くにたち蟄居日記 -106ページ目

イトウタカシさんの木工房

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椅子を買うことにした。
 
 僕の散歩コースの一つはママ下湧水だ。矢川駅から甲州街道を渡り、坂の下の府中用水を右に曲がって用水沿いを歩く。用水は、季節によって水量も違うが、いつももゆったりと流れている。付近は湧水を齎す崖線であり、いたるところから水が湧き出ている。
 
 里山という言葉があるが、まさに国立の里山である。
 
 四季の良さはそれぞれだが、僕は圧倒的に、この場所に限っては夏が好きだ。
 
  草いきれに鼻が笑い、蝉しぐれに囲まれる。
  飛び交うトンボを追っていると、時折太陽の方を見てしまい、眩しい。
  足元の草むらに青大将を見つけたこともある。ゆっくりと動く大蛇は悠々たるものだ。
  用水に目を凝らすと、銀色に光る魚も見える。
 
 そんな用水沿いにイトウタカシさんの工房がある。
 
 散歩のたびに、工房の前を通りかかったので気になっていた。何かを作っていらっしゃるという雰囲気はあったのだが、今ひとつ分からないでいた。この夏に通りがかった際に、ちょっとしたパンフレットが置いてあり、それを頂いて見たことで、ようやく木工房だということが分かった。
 
 パンフレットに出ていた椅子の写真が良かったことと、そのパンフレットに紹介されてあったHPを訪問した際に非常に感銘を受けたことで、妻と二人でお邪魔した。椅子を買い替えることは数年来の妻との協議でもあったのだ。
 
 僕が受けた感銘とは単純なものだ。用水で捕まえたナマズと工房の敷地に玉虫が飛んできたという記事に強く惹かれたからだ。
 
 人間には眼の動かし方というものがある。同じ風景を見ていても何をどう見るかに関しては各人各様である。例えば、子供は遠くのものではなく、近くのものを見る癖があると思う。遠くの夕焼けより足元の花を見る傾向が強いような気がする。僕自身が、自分の眼の動きを考えてみると、その子供のそれに近い。
 
 そんな僕にとっては、例えば用水の中から現れるナマズや、木に止まっている玉虫は、まさに自分が見たいものである。僕は「自分は遠くを見るより、近くを見ることが好きなんだ」と認識させられたのが、そのHPだったのである。
 
 木工房でも色々と教えて頂いた。木材といっても木の種類によって重さが全然違うというようなこと等だ。知っている人から見ると常識なのかもしれないが、僕は全く初めて知ったところだ。同じようなサイズの椅子でも重さが違うということを自分の腕で確かめることは楽しい勉強である。木というものを知らなかった自分にも気付いた。
 
 新しい椅子は秋に完成する。次回は11月に帰国する予定だ。その時に座ることが出来たら楽しいだろうと、遠いインドネシアで想っているところである。
 

「夜間飛行」 

 
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 「夜間飛行」の新訳が出た。旧訳の本書が実に面白かったので、直ぐに購入した。旧訳は詩人の堀口大學であり、言葉は綺麗ながらも現在から見ると古い。新訳の方が今の僕らには読みやすいと思った。

 本書を再読して、改めて、この作品の主人公リヴィエールの造形に感じ入った。僕も主人公と同じく中年であり、組織でいくばくかの部下を抱えて働いている。その立場に立って見ると、主人公の見せるリーダーシップの難しさということが分かる。

 僕の仕事は、部下に死の危険を強いるようなものではない。一方、夜間飛行を強いる主人公の仕事は部下の命を危険にさらす厳しいものだ。その厳しさの中から、主人公の並はずれた自制心と、自他共に律する厳格さが産まれてきたのであろう。著者のサン=テグジュペリ自身がパイロットであり、最後は地中海で撃墜された程の危険な任務についていたこともあり、本書に描かれる業務の危険性には非常に説得力がある。その上での主人公の造形だ。

 ここからはいささか想像力をたくましくしたい。

 福島第一原発では3月以来、既に半年もの間、非常に危険な部署で多くの人が今なお懸命な作業を続けておられる。死の危険に晒されながらも、作業を進める姿には世界からも称賛の声が寄せられている。その中で、どのようなリーダーシップが発揮されてきているのだろうかということだ。聞くところでは、本社からの指示を無視して、注水を続けたリーダーもいらしたという。指示を無視した点の是非は議論の余地は十分あるわけだが、そこにはいくばくかのリーダーシップ論もあるような気がしている。

 日本の強みは本社ではなく現場だと言われることは多い。そんな現場の強さがあるとしたら、そこには「現場のリーダーシップ」が必ずあるはずである。リーダーシップというと、どちらかというと日本人はそれに欠けていると言われがちかもしれないが、おそらくそれは間違っているはずだ。そうでないと現場の強さが説明つかない。
 リヴィエールの見せる現場でのリーダーシップもその一つの例である。僕自身も現在はいわば現場勤務であるだけに、余計に本書に引き込まれるのかもしれない。

「福島の原発事故をめぐって」 山本義隆

 
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本書の副題は「いくつか学び考えたこと」となっている。これが本作の鍵だ。


 本書で著者が展開する議論での素材や情報一つ一つには目新しいものは多分無いと僕は思っている。著者自身が「特別にユニークなことが書かれているわけではない」とあとがきで断言しているが、おそらくその通りであろう。著者が認める通り、著者は原子力の専門家でもないからである。従い、本書を批判するに際して、目新しさが無い点を挙げても的外れである。


 但し目新しくない素材を集めた上で「学び考えたこと」の展開を通じて、本作は非常にコンパクトながらも、ピリリとした、山椒のような著作になっている。特に、人間が自然との対峙スタンスをどのように変化させてきたのかを展開する部分は大変勉強になった。原発が立っている土台には、人間の自然観と技術観、つまりは人間の哲学が存在している点は、今回の事故を通じて見えてきたものの一つである。


 今回の事故を通じて、「脱原発」「原発継続」「原発推進」等の議論が発生している。これからもこの議論は続くだろう。
 ともすると経済成長とのバーターというような議論(若しくは恫喝)に矮小化されてしまう可能性もあるが、本当に今の段階で試されているのは人間の哲学であると僕は思っている。


 「哲学というような青臭い議論をしている暇は無い」という異論もあろうが、長いスパンで考えた場合には、必ず哲学の問題になると僕は確信している。いかに今後技術が発展しても、人間が内部から崩壊していく可能性は常にあると考えているからだ。


 その意味では今回の事故を通じて「学び考えたこと」をどのくらい積み上げることが出来るのか。その一例として、著者が提起している「科学技術幻想とその破綻」という切り口は、大いに傾聴に値すると僕は考える。

カフェ・トピナンブール  

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久しぶりの国立滞在は、いささか食べ歩きになっている。
 
 カフェ・ドピナンブールは民家を丸々レストランに変えたお店である。季節の野菜を調理するお店らしい。僕が注文したものは、昨日のプーさんに続いて野菜カレー。一緒に出掛けた次女はカボチャのスープを頼んでいた。

ほんやら洞  国分寺

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 プーさんに出掛けた後に国分寺で降りた。久しぶりに ほんやら洞に行った。この店もカレーで有名なのだが、プーさんでカレーを食べたので、葡萄のジュースだけとした。

カレー屋 プーさん   武蔵小金井

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 久しぶりにプーさんに出掛けた。
 
 1983年頃に初めて、この店でカレーを食べたことが、僕のカレー遍歴に始まりである。そうして、まだその遍歴は幸せなことに終わっていない。

モツ焼きや 「まっちゃん」

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 国立の「まっちゃん」は、土曜日だけは女性も入れるので娘二人は抜きで、妻を連れて出かけた。
 
 17時過ぎだが、もう店は満員である。いつもはカウンターに座るのだが、今回は横の座敷で飲み食いとなった。
ちょうど、昼間に自分でモツ煮を作り始めたいただけに、久しぶりの「まっちゃん」のモツ煮を楽しく食べた。当たり前ではあるが、プロには到底及ばない。
 
 妻は色々は話をしたと記憶しているが が何の話をしたのかは忘れてしまった。それだけモツ煮とモツ焼きに集中していたからということで、許して貰うしかない。なにせ、それだけ美味しいので。

自己責任論者には、そこが見えていない

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 「 人間というのは、自分で背負いきれないほどの危害を人に加えることが、
 
  時としてあることが当たり前だからですよ。自己責任論者には、そこが見えていない。 」
 
                           -- 「聖書を語る」 佐藤優・中村うさぎ  15頁 -- 
 
 
  読んでいて非常にはっとした言葉だ。良く 「最後は自分が責任を取る」という格好良い言葉を聞くが
そもそも「責任の取りようが無い」という場面も時としてあるのである。言葉に酔ってしまい、自分の
負担能力に気が廻らない人も多い気がする。

匙屋 その参

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 グラスを一つだけ買って帰ったら妻がもう一つ買いなさいということで、また匙屋に出かけた。
 
 この日は かき氷で大盛況である。
 
 前日買ったグラスと同じものは、売れてしまっていた。ちょっと形が違うものを買って家に帰って、妻に事情を説明した。

くにたちの伊太利レストラン「オルトラーナ」

 
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言うまでもないが、僕が住んでいるスラバヤには余りイタリア料理屋は無い。
 
 また、もっと言うまでもないが、国立にはイタリア料理屋は多い。
 
 ということで、たまの一時帰国の際にはイタリア料理屋に行きたくなることは誰から責められる筋合いはないと思っている。
 
 「オルトラーナ」とはイタリア語で「菜園」という意味らしい。野菜好きな日本人が好みそうな名前である。
 
 ワインを飲んですっかり気持ちよくなって外に出ると、もう秋の夜であった。中学三年生になってめっきり親と口を利かなくなってきた上の娘と自転車を押しながら帰宅した。娘には自転車に乗って先に帰宅すればと言ったが、そうしたくないというので、並んで歩いて帰った。