くにたち蟄居日記 -104ページ目

「声を聴かせて」  にのみやさをり

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 にのみやという方の写真集を個人的に購入したことが以前にあることで本書を手に取る機会を得た。

 著者は性犯罪被害者であるという。著者が写真を撮り始めたのは、著者が自身のPTSDを克服しようとする為であったことは著者自身があとがきで記していると僕は解した。

 性犯罪被害自体が理解出来にくい男性の一員の僕として、そういう「写真の撮り方」というものがあること自体が驚きであった。以前写真集を購入した理由は著者の写真の独自の世界に惹かれたことであったが、その独自の世界の背景に性犯罪被害が有ったことまでは読み込めていなかった。

 勿論、それは著者の写真が著者の個人的な動機から「独立」した地点に立っていることも意味するとは思う。著者の写真自体は、それが撮られた段階で、既に独り歩きしはじめる。そんな独り歩きしている写真と僕が出会う場所は、僕と写真との任意の場所であるべきだ。

 田口ランディは解説で

 「だが、彼女がこの本を出版した本当の目的は、性犯罪被害者の救済のためなのだろうか。そうで
  あっても、私は納得しないだろう。」

 と書いている。田口が言っていることは僕が著者の写真を見る際に感じるものと余り遠くない気がする。

 田口は「表現者」としての、にのみやという方の「有り方」を解説で書いているのだと思う。田口は「にのみやさんの人間に対する真摯な好奇心は、やがてもっと別の対象へと移っていくだろう」とも言っている。それを、今後の彼女の写真で目撃するであろうという予感は、僕も持っている。

 同時代の写真家をゆっくり見ていくという醍醐味はそこにあると僕は思う。

「身体を通して時代を読む」 甲野善紀 内田樹 

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 本書を読んで改めて身体というものを考える良い機会となった。

 マラソンを走っている際に一番疲れるのは実は「脳」であるということが僕の乏しいマラソン体験からの感想である。走っている間にひたすら考えることは、走っている速度や残りの距離の計算だけではない。当然ながら足の調子、体の疲れ具合等、自分の体との「対話」を強いられる時間帯でもある。日常生活では考えないくらい体調というものを考えさせられ、その結果頭が疲れてくるのだ。僕はアマチュアのランナーなのでこれで済むが、プロのランナーは更に競争相手との駆け引きもある。本当に頭が疲れるだろうと想像する次第だ。

 そうした身体との対話の中で、改めて驚くことは、走っている際にも僕らは様々な情報収集と対応策を即座に行っているということだ。路面の具合や、傾斜、小石の存在等を目だけではなく足の裏で感じ取り、一瞬に判断して走り方を変えることの連続が「走る」ということである。その際に僕らは無意識にそれをやっているし、また無意識でやれない限り、とても走るということなどは不可能である。
 一言で言うと「足が考えている」ということだ。
 条件反射のテストがある。脛を叩かれると足が自動的に動くという話だ。僕としては、あの不思議な現象も「足が考えている」ということなのではないかと思える。

 そうした「脳以外で考える」という視点で本書を読むことは時として新鮮である。本書で紹介されている「重いものを持つ際に意外と軽いと体のバランスが崩れる」という話も、「身体が何を考えているのか」という一例として読むことも出来る。

 本書を読む限り、武術とは他者との「対話」であるということらしい。その「他者」とは「他人」であることもあれば、上記の「重いもの」も「他者」に含まれると思う。もっと言うと「脳」にとっては自分の身体ですら「他者」の一つであるはずだ。

 そうした「他者との対話」が武術であるという点で、本書が優れた「他者との対話法」足りえていると僕は思う。本書で展開される教育論や社会論は時としてユニークであるが、他者と自分がどう対話するのかという極めて大きなテーマを武術という切り口で切り取ることに新鮮味がある。マラソンにおいても自分の身体と脳との間の対話が疲労の一因であると考える僕にとっては非常に面白く読めた次第だ。

「シンシナティ・キッド」  

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 ポーカーの勝負をテーマとした娯楽映画ということなのだろうが、基調に流れる奇妙な味わいが魅力的である。

 冒頭は葬儀の列である。映画の冒頭に「死」を強調されたことで見ているこちらも緊張を強いられる。その直後には主人公と靴磨きの少年のコイン投げの場面である。主人公を不敵な目で見つめる少年は言うまでもなく、主人公の昔の姿であり、将来の分身である。

 登場人物はすべて「敗北」の影を背負っている。圧倒的に生き生きしていた主人公も敗北者になってしまう。いや、主人公を打倒したポーカーの老名人ですら、「死」の記号を背負わされている。老名人が、席を立つ場面でよろめくシーンがあるが、それは老名人の「老い」と、その先の「死」を書きこんでいるからだ。そんな細部が本作の精密な作りでもある。
 
 主人公は敗北する。ポーカーに敗れる。茫然とした中で 更にやらされる靴磨きの少年とのコイン投げにも負ける。
 但し、最後の最後に恋人に抱きしめられる。恋人は主人公に裏切られており かつ それを知っている。それだけに、恋人が主人公を許し、抱きしめる場面には救いがある。

 冒頭の葬儀の場面も実は二つに分かれている。故人を偲ぶしんみりとした行進と、その後の故人の追善を行う陽気なダンスだ。その陽気なダンスと恋人の抱擁は似ていなくもない。その意味では冒頭の葬儀の場面が本作の全てを暗示していると言える。誠に緻密な作りだ。そんな丁寧さが、本作の奇妙な味わいをしっかり支えている。

エスカレーターを歩いて

 運転を中止しているエスカレーターを階段として使おうとして歩いてみると、非常に歩きづらい。もっと言うと、特にエスカレーターに足を踏み入れた際に、一種異様な感触があり、つんのめったりしてしまう。
 
 どうやら、体がエスカレーターを見て、エスカレーターの対応した歩き方になっているような気がする。
 
 子供はエスカレーターに慣れるまで結構時間が掛るものだ。動いているものの上に足を踏み入れること自体は実はそんな簡単な話ではない。エスカレーターの前で乗れなくて泣いている子供を見るとそう思う。
 
 一方、一度エスカレーターに乗る方法を習得してしまうと、今度は止まっているエスカレーターに対応できなくなるから不思議だ。目で見て、止まっていることを認識しても体は動いている事を前提に足の運びを決めているような気がしてならない。
 
 頭で分かっていても体が別の動きをするとしたら、案外人間は脳以外の部位でも「考えている」可能性があるような気がする。例えば条件反射を考えてみても、考える前に動いているわけだが、無意識に体が反応しているというわけでもない気がする。意識に登らない場所で「考えている」と思う方が正しいのではないだろうか。
 
 生物学の本を読むとは、しばしば「動物としての人間」を考える機会だと思っている。僕らは僕らが思っているほど自分の事が分かっていないに違いあるまい。「自分を分かる」ということがどういうことなのかは、ずっと考えるべきものだろう。というか、「自分で自分を全て分かることは不可能だ」と考える方が、おそらく問題も少なくなるに違いない。「自分の事は自分が一番知っている」と思いこむことで起こった悲喜劇はいくらでもあるのだから。

「呪いの時代」  内田 樹

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 福島原発、草食男子、秋葉原無差別殺人等、最近の日本の事例を著者なりの切り口で読み解く著作である。読んでいて、内田らしい快刀乱麻ぶりに感心した次第だ。

 哲学、若しくは哲学者とはどうあるべきかということを考えさせるのが内田という方の持つ魔術である。

 僕らが普段「哲学」と聞くと、まさに「象牙の塔の中での空中戦」であり、僕らの現実との接点は無いような印象を受けてきた。「哲学科」に進む学生とは一種の変人であり、哲学者とは一体何をしているのか分からない人であるということが一般的な理解である時代もあったと思うし、今でもそうかもしれない。

 これは哲学若しくは哲学者側の問題でもあったし、あると僕は思う。哲学書の多くはジャーゴンともいうべき専門用語に満ちており、何を言っているのかは容易には読めない。「容易に読もうと考える事が間違っている」と哲学者は言うかもしれないが、「簡単に理解出来され得ないことは 往々にして最後まで誰も理解しない」ということはあると思う。難しいことを簡単に説明することこそがプロというものだと僕は思う。むしろ多くの哲学書はわざと難しく書いているのではないかと勘ぐってしまうくらいだ。

 その中で内田というお方の立ち位置は非常にユニークである。

 内田という方で哲学に親しみを覚えた方は間違いなく多いと思う。そうではない限り、著者の書いた本の多さや売れ行きは説明出来ない。装丁や題名を幾分カジュアルにして門戸を大きくし、書いている文章にも難しい専門用語は出てこない。身近な例から書き起こしてくるので頷きながら、僕らはみるみる哲学の森に入っていくことになる。森は樹海とも言うべき迷路ながらも、内田は「けもの道」を歩きながら僕らに手招きしてくれる。その「手招き」の絶妙さが彼の最大の魔法であると僕は思っている。

 森林浴という言葉がある。内田の本を読むことはその体験に近い。読み終えてなんだかすがすがしい気持ちになる。

 哲学が、これほど現実の社会を観る際に役に立つものだとは、内田が登場する前には想像出来なかった。その意味では内田に感謝すべきは僕ら一般の読者ではなく、哲学側だと思う。哲学は実に世俗的に役に立つことが分かってきた。

「銀河」  ルイス・ブニュエル

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 たまにブニュエルの映画を見たくなることがある。
 
 「たまに」という点が大事だ。いつも彼の映画を見ていたら、おそらく頭がおかしくなるかもしれない。これは例えば非常に癖のある食べ物にも似ている。常食には向かないが、たまに食べると美味しい。それが彼の映画である。
 

 本作を観るにあたって、キリスト教のバックボーンがどのくらい必要とされるのだろうか。
 
 タイトルバックでブニュエルは本作に出てくるエピソードは全て、実際のキリスト教関係の経典等から引用してきたと言っている。例えば現代のキリスト教徒の方は全て、かかるエピソードに知悉しているのだろうか。もしそうではない場合には普通のキリスト教徒の方にとっても本作の難度は実は高いのかもしれない。そんなことも考えてしまうくらい、本作に出てくるエピソードの多彩さには圧倒されるからだ。

 一方、キリスト教に関して余り知識がない僕にしても、本作は笑える場面が多い。本作は観ている人に共感や感動を齎すものでは全く無い。

 本作を観て涙を流す方がいるとしたら、失礼ながら相当の変人か、ブニュエルのマニアックなファン以外にはありえない。おそらく、劇場内を黒い笑いで満たすことがブニュエルの狙いであったはずだ。その意味では良く分からないながらも笑ってしまっている僕は正統な観客であるとも言える。

 ここから本来なら「笑い」とは何なのかという議論に話を持って行くべきなのかもしれない。但し、そんな固い話に持って行こうとすると、ブニュエルは肩をすくめるだけだと思う。
 
 この稀代のロードムービーはそんなに肩をいからせて観るべきではない。くすくすと笑いながらもなんとなく不安になってくる。そんな体験がこの作品を観賞するということだろうし、そもそもブニュエルの作品全体に渡る特徴なのだと思う。
 
 だからこそ彼の作品を観るのは「たま」で良いのだ。いつもなんとなく不安になっては居たくないものだから。

思考

 
 「思考をはじめる。これは内部に穴があきはじめるということだ」
 
                --「シーシュポスの神話」 カミュ   14頁 新潮文庫 -- 
 
 

スティーブ・ジョブス Ⅱ

 下巻の白眉は424ページからの「最後にもうひとつ」であると僕は思う。ここに紹介されているスティーブ・ジョブスの言葉は読んでいて驚愕するしかない。

 まず、彼はお金儲けと会社経営を厳密に分けている。大半の人にとっては会社経営を通じてお金儲けを狙うということなのだろうが、スティーブ・ジョブスの考え方はそれをいとも簡単に否定している。これは例えば芸術家がお金儲けと作品を厳密に分けているであろう点とほぼ重なって見える。その意味でスティーブ・ジョブスを動かしていた動機は芸術家のそれに極めて近い点が窺わせるものがある。

 スティーブ・ジョブス以外のアントレプレナーも当初段階では芸術家に近い精神を持つ方も多いと僕は想像する。但し、事業化していき、例えばIPOでもするような中で、株価や時価総額といった「数字」で価値を評価してしまいがちなのであろう。数字は確かに目に見えるものであるし、透明性もあるので使いやすいことは確かだ。但し、それはあくまで価値を測る一つの物差しに過ぎない。一つの物差しに拘り、絡めとられてしまうとしたら、既に「価値」そのものを見逃してしまうだろう。スティーブ・ジョブスが自由だったとしたら、彼は数字という物差しには囚われなかったからだと僕は読んだ。

 次に「クリエイティブであること」が如何に「残酷さを要求するか」という点が良く分かった。

 本書を読む限りスティーブ・ジョブスという方は残酷な方だったのだと思う。それは彼自身がそう言っている。なぜ残酷でなくてはならなかったのかという点もはっきり書き込まれている。「お粗末なものはお粗末だと面と向かって言うだけだ」と彼は言うが、そんなことは凡庸な僕らには到底出来ない。また到底できないからこそ凡庸なのだとも言えるのだろう。
 「クリエイティブであること」がいかにスティーブ・ジョブス自身に負担だったのかを読むことも本書の一つの読み方であると僕は思う。スティーブ・ジョブス自身が、スティーブ・ジョブスであることの犠牲者だったと言ったら、いささか言い過ぎなのだろうか。

スティーブ・ジョブス Ⅰ

 スティーブ・ジョブスという方は 名前は良く聞いてきたが、実像を知らなかったことで非常に興味深く読むことが出来た。読後感は二点だ。

 一点目。

 スティーブ・ジョブスが東洋思想やヒッピー文化をバックグラウンドにしていたという話は聞いたことがあったが、ここまでそれらに傾倒していたとは知らなかった。いや、もっと言うなら米国人が、かかる思想に突っ込む際の徹底ぶりには東洋人の一員の僕として驚いたということだ。

 禅等にしても実際の日本人の何%が禅を組んだ経験があるのかと考えてみると、かなり少ない数字が予想される。スティーブ・ジョブスは京都が好きだったというが、彼が見ていた「京都」は僕らが見ている「京都」とは既に全く違うものだったのかもしれない。

 僕らが日頃見逃しているものを「異文化」としてスティーブ・ジョブスが「見ていた」としたら、これは僕らとしても再度目をこすらざるを得ない。

 二点目。

 彼は色々な点で破綻していた点が良く分かった。そこまで書いた著者も著者だが、書かせたスティーブ・ジョブスもスティーブ・ジョブスである。この本を読んでいてフェアーを感じるのはスティーブ・ジョブスを聖人にしていない点にある。

 破綻しているスティーブ・ジョブスになぜ人がついて行き、大事を成せたのか。これは彼が芸術家だったからとしか言いようがない。

 「私はわがままな芸術家ではない。芸術家はわがままなものだ」

と言ったのは岡本太郎だと聞くが、まさにその言葉が当てはまる方が、ビジネスシーンに登場していたということなのだと思う。更に言うなら ビジネスシーンに芸術家が登場出来たという事自体が、極めて稀だと言えるのではなかろうか。

 
 それにしても56歳にしても夭折という言葉を常に思わせる読書であった。

絵を見ていて

 日本人学校の文化祭のようなものに出かけた。
 
 体育館の壁に幼稚園から中学生までの絵が掛けてある。見ていると、小学5年生あたりから、絵が見る見る上手になっていくことが分かった。そのころに「絵を描く」ということに自覚的になるのかもしれないなとも思った次第だ。
 
 一方、上手な絵とは実はつまらない絵であることも多い。
 
 小学1-2年生の絵を見ていると驚かされる。動物の絵にしても好き勝手に描いている。足の数や場所も覚束ない。つまり下手なわけだが、僕がデザイナーだったとしたら、その下手な絵の中に色々なヒントが見つけ出せるような気がする。おそらく子供たちは対象を余り見ないで、自分の頭の中にあるものを好きに書いているだけだと思う。とんでもないキリンを見ながら、それがその子にとってのリアリティーあるキリンに違いないと考えた次第だ。
 
 では、そういう自由奔放なままで大きくなる方が良いのかどうか。
 
 中学生の上手な絵を見ていると、そこには規則と規格といったものが感じられる。それがつまらなさを呼んでいるわけだが、ある意味で教育とはそういうものであろう。全ての人間が規格外れであったとしたら、社会はカオスであるだけだろうし、結果として70億もの個体が存在する生き物にもなれなかったはずだ。