くにたち蟄居日記 -107ページ目

語り得ないこと

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 「 語り得ないことについて語る努力を続けていくこと、それが神学なんです。
 
  語り得ないことについては語り得ないとあきらめる哲学、といったほうがいいかもしれない 」
 
 
                                  --「聖書を語る」佐藤優 中村うさぎ  138頁 --

「おおきなかぶ、むずかしいアボガド」 

 村上春樹はエッセイはむずかしいと本書で書いている。

 まず実績から言うと、「村上朝日堂」を初めとして、彼はかなりのエッセイを書いていることは確かであるし、むしろエッセイの名手として定評があると僕は思う。そんな村上が自分ではエッセイは難しいと言うとはどういうことなのだろうか。村上は「誰に向けてどういうスタンスで何を書けばいいのか、もうひとつつかみずらい」と本書で書いている。

 村上の小説は物語を強く志向しているし、その傾向はどんどん強くなっていると僕は思っている。おそらく小説に関しては「誰に向けてどういうスタンスで何を書けばいいのか」が良く分かっているということなのだろう。最近の彼の小説は実に良く売れているが、本当は万人向けだとは思えない。彼の小説の強さは、読んでいる読者が、自分こそが村上の言う「誰に向けて」の「誰」に該当しているのではないかと思ってしまう点にあると僕は思っている。読んでいて「これは自分の為の物語だ」と思う人が多いということが、無村上のカリスマだ。

 それを踏まえて、エッセイを考えてみるとどうなのか。

 これは僕の仮説なのだが、村上のエッセイのかなりの部分に、実は作られた物語ーーフィクションと言っても良いかもしれないーーが埋め込まれているのではないかと思う。エッセイだからと言って、そこに書かれていることが本当でなくてはいけないという理屈は無い。そもそも村上は処女作でハートフィールドという架空の小説家を引用したことでも知られているくらい、したたかな作家なのだ。

 ということで「誰に向けてどういうスタンスで何を書けばいいのか、もうひとつつかみずらい」という村上の言葉は額面通りに受け取るべきかどうかは大いに慎重に検討しなくてはならないと僕は思う。まあ、読者としては、作者に上手に騙されることは大事なのだが。

匙屋にて その弐

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 店内を流れている音楽が気になった。キース・ジャレットという方の「The Koln concert」というアルバムだと言う。
 
 キースはゴルトベルグ変奏曲を買ったことがある。ケルンコンサートも早速買うことにした。

匙屋

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 晩夏の国立を歩いた。
 
 匙屋というお店ではグラスを買った。

「予兆とインテリジェンス」 佐藤優

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 「悪人と付き合うこと」を考えさせられる一冊である。

 僕は日頃仕事に当たるに際して、取引先が「善人」か「悪人」かを判断すべきだとしている。僕の理解では人を理解するに際しては以下4通りがある。

 1 善人を善人だと正しく理解する。
 2 善人を悪人だと誤解する。
 3 悪人を善人だと誤解する。
 4 悪人を悪人だと正しく理解する。

 僕の理解では最悪は2である。3の場合にはせいぜいお金を損する程度だが、2の場合には刃傷沙汰になる危険性もある。人の悪意より善意の方が時には恐ろしい。「可愛さ余って憎さ百倍」という言葉もあるが、善意が踏みにじられた際に人間が発する憎悪には非常なるものがあると思う。

 一方4のケースだ。僕の理解では、取引先が悪人だったとしても、それをきちんと理解出来ていれば、取引が出来ると考えている。相手に内在しているロジックを踏まえ、相手の欲望を正しく認識出来れば、後はそれにそってこちらのロジックと欲望を合わせることが出来るかどうかに掛っている。そうしてそれはしばしば可能だ。


 本書を読んでいると、外交という世界では全てのプレーヤーが悪人であることが良く分かる。外交の世界には善人はいない。せいぜい「お人よし」がいる程度だ。日本も十分悪人であるべきだ。そうではないと外交というゲームに勝てないからだ。
 そう理解してしまうと、本書は悪人とどのような取引をしていくのかという点で非常に示唆に富む一冊となった。繰り返すが、悪人とは取引可能な存在だ。下手な「お人よし」の方が、下手すると何をするかわからないという点でriskyな存在なのだと思う。

「宮崎アニメの暗号」 青井 汎

 
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 楽しく読めた。感想は二点である。

 一点目。
 著者は勤務の傍らに本書を書いたという。在野の研究家の書いた一冊だと考えると、作者の勉強ぶりには頭が下がる思いだ。本書を読む限り、作者が関心を寄せる領域の広さには十分驚くに値するものがある。多くのアマゾンのレビュアーの方がご指摘する通り、いささか著者の解釈は我田引水ではあるが、それだけの「我田」を作ることはそもそも大変な事だと僕は思う。我田引水ということで、本書を批判することは容易かもしれないが、著者に対しては僕は尊敬の念を覚えた。


 二点目。
 我田引水と書いたが、引水ぶりにはある種の説得性はあり、そこを楽しめた。著者の指摘は的を射ているかどうかに関してはしばしば疑問だったが、少なくとも何かを射ぬいている感触は感じた。

 僕はその点に宮崎という方の作りだした世界の広さと深さを感じる。

 おそらく宮崎の作品を解釈する方法は非常に多いのではないかということだ。例えば本書は五行思想を基に読み解く場面も多く、それなりの説得力があった。一方、全く違う切り口から宮崎の作品を解釈する方法もいくらでもあるのではないかという予感がする。

 例えば贈与と互酬という切り口で「もののけ姫」を読み解くことも可能だろう。若しくは映画「カサブランカ」を「紅の豚」と重ねた上で大戦下の欧州を切り取る人も出てくるかもしれない。「カリオストロの城」を貨幣論から見直すことも面白いかもしれない。


 かように、色々な分野からのアプローチが可能であり、しかも、直観的に言って、各アプローチにとってなんらかの成果物がありそうな予感が漂うのが宮崎の作品ではないか。

「憂鬱でなければ仕事じゃない」 見城徹 藤田晋

 
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見城という方と藤田という方に各々興味が有ったので本書には期待していたが、結論的には期待外れであった。

 お二人の対談集であると思っていたが、そうではない。お互いへのエール交換はあるが、基本的には各々が自分の話をしているだけである。出版界の風雲児とIT業界の異才とのコラボであるなら、例えば電子出版の将来に関して取っ組み合いになるようなやりとりも有ってしかるべきだが、そういう場面も無い。仕事のやり方の話も良いのだが、もう少し違う次元の内容が有っても良かったのではないだろうか。

 次に、特に見城という方を通じて、再度「本とは何なのか」ということを考えさせられた。

 本とは「主に紙で出来た持ち運びが容易で長期常温保存が可能なもの」というハード面と、「書いてある内容」というソフト面がある。後者を作家が担当し、前者を流通も含めて出版界が担当している。見城という方は言うまでもなく後者の風雲児だ。彼としてはハードを用意した上で、どうやって上質のソフトを入手するかが仕事である。ここで「上質」と書いたが、見城という方にとっての「上質のソフト」とは、一言で言うと「売れるソフト」という事に他ならない点が本書からも強く伝わってきた。
 
 これは別に見城をおとしめている積りでは全く無い。

 本が売れない限り、ハードとしての出版界はビジネスとして衰退するしかない。電子出版にしてもコンテンツを買ってくれるお客がいない限り、同様であろう。羊皮紙以来の伝統を持つ「本」をいささか偏愛する僕としては、これは耐え難い状況であり、出版界が生き延びる事が出来るなら、少々下品な状況が有っても良いと思う。
 見城という方はそこが分かっていると僕には感じられる。幻冬舎の本に感じられるある種の「下品さ」は、そこから出てきていると考えているし、だからこそ、同社の動向には常に興味を覚える次第だ。「質が高く、しかし、多くは売れない本」を出すという出版社の志には感銘を受ける一方、徹底的に「売れる本」に特化する出版社も、全体最適の一つの重要な鍵だと思うからだ。

「原発社会からの離脱」 宮台真司 飯田哲也

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本書の感想は以下二点である。

 一点目。宮台が指摘するライフスタイルとソーシャルスタイルの違いという点が勉強になった。日本では環境思想が、ロハスというような形で個人のライフスタイルに収斂してしまい、大きな社会の動きにならないという指摘は大いに腑に落ちるものがある。ソトコトというような雑誌を読んでいても、結局は「環境に優しそうなグッズの購入」という話になってしまう点に違和感を覚えたことも思い出した。
 
 二点目。本書で初めて飯田という方を知った。原子力行政の中にいた方が描き出す官僚の姿には説得力があった。また、北欧の電力関係の話も非常に興味深く読めた。
 つくづく思うのは日本の大手メディアからの情報では分からない点が多いということである。原子力ムラの中に日本のマスメディアが組み込まれてしまっていることがうっすらと見えてくる。こうなると、僕らはどのように情報を入手し、どのように判断力を養成すれば良いのだろうか。

 震災と原発問題を通じて見えてきたものは多いとつくづく思う今日この頃である。

「原発事故はなぜlくりかえすのか」 高木仁三郎

2000年に刊行された本書を福島原発事故の中で読む意義は非常に大きいと痛感した。

 本書は原発事故の技術的な解明を図るものではない。原発事故を繰り返す日本人の文化論として読むべきだ。本書で描き出される日本人は以下である。

 まず「組織」を再優先し、「個」としての意見を持たないという国民性である。

 組織から与えられる目標と基準の中で努力する余り、自分で考えるという姿勢が見えてこない。自分で考えない分、何か問題が起こった際に自分の責任を認識するということが出来ない。「言われたことをやっただけだ」という無責任の体系に入ってしまう。
これは太平洋戦争の戦争責任と同じだ。開戦時の閣僚は個人ベースでは開戦に反対でも、組織の空気で開戦せざるを得なかったという。組織の動きに抗わず、空気だけで物事が進んでしまう。原発の事故にもそんな部分は有ったのではないか。



 二点目としては自己検証機能が不全である点だ。

今回の原発事故の後で原子力保安院を経済産業省から切り離すという議論が急に始まった。プレイヤーと審判が同じ組織にあるという点の指摘だが、では、福島に大地震と大津波が来るまでは、かような問題点は誰も疑問視しなかったのだろうか。チェック機能不全は自然災害以前から存在してきたわけであり、自然災害が来るまで問題を自己検証出来なかったからだとしか思えない。

 こう本書を読んでくると、今回の福島原発問題は正しく人災であり、かつ日本人の固有な考え方に起因している部分が非常に多いと思わざるを得ない。

 死の床で本書を書いた著者は以下の通り書いている。

「なお 楽観できないのは、この末期症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。JCO事故からロシア原潜事故までのこの一年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険性と結局は放射性廃棄物がたれ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです」

 巨大な事故は起こった。放射性物質もたれ流しされた。しかもまだ現在進行形である。著者が本書で警鐘を鳴らした「日本人の思考法」は、今なお大して反省されていない。

若しかしたら福島原発事故は氷山の一角かもしれない。

 「氷山の一角」という言い方は今回の極めて大きな事故を表現するには本来ふさわしくない。苦しんでいる多くの方に失礼であると思う。但し、まだ見えていない更に巨大な事例も日本にはまだまだあるのではないか。それが最後の読後感である。


 災害の際の冷静さを称賛された日本人であるが、それにかまけている場合ではない。そもそも何で原発事故が起こったのかという部分をどれだけ自己検証出来るのだろうか。そこが僕らが試される場所だろう。

「西鶴一代女」  溝口健二

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 観るのに体力を使う作品である。

 主人公は美貌がゆえに、人生を転落していく。男性として女性は美人である方が得なのだろうと考えていたが、この映画を見る限り、時として美貌がその人の人生を狂わしていくということもあるのかもしれないと思った。

 なおかつ、主人公は美貌だけではなく、なまじ毅然とした性格であっただけに、更に不幸を極めていく。自分の美貌を頼んで生きて行こうと安易に考えたとしたら、そこまで不幸になることもなかったろう。

 だからこそ、本作の救いのなさが際立つ。観終わった後の疲労感は、本作を貫く異様な緊張感と、その救いの無さにある。


 田中絹代という女優は凄い。

 こういう役を演じることは女優としてのキャリアを考えても、相当の挑戦であったはずだ。堂々と転落する女性を演じている彼女を観ていると溜息しか出ない。山田五十鈴等を観てもそう思うが、今の日本にこのような女優がいるのだろうかと考え込んでしまう。

 これで溝口作品を観るのは三作目である。まだまだ観ていない作品があることは僕にとっては幸せだと言って良い。黒沢と小津の作品は学生時代から観てきて、そのかなりを鑑賞してきたが、溝口作品を観る機会を逸してきた。漸く、少しづつ観始めているところだ。