くにたち蟄居日記 -102ページ目

「フクシマ論」からの抜き書き

 
 
 「支配があるから服従があるのではなく、服従があるから支配がある」とも言い換えられるだろうこの「支配―服従」関係に関する考察が示唆するのが、服従の主体があてはじめて支配という客体が成り立つという、一件常識と矛盾するような支配のあり方だ。
(38頁)
 
 「本書が解き明かすべき地方の服従の問題は、まさにこの自国内に後進性・周縁性を持った「他者」を見つけ出し近代的な「自己」が征服している極めてコロニアルなプロセスとも捉えることができるだろう。」(40頁)
 
 「かつて一時期あったとされる脱原発の兆しは、京都議定書以降の『CO2削減に役立つエコな原発』あるいは『停滞する日本経済を元気にする輸出商品としての原発』というスローガンのもとに跡形もなくなっている」 (64頁)
 
 「吉田茂は自らのコネクションのなかから財界に顔が利く白州次郎を東北電力の会長とし、本流派をバックアップした。白州の存在は大きく、福島県が求めた本流案が決定した際には『まず、本流案が通って開発が進んだのも吉田首相と白州会長のおかげです』と評価することになった」 (226頁)
 =>白州次郎の一面が出て来て興味深い
 
 
 「一つの、または多重の切り離し、言い換えれば排除の連鎖のなかで、排除と固定化が行われ、抑圧や葛藤の隠蔽が行われる構図」 (349頁)
 
 
 「原発の危険性をあえて報じようともせず『安全・安心』の大本営発表を垂れ流す旧来型マスメディアへの批判は既にあり、それは今後も追及されるべき点であろう。しかし一方で、圧倒的な『善意』『善き社会の設立』に向けられているはずの『脱原発のうねり』もまた何かをとらえつつ、他方で何かを見落としていることを指摘せざるを得ない。原発を動かし続けることへの志向は一つの暴力であるが、ただ純粋にそれを止めることを叫び、彼ら(原発周辺に住んでいて原発で生計を立てている人)の生存の基盤を脅かすこともまた暴力になりかねない。そして、その圧倒的なジレンマのなかに原子力ムラの現実があることが『中央』の推進にせよ反対にせよ『知的』で『良心的』なアクターたちによって見過ごされていることにこそ最大の問題がある。とりあえずリアリストぶって原発を擁護してみるか、恐怖から逃げ出すことに必至で苦し紛れに『俄か脱原発派』になるか。3.11以前には福島にも何の興味もなかった『知識人』の虚妄と醜態こそあぶり出されなければならない」  (373頁)

「フクシマ」論  原子力ムラはなぜ生まれたのか   関沼博

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分厚い本であったが一気に読み切った。大変引き込まれた。感想は三点である。
 
 一点目。著者が353頁で言いきっている通り、本書は原子力や原発に関わる本ではない。あくまで原子力と原発という「素材」を通して見えてくる、日本の近代から現代に渡る地方と中央の歴史である。地方がどのようにして、中央に取り込まれてきたのか、若しくは中央が取り込んだのか、もっと言うと結果として地方が能動的に中央に取り込まれるようにしたのかを扱った著作である。
 
 従い、素材としてはおそらく原子力や原発で無くても本書のテーマは成立したと思われる。但し、著者は原子力と原発に「地方と中央の在り方」の縮図を見つけたということである。おそらくそこに著者の慧眼がある。非常に鮮やかに、いやむしろ鮮やかすぎる位の切れ味が本書にはある。
 
 
 二点目。大震災の発生に伴う福島原発の事故の為に一気に本書が刊行されたと僕は理解した。
 
著者は本書の冒頭部分を事故前に書いたという点は僕らとしてきちんと踏まえて行かなくてはならない。では事故が無かったら本書はどうだったのだろうか。それを考えることには意義がある。
 
 今回災害を経験して感じたことは、災害とは引き出しの奥に隠していたものを一気に机上に乗せてしまう力であるという点だ。災害の発生によって「隠していたもの」が見えて来た中で、本書の視点の切れ味が初めて光っているということだと思う。特にフィールドワークを通じて、原子力ムラに住んでいる方を従来の紋切り型では無い形で浮かび上がらせた部分は、今回の災害を経たことでリアリティーが増したと僕は考える。
 
 
 三点目。本書の射程距離は実は誠に大きく長い。直観的だが、その「大きく長い」という点を「若書き」とする批判も出てくるような気がする。但し、実際に著者は若いのだ。「処女作には全てがある」という言い方もあるとするなら、著者の今後の展開を大いに楽しみにすることは僕の権利である。

「裏窓」  ヒッチコック

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 25年ぶりに見直した。
 
 本作のテーマは「男の不能」である。主人公は行動派のカメラマンだったらしいが、現在は片足の骨折で歩くことも出来ない。暇つぶしに部屋の窓から周りの部屋を見ているうちに殺人事件を見つけるという話だ。
 
 謎解きにおいてベッドの上の主人公は冴えているが、いかんせん全く動けない。主人公の代わりに恋人と家政婦が動き回る。
 
一方、主人公の友人である刑事は主人公からの問題提起に対して動きが遅い。主人公・刑事=男性が動けず、恋人・家政婦=女性が活躍するという図式に綺麗に分かれていると言って良い。映画の最後の部分で主人公は犯人に窓から突き落とされ、もう片方の足も骨折してしまうのも無理はない展開なのだ。
 
 もう一つは「主人公とその恋人」と「犯人とその妻」の関係は実は類似している。主人公が骨折で動けないことと、犯人の妻が寝たきりであることは、重なっている。
 
 犯人の妻は殺害されてしまうわけだが、主人公も実はその恋人に今後「殺されて」しまうのではないかと考える事は楽しい。
 
主人公は恋人に対しては、「自分はアウトドア派のカメラマンであり、そんな自分と結婚して世界を駆けまわること等は出来ないだろう」と言っている。元々お嬢さん育ちの恋人は、自分にはかような生活は可能であると断言しているが、確かに話が進むにつれて、彼女の行動力が光る場面が多い。それに対して、言っている割には何も出来ない状態に陥っている主人公はだらしが無い展開になっている。
 
それを見る限り、近い将来に恋人と結婚させられ、有る意味「不能」なまま、都会でだらしなく暮らすようになる主人公の姿も見えてくるような気がして来る。その状態を「殺害された主人公」と言い表しても良い気もして来る。
 
それにしてもヒッチコックの映画は面白い。面白みの中にちらりと深いテーマが見え隠れしているところが彼の天才である。芸術と商業を両立させることが出来る映画監督はヒッチコック以外には余り思い浮かばない。

「経済大国 インドネシア」 佐藤百合

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 会社の先輩から借りて読んだ。冒頭から引き込まれてしまい、一気に読了した。本書は色々な読み方が出来る本である。また実に「新書らしい新書」とも言える。以下三点の読み方が出来る。
 
 一点目。「アラブの春」が中東で勃発した現在に本書を読む価値は大きい。インドネシアはイスラム教国として世界最大である。従来、独裁者の元で開発が進められてきたという点ではインドネシアと中東諸国は似ている。しかるに、インドネシアの大きな違いは民主主義への転換において先行したという点にある。
現在中東では独裁者の退陣と、その後の混乱が見られている。その中で、インドネシアの成功事例は非常に彼らにとって参考になるはずだ。その意味では本書はイスラム若しくは中東に関与する方にとって大変示唆に富む一冊となるはずだ。
 
 二点目。僕は「新書らしい新書」と冒頭で言った。
 僕の考える「あるべき新書」とは、「その時代のその局面できらりと光る分析や洞察を持った本」である。一定の賞味期間の間は、実に美味しく消費出来る一方、賞味期限が過ぎると、その役割を果たすという意味だ。本書を貸してくれた先輩も、まさに今この瞬間に読むべしと言われたが、まさにその通りであった。また役割を果たした後でも、「その時代の証人」という形で長く残る新書もある。本書もそんな一冊になる予感がする。
 本書はスハルト以降のインドネシアを活写している。インドネシアに関して不勉強であった僕には大変勉強になった。特にスハルト以降に、どうやって多様性を抱え込みながらここまで来ることが出来たのかという点が実にすっきりと書かれている。現在のインドネシアを理解したい方には非常に参考になる一冊となるはずだ。
 
 三点目。インドネシアと他の東南アジア諸国との比較という面でも本書は読みごたえがある。例えばタイとインドネシアとの相似点と相違点等も本書で見えてくる。
仮に東南アジアで事業を展開しようと考えている人がいるとしたら、本書を通じて、どのような投資ポートフォリオを組むべきかという事を考えることが出来よう。
それは必ずしも「インドネシアこそが投資先としてベストだ」という話ではない。例えばインドネシアを核とするなら、タイ、ベトナム、おそらくこれからはミャンマーをどのような衛星国的に起用するのかという戦略である。若しくは、ベトナムを核としたい人が、市場としてインドネシアをどう位置付けるかという話も十分あり得る。
 
 本書は日本で売れて行くと聞く。インドネシアへの注目度が日本で上がって来ていることの証左であろう。多様性と寛容性に富んだインドネシアという国の在り方は日本として再度勉強するに値するということが僕の最後の読後感である。
 

「幸福度」

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 先日新聞を読んでいると、今後は GDP等の経済指数だけではなく「幸福度」というような指標を導入して、国民生活の向上を図りたいという話があった。
 
 幸福度というとブータンが高いことで有名である。ブータンは早い段階で「幸福度」という指標を導入したとも聞く。遅まきながら日本も経済成長以外の方向性を模索し始めたということなのだろう。
 
 まあ 別に悪い話ではないとは思うのだが、そもそも「幸福度」なるものが指標化されうるのかどうかという点には要注意だと思う。何が幸せなのかは千差万別であり、最大公約数的に纏まるものかどうかは僕にとっては定かではないからだ。
 
 但し、もっと怖いのはそうやって決まった「幸福度」という指数が独り歩きする点にあると思う。本来指数に出来ないものを指数化する国は既にファシズムの道を歩き始めているのではないだろうか。未来のファシズムが悪いものかどうかという議論もあろうが、少なくとも20世紀という時代に様々なファシズムを経験してきた僕らとしては、ファシズムに警戒することは無理が無いと思う。
 

Stay hungry stay foolish

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 「 Stay hungry   Stay foolish 」
 
 この言葉はスティーブ・ジョブズがスタンフォード大学の卒業式の講演で使ったことで有名になったという。昨年の彼の死去に際しても、繰り返し紹介されていた。もっとも、この言葉は彼の発明ではなく、1970年代の雑誌に有ったものらしい。
 
 僕はこの二つの言葉は、似ているようだがかなり違うとも思う。また、簡単に頷いてもいけないと考えるようになってきた。
 
 スティーブ・ジョブズが東洋思想に傾倒してきたことは有名だ。上記の言葉でStay foolishという部分は実に東洋的である。「大賢は愚なるが如し」という言葉を持っているのも僕らである。荘子等を読んでいても愚者が出てくるが、概して彼らは賢者が身をやつしたものである。時代は下がって西郷隆盛も「金も名誉も命も要らないという愚か者だけが、一大事業を成し遂げる」というようなことも言っていた。Stay foolishをどう訳すかにもよるが、「愚者であれ」という日本語に直すと、実に東洋的だ。
 
 一方、Stay hungryとはどうか。 僕にはこの言葉は西洋の言葉に響いてくる。
 
 まず人類の歴史の大半が飢餓との戦いであったという事実がある。言葉通り「食うための働く」ということであったわけだし、今なお世界では一日4万人が餓死しているという。そういう中で例えば僕らには「唯だ 我 足るを 知る」というような言葉を持つ。与えられたもので満足しなさいという意味だと僕は解している。
 勿論、「ハングリーさが無い若者」という言い方も、この三十年あるわけだが、それはこの三十年だからこそ言える言葉であろう。それ以前は、全員がハングリーだったのだ。
 
 その中でスタンフォード大学卒業生という世界のエリートたちに「もっと貪欲であれ」というスティーブ・ジョブズの意見は、気持ちはわかるが、本当なのだろうかと僕は思ってしまう。また、そう疑うことは大事なことではなかろうか。
 
 

「バパ・バリ 三浦襄」  長 洋弘

 インドネシア在住ということで本書を読む機会を得た。著者は教職にありながら、この労作を書き上げた。読後感は二点である。

 一点目。本書を読みながら「責任」という言葉を何度も考えさせられた。

 本書の主人公である三浦が自決した理由の一つとしては、インドネシア独立を説きながらもそれが果たせなくなった事にあると読んだ。自決することで自らの言葉に対する責任を取ったと僕は解した。

 振り返って21世紀の現在、「責任」という言葉は変質してはいないか。「責任」とは「自ら取る」ものではなく、「他人に取らせる」ものになってはいないだろうか。
 「自己責任」という言葉もここ十年よく聞くが、基本的には「他人に投げつける為の言葉」になっている。「自己責任でやります」ではなく「自己責任でやれ」という使い方だ。しかも往々にして弱者に投げつける場合が多い。格差社会が進行する中で、弱者を更に追い込む言葉として「自己責任」という言葉にはある種の毒があると僕は思う。その中で再度「責任」という言葉の持つ毅然とした意味を本書を通じて考える機会となった。

 二点目。現在のインドネシアを三浦が今見たとしたら何と思うだろうか。

 三浦が望んだ通りインドネシアは独立を果たした。独立後のインドネシアは開発独裁の道を辿った。紆余曲折は有ったが、基本的には前に進んできていると僕は思う。特にリーマンショック後のインドネシアの立ち直りの速さと力強さは見るべきものがある。

 インドネシアは、17,000を超える島と500を超える言語を抱えているという多様性を持つ。それはインドネシアの発展の阻害要因ではあった一方、「多様性を抱え込める」という懐の深さも培ってきたと思う。イスラム教の国としては世界最大でありながら、いわゆる「欧米対イスラム」という最近のステレオタイプとも言えるパワーゲームからも免れている。その理由の一つとして、多様性を認めることが出来るという資質もあるのではないか。多様性を認めることが出来ないことで起こった悲喜劇はいくらでも例があるのだ。

 三浦がインドネシアにどのような夢を持っていたのか知る由もなく、また現在のインドネシアが必ずしも彼の期待の延長上にあるのかどうかも分からない。但し、漸くインドネシアは、その潜在力を発揮しつつある。インドネシアの発展を推し進める力の一つに三浦の魂もあるのではないだろうか。

「帰らなかった日本兵」  長 洋弘

 
 
 著者の本「バパバリ」を先日読んだことで本書を読む機会を得た。

 インドネシア独立戦争に旧日本軍兵士が参加したことは聞いたことはあった。しかし、なぜそうなったのかに関しては漠然と「義侠心」程度としか考えていなかった。
 本書を読んでいてしばしば絶句した。多くの日本軍兵士は様々な偶然と必然の中で、インドネシア独立戦争への参加を強いられ、その後もインドネシア在住を続けることを強いられてきた事が良く分かったからだ。

しかも、その「強いられ」方が痛ましい。

多くの兵士は外部に強いられてそういう人生を選んだというよりは、自分の内面から自分の手で自分を「強いた」という点を著者は強く書き込んでいる。「生きて虜囚の辱めを受けず」という軍律が、兵士達に内面化し、それが如何に彼らの一生を縛ったのかという点に著者は強く反応している。その意味では彼らの「戦争」は彼らが亡くなるまで続くことになったのだろう。

「インドネシア在住を続けることを強いられてきた」と上記で書いた。但し、その言い方には正しくないかもしれない。何故なら 多くの人は、彼らがインドネシアに家庭を持ったことでインドネシア在住の継続を選んだからだ。
著者が撮影した多くの写真の中で、彼らは家族や友人に囲まれている。それらの写真からは日本を捨ててしまった哀しみというよりは、むしろ一家を為した幸福感と誇りが伝わってくる。経緯はどうであれ、日本ではなくインドネシアで生きていることを自ら選択したという前向きな気持ちが見える。

竹山道雄の「ビルマの竪琴」は小学生の時に読んだ。水島上等兵が帰国しないと決断したことは当時でも読んでいて感動的であった。しかし、実は小学生には未だ難しい話であることも今になると分かる。本書で描き出される一人一人がそれぞれの「水島上等兵」であり、そういう「水島上等兵」がインドネシアだけではなく、各地に多く居たであろうという史実を踏まえないと、あの話は読み解けないのかもしれない。
 

 時に絶句し、時に涙で字がぼやけながらも一気に読み終えた。インドネシアに現在在住している僕にとって非常に貴重な読書体験となった。

「ギルティ」

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 インドネシア住まいにてTVで本作を見ることは出来ず、DVDで一気に観賞したところである。一度に全話を観たので疲労困憊した。

 本作の縦糸は題名のギルティにある。本作の登場人物は何らかの形で罪、若しくは罪悪感を背負っている。その中で唯一主人公だけが、冤罪であり無垢な存在であったわけだが、復讐を通じて、最も罪深い存在になっていく姿が本作のテーマである。観ている方としては、主人公に感情移入してしまうわけだが、彼女の復讐が罪であることは免れない。

 サタンとは堕天使であるという。主人公も「堕ちた天使」という表現に当てはまるのかもしれない。
 

 本作の横糸は「親と子」である。登場人物は基本的には自分の親(祖父祖母)もしくは子との関係に悩まされている。本作で死んでいく登場人物は、何らかの形で必ず「親と子」を引きずっていることが分かる。ペットショップでお産した母犬も産んだ子犬を世話しない事が語られている。

 その中でも敢えて「親と子」の要素が中々出てこないケースが主人公である。本作の最後の場面になって漸く母親との和解を出してきているところを見ると、本作のテーマは主人公が母親と和解することにあるのかもしれない。

 こう考えると、主人公は縦糸横糸共に、登場人物の中ではまず「異人」として登場し、物語の進行につれて、同質化していくとも読めるのかもしれない。

 惜しむらくは ちょっと後半に話が冗長になっている。展開が一本調子になってしまった点は若干の減点は免れない。但し、前半のスピード感には引き込まれるものがあり、もう少し短く出来たらと思う次第だ。

 俳優としては管野美穂と唐沢寿明が抜群に良い。特に唐沢は脇役であるが、本作のキーマンとしての存在感が大きい。

年始の谷保天満宮

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 今回の帰国に際して、「歩く」ことを重視してみた。一週間弱の日本滞在であったが、その間に30キロ程度歩いた計算となった。
 
 歩いてみて分かったことは、歩く速度ではないと見逃すものが多いということだ。いままで自転車等で通った道も歩くと全く風景が異なる。色々なものが見えてくるので時として道草にもなってしまうが、そもそも道草こそが歩いてこそ可能になる贅沢な時間なのだ。
 
 正月三日に谷保天満宮まで歩いてみた。自宅から35分程度であり、ある意味丁度良い距離である。