くにたち蟄居日記 -97ページ目

僕らはいつまで「ダメ出し社会」を続けるのか

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 僕はインターネットと新書が現在の「議論」を支えている2本柱だと最近考えている。特に新書の
貢献はめざましい。

 新書とは「旬の時期に旬のものを書く」というものだと考えている。季節の食事にも似ている。賞味期限
は決して長くはないが、ある場所ある瞬間にきっちり嵌ると大きな力をもたらす可能性がある。
 もちろん文庫本や単行本にも、それは可能なのだろうが、出版社が上手かったのは、新書という
ジャンルを確立した点にある。これは一社だけでは出来ない力技であろうが、幸いなことに多くの出版社
が新書に参入したことで、完全に新書の売り場が出来上がったと思う。

 本書もそういう「新書らしい新書」だと言える。著者自身が最後に「けっこう駈足で」書いたと言っておられる
が、旬の時期を逃すべきではないという点で、「駈足」こそが新書を書く正しい姿勢なのだと思う。多少粗い部分が
あっても早さが勝負という場面はいつでもあるのだ。

 僕としては「ポジ出し」の具体的な方策がもう少し欲しかった。但し、そういうものを著者に期待する自分に
問題があるとも反省している次第である。自分自身として社会への参加が不足している点も痛感している
次第だ。

はじめまして

 「国立」と書いて「くにたち」と読める人は この地球という 小さな惑星には ほとんどいらっしゃらないと思います。僕の住んでいる街の くにたちは 東京の西部にあります。
休日は 綺麗で長い並木通りを歩きながら ぼんやりとしているのが 僕の閑居にして蟄居な生活です。

谷保天満宮

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 三日になって谷保天満宮に出かけた。
 
 三日でもまだ混んでいる。多摩を代表する古刹である証左と言えよう。また、もともと学問の神様であり、ちょうどの受験シーズンでもある。絵馬を見ていても合格祈念が多い。
 
 おみくじは中吉であった。いい年をしていてもおみくじの結果はなんとなく気になる。中吉であるなら、まずは本年も良しとしなくてはならない。昨年もここでおみくじを引いたのだが、結果は忘れてしまった。
 
 お参りの後は、甘酒を飲みながら境内の梅林をゆっくりと散歩した。まだ一輪も咲いていないのは残念だが、それでも正月らしく参拝客でにぎわっている。珍しく猿回しも来ていた。猿は焼き芋を貰って器用に食べている。そんな猿を小さな子供たちがじっと見ている。見ている子供も猿のようだし、芋を頬張る猿も人の子供みたいだ。
 
 帰路に「たい焼き屋 ゆい」を見つけた。夏はかき氷をやられているゆいさんの屋台である。一つたい焼きを買って妻と半分に分けて、散歩しながら食べた。風の冷たい一月三日である。
 
 

「なぜ君は絶望と闘えたのか」 門田隆将

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著者の福島原発関係の本を読んだことで本書も手に取る機会を得た。余りの内容にしばしば嘆息しながら一気に読み切った。

 本書をどの切り口で読むか。「妻と子供を殺害された若者」という切り口もある。「日本の司法制度」という読み方もある。「死刑制度の是非」という角度もあろう。その中で僕は本書の題名「なぜ君は絶望と闘えたのか」にある「闘」という言葉に注目した。

 主人公である本村氏という方はしばしば自殺を考えた点は本書にも出てくる。妻と子供を失った絶望は想像するに難くない。いや、想像できないものがあると言う方が正しいだろう。その中で死を選ぼうと考えることはむしろ自然であろう。但し本村氏はそれを選ばなかった。それが本書の鍵である。

 本村氏には「闘う相手」があったということだと思う。それは加害者であり、日本の司法制度であることは本書が描き出している通りだ。但し、相手が何にせよ「闘う相手」がいたことが本村氏を生かしたのだと僕は読んだ。「闘い」というものの一つの本質がそこに現れている。「闘う」とは「生きること」であることが良く分かった思いがした。

 一方、本書は著者と加害者の交流も最後に描き出す。死刑判決を受けた後の加害者はそれまでの加害者とまったく違った様子を見せている点にいささか驚いた。この部分は感動的ではあるが、いささか咀嚼に苦しむ場面でもあったことは正直に言いたい。死刑の宣告を受けた方は本書では加害者と米国の死刑囚と二人登場するが、その二人は似ている。僕自身、死刑の宣告を受けた方と会ったことが無いため、理解する能力がないのかもしれないのだが。
 
 敢えて言うなら本村氏と加害者は「死」というものを間に置いて向かい合っている存在なのかもしれない。両者ともに「死」を直視することを強いられた。強いられたことで獲得している「位置」というものがある。その位置関係は全く正反対だとしても間にある「死」からは等距離なのかもしれないということだ。「死」を直視するという点は著者がその後に書いた福島原発の本にも似ている。その辺りに著者の基本的な物事の見方もあるのかもしれない。

「尾根のかなたに」 門田隆将

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 この年末年始にまとめて著者の本を読んでいる。本書が三冊目だ。

 日航機墜落に巻き込まれた家族の話だ。それも父親と息子に絞って取り上げている。そこに本書の特徴がある。

 考えてみると父親と息子の関係はある意味で一番難しいものがあるかもしれない。もちろんあらゆる家族関係はそれなりに複雑かつ微妙である。しかし、父と息子は、その直接的な会話の無さにおいて特殊かと思う。端的に言うと、「あまり話さない」わけだ。これは「男は無口であるべきだ」という日本固有の美学もある。男同士でなんとなく話すこともないという部分もある。そんな父と息子が「事故」を通じて、若しくは「死」を通じて、どのような「会話」をしたのかが本書のテーマだ。

 「会話」にも色々あることが伝わってくる。本書に出てくる「父と息子」は父の事故死によって、「会話」は不能になった。但し、そこから残された息子が父との「会話」を探る。「会話」とは「会話そのもの」だけではなく、「会話を志向する心が出来た瞬間」に成立している点が見えてくる。例え現実の父親が目の前に最早いなくても、確かに会話が出来る。そうして、その「会話無き会話」において、実は「父と息子」は最も適した関係なのかもしれない。そう本書を読んで思った。

 著者の大きなテーマは「死と向き合う人間」である。これは著者の三冊の本の底辺に流れる通奏低音だ。年末年始にまとめて「死」を考えることは大変勉強になっているところだ。

「この命、義に捧ぐ」  門田隆将

 
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 年末年始に著者の本をまとめて読んでいる。本書が4冊目である。

 恥ずかしながら終戦直後の台湾と中国との間の戦い自体を知らなかった。従い、
台湾の勝利の影にいらしたという根本博という方を知るのも初めてである。先入観無しに読めた一冊となった。

 「死に場所を求める」という言葉がある。

 僕らはいずれ死ぬ運命にある。死は免れない。「いつ死ぬのか」という問いは良く聞かれるが「どこで死ぬか」という
問いは少ない。
 「自宅で死を迎えるか、病院で死ぬか」という議論はある。 但し、それ以外に「死に場所」を議論する場面は余り
見ないような気がしている。但し、本当な「いつ」と同じくらい「どこで」という問いは重いのではないだろうか。

 根本という方は必ずしも「死に場所を求めて」台湾に渡ったとは思わない。あくまで「活きる」ために「死を覚悟して」
台湾に渡ったはずだ。
 「活きる」ということと「死を覚悟する」ということは両立出来ると僕は思う。陳腐ながら「よく死ぬことはよく
活きること」と言えるからだ。「この命、義に捧ぐ」という題名は、まさに「よく死ぬことはよく活きること」を表している。

 根本は台湾で死ななかった。台湾から帰国後14年たった昭和41年に74歳で亡くなったという。

 本書に付けられている年表は帰国してから逝去までの間に何があったのかは教えてくれない。ただ昭和35年に
根本が台湾を訪問して、蒋介石と再会した写真が一枚出てきているだけだ。
 その空白ぶりが潔い。台湾で活ききった根本が浮かび上がってくる。

 最後のエピソードが良い。これを読ませるために、著者は本書を書いてきたのかもしれない。読後感はそれに尽きた。

「死の淵を見た男」

 
 
 
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福島第一原発の吉田所長に興味があったことで本書を読んだ。

 人間とは「自分の死を認識する」ことができる唯一の生き物だと思う。自分が死ぬということをどうやって自分の中で
理解し飲み込んでいくのか。それが古来からの人間の大きな課題である。また自分の死を見つめることで人間の英知が
育ってきたということもあるだろう。

 本書で描かれる吉田所長以下の福島第一で原発と戦った人たちは、まさに自分の死を見つめることを強いられた。
自分の死を意識しつつ、それでも福島第一で踏ん張った人たちがある種の明るさを持って事態に対処していく姿
が非常に印象的である。特に最小人員以外は退避させた後に残った「最小人員」の方々(フクシマフィフティと後に
海外のメディアに呼ばれることになる)が、自らの死を覚悟したうえでの爽やかさがあったという部分は
本書の白眉である。

 そこに選ばれたフクシマフィフティとは特殊な人ではないことも描かれている。そういう「普通の人」が
自らの死を「乗り越える」ことが出来たという事実は重い。また自分がその立場に置かれた場合にも
同じような態度でいることが出来たろうかと考えることも重い。

 吉田所長は、福島では死ななかった。但し、その後闘病を強いられていると聞く。他の方も言われている通り
もう少し彼の話を聞きたいと強く思う。ご快復をお祈りする。

「新幹線 お掃除の天使たち」 

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 雑誌で取り上げられていたので読む機会を得た。新幹線の掃除に関しては、その手際の良さにいつも
感心していたが、その背後に何があるのかを本書を読むことでなんとなく理解できた気がする。

 「掃除」という作業は案外と深みがある。ただ汚れたものを清掃するだけにも見えるが
掃除をすることである種の地点にその人を引き上げるものがある。だからこそ、例えば小学校
でも掃除は重要視されるわけだし、お弟子さんの一番初めの仕事は雑巾がけだし、料理の見習いは
皿洗いなのだと思う。「物を片付けて、きれいな状態に直す」という作業自体に精神性があるのだ。

 それを新幹線の清掃でも行ったということが「テッセイ」という新幹線の清掃会社である。
ある意味では新しみはない。「掃除」に込められていた伝統的な精神性を素直に開花させたのが
テッセイである。

 掃除をすることを通じて「掃除しているもの」は実は「自分自身」である。本書で紹介される
実際に掃除をされている方が、掃除を通じて自らを高めていることが本書を読むと伝わってくる。
おそらくはサービス業というものの本質はそこにあるのではないかと僕は思う。人に尽そうと
考え抜くことが、逆に自分の為になっていく、それが本書を読む醍醐味である。

「踊る猫」 折口真喜子

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 日刊ゲンダイでの紹介を読んで購入した。

 夢枕獏の「陰陽師」にも似た怪異譚である。但し蕪村を主人公としている分時代が下っており、中世の
あやかしの物語ではなく、近世のファンタジーである点で若干趣も違っている。また内容においては
俳句の「軽み」ともいうべき軽妙洒脱さはありながらも、きちんと書き込んでいるテーマは密やかな重さも
湛えている。あっさり読めても案外ずしんとくる作りとなっていると言える。

 個人的な難点としては文中に出てくるカタカナにいくつか違和感を感じる場面があった。これは著者の
作戦なのかもしれない。ともすると古風な方向に流れてしまいそうな題材に幾分か異物を混ぜ込むことで
読者になんとなく居心地を悪くさせるという戦術は確かに一つあるとは思う。但し、「居心地良く」
読んでいた僕としては、アサリの中に砂を噛んだような気もした。

 「夜の鶴」が一番好きである。子を持つ親として、これは読んでいて正直辛い。但し、最後の明るさが
救いでもある。こういう結末をかける著者の人間の幅には感銘を受けるしかない。

 新人、とのことらしいが、楽しみな方である。

「ダークナイト」 

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 出張中に「ダークナイトライジング」を鑑賞したことで慌てて本作を後から鑑賞したところである。

 本作の面白みは「善と悪が区別がつかず混沌としている」という一種の世界観にある。もっというと
各々の登場人物が自ら善なのか悪なのかが分からず、思い悩んでいると言っても良い。主人公のバットマンに
しても完璧な善人とは言い難い負のオーラをまとっている。また、そのオーラの纏い方が本書の味わいの深み
になっている。

 勧善懲悪のホワイトナイトはえてして平板なものだ。日本語表記の問題だが 本作の「ダークナイト」
の「ナイト」は夜=Nightではなく騎士=Kninghtである。「暗い夜」ではなく、「暗黒の騎士」という
表題名である点は重要だ。そしてそれはバットマンを指しているわけだ。

 その中でジョーカーだけは迷いがない。はっきりと「悪」である点を本人が自覚し、自覚的に行動を
とっている点で明快な存在である。本作ではジョーカーの存在感が際立っているわけだが、それは
彼の容貌魁偉さからではなく、立場の明快さによるものだろう。実際、登場人物たちがどんどんジョーカー
に悪へ引きずり込まれていく点が本作の大きな見所である。

 それにしても「悪」には「美学」を込めやすい。暗闇の中での光の光芒が鮮やかである点と同じだ。
暗闇の中では僕らも時としてどんな悪いことをやっているのかもしれない。そんな動物としての
本能も感じさせる一作だ。