場合は、やはり近くにたってプレッシャーをかけるしかありません。
また、証拠物件があっても証拠物件を取り上げることができない場合もあります。
たとえば、女子学生が、カンニング・ペーパーをスカートの間等、男性教員が手を出せないような場所に忍ばせている場合です(作り話ではありません、本当にあるんですね、これが。良識ある女子学生は、そこまでするか、ってあきれていました)。これは、さすがにスカートの中に手を入れてカンニング・ペーパーを取り上げることができません。でも、スカート等の中に手を入れて証拠物件を取り上げるような行為、、女性教員ならば、問題ないのでしょうか。
あと、小さく丸めたカンニング・ペーパーを飲み込んで、証拠を隠滅した強者もいます。
でも、カンニングをしている時って他の人とは動きが違うので、見ていれば何となくあやしそうな人はよくわかりますよ。試験監督をしてみれば、本当に一目瞭然です。
何も決めない教授会
今週は、教授会のある週であった。相変わらず長い。毎回4時間ぐらいかけているだろうか。で、ルーティンな項目は滞りなく審議され、議決されていく。しかし、前例のない提案等については、たいてい何も決まらない。結局官僚と同じ。前例踏襲主義か、自分の負担の増えるような提案には、なんだかんだいって議決を先延ばししたりして、結局うやむやなうちに流れてしまう。
確かに自分の仕事が増えるのは誰でも好まない。でも、反対論を強硬に唱える人ほど、「研究時間が削られる」と言う割にはたいした研究をしていないのはなぜだろう。研究していると言ったって、せいぜい学内の紀要にたまに論文を書くくらい。紀要に書くだけまし、とも言えるかな。
カンニング・ペーパー
引き続き、カンニングの話題です。カンニングを推奨する訳ではないことを最初に明言しておきますが、最近の学生のカンニングの手法は芸がなさ過ぎます。
その典型は、コピー機の縮小機能を使うだけのもの。たしかに文字は小さくなって、紙も小さくなる。しかし、その元が友達のノートだったりして、要点をまとめたものではないので、余り意味がない。
学生時代、名前も科目も思い出せないが、ある先生の講義中の雑談で、今でも覚えている話に、カンニングペーパーの話がある。先生曰く、「自分の学生時代にはコピーなんて高価な代物で、学生が簡単に利用できるものではなかった。そこで、カンニングペーパーを作る場合には、その試験の要点をまとめて、紙に小さな文字で書いたものだ。普通、1回書いただけでは紙が大きすぎるので、さらに要点をまとめて、改めて紙に書く。でもまだ大きい。さらに要点をまとめて・・・・。と、数回繰り返せば、もう要点が頭に入ってしまうので、カンニングペーパーなんて不要になったものさ。」
自分の場合も、(カンニングペーパーを用意しようとは思わなかったが)要点をまとめて何回か書く、という作業を通じて勉強する手法は結構有効だったなあ。
カンニング
前期の講義もそろそろ終わりです。あとは試験を残すのみ。(教員は採点、成績評価もあります。)
試験に関連して毎年問題となるのは、カンニングなどの不正行為。見つければ学生を処分しなければならない。見つけないと(分かっているけど捕まえない場合も含む)、他の学生からクレームが付く。
このカンニング、処分に関して大学によって大分温度差があるようです。これまでの経験上、大別して、(1)その年(セメスター制の場合はそのセメスター)の履修科目の全ての単位が無効になる、(2)当該項目の単位が無効になる、といった感じでしょうか。それに停学処分などがつく場合も。
勤務先は、数年前から、無期停学処分+当該セメスターの全単位無効、という形になりました。当該科目のみ無効という処分は処分じゃない、という理由だそうです。要するに、当該科目だけ無効にした場合、カンニングをしようという学生は、普通に試験を受けたのでは単位はおぼつかないので、見つからなければラッキーという感じになるだろう、ということである。もし、見つかったとしても、元々ダメもとなので、その科目に関しては、別になんら痛痒を感じないだろう。
この方法の場合、見つかった学年、それまでの単位の修得状況によっては、留年確実になる可能性がある。でも、毎年かならず数人は見つかって処分される。捕まえる方だって余り気分の良いものではない。何か妙案はないものか。
資格取得支援
何年前からだろう、いくつかの大学で、学生の資格取得の支援を本格的に行うようになったのは。
エクステンション・スクールみたいな名称で、大学キャンパスにいながらダブルスクールが可能です、というのが謳い文句らしい。内容はというと、専門学校に委託するだけなので、もう一つの売りが、その専門学校に直接通うよりは学費が安いということもある。で、結局、専門学校に場所を貸してるだけ。
そろそろそのコスト負担(学費を安くする分、大学が持ち出しをしていたり、施設使用にかかるコストも意識されはじめたみたい)から、縮小を考え始めた大学。その一方で、学内の教員が教えられる講座は、専門学校への全面委託を止めて存続を図りたいらしい。教員に担当させれば安価にすむ、という発想がそもそも貧困である。
勤務先の場合、教員は、教育だけでなく研究もきちんとしなければならないというの現在の状況である。昇進、採用等では業績評価だけでなく、教育業績を考慮に入れるようになってきているけれど、ウェイトは研究業績の方に置かれている。そんなような状況で、研究活動が削減されるような提案に教員が乗る訳ない。そろそろ、教育専門教員が必要なのかもしれない(これもアメリカを見習うべきなのかな?)。
まあ、結局毎回同じような結語になるけれども、ここでも経営側の戦略のなさが露見しているのに、結局誰も責任をとらないのだ。
評価とFD
ちょっと古い朝日新聞の記事(Asahi.net)の「楽勝科目」をなくせ、大学側授業向上目指す の内容が、記事のタイトルからかけ離れており、あまりにも馬鹿馬鹿しいと思っていたのですが、ちょっと補足したくなりました。
記事によると、早稲田大学では政経学部が最高点の「秀」を5%以内とするなど統一した相対評価を行うらしい。う~ん、なんで相対評価なんだろう。絶対評価でしょ、大学では。(今日行く審議会の安易な単位認定から見せかけの厳格化へ でも、同じ事が書かれています)。
今、勤務先では、FDのなかで、いかに学生に理解させるかを重視するようになってきている。相対ひょかはこのような方向性とは反する。このFDの目標(の1つ)は、他の大学でも同じだと思うのだが、早稲田はFDを実施していないのかな?
ついでに書くと、同記事では、 同志社大が昨年度から、各科目の成績評価を公開しており、最高点の「A」から不合格を示す「F」までの得点分布をがかなり異なるということを問題にしているようだ。
でも、大学の科目が、基礎的な科目から応用、もしくは先端的な領域を扱う科目まであるのに、それでも同じような成績分布になるべきだというのはおかしくないだろうか。
しかし、同志社にいる知り合いに少し話を聞いてみた(別の件のついでに、本当にちょっとだけ)。ここで問題となるのは、科目毎のばらつきよりも、同一学部で同じ科目を(履修者数の関係などで)複数の教員で担当している場合らしい。必修科目で、教員を学生が選べない場合などで、難易度に差があると学生から不満がでるのだろう(同志社がこのケースに該当するかは未確認だが、非常勤先でこのような話を聞いたことがある。自分がその中の一人で、他の人がものすごく厳しく、別の人が非常に優しく、自分は間ぐらいだった。)
あくまでも個人的経験と伝聞に基づくものでしかないが、大学教員は同じ科目であっても、シラバスの統一を嫌がる、テキストの統一を嫌がる、さらに単位認定権を奪われたくないのか、統一試験も嫌がる傾向にある。ここまで統一してばらつきがでると、まさに教員の教育力の差として表れるからなんだろうけど。
自分だったら誰かが問題を作って採点してくれるなんて、楽で良いな、って思っちゃうけど。