俳句と季語
寒い日が続くが、確実に日が長くなってきている。梅の花もあちらこちらで咲き始めた。
春の足取りがしっかり聞こえてきている。
季節感という言葉がある。
例えば俳句には季語という決まりがある。たった十七文字であるという世界最小の「詩」
であるわけだが、その十七字の中にも季語を入れなければならないという決まりだ。
なんでそこまで季節に拘らなくてはならないのか。ネットで調べると以下のような
文章があった。
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一つは歴史的な事情。「俳句に季語を入れる理由を探るには、
俳句以前にさかのぼって、日本人と季節、日本の詩歌と季節がど
うかかわってきたかをみなければならない。
日本列島は草木の深い緑に覆われた島々である。ここに住む人々の折々に口ずさむ
詩歌がおのずから季節の賛歌となり、季節にとけ込んだ暮らしの賛歌となったのは
むしろ当然だろう。季語には遠い昔から季節とともに暮らしてきた日本人の記憶が
こめられていることになる」
二つ目は、季語の働きから。「季語にはふつうの言葉にない働きがある。ふつうの言葉は
物事を指し示すだけだが、季語には悠久の時間と広大な空間が内蔵されている。
これが季語の宇宙である。俳句に季語を詠みこむということは、俳句にこの季語の宇宙を
取りこむことである。俳句は短い文芸であるから、一つの言葉の中に大きな
宇宙が内蔵されている季語はなくてはならない言葉なのだ」
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読んでいていささか説得的だが、では「季節の賛歌」や「季語の宇宙」とは
何なのだろうか。
僕の直感ではやはり農業なのだろうなということだ。日本人の「時間」は農業によって
強烈に規定されている気がする。季節とはすなわち、農作物の育成を意味するのではないか。
春夏秋冬という言葉が、なぜ春→夏→秋→冬という順番なのかというと「春に種まき、
夏に生育、秋に収穫、我慢の冬」という順番に因るものではないか。四月始まりの時間軸が日本では主体なのも、農業(それも稲作)によるのではないではないか。
僕らの日々の生活に季節感がどれだけあるのかと考えることも大事だろう。
空調の効いた部屋で過ごし、季節感の無い食事も多い。改めて考えないと季節が分から
ないことすらある。
そうであるとしたら僕らが失っているものは「時間」かもしれない。日々 月次や四半期という言葉だけで時間を感じているとしたら、それはいささか貧しいと考えるべきではないか。
というようなことを本日くにたちで見た梅の花を思い出しながら、出張に行く成田エクスプレスの中でぼんやり考えていたところだ。成田エキスプレスの車窓に広がる風景は
まだまだ冬枯れだが 日差しは強くなってきている。