「ホビット」

映画「ロード オブ ザ リング」3部作を観た方には2種類あると思っている。一つは映画で初めて観た方。もう一つは原作「指輪物語」を読んだ上で映画を観た方。
僕は後者である。
「指輪物語」は映画化が極めて困難な作品だと言われていたらしい。ディズニーが挑戦したが断念したという経緯があったとも聞くし、その後ラルフバグシという方がカルトなアニメ映画を創ったが、全体の半分迄で終わったということもあった。そんな中で2000年代初頭に出てきた「ロードオブザリング」は実写で堂々と「中つ国」を描き出したことは驚嘆に値する「事件」であった。特殊撮影等の技術の進化のお蔭だったわけだが、本を読んで想像してきた世界が実写で展開されたのを茫然として観た記憶がある。
「指輪物語」は映画化が極めて困難な作品だと言われていたらしい。ディズニーが挑戦したが断念したという経緯があったとも聞くし、その後ラルフバグシという方がカルトなアニメ映画を創ったが、全体の半分迄で終わったということもあった。そんな中で2000年代初頭に出てきた「ロードオブザリング」は実写で堂々と「中つ国」を描き出したことは驚嘆に値する「事件」であった。特殊撮影等の技術の進化のお蔭だったわけだが、本を読んで想像してきた世界が実写で展開されたのを茫然として観た記憶がある。
「ホビット」もそんな「中つ国」の再現である点では実に嬉しい作品だ。「ロードオブザリング」と共通した登場人物等もあり、見ていて安心感すら覚えてしまう。作品としてはいささか戦闘シーンが多い点が若干気になる。アクションシーンに頼っている面もあったのかもしれない。もう少し、心情に踏み込んだ「深み」があっても良いと思うが、「ホビット」のパート2,3に期待することにしたい。
「東京家族」 山田洋次

出張の機内で鑑賞した。感想は以下二点だ。
一点目。「東京物語」との相似について。
小津映画が好きな人には楽しめる作品だ。「平山」「間宮紀子」というような名前から始まり、ローアングルや風景の切り取り方等正確に小津映画へのオマージュとなっている。かつ、パロディになり下がっていないのは、監督の山田が「東京物語」のテーマをきちんと現代に翻案しているからだ。
「東京物語」のテーマは「大家族制度の崩壊と核家族化への移行」という言い方も出来るし、「現代の姨捨山」という言い方も出来る。子供たちと久しぶりの面会を楽しみにしてきた老夫婦を子供たちが善意に溢れながらも、持て余してしまう話だ。小津が描いたテーマが今なお新鮮な映画の主題として活きている点が本作の大きな見所である。子供たちと両親の間にはなんら敵対関係はなく、周囲からはむしろ羨ましがられているわけだが、そこに吹いている隙間風というものもある。子供たちは自分の家庭を持ち、そちらに忙しい。従い老いた両親を面倒見きれない。現在でもありがちな話だ。それを60年前に描き出した小津映画の先見性もあろうし、それを更に21世紀を舞台に仕立てなおした山田の手腕というものもある。
二点目。「東京物語」との相違について。
「東京物語」と大きく違う点がある。「東京物語」は小津映画の通奏低音である「父と娘」であったのに対して本作は「母と息子」の話である点だ。
「東京物語」に見られる父と娘とは笠智衆と原節子である。義理の親子である点がひねりが効いているが、小津映画は「晩春」にしても「秋刀魚の味」にしても父と娘の話が多い。一方本作では 吉行演じる母と妻夫木演じる息子との話が大きなテーマである。
老夫婦の子供たちの中で妻夫木だけが未婚であり不安定な生活を送っている。そんな妻夫木の庇護者が母の吉行だ。父の橋爪の話でも、妻夫木は母親似とのことらしい。そんな妻夫木の庇護者が吉行の死によって吉行から蒼井優に移行することが本作の第二のテーマである。吉行の死は、彼女が妻夫木の家で蒼井と会って安心したからとも読めるかもしれない。そんな「庇護の移行」は吉行の腕時計によって象徴される。吉行の腕時計が蒼井に渡される場面が本作の白眉である。そんな「母と息子」の話は山田が現代の「東京物語」に持ち込んだものであり、小津と決定的に違う点だ。
脇の俳優も良い。西村雅彦、夏川結衣、小林稔侍等、実に上手い。また杉村春子を演じた中嶋朋子は実に杉村を演じている。そのあたりも楽しかった。
山田洋次という監督は「男はつらいよ」によってある意味封印されてきた監督であったと今思う。「男はつらいよ」からある意味で解放された後の山田の作品は実に面白い。僕自身は「男はつらいよ」の大ファンであるにしても、そう思っている。
一点目。「東京物語」との相似について。
小津映画が好きな人には楽しめる作品だ。「平山」「間宮紀子」というような名前から始まり、ローアングルや風景の切り取り方等正確に小津映画へのオマージュとなっている。かつ、パロディになり下がっていないのは、監督の山田が「東京物語」のテーマをきちんと現代に翻案しているからだ。
「東京物語」のテーマは「大家族制度の崩壊と核家族化への移行」という言い方も出来るし、「現代の姨捨山」という言い方も出来る。子供たちと久しぶりの面会を楽しみにしてきた老夫婦を子供たちが善意に溢れながらも、持て余してしまう話だ。小津が描いたテーマが今なお新鮮な映画の主題として活きている点が本作の大きな見所である。子供たちと両親の間にはなんら敵対関係はなく、周囲からはむしろ羨ましがられているわけだが、そこに吹いている隙間風というものもある。子供たちは自分の家庭を持ち、そちらに忙しい。従い老いた両親を面倒見きれない。現在でもありがちな話だ。それを60年前に描き出した小津映画の先見性もあろうし、それを更に21世紀を舞台に仕立てなおした山田の手腕というものもある。
二点目。「東京物語」との相違について。
「東京物語」と大きく違う点がある。「東京物語」は小津映画の通奏低音である「父と娘」であったのに対して本作は「母と息子」の話である点だ。
「東京物語」に見られる父と娘とは笠智衆と原節子である。義理の親子である点がひねりが効いているが、小津映画は「晩春」にしても「秋刀魚の味」にしても父と娘の話が多い。一方本作では 吉行演じる母と妻夫木演じる息子との話が大きなテーマである。
老夫婦の子供たちの中で妻夫木だけが未婚であり不安定な生活を送っている。そんな妻夫木の庇護者が母の吉行だ。父の橋爪の話でも、妻夫木は母親似とのことらしい。そんな妻夫木の庇護者が吉行の死によって吉行から蒼井優に移行することが本作の第二のテーマである。吉行の死は、彼女が妻夫木の家で蒼井と会って安心したからとも読めるかもしれない。そんな「庇護の移行」は吉行の腕時計によって象徴される。吉行の腕時計が蒼井に渡される場面が本作の白眉である。そんな「母と息子」の話は山田が現代の「東京物語」に持ち込んだものであり、小津と決定的に違う点だ。
脇の俳優も良い。西村雅彦、夏川結衣、小林稔侍等、実に上手い。また杉村春子を演じた中嶋朋子は実に杉村を演じている。そのあたりも楽しかった。
山田洋次という監督は「男はつらいよ」によってある意味封印されてきた監督であったと今思う。「男はつらいよ」からある意味で解放された後の山田の作品は実に面白い。僕自身は「男はつらいよ」の大ファンであるにしても、そう思っている。
村上春樹の新作 また
僕自身は村上春樹を読み始めて28年程度経っている。初期の村上作品から読んできた僕は「コアなファン」と言える気もする。しかし、作家も生きている中で変化・進化・場合によっては退化するわけであり、いつの時点での村上作品が好きなのかによって「ファンの質」は大きく異なる。いや、「質」という言い方は誤解を招くかもしれない。「種類」というべきだろうか。
多くの方が書かれている通り、最近の村上作品は難解である。語り口の達者さと「そこに何かがありそうな雰囲気作り」という芸はある程度万人向けと言える。但し、それ以上に難解だ。かかる難解な本が大ベストセラーになるという状況は案外不健康だと僕は思っている。「村上作品」がブランド化しているというよりは「村上作品を読むという行為」がブランド化してしまってはいないだろうか。僕は最近の難解な村上作品を読み、かつ、それらが凄い売れ行きとなっている場面を見るたびにそう思う。本作にしてもどう読んでも万人向きではない。もっというと僕向きでもないのだ。
僕が好きな村上作品は「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」と「羊をめぐる冒険」あたりである。あの頃の作品には「謎」が出てきたが、「答え」も出してきていた。読んでいて一応の解釈を村上はしてきてくれたと思う。
それに比較すると最近の村上作品は著しく違う。謎を多く出してくる点は以前と同じだとしても「答え」を全く出してこないことが多い。従い、アマチュアな読者の僕としては完全に消化不良である。その胃もたれ感が僕には不満だ。
僕はある時点で村上は「答え」を自ら提示するということを辞めたのだと考えている。村上自身も執筆に当たっては「書きながら結末がどうなるのか分からないことがある」とどこかで書いていたのを読んだ記憶がある。勿論それは村上一流の韜晦なのかもしれないが、ある種の真実味も感じる。若しかしたら村上自身がご自身の提出した謎の答えを知らない可能性があるという意味だ。もしそうだとすると村上という作家は「謎」を掘り出してくるという点に最大の才能があり、かつ、それを読者に投げつける「投げ方」において芸達者な作家なのかもしれない。
ロールシャッハテストというものがある。村上が出してくる「謎」とは意味があるのかどうかも分からない模様なのかもしれない。それをどう読み取るのか、どう意味づけするのかは読者一人一人に掛かっているのかもしれない。そう考えないと本書も「読めない」という気がしてならない。「読み方はすなわち貴方自身の中にしかないのですよ」ということが村上のメッセージだとしたら、もうそう読むしかない。そうしてかような本が大ベストセラーになるとは思えない。それが僕の読後感だ。
「ノルウェイの森」が大ヒットした際に村上は孤独を感じたと言っていた。その孤独はまだ続いているかもしれない。
自分の重さ

小さい昆虫は高いところから落ちても全く平気な顔をしている。例えばアリが木から10メートル落ちてもどこも怪我をしていない様子で、すたすた歩いている。僕らが10メートル落ちると死んでしまう可能性が大きいことと大きな違いだ。
それが何を意味するのかを考えているところだ。
答えは言うまでも無く体重ということになる。アリは軽いので地面に落ちた際の衝撃が少ないのだろう。一方僕らは重いから衝撃が大きい。つまり自分の重みで僕らは死んでしまうのだ。
「自分の重み」とは体重だけではないと思う。「体重」以外にも色々な自分の「重さ」というものがあり、その「重さ」に潰されて死んでしまうことはよくあるのではないか。
「時間に敗れるもの」
「恋愛は必ず時間に敗れるものです」
4月28日の日経新聞で見つけた言葉だ。作家の高樹のぶ子というかたが言われた言葉らしい。
「時間に敗れるもの」という言葉が強く心に残った。「時間に勝てるものはない」ということ以上に「敗れるもの」という部分に妙な甘美さを覚えたからだ。
「結婚できない男」

滅多にTVドラマは見ないが、この作品には嵌ってしまった。
この作品のテーマは「結婚」ではなく「家」という言葉の解釈である。「家」を英語に直すとHOMEとHOUSEとなる。HOMEとHOUSEの違いを巡る喜劇が本作だ。
主人公は建築家である。「キッチンを中心とする家」を理想とする彼にとっての「家」とはHOUSEである。つまり建築物としての「家」ということだ。「キッチンを中心とする」という事は実はHOME、つまり「家庭」を意味している。主人公は建築物としての家を語りながらも、本質的には家庭を語っている。但し、それに気が付いていない点から喜劇が始まり、それに気が付くまでの過程がこのドラマである。
主人公はヒロインに家の設計を頼まれる。主人公は建築物としてのHOUSEの設計を考えるが、その建築物が自分にとってのHOME=家庭になることを意識した瞬間に設計が出来なくなる。自分が今まで設計を通じて目指したものは建築物ではなく家庭であったことに気が付いて、動けなくなったと言ってよい。
翌日主人公はヒロインにそれを説明しに行く。診療室での二人のやりとりは圧巻と言ってよい。ヒロインは、それでも建築物に拘ろうとする主人公に対して「家なんかどうでも良い」と言い放つ。この瞬間に主人公は救われたといってよい。建築物としての家から家庭としての家への転換が、そのヒロインの言葉で明示されたからだ。
エンディングシーンも秀逸だ。ロールキャベツがプロポーズに使われる場面は初めてみた。この作品では登場人物は常に飲食している。「キッチンを中心とする家」とは「家庭での食事を中心とする家」という意味なのだろう。それを無意識に進めてきた主人公にとって一緒に家庭を造る相手へのプロポーズが「ロールキャベツを作る」という表現になることは当然なのかもしれない。
阿部博は言うまでもないが、夏川結衣が素晴らしい。このようなコメディエンヌの存在は、大袈裟ではなくて世界に誇れると思う。驚異的な芸達者だと僕は思った。
それにしても日本のドラマにも凄い作品があることが分かった。
この作品のテーマは「結婚」ではなく「家」という言葉の解釈である。「家」を英語に直すとHOMEとHOUSEとなる。HOMEとHOUSEの違いを巡る喜劇が本作だ。
主人公は建築家である。「キッチンを中心とする家」を理想とする彼にとっての「家」とはHOUSEである。つまり建築物としての「家」ということだ。「キッチンを中心とする」という事は実はHOME、つまり「家庭」を意味している。主人公は建築物としての家を語りながらも、本質的には家庭を語っている。但し、それに気が付いていない点から喜劇が始まり、それに気が付くまでの過程がこのドラマである。
主人公はヒロインに家の設計を頼まれる。主人公は建築物としてのHOUSEの設計を考えるが、その建築物が自分にとってのHOME=家庭になることを意識した瞬間に設計が出来なくなる。自分が今まで設計を通じて目指したものは建築物ではなく家庭であったことに気が付いて、動けなくなったと言ってよい。
翌日主人公はヒロインにそれを説明しに行く。診療室での二人のやりとりは圧巻と言ってよい。ヒロインは、それでも建築物に拘ろうとする主人公に対して「家なんかどうでも良い」と言い放つ。この瞬間に主人公は救われたといってよい。建築物としての家から家庭としての家への転換が、そのヒロインの言葉で明示されたからだ。
エンディングシーンも秀逸だ。ロールキャベツがプロポーズに使われる場面は初めてみた。この作品では登場人物は常に飲食している。「キッチンを中心とする家」とは「家庭での食事を中心とする家」という意味なのだろう。それを無意識に進めてきた主人公にとって一緒に家庭を造る相手へのプロポーズが「ロールキャベツを作る」という表現になることは当然なのかもしれない。
阿部博は言うまでもないが、夏川結衣が素晴らしい。このようなコメディエンヌの存在は、大袈裟ではなくて世界に誇れると思う。驚異的な芸達者だと僕は思った。
それにしても日本のドラマにも凄い作品があることが分かった。
「見る」ということ

僕の近所のご家庭では、朝、お子さん(中学生くらいか?)が学校に向けて家を出る際に母親も道路に出て、お子さんが見えなくなるまで見送っているところがある。
その風景を見ていると「見る」ということについて考えさせられた。
「見る」という言葉には色々な使い方がある。いわゆる「目で見る」という
以外にも「面倒を見る」「見守る」「看る」「看取る」というような言葉には
生物学的な「見る」以上の意味がある。
また会社等においても「あの人はちゃんと見ていてくれる」という言い方も聞く。
「見ること」「見られること」がかように重要なことであることには非常に興味深い。
「見る」という行為は、端的に言うと見ている対象への興味を意味するのだと思う。
僕らも常に視界には色々なものが同時多発的に見えている。但し、大半の「見えているもの」をほとんど知覚していない。
例えば今これを自宅のテーブルで書いているが、視界の中には本やスリッパや椅子が入っています。但し、全くそれらは意識に上がってきていない。意識の中ではまさにこのPCの画面しか見えていないと言っても良い。
目に入ってくる情報を上手に取捨選択する能力が僕らにはある。そういう取捨選択が出来ず、全てをまともに知覚するとおそらく圧倒的な情報量が脳に流れ込んでしまい、何も処理できなくなるのではないだろうか。
従い「見る」とは「見ている対象」を選択したということを意味しているのだと
思う。「あの人はちゃんと見ていてくれる」という言葉の意味は「あの人」が「私」を「見る対象として選んでくれた」というように考えると意味が分かってくる。
子供を見送る母親の視線は「愛情」といえば良いのだろう。「『見る』こと
とは愛情を意味するのだ」ということが、朝の通勤の際の結論である。
「目力」という新しい言葉もあるが、目の力とは そこに込められている
ものに源泉があるのであろうか。
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

読んでいて強く「ノルウェイの森」を意識した。
「ノルウェイの森」では主人公はキズキ、直子と3人でグループを作っていた。本作では主人公は5人のグループ一員である。
主人公が、その「グループ」から疎外されてしまう点が「感覚」として似ている。「ノルウェイの森」のキズキと直子は結局自死を選んだ。本作の主人公以外の4名も、ある種の「死」を抱えている点が書き込まれていると僕は読んだ。「死に方」には色々あるし、全てばらばらであるが「どこかが死んでいる」という状況では一致している。そんな気がした。
若しくはエリという女性の造形も「ノルウェイの森」のレイコさんを思わせるものがある。話し方もどことなく似ているし、レイコさん同様の傷を背負って生きていく姿も重なって見える。
ユズが抱えていたものも直子やキズキが抱えたものに近いのではなかったろうか。「悪霊」という表現を使っているが、村上春樹の「通奏低音」として「邪悪なものを自らに抱えるということ」というものがあるとしたら、ユズが抱えた「悪霊」もその一つの変奏曲ではないだろうか。
思い返すと「ノルウェイの森」は未完であった。多くの謎が解決されぬままに放置されている作品でもあった。
「ノルウェイの森」では主人公はキズキ、直子と3人でグループを作っていた。本作では主人公は5人のグループ一員である。
主人公が、その「グループ」から疎外されてしまう点が「感覚」として似ている。「ノルウェイの森」のキズキと直子は結局自死を選んだ。本作の主人公以外の4名も、ある種の「死」を抱えている点が書き込まれていると僕は読んだ。「死に方」には色々あるし、全てばらばらであるが「どこかが死んでいる」という状況では一致している。そんな気がした。
若しくはエリという女性の造形も「ノルウェイの森」のレイコさんを思わせるものがある。話し方もどことなく似ているし、レイコさん同様の傷を背負って生きていく姿も重なって見える。
ユズが抱えていたものも直子やキズキが抱えたものに近いのではなかったろうか。「悪霊」という表現を使っているが、村上春樹の「通奏低音」として「邪悪なものを自らに抱えるということ」というものがあるとしたら、ユズが抱えた「悪霊」もその一つの変奏曲ではないだろうか。
思い返すと「ノルウェイの森」は未完であった。多くの謎が解決されぬままに放置されている作品でもあった。
僕にとっての本作は「ノルウェイの森」のある種の続編である。本作でも相変わらず未解決の謎が多い。村上という方はつくづく「答え」を出してくれない作家だと思う。読んでいる方としては、いつも宙ぶらりんだ。宙につるされたまま、自分で色々と考えるしかない。それがある意味で「村上春樹の本を読む体験」になっている。自分で答えを出すしかない。今回の作品は、そうは見えないが、「ノルウェイの森」の続編であるということが僕なりの答えである。

