くにたち蟄居日記 -96ページ目

「あんぽん -孫正義伝ー」 佐野眞一

 
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 著者の佐野という方は実に博覧強記である。強記すぎるきらいも若干あると思う。即ち、いささか「薄い」内容の本も散見されると個人的には思う事がある。但し、ツボにはまった時の著作の迫力はすさまじい。ダイエーの中内、読売新聞の正力を書いた著作には圧倒された。本作も、久しぶりに迫力ある一冊である。

 今をときめく孫正義の半生を描く本である。本人やその周辺を取材することを前提とすると考えると、例えば佐野の以下のような書き方には正直驚いた。

 「孫正義にいつもまとわりついているいかがわしさは一体どこから来るのか」(14頁)

 「紙の本の将来を心配するより、自分の会社の将来を心配するほうがいい。
    三十年後になくなっているのはソフトバンクの方じゃないか。そんな啖呵の一つも
     切りたくなってくる」(177頁)

 「孫は豚の糞尿と密造酒という”身体性”に溢れた朝鮮部落で生まれた」(220頁)

 こういう事を書く著者も凄いが、書かせている孫という方も凄味がある。本書はいわば佐野と孫との間の腕相撲のような本である。両者の汗臭さが行間から漂ってくる。佐野は孫の出自に関して「豚の糞尿と密造酒」という表現を本書で至る所に書いている。そういう「臭気」を強く喚起させる書き方を佐野は自覚的に採用したということなのだろう。

 それを許した孫という方の一種の戦略も見えてくる気がする。

 アメリカンドリームの体現者でありながらも、アウトサイダーであり続けるであろうという孫のこれからの立ち位置も透けて見える気がする。佐野は、それを「在日」という孫のルーツに求めていると解したが、僕には更に「20世紀と21世紀の連続と断続」というような言葉も思ってしまう。
 「20世紀的なもの」というものを強く背負ってきた孫という一族の中から孫正義という「21世紀を(部分的にせよ)背負った情報革命家」が出てきた。そこには連続するものと断絶するものがあり、その両義性を孫という方が一身に集めていると僕は強く感じた次第だ。

 著者は本書をスティーブジョブスの自伝なみに面白いと自画自賛している。その言葉には偽りはない。臭気紛々たる一冊だ。臭気がきつい食べ物はえてして大変おいしい。本書の魅力はそういう強烈な味わいにある。

はじめて七年

早いものだ。

今考えてみると「ベストを尽くす」とはそんなに簡単な事ではない

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 1月12日の日経新聞に「覚えておきたい現代の名言」という記事があった。
いろいろな言葉が紹介されていたが、「失敗」を扱っている以下二つの言葉
に注目した。
 
 
1 成功の反対は失敗ではなく「やらないこと」だ。
     ――佐々木則夫(サッカー日本女子代表監督)――
 
2 ベストを尽くして失敗したら、ベストを尽くしたってことさ
     ――スティーブ・ジョブス(アップル創業者)――
 
 
 僕は入社一年目の時に指導社員から「この仕事に関してはどうするつもりだ」
と言われて「ベストを尽くします」と答えたことがある。
 すると指導社員から「ベストを尽くすなんて社会人としては当たり前だ。言うまでも
ない」と大叱責を食らったことを今でも覚えている。
 
 もう25年前の話だが。
 
 今考えてみると「ベストを尽くす」とはそんなに簡単な事ではない。
 
 自分を振り返って「ベストを尽くしたな」と思えることがいくつあるのか。おそらく
僕の場合 皆無に近い。そもそも「ベストを尽くした!」と思った段階で
もう「それ以上はやらない」ことにしてしまっている自分がいる。「僕はベストを尽くしました」という言葉は往々にして言い訳に使われる。ましてや「ベストを尽くします」などは「やらない」前から失敗した際の伏線を張っているようなものだ。
 
 なかなか仕事一つも大変なものだ。だからこそ楽しいのだが。

もし体が2倍だったとすると

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 「38億年生物進化の旅」(池田清彦著 新潮文庫)という本を読んでいた
ところ以下のような一文を見つけた。
 
 「人間の場合 体が大きくなるにしても、その成長を止めるシステムが働く
から一定以上の大きさ以上にはならない。しかし魚類や両生類や爬虫類はその
成長を止めさせるシステムが人間ほどには働いていないように見える。人間の
場合、100歳になったときのほうが25歳のときよりも体が大きいという
ことはまずないが、コイにしても、カメや、ワニにしても、年を重ねるほどに
体が大きくなっていく傾向がある」
 
 「成長を止めるシステム」があるという点にちょっと考えさせられた。
 
 上記文章は恐竜がなぜ巨大化したのか(大きいものでは身長30メートルで体重
100トンもあったという。)という話の中にあった。体が大きいということで敵から身を守れるというメリットはあったようだが、その大きさ・重さが結局命取りにもなったらしい。
 
 我々も もし体が2倍だったとすると、非常にコストが上がるだろう。単純に考えても食事は今の2倍必要になる。「世界の胃袋」という言い方もあるが、体が2倍になると食料危機も2倍深刻になるわけだ。と考えると、体を大きくさせないということは明らかに知恵の一つだったに違いない。
 
 そう考えると、車にしてもPCにしても掃除機にしても、どんどんコンパクト
にしていくという大きな方向性は我々の基本的な思想になっている。
 「サイズが大きくなっていく製品」と「小さくなっていく製品」を考えると明らかに
後者を目指しているような気もする。一部例外もあろうが。
 
 では「組織」もそうなのだろうか。「大きな組織」と「小さな組織」とどちらが良いのか。そういう議論にもおそらく何かを示唆するものはあるのかなという気もした。

「祭りの準備」 

 
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 前から見たいと思っていた本作をようやく見る機会を得た。ある意味ではなんとも暑苦しい映画である。

 本作の登場人物はざっくりいうと三種類に分かれる。「都会から故郷に戻ってきた人」「故郷に残り続ける人」「都会へ脱出する人」の三つである。

 「戻ってきた人」とは、原田芳雄と、その妹である。いずれも「都会」にいることが出来なくなり、どうしょうもなく故郷に戻ることを余儀なくされた人だ。特に妹は薬物中毒で正気を失っているという設定である。彼らの「都会」での生活は断片的に語られるだけであるが「都会の毒」に当てられた姿が透けて見える。
 また竹下景子が恋する左翼のオルグの方も、おそらくは「都会から来た人」と想像される。彼もある種の毒を持ち、竹下景子を結果として弄んだことになっている。

 「残り続ける人」とは、本作の大半の出演者が該当する。彼らが織りなしている「故郷」とは「性」を中心に据えた、まさにどろどろの地縁社会である。実際人間の社会がそこまで「性」に振り回されているのかどうかは僕には疑問でもあるのだが、本作ではそうなっている。
 
 いや「性」というより「性交」と言った方が、よりはっきりする。

 本作は「性交」に満ち満ちている。それらは「性的興奮」を喚起するものでもない。「暑苦しさ」や「やりきれなさ」を感じることが多い。まさに地縁社会の息苦しさの象徴である。

 「脱出する人」は主人公だけかもしれない。背広を着て列車に乗り込み、原田芳夫の万歳を受けながら旅立つ主人公が最後に描かれる。
 そこには本来爽快感もあってしかるべきだが、そういう雰囲気も出てきていない。僕らは主人公が向かう先には毒が満ち満ちていることを承知させられているからかもしれない。本作の続編があったとしたら、それは「都会から故郷に戻ってきた主人公」である可能性も高いのだ。

「ノン子36歳(家事手伝い)」 

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 非常に暴力的な映画だと思う。北野武のいくつかの作品にも通底する暴力を感じさせられた。

 主人公のノン子の年下の相手役となるマサルに関しては、素直で一途な青年であるとする評も散見された。但し、僕から
見えるマサルは非常に乱暴な方である。

   自分の思い込みで祭りに出店出来ると考えること。

   たまたま出会った女性(ノン子)の実家に転がり込んでしまえること。

   出店出来ないことで祭りをぶち壊してしまうこと。

   売るために調達してきたヒヨコたちをばらまいてしまうこと。

 そんな姿を見ていると、好青年には程遠い。自分の意に沿わない際に見せる暴力性は「未熟な青年」とも
言い難いような雰囲気が漂っている。主人公のノン子、彼女の前の夫、彼女の妹等、軒並み暴力的な方が出てくる映画だが
やはりマサルが際立っている。

 但し、本作は暴力映画にも関わらず、ある種の清々した雰囲気が漂っている。

 舞台は秩父だというが、実に映画らしく美しく撮られている。個人的には本作に幾度か出てくる列車の場面がきわめて印象に残った。主人公たちの逃走行としての列車ではなく、ただ風景として列車が走っている場面が素晴らしい。特に最後の列車が過ぎた後にノン子が自転車で斜めの線路橋を渡る場面が実に映画的である。監督の映像作家としての本能と言えるのかもしれない。

極東の始まり

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 イスタンブールは欧州の果てであり、アジアの始まりである。ボスボラス海峡の東の果てに日本があるので、日本を極東ということになっているらしい。
 
 

くにたちの雪 その2

雪似鵞毛飛散乱 雪は鵞毛に似にて飛びて散乱し、
人被鶴敞立徘徊 人は鶴敞を被きて立ちて徘徊す
 
 
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くにたちの雪

いざさらば 雪見にころぶ ところまで  (松尾芭蕉)
 
 
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「甲子園への遺言」 門田隆将

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 うなりながら一気に読み切った。高畠という方をまったく知らなかっただけに大変新鮮に読めた。

 これは暴論かもしれないが、高畠という方は怪我でプロ野球の選手としての寿命が短かったことが本当に幸いだったのだろうと思った。勿論、ご本人にそんなことを言ったら激怒されたかもしれない。しかし、現役選手を断念するという巨大な挫折がこの方の、おそらくは、出発点になったのだと僕には思えて仕方がない。「挫折が出発点だった」という話はたまに聞くわけだが、実際にそれが出来る人は限られているだろう。余りにも多くの人にとって「挫折は挫折」でしかないからだ。

 但し、この方も名コーチで終わっていたとしたら、「名コーチ列伝」の一人で終わっていたと思う。やはり還暦を
前にして高校教師をめざし、実現した点が、ずば抜けてユニークだ。

 今年の正月のCMに父親が娘に「お父さんの夢は?」と聞かれて、一旦は一笑に付すが次第に考え込むというものがあった。僕も40歳代後半の中年であるが最近「将来なりたいもの」を再度考えるべきだと思っている。
 そういう中で、既にそれを実践された高畠という方の凄味が分かる。これは僕のように中年にならないと分からない凄味であることも確かだ。

 高校教師になって一年半で高畠は急逝した。60歳で亡くなったわけだが、まさに「青春真っ盛り」の中での「夭折」という印象を持たざるを得ない。60歳にして青春時代を取り戻せる能力は紛れもなく天才としか言いようがない。「人の死」を描いている本がかように爽やかであるのも、高畠という方の天才的な人生のおかげということ
だろう。