くにたち蟄居日記 -105ページ目

思い入れ

 
 
   「思い込みと紙一重の 思い入れ」    
 
                               -- 重田園江 「連帯の哲学 Ⅰ」 から --
 
 この一文を読んで思わず大笑いしてしまった。
 
 確かに「思い入れ」という強い気持ちは、「思い込み」といういささか蒙昧な状況を必要とするに違いないからだ。冷静沈着な「知」があるとしたら、「思い入れ」のような「情」があるのも僕らである。
 
 

成功事例としての韓国も同様の問題を抱えているとしたら  「世界 10月号」

 韓国のキム・ジンスクさんという方の記事が強く印象に残った。

 キム・ジンスクさんという方は韓進重工業を解雇された労働者で、現在同社の造船所のクレーンの上で座り込みをされているという。8月18日の段階で既に座り込みは225日にもなったと書いてある。

 日々の報道を見ている限り、韓国は通貨危機の後に見事に甦り、日本にとって極めて手強い競争相手であるという理解しか僕には無かった。サムソンを代表とされる事例を伺う限り、大変にエネルギッシュであり、日本より小さい人口と面積ながらも、どんどん海外に進出している姿は、今や ある意味でお手本として語られている。

 そんな韓国でも、日本同様に非正規雇用が非常に多く(本論文によると労働人口全体の四割近いという)、子供たちの将来の夢は「正規職」だという話を読んで非常に衝撃を受けた次第だ。

 著者の分析では通貨危機後に韓国は新自由主義に大きく舵を切ったことが原因だと言う。日本もバブル後の大停滞への対策として、小泉内閣時代を中心に同じことが起こった。従い、国を超えて、ある時代にある種の流れが世界に有ったということではないかと考えたくなる。

 日本も同様に派遣社員が増え、それに起因した問題が既にかなりはっきりしてきている。日本の場合、キム・ジンソクさんのようにはっきりと目に見える事例があったとしたら2008年末の「年越し派遣村」が記憶には新しいかもしれない。東日本大震災と原発問題という緊急事態の発生で、格差・貧困問題が少し見えにくくなってしまった気もするが、問題は全く解決していないし、おそらく災害の中で、もっと悪化している気もする。
 そういう中で、成功事例としての韓国も同様の問題を抱えているとしたら、これは資本主義の宿痾なのだろうかと考えてしまう。

 本論文がどこまで正確なのかどうかを判断する知見は僕には無いのでいずれにせよ判断は付かない。但し、改めて格差・貧困問題の普遍性を感じた次第である。アラブの春も、若年層の失業問題が大きな原因であったことも思い出しているところだ。

「連帯の哲学  Ⅰ」  重田園江

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 本書が扱うデュルケム、ブルジョアといったフランス社会主義思想家を全くと言って良いほど知らなかった。それでも、時に辞書を引きつつ最後まで読みとおせたのは、現代に対する著者の熱い思いが僕を遠いところまで連れて来てくれたからだ。

 著者が持つ危機感とは僕なりに一言で言ってしまうと「リーマンショック以降の世界の新しい在り方が全く見えない」という点に尽きる。

 歴史を振り返ると「大きい政府」と「小さい政府」との観念が交代しながら今日が出来たという。ある時は自由主義であり、ある時は帝国主義、ある時は全体主義であり、ある時は福祉国家であったりしてきたということがこの数世紀の地球の歴史では無かったろうか。その意味ではリーマンショックによ「自由主義への重大な疑問」は、昔から繰り返されてきた音楽の変奏の一つにすぎないのかもしれない。

 但し、世界の経済規模が大きくなってきたこと及びネット社会による情報伝播の速度が上がったことで、小さなほころびが甚大な災難を齎す時代になったことも確かだ。例えは悪いが今回の東日本大震災が百年前に同規模で発生していたとしても、その世界全体への被害額は遥かに小さいものだったはずだ。少なくとも日本の震災で北米や東南アジアの人が職を失うというような事態は百年前には起こらなかったろう。

 そういう規模と速さを備えた時代の中で、新しい方向性を探す著者が紹介するのが「連帯の哲学」である。

 著者は強欲資本主義は論外とする一方、極端な平等社会も退けていると僕は読んだ。現在の世の中に既に出来上がってしまったもの、例えば、それが色々な意味での格差であるとしたら、その格差を無くすということではなく、格差や差異はそのまま認めながら、異なる人、異なる物同士がどうやって共存出来るのかという方法を探しているのだと僕は思う。「弱肉強食」でも「悪平等」でもない社会を作るレシピとして「連帯」という哲学に挑戦しているのだと解した。

 その中で最後にモースの「贈与論」を取り上げた部分が特に面白かった。近代経済学で想定する「完全なる合理的経済人」から全く逸脱した人間の一つの有り方をモースが提起した部分を著者は21世紀の人間社会の新しい在り方に展開しようとしている。この部分ではまた具体的な社会イメージには欠けているとは思うが、方向性として大変興味を覚えた。いずれにせよ、人間の哲学が試されている時代になったということなのだろう。その一つとして本書がある。

 最後に蛇足ながら著者の文章の魅力というものがある。時として詩情すら湛える日本文を堪能する場面もしばしば有った。

「あやかし草子」  千草茜

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妖怪譚を楽しく読んだ。

 昔の人は妖怪を信じていたと思う。実際に妖怪が居たかどうかは大した問題ではない。妖怪を信じるという知性があったことが大事だ。

 妖怪は非科学的であり存在しないと現代の僕らが単純に考えたら、昔の知性を見誤ることになる。昔の人にとっては妖怪の存在とは「科学」だったはずだ。妖怪の存在を設定することが物事の科学的説明になっていた時代があったということだ。

例えば、日照りの際には竜という妖怪を設定し、それを祀ることで雨を祈願する。雨が降らなければ竜への祈願が足りないという科学的判断を行い、生贄を捧げる等の対応策が取られる。
若しくはある家の興隆が座敷わらしという妖怪の有無によって理解される。座敷わらしが居なくなったことで、その家は没落したと状況を整理する。

そう考えることは合理的であり、考える力は知性に溢れていたに違いない。物事はなんらかの形で解釈され整理されるべきだと考える点では昔の人も現代の人も同じ水平線上にいる。

 但し本書はそんな「民俗学」或いは「哲学」で読んではいけない。著者が「あやかし」の中で何をつかみ上げようとしてきたのかをゆっくり眺める作業こそが本書の正しい読み方である。

 著者が取り上げる主人公は、此岸と彼岸の境界線に立っている人間たちであることが多い。人間の社会が此岸であり、妖怪が息づくのが彼岸である。主人公たちの、その境界線での「立ち姿」はいずれも美しい。足は此岸にありながらも顔は彼岸を向いている。波打ち際で足が波に洗われながら 水平線を見ている後ろ姿に似ている。人には見えないはずのものが見えてしまっている主人公達の視線のありようが本書の心臓部である。

 各主人公達の行く末を著者は最後まで書き込まない。それがなんとも言えない読後感に繋がっている。読者はなんとなく宙吊りにされながら、本を閉じることになる。但し、主人公達の立ち姿はくっきりと残る。

そういう本だ。

「夜間飛行」の書評に対して

 オンライン書店PK1にて 僕が投稿したレビューに対し、以下のような書店側からの紹介を頂いた。いささか過分なコメントでいささか恐縮した次第だ。
 
 
 
 
 文学作品から人生を学びたいという人が多くいらっしゃると思います。文学作品には人生の様々な局面が描かれています。ある状態に陥った登場人物たちがどのように対応したか、それをエンターティメントとして楽しむだけでなく、自分自身に引き寄せて今後の実人生を一層充実したものにしたいと願うことはごく自然のことです。
 
 今週“くにたち蟄居日記”さんからいただいたサン=テグジュペリ著『夜間飛行』の書評には、主人公の行動を省察し、ご自身の立場や更には福島原発での作業員の仕事ぶりと比較する比較するコメントが記されており、思わず引き込まれました。
 
 「本書を再読して、改めて、この作品の主人公リヴィエールの造形に感じ入った。僕も主人公と同じく中年であり、組織でいくばくかの部下を抱えて働いている。その立場に立って見ると、主人公の見せるリーダーシップの難しさということが分かる」
 
 「福島第一原発では3月以来、既に半年もの間、非常に危険な部署で多くの人が今なお懸命な作業を続けておられる。死の危険に晒されながらも、作業を進める姿には世界からも称賛の声が寄せられている。その中で、どのようなリーダーシップが発揮されてきているのだろうかということだ。聞くところでは、本社からの指示を無視して、注水を続けたリーダーもいらしたという。指示を無視した点の是非は議論の余地は十分あるわけだが、そこにはいくばくかのリーダーシップ論もあるような気がしている」。
 
 ここから“くにたち蟄居日記”さんは、「現場のリーダーシップ」は非常に重要であり、それは日本の強みでもあるという結論を引き出されています。ご自身の体験をも踏まえた、地に足のついた議論が展開されていて、とても読み応えがありました。
 
 この作品は小説ですが、具体的な事例が時系列に沿って細かく描かれているだけに、並のビジネス書よりも心に訴えかけるものがものがあるのでしょう。
 
 この書評から透けて見えるのは、責任を持って職務を全うすることに情熱を燃やすビジネスマンの姿です。資源を持たない日本は、こういう人材に支えられて前進してきたのだなあ、と思うと胸が熱くなりました。リーダーシップの意味について、改めて考えさせてくれた作品と書評に感謝致します。

NHKスペシャル 「クニ子おばばと不思議の森」

 昨日のNHKで観賞した。
 
 焼畑農業というと、環境破壊の一つであると漠然と思っていただけにちょっと驚いた。本作で描かれている焼畑とは、森のサイクルを支援する一種のプログラムである。焼く場所は毎年変わり 一つの場所は30年に一回のペースで焼かれていく。焼かれた後の4年間は、ソバ、ヒエ、枝豆、大豆等を植え、5年以降は「森に返す」という言い方で、30年経つまで要は手を付けないということらしい。
 
 焼かれることで土地は富む。木は伐採されることで次の世代に変わる。そういうサイクルがあることには少々びっくりさせられた次第だ。30年刻みの時計ということか。
 
 昔は日本各地で同様の焼畑があったらしいが、今は、宮崎だけだという。確かに見ていて、商売として儲かるとは思えない。但し、それに対してクニ子おばばは繰り返し「世渡り」という言葉を言う。彼女に言わせると「世渡り」とは子孫を継承していくことであり、そのためには種と森があれば十分だと言うのだ。明らかに、新自由主義を頂点とした資本主義とは違った原理がそこにある。
 
 万人がかような生活を出来るわけでもなかろう。クニ子おばばにしても、そもそも土地が有ったという前提があるから「世渡り」が出来ているとご自身で認めている。特殊な例なのかもしれないが、森を持たない僕に対しても示唆するものは非常に有った。

「大震災のなかで」 

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 震災関係の本を読む機会が多い。本書の感想は三点だ。

 一点目。33名もの筆者を集めた本であるだけに、一冊の本としての一貫性に欠ける。

 「一貫性は欠けても良い」という編集方針なのだと思う。しかし僕個人としては、もう少し底流に一本通ったものが欲しかった。
 若しくは、どうせ一貫性を欠けさせるなら、全く逆でも良かったかもしれない。
 例えば原発推進派や官僚、政治家からも寄稿してもらう等、もっと混乱した内容でも良い。世の中の議論自体は十分混乱しているわけであり、その混乱を一冊に盛り込むという編集方針があっても良いのではないか。


 二点目。本書に寄稿している方は実に様々な立場から書かれている。これはとりもなおさず人間の生活や社会は実に様々な立場から成り立っていることを示していることに他ならない。
 災害が来て分かることは、災害は人間の社会の断面をむき出しにするということだ。今まで見えなかったこと、隠されたことが白日の下に曝される。福島原発を巡る深刻な災害の中で、僕は幾度も自分が全く何も知らなかったことを知らされた思いだった。地表だけ見ていると平らな土地でも、地層が現れると、色々なものが色々な形と色で地面に埋まっていたことが分かったということだ。

 三点目。本書を読みながら「力」という言葉を幾度も考えた。

 いささか失礼であるかもしれないが、本書に寄稿されている方の「力」とは個々を取り上げてみると決して大きいものではないと思う。微力なものが集まって大きなうねりになってほしいという願いが本書の底流には流れている。では、微力なものが集まって大きなうねりになるかどうかということだ。

 今回の原発災害で見えたことの一つとしては「権力」側が、全く一枚岩ではないということである。彼らの失態は「全体最適を口では唱えながら、やっていることは個々の組織の為の部分最適である」という点に尽きる思いがする。
 政治家も電力会社も官僚も、お互いに自分の為だけの「部分最適」だけを追求していないだろうか。そうであるからこそ、本来タッグを組んで原発災害に当たるべき当事者が御互いにいがみ合う図式になっているのではないか。
 そう考えると微力側にとっても、つけいる隙が出てくると思う。但し、そこからは日本人が国民としてどのような知力を発揮するかという点に掛っているとも思う。

「丸山真男をどう読むか」 長谷川宏

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 二回続けて読んだ。

 著者は本書では丸山をかなり批判的に語っているが、そもそもの出発点では著者と丸山は共通する部分が多かったと僕は考える。両者ともに西欧近代思想に強く影響を受け、かつそれを肯定的に捉えるところでは一致していると読んだ。
 
 但し、そこから先である。

 長谷川という方は大学院を出た後、大学には残らず、学習塾を開いて生計を立てつつ、哲学の勉強を続けるという道を取った。学生運動等を経てきた結果、在野の哲学者という道を選ばれたのかもしれない。学習塾も単なる学習だけではなく、色々な催し物も行う等、非常にユニークなものであると聞く。

 その経歴は、物理学者の山本義隆に重なるものがあるが、誤解を恐れずに言うと 敢えてアカデミズムからドロップアウトしたということだと思う。

 一方本書で語られる丸山真男は、アカデミズムに留まり、そこから出てこなかったということになる。長谷川は繰り返し丸山が最後まで大衆との距離感を取り続けた点を指摘している。いまふうに言うと「上から目線」ということか。この「目線」の違いこそが、著者の丸山批判の主眼であると僕は理解した。スタート地点が近かったものの、社会に対するスタンスの違いが全く違うということが、長谷川と丸山の関係の最大の違いとなっているはずだ。

 本書にて著者が一番やりたかったことは、丸山のスタンスを批判的に捉えることで、自身のスタンスを再確認するという作業ではなかったのだろうか。それが最後の読後感となった。

「イチロー インタヴューズ」 

 読みながらしきりと「ぶれ」という言葉を考えさせられた。

 「ぶれる人」という言い方がある。一般的には悪口と言ってよい。リーダーの資質として「ぶれない」という事を挙げる向きも多い。


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 読みながらしきりと「ぶれ」という言葉を考えさせられた。

 「ぶれる人」という言い方がある。一般的には悪口と言ってよい。リーダーの資質として「ぶれない」という事を挙げる向きも多い。


 本書を読む限り、イチローという選手は常に「ぶれている」としか言いようが無い。イチローはそれを「進化」と呼んでいるが、進化とぶれというものは似ていると言ってよい。どちらも「外部環境の変化に対して、自分自身を対応させる」というような意味だと僕は思う。毎年のように打法を変えるイチローは毎年ぶれていると言えるのではないか。

 ぶれるとはある一つの定点から見た風景でもある。動かない一点があることで動き=ぶれが見えてくる。それではイチローのぶれ、若しくは、進化とは何から見た動きなのだろうか。

 本書を読んでいてつくづく恐ろしいと思ったのはイチローの自分自身への観察である。イチローは自分の体の動きを、他人が見ているかのように説明する。ボールに対する一瞬の自分の体の動きを、かように客観的に「観る」「見る」ことが出来る点は凄まじい。動体視力という言葉がある。動いている物体を見る視力を意味するが、その「動いている物体」の一つとして「動いている自分」があることが本書を通じて今回学んだことの一つだ。
 この「自分を徹底的に観察できる」という「定点」が確立されていることで、自分のぶれを把握し、修正していくという話をイチローは本書で何度もしている。


 ここで再度冒頭の「ぶれる人」に戻ろう。僕らのような凡庸な人は、まず自分を客観的に見るという「定点」作りが極めて難しい。従い、「自分がぶれている」という事実そのものを把握することが出来ない。自分がぶれていることが分からないから、修正も不可能である。ぶれを把握出来るか出来ないかという点が、「ぶれ」と「進化」の最大の分かれ目ではないかと思った次第だ。


 どんな分野だとしても、そこで一流の人から学べる事は多いという言い方は多い。僕の知っている限り、一番初めにそれを言ったのは兼好法師だ。彼は、ばくち打ちから学べることは多いと徒然草に書いている。イチローの発言を聞いていて同じ事を今回強く感じた。
 

「福島原発の真実」  佐藤栄佐久

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 本書を読みながら「国家の暴力」という言葉を常に思った。

 国として電力安定供給という「全体最適」の為に、福島県の意見を「部分最適」と断定し、それを無視する形で原発が進められて来たことが本書を読んでいて良く理解出来た。
 一般論として全体最適の為に部分を犠牲にするということは、あってはならない事だが現実としては有るとは思う。何かを選ぶ時は、それ以外を捨てることであることも多い。全ての人や物が幸せになるということは話としては美しいが、なかなか難しい。

 但し、ここから先が問題だ。

 「部分最適」を否定し、「全体最適」を錦の御旗としてきている国が、実は自分たちの間では「部分最適」だらけであることが本書から見えてくる。原子力行政や電力会社は所詮、自分たちの「部分最適」を求めているだけに見える。県の「部分最適」を否定しながらも、自分達は結局は自分達だけの為の「部分最適」に走っているだけではないか。これでは欺瞞であると言われてもしょうがないだろう。それが出来るのも国家が暴力を行使しているからだ。著者は国策捜査ともいうべき汚職事件で失脚を余儀なくされたという。

 本書は福島原発の話だ。但し、例えば著者が最後に書いている自身の汚職疑惑における検察もほぼ同構造である様だ。著者は原子力行政と検察の持つ基本的な相似を描き出していると僕は読んだ。

 これは人間の業なのだろう。日本だけの特殊な話だとも思えない。他の国でも大なり小なり同じような話はあるはずだ。そう考えると、本書は突き詰めて行くと人間論になっていくはずだ。
 但し、そこまで抽象化している場合でもないかもしれない。原発事故は今なお現在進行形だ。本書で描きだされた様々な隠蔽も、現在なお進行中に違いないのだ。