くにたち蟄居日記 -99ページ目

国立の彼岸花

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彼岸花。ママ下湧水にて。蝉の鳴き声も少なくなってきた。

谷保天満宮のお祭り

 
 
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谷保天満宮のお祭りの季節。
 

「ラブホテル」 相米慎二



 相米慎二の「ラブホテル」を漸く鑑賞する機会を得た。

 邦画における一時の日活ロマンポルノの役割の大きさは無視できないと僕は考えている。多くの若手監督が映画を撮る機会が与えられたこと、かつ監督に割と自由に撮らせる方針があった二点は当時の日本映画界には計り知れない効果があったはずだ。ある一定の性行為場面さえ有れば、後は、その監督が自分の世界を作ることが出来たと聞いている。本作を観ていても、相米監督が好きに作っている事が良く分かる。

 本作で印象的なのは階段だ。主人公のアパートの前の階段を上り下りする場面が非常に心に残る。
平たく言うなら「階段を降りてくることで出会いがあり、階段を登ることが別離を意味する」という
ところであろうか。特に最後の場面の階段での桜吹雪は、一種のケレンとはいえ、鮮やかである。ヒロインの抱えた一種の絶望感を桜吹雪で表していると言うべきだろうか。

 80分程度という長さも心地よい。制作会社としては予算面で長い作品を作るわけにもいかなかった
という面はあろうが、そもそも長すぎる映画も多いことは確かだ。本作も短いことで逆に
切れ味が深まっている。陰影の深い短編小説のような趣もある。かなりの傑作だと僕は考える次第だ。

「社会を変えるには」 小熊英二



 著者が一年間療養されていたとは知らなかった。本書を読んで一番驚いたのはその点である。

 本書で著者が説いているのは新しい「我々」を作ることだと読んだ。本書の373頁辺りで著者は従来日本にあった「個体」というものが成立していなくなったという指摘を行っている。即ち、例えば「高齢者」「主婦」「農民」「自営業者」というようなカテゴリーが難しくなってきたことが現代だと言っている。従来はその各々のカテゴリーに対する対応を考えれば、合計して最大多数の最大幸福を考えることも出来たと主張していると理解した。

 確かに現在の「主婦」は1970年代の「主婦」とは全く違った存在である。ある意味では非常に自由な存在であるし、若しくは逆に「主婦とはこれだ」というステレオタイプな答えを持てずに苦しんでいる存在なのかもしれない。

 そういうステレオタイプが壊れた中で、それでは「新しい我々」をどうやって作るのかという点が著者の興味である。

 著者は「新しい我々」を作り上げるに際する「依代」として原発反対運動を挙げている。つまり、各国各々に仮想敵は色々とあり、日本の場合には2011年3月の原発事故を奇貨と出来ないかという提案だ。

 これに関しては僕に対しては相当の説得性が有った。それは「そうなるだろう」という「分析」ではなく、
「そうであるべきだ」という自分ながらの「熱意」なのかもしれない。勿論原発という問題はそう簡単ではないと思うし、結論が直ぐに出るかもわからない。但し「依代」としての求心力は有ると思うからだ。

 グローバリズムは均質性ではなく選択可能性と多様性の増大だと著者は書いている。その中で「個体」がバラバラになってきたとしたら、どうやって「新しい我々」を再構築するのか。若しくは「新しい我々などはもはや不要」という議論もあるかもしれない。時代の流れが速い中で我々が若しくは自分がどれだけ議論に耐えられるのかという課題も見えてきている。

「ザ・クオンツ」 



金融機関に勤務しているわけではないので 本書への理解はいささか不足しつつも興味深く読めた。


 本書は現代の錬金術師たちの話である。昔の錬金術師はもろもろの化学品や鉱物を使って金(きん)を作ろうとした。現代の錬金術は金(かね)を使ってさらに金(かね)を作ろうとしている。材料の違いはあるが、志において同じと言ってよい。

 昔の錬金術は失敗に終わった。但し、その過程で化学と科学が発達したということも歴史であると
いう。現代の錬金術が失敗に終わるのかどうかはまだこれから試されるのであろうが、その過程で副産物として何が産まれるのかを考えることは楽しい。

 僕が直感的に思うのは、おそらくは人間に対する理解は深まるであろうということだ。

 高度な数学を用いて、クオンツ(天才的数学者という意味らしい)たちが支配しようとしているものは「市場」である。市場というものは基本的には人間が作ったものである以上、クオンツたちが支配しようとしているものは市場を通じて人間の欲望や心理である。

  クオンツたちは人間の心を二進法で表そうとしている。0と1だけで人間の心を表現できるなら、それを支配することも可能かもしれない。そんなように彼らは考えているのではないか。意識的にせよ無意識的にせよ。

 たとえば行動経済学という新しい学問も出てきた。人間は必ずしも経済合理性では動かないという分析だ。いや、人間の考える合理性は経済学の合理性とは若干異なるというように言うべきなのかもしれない。かような学問も現代の錬金術からの副産物の一つと言ってよいに違いない。

 そんなことを漠然と思いながら本書を通読した。まことに人間は人間臭い動物なのだなとも思いながら。

「火の魚」  

 
インドネシア在住中にNHKで一度観て以来、DVD化を願っていた。一時間に満たない作品ゆえ難しいとは思っていただけに今回実現して急いで購入した。

 本作には「死」のイメージが上手にちりばめられている。主人公が上演する影絵「幸福な王子」ではツバメと王子の死が語られ、老作家が書いている連載小説でも主人公の金魚娘は唐突に死んでしまう設定となっている。そして表題とも言える金魚の死。そこまで伏線を書きこんだ上で、主人公の病気が語られる以上、その先に主人公の死をどうしても思わされてしまう。老作家の主人公へのお見舞いが、二人の今生の別れのような雰囲気も漂う。

 但し、本作には不思議な明るさがある。主人公の凛とした健気さもあるが、主人公との出会いを通じて老作家が再生していく様子が印象的だからだ。「人生ってのは、自分が魚拓にされるまでの物語だ」と言っていた老作家が最後に「タバコを吸いてえ」と怒鳴るまでの物語こそが「再生」である

「人間の叡智」 佐藤優

 
 佐藤優の本は大体読んできた。本書は読んできた中でも上位に入る読みごたえある一冊である。

 リーマンショック、欧州危機等を踏まえて新しい帝国主義が出てきていると佐藤は時代を読み解く。その「読み解き」の際に宗教や哲学を使いこなすところが佐藤の凄味であり、説得力である。実際、ほぼ無宗教に近い僕らには宗教の持つ力が今一つ見えにくい。自爆テロの論理も良く分からない。但し、現代の世界では宗教がかような力を持っていることも事実である。その辺りをきちんと見据えないと現代は理解できないということだろう。その意味で語り部としての佐藤は現在の日本でも抜きんでた存在であると考えている。

 白眉は203頁だと僕は読んだ。そこで佐藤は「祈ること」の重要性を説いている。

 「神頼み」という言葉は、いささか無責任な行動に対して投げつけられる言葉であるが、僕らがある意味で忘れているのは「神に祈る」という行為かもしれない。これはある一定の宗教に帰依するというような話しではなく、「人間を超えた存在を感じる」ということだと僕は思う。僕らは妙に「人間」に対して根拠のない信頼を寄せていないか。人間を絶対視していないか。そういう問いが「祈り」という言葉に込められていると僕は思った次第だ。

「官邸の100時間」 

 
緊迫した一冊である。一気に読み切った。感想は二点だ。

 一点目。

 科学が進むことで、物事の「要素」が増えてきた点を改めて痛感した。例えば本書で書かれている計画停電
にしても、それが人工呼吸等に影響を与えて人命を脅かす時代になっているということである。電気を人間が使う前にはそもそも停電すら無かったわけであり、電気という道具を手にしたお蔭で電気を通じた色々な「要素」が僕らの生活をがんじがらめにしているという実態を見せつけたということなのだろう。

 そもそも電気が無ければ、原発等もできなかったと考えると、電気の持つ、ある種の罪深さというものもあるのかもしれない。
 その意味では今回の原発事故も「人類が電気を得たことに対する代償」という見方もある。

 「脱原発」という言葉は有っても「脱電気」という主張は流石に目にしない。「電気は必要不可欠だ」という大前提の上で、原発や代替エネルギーが議論されていることが現状である。

 二点目。

 事故直後の右往左往する人間ドラマが本書なのかもしれない。但し、僕としては本書を読むにつれて「よくぞ、そこで踏みとどまったものだ」という印象を強く持った。
 
本書に描かれている当時の状況には圧倒的な危機があったことが良く分かる。その中で、右往左往しながらも、とりあえず最悪の事態を回避出来た事も確かだ。それは分かってあげないといけないと僕は強く思った次第だ。

 
 原発事故は今なおOn goingな事故である。涼しい部屋で本書を読んでいる場合でもないと僕は思う。僕らはまだこれから「踏みとどまる」必要がある。長い闘いになることは見えている。

「原田芳雄  風来去」 

 
 京都駅の本屋で購入した。京都の夏は暑い。暑い中で重い本書を持って歩くことは大変である。

 原田という俳優は僕の偏愛する「ツィゴイネルワイゼン」という映画で知ったことが初めだ。もう30年ほど前である。その当時の原田という俳優は僕にとってはいささか怪優であるという程度の認識だった。

 原田は亡くなった後の追悼上映で「火の魚」を見たあたりから俄然原田が気になってきた。遺作である「大鹿村騒動記」も急いで鑑賞したくらいである。その流れの中で本作を読んだ。

 本作は原田という人間を俳優だけではなく、色々な面から掘り下げている点で面白く読めた。例えば、原田が年末に餅つき大会をやっていた話は前に聞いたことがあったが、本書でその状態が良く分かった。
 
 本書から見えてくる原田とは、好奇心が旺盛で、人に愛され、家族想いの一人の男である。幸せな人生だったと言って良い。

 こういう人間臭い俳優が少なくなってきたのではないかということが本書の読後感だ。その読後感が間違っている
ことを祈りながらも。

「山椒大夫」  溝口健二

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この一年溝口の映画をゆっくり観ているところである。感想は二点だ。

 一点目。まずどなたも言われている映像美である。

 宮川というカメラマンの能力の高さも言うまでもなかろうが、溝口の切り出す画面の格調の高さに感心するしかない。特に、これも多くの方が言及されているが、水面を舞台とした場面の美しさは際立つ。安寿がしずしずと入水する場面も良いが、その後に池の水面に波紋だけが残っている場面が素晴らしい。水を使ってあれだけ美しい映像を見たのは、タルコフスキー以来である。タルコフスキー自身も溝口の映画を偏愛していたらしい。

 二点目。話の筋立ての味わいがいささか「洋食」気味である点が面白かった。

 厨子王は人買いを禁止し、山椒大夫の抱える奴隷を解放する。この筋立ては、妙にヒューマニズムに満ちていて日本らしくない文脈ではないかという気がした。本作は海外に出すことを意識して制作されたという話もあったらしいが、それであるなら些か海外に媚びた筋立てを作ったのかもしれない。森鴎外の原作を読んでいないので、判断は留保せざるを得ないが。但し、海外に出すという点は本作の映像だけでもう十分すぎるほどだと僕は思う。

 何度も言っているが、邦画はある時期驚くべき豊饒さを持っていた時期がある。本作もその証左と言ってよい。今の邦画も別に嫌いではないが、もう少しやりようがあるのではなかろうか。