定義と定理
自宅で夕食を摂っている際に突然妻から「定理と定義の違いは何か」と聞かれた。こういう質問が
突然飛んでくる家庭に果たして安らぎはあるのだろうか。
2分考えた結論は以下である。
1 定理とは数式のようなものであり、基本的には言語に因らない。
2 定義とは言語に因るものであり、従い、その言語の限界が定義の限界になる。言語の違いが定義の
違いになるし、定義の違いが言語を分ける指標にもなりえる。
ということでまだ考え続けているところだ。
大震災の被災地で
先週は石巻と気仙沼に震災後初めて行った。
震災後一年半経った被災地は、その多くが原っぱとなっている。もとは住宅地であったという場所が原っぱになってしまっている。草の間から、住宅の基礎がちらちら見える風景は、ある種の安らぎすら感じたくらいだ。隣に立っていた同行の方が「原っぱになってしまうと ふつうの風景ですね」と言っていた。
人と面談していても震災の話ばかりだ。ある方は「国破れて山河ありです」と言われた。
いうまでもなく中国の杜甫の詩だ。その詩の続きは「城 春にして 草木 深し」である。僕は今回初めてこの詩の意味が分かったと思った。
「そこに色々な人の営みがかつてあったにせよ、津波で全てを流され、その後が原っぱになってしまっている。原っぱになってしまうと、もはや全く普通の原っぱであり、そこにかつて人が住んでいたこと等は消え去っている。」
そんな風景だ。
「草」=自然の強さと、人間のはかなさというものを杜甫は詠んだのではないかと
今回強く思った。そういえば 松尾芭蕉は奥州平泉で杜甫の詩を暗唱し、自身も俳句で
「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」と詠んでいる。芭蕉も「草」に強く反応した
ことが窺える。
「はかない」とは漢字で書くと、「儚い」だ。「人と夢」で「はかない」を意味する
ことと、芭蕉の「夢の跡」という言葉も共鳴している。僕はそう思った。
「瓦礫の中から言葉を」 辺見 庸

僕は震災の際には日本に居なかった。インドネシアに住んでいた。インドネシアでもNHKだけは見ることが出来る。TVの前に終日座り続けて震災を見続けた。それだけが僕の震災体験である。いや、震災を体験しなかったことが「僕の震災体験」であったというべきかもしれない。震災を経験した人と決定的に話が合わない自分がいる。僕は部分的かもしれないが、「今の日本人」ではなくなったような気がしている。
本書で著者が語ろうとしていることは「言葉」である。震災後の言葉の「惨状」を著者は抉り出そうとしている。かつてはあった言葉の力が現在失われつつあると指摘している。
言葉とは何なのかと考えることは重いテーマだ。「言葉の限界が思考の限界だ」と誰かが言っていた。であるなら、その言葉が退化するということは思考の退化を意味することになる。著者が言う下からの全体主義は、まさに「思考の退化」の中で醸成されているのかもしれない。
先日僕は著者の故郷である石巻を訪れる機会を得た。震災後一年半経った石巻の被災地は、しばしば草原になっていた。「国破れて山河あり。城春にして草木深し」という言葉の意味が初めて分かった。草原となった被災地は既に被災地の顔を無くしていた。唯の草原なのだ。それを杜甫は歌ったということなのだろう。言葉の力をまざまざと思い知らされた瞬間だった。著者の危機感を幾分なりとも共有できた瞬間だったと思いたい。
「犬 他一篇」 中勘助 から 「島守」

表題作ではなく、「他一篇」である「島守」に関する書評を読んだことで本書を手に取った。ついでに表題作の「犬」も読んだが、これはこれで凄い濃い作品なのだが、ここでは「島守」に関して感想を述べたい。
「島守」は著者が野尻湖の小島で秋の日々を一人で暮らす随筆である。淡々とした描写で語られる野尻湖の秋は読んでいて心地よい。語られているのは若干二十七歳である著者の「孤独」である。孤独というと寂寥感もあるかもしれないが、本書を読む限り著者の孤独は生き生きとした躍動感すら感じられる。そもそも「孤独イコール寂しい」というような図式こそがステレオタイプであるに違いない。自炊を行い、散歩する著者はある種の快活さに満ちている。
本書に敢えて似ている作品があるとしたら、村上春樹の「羊をめぐる冒険」の一部である。同書の中で主人公が北海道の牧場で一人暮らしをする場面がある。主人公が嬉々として自炊する場面は「島守」に良く似た雰囲気だ。「島守」に出てくる「本陣」という方が、「羊をめぐる冒険」に出てくる「羊男」にも重なる。村上春樹が「島守」を読んでいたのではないかと想像することは楽しい。
大きな物語を読むことも楽しい一方、このようなミニマルな随筆をゆっくり眺めるのも読書の一つの醍醐味である。久しぶりに豊かな読書となった。
「島守」は著者が野尻湖の小島で秋の日々を一人で暮らす随筆である。淡々とした描写で語られる野尻湖の秋は読んでいて心地よい。語られているのは若干二十七歳である著者の「孤独」である。孤独というと寂寥感もあるかもしれないが、本書を読む限り著者の孤独は生き生きとした躍動感すら感じられる。そもそも「孤独イコール寂しい」というような図式こそがステレオタイプであるに違いない。自炊を行い、散歩する著者はある種の快活さに満ちている。
本書に敢えて似ている作品があるとしたら、村上春樹の「羊をめぐる冒険」の一部である。同書の中で主人公が北海道の牧場で一人暮らしをする場面がある。主人公が嬉々として自炊する場面は「島守」に良く似た雰囲気だ。「島守」に出てくる「本陣」という方が、「羊をめぐる冒険」に出てくる「羊男」にも重なる。村上春樹が「島守」を読んでいたのではないかと想像することは楽しい。
大きな物語を読むことも楽しい一方、このようなミニマルな随筆をゆっくり眺めるのも読書の一つの醍醐味である。久しぶりに豊かな読書となった。
ものを考える訓練は身体的なものであること
本を読んでいたら、以下のような言葉に出会った。
「情報を収集する事と、ものを考える事は違う。
ものを考える為には訓練が要る。
その訓練は身体的な訓練だと思った方が良い」
いうまでも無いが、上記の言葉の「味噌」は「身体的」
という部分にある。
ものを考えるということを身体的だと言われると一瞬虚を突かれたような
気がする。ふつうに考えると、ものを考えるとは精神的な作業であるような
気がする。しかし、上記言葉を言った方(三浦雅士という方)は考えるとは
身体的なのだと断言しているわけだ。
まず第一文の「情報を収集する事と、ものを考える事は違う」という
言葉は既に十分「痛い」言葉だ。我々が日ごろ言っている「情報収集」とは
INPUTと言えば格好良いかもしれないが、OUTPUTを伴っていない
という話だ。特に何でもGOOGLEに頼り、それのコピペになっていないだろうか
と問題を設定しなおすとこの言葉は更に「痛く」なる。
次の第二文はなんとなく分かる。要はOUTPUTというものはそれを目指して
意識的に練習しないと出来ないと言っているわけだ。これもかなり手厳しい。
我々がどれだけOUTPUT出来ているのだろうかと考えるとなかなか厳しい。
そして最後の第三文。ものを考えるということはランニングや腹筋と同じような
ものだと言っているわけだ。「あの人は脳が筋肉で出来ている」というとふつうは
悪口だが、実は違うのかもしれない。そんな風に思ってしまう。実際は
本当にその通りなのかもしれない。
お前の話はもう分かった !!
ある本を読んでいると「コミュニケーションとは それがまだ成立
していないと宣言することで生成し、それはもう成立したと宣言
したときに消滅する」とありました。
なるほど。
例えば話していて「お前の話はもう分かった!」と言われた時は
要は「もうお前の話は聞きたくない」という意味ですよね。「君って
人はもう良く分かった」という話は「絶交」を意味する気がします。
逆に「あなたのことは良く分からないからもっと知りたい」
と言われるとなんだか(相手次第ですが)わくわくしてくる感じが
します。(因みに「あなたって良い人ね」と言われるとかなりまずい
という話と好対照かもしれません)
そう考えるとコミュニケーションとは 、そういう「分からなさ」という
ものをドライバーとしている点に実は味噌があるのかもしれません。子どもが
「何故?」と聞き続けておとなが疲れるという場面は良くあるわけですが
それなのかなと。
組織論においてもコミュニケーションという言葉は陳腐なくらい使われています。
その組織とは、例えば部であったり課であったり友人サークルであったり家族
であったりするわけでしょう。コミュニケーションが本当に必要なのかどうか
は議論の余地がないとは言いませんが、おそらくは人間社会である以上必要
なんでしょうね。動物たちですらあれほどコミュニケーションを行っている以上。
(アリとかハチは凄いですよね。どこに食べ物があるかを伝え合っている昆虫
のレベルは高いかと)
その中で、そう簡単に「分かっ」てはいけないということなのかなと思っている
ところです。
仏像のかたちと心

個人的に白鳳時代の仏像が好きだったことで本書を手に取る機会を得た。
まず本書はかなり専門的な本である。僕が白鳳の仏像を好きな理由は単にその造形が好きな
だけであるのに対して、本書はきちんと仏教そのものに踏み込んで行っている。仏教という
哲学にも興味はあるのだが、仏教美術の細部は、もはやマニアックと言ってよい。これは著者が
マニアックと言っているわけではない。仏教そのものがマニアックな物語に仕立て上げられてしまって
いるということである。
それだけの「細部」がなぜ必要になったのかを考えることは興味深い。本書にて紹介される
数々の仏教の教えが、なぜかように細かく精緻なものである必要があり、かつ、それを仏像という
ビジュアルな形でまとめなくてはならなかったのかということだ。
そう考えていくと、仏像そのものが、一種の「お経」であることも見えてくる。かならずしも
文字が読める方が多くない中で、仏教の教えを伝えるためには、ビジュアルに訴えるしかなかった
のだろうということだ。仏像は文字には拠らない「お経」であると整理してしまうとある意味で
腑に落ちるものも出てきたところだ。
本書を片手に奈良を巡る日が来ることを祈りつつ、読了したところである。
まず本書はかなり専門的な本である。僕が白鳳の仏像を好きな理由は単にその造形が好きな
だけであるのに対して、本書はきちんと仏教そのものに踏み込んで行っている。仏教という
哲学にも興味はあるのだが、仏教美術の細部は、もはやマニアックと言ってよい。これは著者が
マニアックと言っているわけではない。仏教そのものがマニアックな物語に仕立て上げられてしまって
いるということである。
それだけの「細部」がなぜ必要になったのかを考えることは興味深い。本書にて紹介される
数々の仏教の教えが、なぜかように細かく精緻なものである必要があり、かつ、それを仏像という
ビジュアルな形でまとめなくてはならなかったのかということだ。
そう考えていくと、仏像そのものが、一種の「お経」であることも見えてくる。かならずしも
文字が読める方が多くない中で、仏教の教えを伝えるためには、ビジュアルに訴えるしかなかった
のだろうということだ。仏像は文字には拠らない「お経」であると整理してしまうとある意味で
腑に落ちるものも出てきたところだ。
本書を片手に奈良を巡る日が来ることを祈りつつ、読了したところである。
かき氷屋 ゆい さん

先月の写真。ちょっと時期外れにもなりそうだが。
ゆい という方がやられているかき氷である。夏場以外はタイ焼きをやられており、夏限定とのことだ。
この日は「匙屋」さんにて開業されていた。二杯食べるとどうしたことか満腹になった。

