「見る」ということ | くにたち蟄居日記

「見る」ということ

 
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 僕の近所のご家庭では、朝、お子さん(中学生くらいか?)が学校に向けて家を出る際に母親も道路に出て、お子さんが見えなくなるまで見送っているところがある。
 
 その風景を見ていると「見る」ということについて考えさせられた。
 
「見る」という言葉には色々な使い方がある。いわゆる「目で見る」という
以外にも「面倒を見る」「見守る」「看る」「看取る」というような言葉には
生物学的な「見る」以上の意味がある。
 また会社等においても「あの人はちゃんと見ていてくれる」という言い方も聞く。
「見ること」「見られること」がかように重要なことであることには非常に興味深い。
 
「見る」という行為は、端的に言うと見ている対象への興味を意味するのだと思う。
 
 僕らも常に視界には色々なものが同時多発的に見えている。但し、大半の「見えているもの」をほとんど知覚していない。
 
 例えば今これを自宅のテーブルで書いているが、視界の中には本やスリッパや椅子が入っています。但し、全くそれらは意識に上がってきていない。意識の中ではまさにこのPCの画面しか見えていないと言っても良い。
 
 目に入ってくる情報を上手に取捨選択する能力が僕らにはある。そういう取捨選択が出来ず、全てをまともに知覚するとおそらく圧倒的な情報量が脳に流れ込んでしまい、何も処理できなくなるのではないだろうか。
 
 従い「見る」とは「見ている対象」を選択したということを意味しているのだと
思う。「あの人はちゃんと見ていてくれる」という言葉の意味は「あの人」が「私」を「見る対象として選んでくれた」というように考えると意味が分かってくる。
 
 子供を見送る母親の視線は「愛情」といえば良いのだろう。「『見る』こと
とは愛情を意味するのだ」ということが、朝の通勤の際の結論である。
「目力」という新しい言葉もあるが、目の力とは そこに込められている
ものに源泉があるのであろうか。