くにたち蟄居日記 -95ページ目

「エンゼル・ハート」 

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 本作は映像面では極めて実験的な作品だ。一つ一つの場面もよく作りこまれているし、凝っている。一種の映像詩と評して良い。
 
 特に室内ではなく外の風景が素晴らしい。何気なく映される街道や浜辺の映像が美しい。その美しさとは絵葉書的な美しさではない。むしろ逆だ。妙に寂しく、うら悲しく、そして不吉である。
 そんな風景の一つ一つが観客を不安にする。ある種の裏返った美が僕らを不安にすることは絵画でも音楽でも良くあることだ。本作は映画という形式でそれを僕らに迫ってくる。

 一方ストーリーはどうか。

 ストーリーに関しては好き嫌いもあろう。但し、きちんと米国映画らしいエンタテイメントになっている。
従い本作は幾分カルト映画ながらも、興業的にも成り立つようになっている。実際かなりの評判になった記憶
もあるし、僕もこうして公開26年後に再見している。ストーリーとしては実に面白いのだ。

 良く出来た作品だ。実験映画を商業的に成功させるというテーマがあるとしたら本作は一つの答えに
違いない。

福島原発事故独立検証委員会

 
 分厚い本だが、その分厚さとは何かということを考えさせられた。分厚い理由は一つである。福島原発の事故が含む要素が余りに多いので薄い本に出来なかったということだ。

 大きな災害が発生すると見えていなかった問題が同時に全て机の上に乗る。それが「同時」であるが
ゆえに一つ一つに対応する時間が与えられない。足りない時間の中で対処療法で対応するので問題は容易には収まらない。一つの問題が収まらないことで新しい問題が連鎖的に発生してくる。それが本書から見える
「風景」である。

 それではなにゆえそれだけ多くの要素があるのか。それらは煎じ詰めると人間が作り出した要素である
ということだ。

 本書で論じられるのは、時として政府や東京電力であり、時として原子力発電であり、時としてマスコミであり、
時として日米関係である。それらを作り上げ、問題を複雑化させたのは全て僕ら自身だ。これは例えば
この震災が百年前に発生したらどうだったかと考えてみると分かる。百年前であったなら、おそらくは
「地震と津波が東北で発生した」ということだけだったと思う。少なくとも原子力事故等は発生しなかった。
原子力事故を発生させたのはここ百年の僕らなのだ。

 社会という言葉がある。社会を織りなす要素は極めて多くなってきている。従い社会に問題が
発生し、それを分析すると本書のような分厚さになってしまう。つまり社会自体が既に「分厚い」
のだ。これだけ多くの要素を持ってしまった僕らが今後社会でどう生きていくのか。次に必ず来る
であろう「災害」をどう乗り切るのか。それを考えさせるのが本書である。

シンガポール空港のカレー

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 シンガポール空港のカレーである。
 
 インド料理の店だ。空港内部のレストランなのでファーストフードのようなものだろうが、美味しい。
シンガポールにはインドの方も多く住んでおり、そのせいか、インド料理のレベルも非常に高い。そんな
わけで空港でのレベルも高いのかもしれない。
 
 
 

スラバヤのモスク

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 インドネシアのスラバヤに久しぶりに行った。昨年の4月まで四年間住んだ街である。
 
 客先を案内してスラバヤ郊外の大きなモスクに出かけた。インドネシアで二番目で大きいモスクだという。収容人数も三万人とガイドが言っていた。
 
 メッカまで飛行機で行っても九時間はかかろう。そんな距離を乗り越えた祈りが本日もスラバヤからメッカに向けられている。
 
 

ベトナムのフォー

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 ベトナムでフォーを食べた。
 
 フォーは一種のうどんである。東南アジアを旅行して、若しくは住んでいて驚くことは麺類の人気の高さである。
タイにしてもインドネシアにしても中国にしても。勿論日本も、である。
 
 
 
 
 

くにたちの花見

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 くにたちに桜の時期が来た。
 インドネシアからの帰国が昨年の4月20日過ぎであったので、本格的にくにたちの桜を鑑賞するのは
2008年の春以来である。
 
 
 

神保町「エチオピア」

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 神保町の「エチオピア」はカレーの老舗である。インドカレーの店とあったが、店名は「エチオピア」であり、その辺りの整合性は良く分からないのだが、いかんせん美味しいので別にどうでも良いと言えば良い。
 
 「インドカレー」といっても、例えば「チキンマサラ」などといったインド料理屋で出てくるカレーとは全く違った
味である。僕が考えるカレーのカテゴリーとしては「喫茶店系のカレー」であり、それの雄として神保町の「エチオピア」があるのだと理解している。
 

「へルタースケルター」 岡崎京子

 映画を見たことがきっかけで原作を読んだ。実に考えさせられた。
 
 主人公は「美」を手に入れる爲に、過激な整形手術を選び、「美」を手に入れた。そこまでは本書では
直接描かれない。その「美」を維持する為に何が起こったのかが本書の筋である。当然のことながら
「美」を維持することは容易ではない。「美を維持しようとすること」が、いや、もっというと「美」そのもの
が主人公を食いちぎっている様がテーマだ。
 
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 僕は男性の立場として女性の「美」に対する執念には不感症である。但し、少し本書の読み方を変える
と理解度は増した。
 
 仕事や会社において「あるべき姿・ゴールをまず定め、その上で、そこにたどりつくためには何をしたら
良いのかを考えること」とよく言われる。これはトヨタ自動車の経営関係で出てきた言葉らしい。要は
まず目標設定をしっかり行い、それに向かう方法を戦略的に探すという話だ。へルタースケルターも
この文脈で理解可能だ。目標設定を「美の獲得と維持」に置いた女性の話である。
 
 問題であったのは目標設定というよりは「それに向かう方法」であったことが本書の表の主題であろう。
主人公の選択した方法はまさに間違った方法であったことが本書の悲劇だ。但し、本当の喜劇は「目標設定」
の間違いにあったのではないかと考えることに本書を読む意義がないだろうか。
 
 「美の維持」という目標は、クレオパトラの時代からの永遠のテーマだ。「永遠」であることは「不可能」
だからこそ「永遠」なのである。主人公が演じた喜劇は「不可能なことを願った」という極めて
古典的な話なのだ。
 
 本書のENDINGには妙な明るさがある。自身の演じた喜劇をきれいに生き抜いた雰囲気すら
漂っている。このENDINGに作者の懐の深さを読み取っても良い気がした。岡崎京子という
方の漫画を読むのか今回が初めてだったが大変面白かった。

季語の続き

昨日の日経新聞夕刊の記事を紹介する。丁度その直前に僕が書いた内容と似ているので
いささかおかしみを感じた次第だ。皆さん、同じようなことを考えているのかなと。
 
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内なる多様性 日産自動車最高執行責任者 志賀俊之
 
 このコラム原稿を4、5本書き終えたところで、当社の広報室から注文が入った。
 
私が取り上げているテーマが仕事に関わるものが多いので、もう少し幅を広げて、生活や趣味に関することにも触れて欲しいとの注文である。
 
なるほどと思い、これまでに経済界で執筆した先輩のコラムに目を通した。
内容は、私生活の日常的な話題のみならず、文化、芸術への考察に及んでいる。しかも、それぞれに造詣の深さを感じさせる。そこで、私も負けじとパソコンに向かうが、思い起こすのは社業に関わることか、政治、経済ネタである。どんなに思いを巡らしても、空っぽの本棚のように出てこない。当然、私にも好きなことや趣味もあるが、テーマに選んでも内容が膨らんでこない。
 
 当社はダイバーシティ(多様性)を推進し、ワークライフバランスを奨励している会社で、
私も常日ごろ、仕事から離れた時間を持てと従業員に言っている。それこそ「内なる多様性」
だと説いている。組織の多様性を高めることで変革が起こるように、ワークライフバランスを取り、変化のある生活を送ることで自分の中に気づきや変革が起こる。それを私は「内なる多様性」と呼んでいる。
 
 
 その私が仕事以外のことを考えても、出てくるものが少ない。本はそれなりに読んでいるが、あれだけ好きだった歴史本がビジネス本に変わっている。いつの間にか日常の季節感にも疎くなってきた気がする。思い起こすと金融危機以降、円高や大震災など、緊張の連続の中で、季節を感じる余裕が無くなってきたのかもしれない。これでは内なる変革が起こらない。
 
 このコラムの執筆を良い機会にして、多様で豊かな時間の持ち方を見つめ直してみたい
 

俳句と季語

  寒い日が続くが、確実に日が長くなってきている。梅の花もあちらこちらで咲き始めた。
春の足取りがしっかり聞こえてきている。
  
 季節感という言葉がある。
 
 例えば俳句には季語という決まりがある。たった十七文字であるという世界最小の「詩」
であるわけだが、その十七字の中にも季語を入れなければならないという決まりだ。
 なんでそこまで季節に拘らなくてはならないのか。ネットで調べると以下のような
文章があった。
 
 
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一つは歴史的な事情。「俳句に季語を入れる理由を探るには、
俳句以前にさかのぼって、日本人と季節、日本の詩歌と季節がど
うかかわってきたかをみなければならない。
 
日本列島は草木の深い緑に覆われた島々である。ここに住む人々の折々に口ずさむ
詩歌がおのずから季節の賛歌となり、季節にとけ込んだ暮らしの賛歌となったのは
むしろ当然だろう。季語には遠い昔から季節とともに暮らしてきた日本人の記憶が
こめられていることになる」
 
二つ目は、季語の働きから。「季語にはふつうの言葉にない働きがある。ふつうの言葉は
物事を指し示すだけだが、季語には悠久の時間と広大な空間が内蔵されている。
これが季語の宇宙である。俳句に季語を詠みこむということは、俳句にこの季語の宇宙を
取りこむことである。俳句は短い文芸であるから、一つの言葉の中に大きな
宇宙が内蔵されている季語はなくてはならない言葉なのだ」
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 読んでいていささか説得的だが、では「季節の賛歌」や「季語の宇宙」とは
何なのだろうか。
 
 僕の直感ではやはり農業なのだろうなということだ。日本人の「時間」は農業によって
強烈に規定されている気がする。季節とはすなわち、農作物の育成を意味するのではないか。
春夏秋冬という言葉が、なぜ春→夏→秋→冬という順番なのかというと「春に種まき、
夏に生育、秋に収穫、我慢の冬」という順番に因るものではないか。四月始まりの時間軸が日本では主体なのも、農業(それも稲作)によるのではないではないか。
 
 僕らの日々の生活に季節感がどれだけあるのかと考えることも大事だろう。
空調の効いた部屋で過ごし、季節感の無い食事も多い。改めて考えないと季節が分から
ないことすらある。
 そうであるとしたら僕らが失っているものは「時間」かもしれない。日々 月次や四半期という言葉だけで時間を感じているとしたら、それはいささか貧しいと考えるべきではないか。
 
 というようなことを本日くにたちで見た梅の花を思い出しながら、出張に行く成田エクスプレスの中でぼんやり考えていたところだ。成田エキスプレスの車窓に広がる風景は
まだまだ冬枯れだが 日差しは強くなってきている。