くにたち蟄居日記 -103ページ目

震災を消費するということ

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 年末帰国して本屋に行く機会を得た。今回驚いたのは、震災関係の本の多さである。本の数だけではなく、震災を語る切り口の多さにも驚いた。心理、社会、建築、農業、水産、哲学、政治学、経済学、国際関係、医学、マーケティング等等、ありとあらゆる人間の「学問」からの発信があった。
 
 佐々木中という哲学者の話では「震災に対して何かを語らなくてはならないという圧力がある」ということだ。震災に対して、自分なりの見方と意見で「何か気の利いた事」を発言しないといけないというプレッシャーを感じた方は確かに多いと思う。本屋の山積みの本も、かようなプレッシャーの産物なのかもしれない。
 
 佐々木という方は更に以下を言う。
 
 「やはり、この事件(震災)も、オウム真理教事件などと同じく、二年ないし三年は文学そして思想や批評シーンで『ネタ』として消費されて、そのまま忘れ去られてしまうのではないか」 
 この「消費」とは何なのだろうかと考えている年始である。本屋に積んである本もかかる「消費」の始まりなのかもしれない。
 
 
 僕は、それが「ネタとしての消費」であるとしても、それなりの意味はあるのではないかと考える。
 今、本屋で考えることは、かかる膨大な書物は震災を「物語」という形にして「消化」しようとしている僕らの試みではないかということだ。
 
 震災は見事に理不尽である。人災と言う面はあっただろうが、そもそも10mを超えるような大きな津波が突然襲ってくるという事態は理不尽であり、理解不可能だ。津波は定期的に来ては物事を押し流してきたことも歴史だが、それが「自分自身に降りかかる」という事態は、いかなる人にとっても理不尽であるはずだ。
 
 そんな理不尽な状況に追い込まれた場合、僕らは何とかしてその状況を自分なりに把握し、咀嚼し、消化しようとする。宗教の起源もそこにあると僕は思う。身の回りの森羅万象のわけのわからなさを解決するには「神」という存在を設定することが合理的であったと僕は想像している。災難に対しては「神の怒り」という「物語」を立上げ、「神を鎮める」という行為(例えば生贄等)を行うことで災難を消化してきたことが人間の知性であったのではないか。それと同じ事が、今、本屋でも行われているのではないか。
 
 そう考えると「ネタとして消費」されることは「神を鎮める」という作業にも似ているのかもしれない。であるなら、一概に悪いことかどうかも含めて良く考えてみる余地もあるのではないか。

「ストロベリーショートケイクス」 

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 この映画を見ていてしきりと「捨てる」と「拾う」という言葉を思い出した。

 里子は隕石のような石を拾い、神と名付ける。里子はその神に勤務先のセクハラ上司の死と自身の新しい恋を願う。上司は死んでしまい、恋の願いは未完であるが、里子が転職したラーメン屋のコックが案外と恋の相手になるかもしれない。但し、石自体は最後、海に「捨て」られてしまう。

 塔子はトマトを「拾う」ことで、難航していた表紙のイラストを描き上げる。但し、注文先に出版社にそのイラストは拒否され、「捨て」られたかのように里子の勤務するラーメン屋に忘れられる。それを里子が「拾い」、秋代にプレゼントする。

 秋代は自分自身を「捨て」ていたが、里子にトマト農園に連れて行かれた事で人生を前向きに生きることを始める。結果としてトマト農園のトマトは、思い続けている男友達の家の前に「捨てる」ことになったが、上記の塔子がそれを「拾う」ことで新しい役割を果たす。

 ちひろは男に「捨て」られる女性として描かれているが、嘔吐している塔子を「拾う」ことで、新しい人生を目指すことになった。

 こうやって書き出すと、「捨てられた」物が「拾われる」ことによって、捨てた人と拾った人が次第に接近していく様が見えてくる。もっともらしい言い方をすると一種の贈与論のような話にも見えてくるくらいだ。

 レビューを見る限り賛否両論が多い。理由としては性行為の場面への言及が多い。僕としても、本作のいくつかの場面において違和感があったことは確かだ。但しセックスの嗜好というものは無数にあるわけであり、自身の違和感を以て、この作品の評価を定めるということ自体にはいささか不毛な気もしないでもない。むしろセックスシーンを忘れてこの作品自体を俯瞰してみると、なかなか良く出来ている作品だと僕は思う。特に池脇千鶴の芸達者ぶりや中村優子の見せる「女の二面性」等の演技力は見ていて感心した次第だ。その意味では本作は有る意味でいささか不当な評価を得ている面もあるかもしれない。僕個人としては、本作はなかなか良く出来た作品だと考える次第だ。

待つということの豊饒さ

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 以前お願いしていた椅子が完成し、昨日届けて頂いた。以前の椅子よりすっきりしたデザインのものであり、何だか部屋が大きくなったように見える。部屋の大小とは、平方メートル以上に心理的な面があるのかもしれない。
 
 今回椅子を注文したのはまだ暑い盛りであった。
 
 製作者の方よりは、既注文が色々と入っているので、完成までにはしばらく時間が掛る点を説明を頂いた。こちらよりも、全く急いでいるわけではなく、製作者の方のご都合の中で作って頂ければ良いとはっきりと申し上げた。
 
 その言葉通り 急いでいたわけではないが、完成を楽しみに待っていたことも確かだ。昨日受け取った際に、結局「完成するのを待っていた」という自分が分かって、なんとなく自分で自分が可笑しかった。
 
 但し「待つ」ということの「豊かさ」にも気がついた。
 
 本当の鰻屋とは注文を聞いてから鰻を割いて料理するものだと聞いたことがある。当然ながら相当の時間が掛る。その間は、つまみで酒を飲んでいようかという話になるのだろうが、その「待っている」という状態に一種の贅沢があるのではないか。
 
 携帯電話の無い時代のデートも思い出した。待ち合わせ場所で待っていても先方はなかなか来ない。携帯電話が無いから、相手にメールも電話も出すことも出来ない。来るかどうかが分からない相手をとぼとぼと待っているというのも、今から考えると味わいのある時間であった。そこにも一種の甘美な時間があったのかもしれない。
 
 振り返ってみると、「待つ」ということをどんどん減らそうとしているのが僕らのやってきていることであるような気もする。「待たない、待たせない」ということをどんどん進めてきたことで出来あがってきた時代に住んでいる。
 
 ファストフードのファストは言葉通りfastである。食べる速さが速いということ以上に、注文してからの早さを競っているのではないだろうか。そう言えば見込みでハンバーグを焼き始め、注文が無ければ捨ててしまうという話も以前聞いた。回転寿司も同様だ。そこまでして人を待たせることを恐れているということなのだろう。
 インターネットの速さ競争も大変なものがある。出てきた当初には、インターネットそのものに驚いていて少々の遅さなどは気にも留めなかった。それが年月を経て、遅いネットやPCに腹を立てる自分がいる。
 
 ただ、もう一度考え直しても良いのではなかろうか。「待っている」という時間の豊饒さと甘美さというものを取り戻せる余地も十分あるのではないか。「心待ちする」という言葉も良い言葉ではないか。
 
 というようなことを大晦日の早朝に、新しい椅子に座って先程から考えているところだ。新しい椅子は、昔からこの家にあったかのように、既に部屋と僕らに馴染んでいるように見えるから不思議である。
 
 
 
 
 

年末に日本で思うこと

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 年末に帰国してTVを見ていると、当然ながら、震災関係の番組が多い。見ながら、何か違和感があることに気がづいた。
 
 今TVで語られる震災には「あの」という言葉がついている。「あの日」「あの震災」「あの津波」という形で物事が語られている。
 
 僕はその「あの」という言葉についていけない。それは3月11日とそれからの数カ月の間、日本に居なかったからが原因であることが今回分かった気がした。
 
 「あの」という言葉には 話をしている相手と「語られていることを共有している」という部分がある。淀川長治が解説で「あの」を連発したのは、聞いている方が次第に淀川長治から直接語りかけられている気がする為の 呪文を唱えていたからだという。「あのショーンコネリーはですね」と言われると、自分も淀川長治と一緒にショーンコネリーに会ったことがあるような気がしてしまう。
 以上は以前呼んだ「括弧の意味論」という本からの受け売りなのだが、それを痛感していることがこの年末の僕である。
 
 いくら「あの」と言われても、自分の中に対応するものがない。これはとりもなおさず震災経験がないからだと僕は思っている。震災直後の日本に居合わせなかったということが、いかに自分にとって大きな欠落となっているのかを考えているところだ。
 
 2011年は僕にとっては「震災を経験出来なかった年」ということになりそうだ。おそらく、その欠落感は案外今後の僕にとって大きいものになるかもしれないとも思いながら。
 
 
 
 

年末の一時帰国

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成田空港に早朝到着し、浅草にドジョウを食べに行った。
 
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個人の時間の奪い合い

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 「ソニーが足踏みしている間に、インターネットを含めた消費者向けビジネスはものすごいスピードで
 
  進化している。今、起きているのは「個人の時間の奪い合い競争」(外資系証券)だ。人間の限られた
 
 余暇を対象にしたビジネスで、勝者になれる企業は多くない。」
 
                                            --12月27日 日経WEBから --
 
 いくら物事が早くなっても、時間の有限性は変わらない。我々は常に「早さ」と「速さ」を求められている時代にいるようになったが、時間だけは変わらないのだ。いや、年齢が増えるにつれて、時が流れるのも速くなってきたような気がする。

「ひとりで生きられないのも芸のうち」 内田樹

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 本書では「他者とは何なのか」をひたすら追求していると読んだ。
 
 日本人は自己主張が弱いと一般的に言われてきた。学校でも「自分の意見を持ち、主張すること」を言われてきたし、会社においても同様である。それは有る程度までは正しいと著者は思っているだろうし、著者自身も「自分の意見を持ち、主張」していることは著者の数多い著作を見ても分かることだ。
 但し、そこに落とし穴もあるということが著者の指摘である。余りに自己の拘泥する余り、「他者」というものに対する認識が甘くなってきたという問題提起がある。
 
 「認識が甘くなってきた」と僕は書いた。それはかつての日本ではどうやら他者というものに対して非常に厳しい認識があったと想像するからである。本書でも描かれる葬儀への考え方は優れた哲学であり、昔の人は、死者という名前の他者ときちんとコミュニケートすることが出来たことを示している。
 振り返って、現代の日本では他者とはコミュニケートする対象ではなく、競争するものに成り下がっている。本来であるなら、他者をきちんと設定し把握し分類することで、自分の立ち位置と足元が定まるはずであるのに、他者が矮小化されてしまったことで自分の位置が分からなくなってしまった。「自分探しの旅」であるとか「運命の相手を探す」という風潮が現代にあるとしたら、それは定点を失った人が抱く妄想に近いのかもしれない。
 
 著者は「自分の欲するものは他人に贈与することによってしか手に入らない」と言う。そこに著者の贈与論の面白さがあるわけだが、その前提としてきちんと他者が目の前に生き生きとして立っているのかどうかが必要であろう。
 勿論他人は目の前にいることは間違いない。後は、その他人を他者として捉える知的作業が必要なだけである。僕らは他者を通じてでしか自分を理解出来ないはずだ。自分の性格にしても能力にしても、全て他者とのコミュニケートの中で見えてくるべきものだろう。その「他者というもの」をどうやって復権させるのか。それが著者のチャレンジなのだと僕は理解した。
 

大椿

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  「上古に大椿なる者あり、八千歳を以て春と為し 八千歳を以て秋と為す」  
 
   太古の昔には大椿という木があり、8千年を春とし、8千年を秋としたという。
 
 荘子の面白さは物事の単位を変えてくる点にあると思う。僕らが日頃物事を考える単位が分であったり時間であったり月であったり年であったりするわけだが、それに対していきなり八千年という単位を四季の一つの長さと言ってくるわけだ。
 
 物事を考える単位をどう取るのかは、その人のセンスである。
 
 一円単位で細かく考えていて、結果として億円単位で損をするということも案外ある。また億円単位で考えて結果として、どんぶり勘定に陥ることもある。物に当たるに際して、どの単位を使うかは、死活的に重要であることは多い。
 
 但し、そんな考え方も実はこざかしいではないかと言ってくるのが荘子である。「単位を忘れたらどうだ」という主張にも読めてくるではないか。
 
 
 

インドネシアの夕焼け

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スラバヤの夕焼け
 

古代建築の強さ

 
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 「 斑鳩の寺工の口伝に『樹木は生育の方向のままに使え』というのがあります。
 
  一度も日に照らされていない方向を南に向けると柱はとたんに弱くなる。節を
 
  南に向けているのは この柱が山にあるときのまま、枝の張っていた南向きの
 
  方位で使われている証拠です」 
 
 
 
               --日経新聞 12月18日「美の美」からーー