「NARASIA」 日本と東アジアの潮流
平城遷都記念1300年と言う趣旨で、この1300年間の日本とアジアを俯瞰するという野心的な一冊である。「奈良」を日本の原点と定めた上で、奈良とアジアとの繋がりを書きだそうという構想だ。底流としては、欧米の地位低下の中で、アジアの一員としての日本を考えたいということだと理解した。
日本人はかなりのシルクロード好きだと思う。かつてのNHKスペシャルにて取り上げられ、喜多朗の音楽も相俟って、シルクロードという言葉を知らない日本人も比較的少ないと思う。
何故日本人がかようにシルクロードに惹かれるかと考えることは案外楽しい。僕の理解としては奈良の正倉院を象徴として「日本はシルクロードの終着点である」という考え方が日本の中にはかなりあるからこそ、シルクロードへの興味と親しみが大きいということだ。
そうして、そこには「シルクロードとは西から東に物が運ばれる道である」という無意識の理解があると思う。そもそものシルクロードとは中国の絹が中国から西に向かう道であったことを考えると、既にベクトルが逆であることも興味深い。
日本は極東という範疇にある。言うまでもなく、それは「欧州から見た東の果て」という意味だ。米国中心だったら、「西」に範疇されたに違いない。そもそもイスタンブール以東は全てアジアであり東洋だった。イスタンブールを終着駅とした急行に「オリエント急行」と名付けたのも、それが理由である。
そういう「地理」感を変えたいということが本書の狙いであると僕は読んだ。地球という丸い星には本来「東西南北」等は有り得ない。「東西南北」が成り立つには、どこかを定点を決める必要がある。「自分こそが定点だ」という主張の衝突が、戦争の大きな原因である。
日本人はかなりのシルクロード好きだと思う。かつてのNHKスペシャルにて取り上げられ、喜多朗の音楽も相俟って、シルクロードという言葉を知らない日本人も比較的少ないと思う。
何故日本人がかようにシルクロードに惹かれるかと考えることは案外楽しい。僕の理解としては奈良の正倉院を象徴として「日本はシルクロードの終着点である」という考え方が日本の中にはかなりあるからこそ、シルクロードへの興味と親しみが大きいということだ。
そうして、そこには「シルクロードとは西から東に物が運ばれる道である」という無意識の理解があると思う。そもそものシルクロードとは中国の絹が中国から西に向かう道であったことを考えると、既にベクトルが逆であることも興味深い。
日本は極東という範疇にある。言うまでもなく、それは「欧州から見た東の果て」という意味だ。米国中心だったら、「西」に範疇されたに違いない。そもそもイスタンブール以東は全てアジアであり東洋だった。イスタンブールを終着駅とした急行に「オリエント急行」と名付けたのも、それが理由である。
そういう「地理」感を変えたいということが本書の狙いであると僕は読んだ。地球という丸い星には本来「東西南北」等は有り得ない。「東西南北」が成り立つには、どこかを定点を決める必要がある。「自分こそが定点だ」という主張の衝突が、戦争の大きな原因である。
スラバヤの日本人墓地
昨日は東ジャワの日本人会による、スラバヤの日本人墓地の墓参に参加した。雨季のスラバヤにて雨がぱらつく墓地は、タルコフスキーの映画を思わせるものもあった。
考えてみると、日本ではお墓参りなどめったにしない僕が、合った事もない人の墓参に行くのも奇妙な話だと我ながらおかしみも感じる。スラバヤ日本人墓地に関しては昨日僕が挨拶で読み上げた部分を以下に転記する。
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この墓地は1984年に完成されたものです。2002年にご逝去された石井正治様が、当地で亡くなられた日本人諸先輩を慰霊するために非常なる熱意を持って設立されたと聞きます。
このクリスチャン墓地には大正年間から昭和16年までの間に亡くなられた方が埋葬されており、120基の墓地が記録されていたそうです。しかし、以前は墓地も荒れ果てており、広範囲に点在していたそうです。それを一か所にまとめて供養できるように尽力されたのが石井様でした。
戦前の一時期にはスラバヤには日本人が5000名いらしたそうです。勤勉かつ誠実に働かれ、インドネシアの方からの信頼も厚い方が多かったそうです。また独立戦争の際に亡くなられた454名の残留日本兵の方もここに眠られております。
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僕はたまに自分がどこで死ぬのだろうかと考えることがある。自宅があるのが、日本の東京の国立だから、そこで死ぬ可能性が高いとは思っている。しかし、案外海外のどこかでひっそりと死ぬのも一案なのかもしれない。
海外に住む日本人
日本で海外旅行する人は年間のべ1600万人程度とのことだ。人口1億3000万人から考えると、10%以上とい数字にはなる。「のべ」の数字なのでなんとも言えないが、非常に比率的には高いとは思う。一方、海外に住んでいる日本人は110万人程度らしい。これは人口の0.9%となる。
0.9%という数字が大きいか小さいかは議論の余地はあると思うが、一つ言えることは「海外を旅行すること」と「海外に住むこと」は全く違う体験であるということだ。
旅行先なら楽しいことばかりで済むことが多い。美味しいものを食べて、珍しいものを見て、それで終わりであることがしばしばだ。但し「住む」となるとそうはいかない。良いところだけではなく、悪いところも見えてくる。悪いところも見て見ぬふりでは済まないことも多い。受け入れて、折り合いをつけて、それで生活していくしかない場面も多いのだ。
但し、考えてみるとなんでもそうかもしれない。日本においても同様だし、もっと卑近な例で言うと恋愛と結婚も似たようなものに違いない。恋愛と結婚の間にある大きな段差はまさに「海外旅行」と「海外在住」の段差に似ていないだろうか。
結局「コミットする」ということの意味だろう。「何かにコミットする」ということの重さだと思う。海外のある場所に住むということは、好きにしろ嫌いにしろ、その場所こコミットすることを意味する。海外旅行の気楽さはコミットメントがないからに他ならない。
コミットとは、すれば良いものではない。安易に何でもコミットをしてしまう人は基本的には周りにも迷惑な存在になる。但し、人生のある局面においてはコミットが必要な場面があったことは今振り返ると分かることだ。僕も社命でインドネシアという国に住むことを強いられたが、結果として自分としてもこの国にないがしかのコミットをしたことも確かだ。
コミットの大きさと深さを「思い入れ」という言葉で表すのだろうか。
NHKスペシャル 3.11特集 2012年3月4日
本日(2012年3月4日)のNHKスペシャルは3.11の映像特集だった。
一般の方が撮影されていた様々な当日の映像を見ながら、つくづく考えたことがある。それは人はかくも撮影をすることが好きなのだろうかということだ。それほどまでに多くの方が映像を残されている。おそらく、撮りに行って亡くなった方もいたに違いあるまい。そういった「記録を残したい」という動機は人にとって何なのだろうかという点をずっと考えさせられた。
考えてみると「文字」の起源にも、かような「記録を残す」ということへの必要性か欲望性が有ったような気もする。今では読めないような古代の文字を見るにつれて、当時の方がなぜかように「記録に残すこと」に情熱を費やしたのかと改めて思ってしまう。
更に考えてみると「日記」を書く等の行為も、そもそも不思議な話だ。誰が始めたのかは分からぬも、例えば「土佐日記」などという本は935年に書かれた本だ。それを見ても、当時の人は普通に日記を書いていたようだ。そしてそれは現代にまで続いている。年の暮れの書店に山積みしてある日記帳を見るにつけても人は「記録を残すこと」が本能的に好きなのだろうかと考えてしまう。
今回の震災で史上最大量の津波映像が「記録」されたはずだ。津波の「記憶」は過去から言い伝え等で現代にも有る程度はあったが、ここまで「記録」されたことは初めてだろう。
おそらく次回に大きな地震が有ったら、まず間違いなく大多数の人がきちんと避難するに違いない。あれだけの映像を目の当たりにして、僕も初めて、何気ない日常の風景が一瞬にして悪夢に変わることが良く分かった。地震後の余り変わらない風景が30分後には水底になるということを映像として見たからである。
非常に不謹慎な言い方だが、今回の震災で残された「記録」は今後世界で多くの人の命を救うに違いない。そう考えないと命を賭して「記録」してきた方と、「記録される側」としてカメラの前で海水に呑まれていった方は救われない。「記録を残すこと」ということが人の本能だとしたら、その意味はそこにある。「記録」とは、きっと、未来に向けてのメッセージであるからだ。
徒然草の執筆期間
「 『徒然草』は吉田兼好が二十代から六十代にかけて書きためた断章であるが、今私たちがこれを 読んでも『これは若書き、これは晩年の作』と識別することができない。それほどに文体にも価値観にも 揺らぎがないのである。
これはどういうことかというと、兼好法師は二十代にしてすでに『ヴァーチャル爺』という想像的に確保された視点から世の中を眺めていたということである。」
(「子供はわかってくれない」内田樹P50)
実際の徒然草が本当にかような期間で書かれたかどうかは僕には分からないが、
上記が本当だとしたら、それはそれで面白い事実だと思った次第だ。
僕もこのブログを始めて6年たつが文体や価値観はどのくらい変わり、どのくらい変わらないのだろうか。
「パンドラ」

一気に8話を見とおした。この手のドラマは見始めると止まらない点で体に悪い。
話としては面白かったのだが、最後まで引っかかったのは「パンドラ」とは一体何を意味するのかという、ある意味では本作にとって死活的に重要な部分である。
本作を見る限り、ガンの特効薬としてのパンドラには何ら瑕疵も罪もない。「ガンを治療する代わりに重大な副作用がある」であるとか「この薬を得る為には大変な犠牲が必要となる」という設定であるなら、特効薬を善悪二元性をこめて、「パンドラ」と呼ぶことは理解できる。但し、本作での「パンドラ」はかような複雑なものではない。シンプルに良い薬のようだ。
それではパンドラとは「パンドラを取り巻く人々」という意味なのだろうか。本作の登場人物は各々自分思惑と欲望でガンの特効薬を奪い合う。但し、その姿には何も「パンドラ」と呼ぶだけの神話性も無い。ガンの特効薬ではなくて、「天才的な子役」であるとか「世界に数枚しかない切手」を巡る争奪戦に話を変えても、かなりの部分が成立してしまう気がする。
残念ながらこれ以上の事は現段階では僕には難しい。但し、一つ思ったことは「パンドラ」と「パンドラの箱」は厳密に言って別物であろうということだ。前者は「罪の詰まった箱を開けてしまう人」であり、後者は「罪の詰まった箱」である。人類にとって災難なのは「パンドラ」なのか「パンドラの箱の中身」なのかを考えることは案外と難しく、かつ面白い。
話としては面白かったのだが、最後まで引っかかったのは「パンドラ」とは一体何を意味するのかという、ある意味では本作にとって死活的に重要な部分である。
本作を見る限り、ガンの特効薬としてのパンドラには何ら瑕疵も罪もない。「ガンを治療する代わりに重大な副作用がある」であるとか「この薬を得る為には大変な犠牲が必要となる」という設定であるなら、特効薬を善悪二元性をこめて、「パンドラ」と呼ぶことは理解できる。但し、本作での「パンドラ」はかような複雑なものではない。シンプルに良い薬のようだ。
それではパンドラとは「パンドラを取り巻く人々」という意味なのだろうか。本作の登場人物は各々自分思惑と欲望でガンの特効薬を奪い合う。但し、その姿には何も「パンドラ」と呼ぶだけの神話性も無い。ガンの特効薬ではなくて、「天才的な子役」であるとか「世界に数枚しかない切手」を巡る争奪戦に話を変えても、かなりの部分が成立してしまう気がする。
残念ながらこれ以上の事は現段階では僕には難しい。但し、一つ思ったことは「パンドラ」と「パンドラの箱」は厳密に言って別物であろうということだ。前者は「罪の詰まった箱を開けてしまう人」であり、後者は「罪の詰まった箱」である。人類にとって災難なのは「パンドラ」なのか「パンドラの箱の中身」なのかを考えることは案外と難しく、かつ面白い。
3.11と9.11
3.11という言葉があり、9.11という言葉がある。
3.11を踏まえて9.11を見直すという議論がどこまで形成されたのか、若しくはされつつあるのかは僕は知らない。但しいかにもありそうなことだと勝手に想像している。
僕なりの平板な理解でいうと、9.11に対しては、オサマ・ビン・ラディンを中心とした「敵」を作り上げることが出来たにの対して、3.11はかような「仮想敵」を結実することが難しい点にある。下手をすると災害を齎した電力会社や時の政府が、仮想敵になってしまいがちかもしれない。
「索敵」という言葉がある。「敵を探す行為」をそう呼ぶと聞く。敵がいないと戦争はそもそも成り立たないわけだ。であるからこそ僕らは敵を探すのに忙しい。例えば会社生活においても、常に念頭におかなくてはならないものの一つとして「競合他社」という言葉がある。競合とは戦争と基本的には同じなのだ。その戦争を強く志向する考え方が時として「新自由主義」と呼ばれてきたものに違いない。
9.11を起こした人たちが目指したものがアメリカへの報復だとしたら、結果的にはアメリカを泥沼の中東での戦争に引き込み、アメリカの覇権を曇らせたという事態を見ていると、かような報復は成功したのかもしれない。
振り返って敵を設定しえない3.11が僕らに何を齎すのかは、実はまだこれからの話なのだろう。震災は今なお継続中であるということを僕らは案外忘れているのではないか。
検索エンジンの恐怖
ネット社会は匿名性を背景としている割には、個人情報を思わず書きこんでしまう不思議な空間だ。
例えばネットで何かを検索することを繰り返すということは、その人が自分の興味の有りようをひたすら検索エンジンに告白し続けていることに他ならない。既にアマゾンは、その人の検索や注文履歴に基づいて、逆に本をメールで提案してくる迄になっている。提案された本を見て苦笑することも多い。既に買ってある本であることもあるからだ。
検索エンジンは 僕より僕自身を知っているのかもしれないと考えることは時として恐ろしい。ミシェル・フーコーが今存命していたら、どのような権力構造を解説してくれるのだろうか。
国立に戻る日が来て
インドネシアのスラバヤに4年間駐在しましたが、4月に本帰国となりました。ようやく愛する国立での生活を再開することが出来ます。インドネシアもとても良い国ではあり、心残りもありますが。
「オデュッセイア」 ホメロス

本書が書かれたのは 紀元前8世紀くらいらしい。2800年前にギリシャで書かれた本を21世紀の日本で僕は爆笑しながら読んでいるところだ。
とにかく出てくる神様連中の人間臭さが面白い。自分勝手で、あちらこちらでひょいひょい浮気を繰り返していたり、突然呪いを掛けて人間を困らせたりと、やりたい放題である。何に似ているかというと「千と千尋の神隠し」に似ている。「千と千尋の神隠し」では八百万の神が同様に好き勝手に宴会をやっていたわけだが、その祝祭性はオデュッセウスの大冒険にも通じるものがある。
ここで多神教というものを考えてみても良いかもしれない。
日本人は上記八百万の神という言葉通り、元来神の多い伝統になれている。古事記を読んでいても登場する神の多さと種類の豊富さには驚くべきものがある。しかも、身勝手な神ばかりだ。気まぐれに天の岩戸にこもってしまう女神であるとか、放浪の末にヤマタノオロチと戦う神であるとか読んでいて面白さが違う。
一方、旧約聖書等の一神教はまるで雰囲気が違う。ヨブ記などを読んでいると、神とは圧倒的かつ理不尽な存在として書かれている。読んでいても面白いというよりは、むしろ辛い位だ。一神教が人類に与えてきた被害は非常に大きいと思う。勿論一神教が産まれたことで人類が進歩したという点も確かであろうが。
その中で本書は、僕の感覚では、多神教に慣れている日本人にとっては非常に親近感を覚える本だと思う。本書にスサノオが出て来ても余り違和感は無いかもしれない。多くの神が怒り、哄笑し、飲み喰らう。そんな汗くささが行間から立ち上る。本書が2800年前の本であることを忘れてしまう読書だ。
とにかく出てくる神様連中の人間臭さが面白い。自分勝手で、あちらこちらでひょいひょい浮気を繰り返していたり、突然呪いを掛けて人間を困らせたりと、やりたい放題である。何に似ているかというと「千と千尋の神隠し」に似ている。「千と千尋の神隠し」では八百万の神が同様に好き勝手に宴会をやっていたわけだが、その祝祭性はオデュッセウスの大冒険にも通じるものがある。
ここで多神教というものを考えてみても良いかもしれない。
日本人は上記八百万の神という言葉通り、元来神の多い伝統になれている。古事記を読んでいても登場する神の多さと種類の豊富さには驚くべきものがある。しかも、身勝手な神ばかりだ。気まぐれに天の岩戸にこもってしまう女神であるとか、放浪の末にヤマタノオロチと戦う神であるとか読んでいて面白さが違う。
一方、旧約聖書等の一神教はまるで雰囲気が違う。ヨブ記などを読んでいると、神とは圧倒的かつ理不尽な存在として書かれている。読んでいても面白いというよりは、むしろ辛い位だ。一神教が人類に与えてきた被害は非常に大きいと思う。勿論一神教が産まれたことで人類が進歩したという点も確かであろうが。
その中で本書は、僕の感覚では、多神教に慣れている日本人にとっては非常に親近感を覚える本だと思う。本書にスサノオが出て来ても余り違和感は無いかもしれない。多くの神が怒り、哄笑し、飲み喰らう。そんな汗くささが行間から立ち上る。本書が2800年前の本であることを忘れてしまう読書だ。