くにたち蟄居日記 -108ページ目

「小間使いの日記」 ルイス・ブニュエル

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ブニュエルの映画はたまに見るべきだ。たまに見て、その毒気に当たることが楽しい。いつも観ていられるものではない。

 本作を見ていて、つくづく、善人が出てこない映画であると思った。登場人物は全て大なり小なり悪人と言って良い。唯一の例外は森に遊ぶ少女であるが、彼女はレイプされて殺されてしまう。
 主人公も、少女を気にかける点では若干の「善」を感じさせるが、後は基本的には魔女と言って良い。どちらかと言うと人を滅ぼしかねないタイプだと僕は思う。

 足の映画、というべきか。死んでしまう老紳士の足と靴フェチは名高いが、例えば、殺人事件の証拠として主人公がねつ造するものも靴の一部であるし、殺された少女の足をカタツムリが這う極めて残酷な場面でも足が強調されている。聞くところによるとブニュエル自身が足フェチだったらしいが、そんなトリビアは置いておいても、足へのこだわりは非常に目につく。

 それにしても、ブニュエルの映画は年に数回観るだけで良い。但し、そのスパイシーな映画は時として実に豊かであることも確かだ。僕も数えてみると、まだ10本弱程度しか観たことがないが、十分堪能してきている。

エセー 第一巻 第五十章

 
 
 
 「 そこから先には進めないぞと悟ることは、判断力の効果のあらわれというか、判断力がもっとも誇りとする
 
   力のひとつなのだから。 」
 
 
 年齢も四十歳半ばを超えると、「そこから先に進めない」物事がきちんと見えてくる。「無限の可能性」という言葉がかつての自分に有ったのかもしれないが、その後の自分で下した判断と選択、そして時の運もあり、「有限の自分」というものになってきている。
 
 何かを選ぶことはそれ以外を捨てることを意味するということに、遅まきながら気が付いてきたところだ。この認識はいくばくかの苦みもあるわけだが、かといって、何も選ばないで時間を重ねることは危険だ。「自分探しの旅」という言葉もあるが、旅に出て探して見つかる自分というものなども無いのだと、今、僕は思う。これも一つの判断なのだ。
 
 
 
 
 
 

「世界」8月号

 引き続きの震災特集である。今回は神保太郎の「メディア批評 脱原発で割れるメディア」を興味深く読んだ。

 記事はドイツとイタリアで見られた脱原発を日本の大手新聞がどのように取り上げたのかという比較である。新聞社には脱原発を支持する立場と支持しない立場がある。支持しない立場を取るメディアは、かような欧州の対応を小さく扱うか、その横に逆の趣旨の記事なり社説を載せてくるというものだ。

 今回の震災で見えてきたものの一つにメディアの在り方というものがある。

 メディアの意義には二つあると僕は考える。一つは事実の報道であり、一つはオピニオンの主張である。

 オピニオンの主張に関しては「偏向」という問題を常に孕むが、人間一人ひとりも全て「偏向」していることを考えると、その人間が作った組織が偏向していることはしょうがない。岩波の「世界」というメディアも十分すぎるほど偏向しているはずである。その偏向具合に対して、読者なり視聴者なりの好みが集まるわけだ。従い、ここで僕らが心得ておくべき点は、当該メディアがどのような偏向を持っているかという点に尽きる。その点をわきまえておけば、大きな判断や理解の誤りを犯すこともないだろう。

 一方の事実の報道だが、これはオピニオンの主張とは独立しているべきだろう。読者や視聴者は一次資料に接して自分で物事を判断する権利と義務があるはずだ。厳密な意味での一次資料を理解することは難しいにしても、出来るだけ無味無臭のデータは提供されるべきである。
 この点に関し、無味無臭どころか、色々な味付けされた「事実」をメディアが報道しているとしたら、これは相当に気を付けないといけないということだ。また上記の偏向具合を分かっていないと、味付けされていること自体に気が付かず、結果として大きな判断ミスに繋がる可能性がある。

 以上のような話は言い尽くされてきた話だと僕は思う。但し、今回の震災とりわけ原発を巡る言説に多少なりとも触れているうちに、問題は「東電の体質」「行政の問題」「政治の質」等と並んで「メディアの資質」という点もあることが、いささか見やすくなってきたのではないかという印象を受けている。例えば日頃読んでいる日本経済新聞とは、やはり「日本経済重視」という偏向があることを再確認出来た。

「ゼロになるからだ」 覚 和歌子

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映画「千と千尋の神隠し」の主題曲「いつも何度でも」という歌詞が今回の震災に余りに重なることを知り、作詞者への興味が沸き、本作を読むきっかけとなった。

 本作は詩集なのだろうか、短編小説集なのだろうか。まずこの問いかけから始めざるを得ない。詩というには圧倒的な物語があり、物語というには圧倒的な詩のイメージがある。そもそも詩と物語を分けること自体、僕には分からないのだ。

 「分ける」と「分かる」という言葉の意味がそこにある。

 人は物事を分けて分類し、区別することで物事を「分かる」ようにしている。その分別が出来ないものが目の前に現れたとしたらどうなるのか。僕にとって それが本作を読むという体験であった。

 「ゼロになるからだ」、これが本作の題名だ。

 「いつも何度でも」という詩では「ゼロになるからだ」とは「耳をすませる」ものであり、「充たされていけ」と言われるものだ。「ゼロになるからだ」とは「死を迎えた体」だと考えるにしては、余りに活き活きしたイメージではないか。「生きている不思議」と「死んでいく不思議」とを並べる作者にとっては、「死」が「活き活き」しても何の不思議でもないのかもしれない。いや、何の不思議であっても良いのだろう。


 活き活きとした動きを固定化した静謐な画とでも呼べば良いのだろうか。本作を読み終えて、何か言葉にして表さなくてはならないとしたら、そんな陳腐な言い方しかできない。但し、そんな言葉に出来ない何かを表現すること自体が不可能なのだろうと諦めるしかない。そういう地点に本書は立っているからだ。

Do it well or do it again

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  Do it well  or do it again
 
   上手くやれ、でなければやり直せ
 
 ハードボイルド映画に出てきそうなセリフだ。ボギーあたりに言わせたい。
 
  個人的には、最近 こういう言葉は好きではなくなってきた。なにせ、永遠に終わりなき作業を強いられそうではないか。
 
  「成功の秘訣は、成功するまで続けることです」というような言葉をたまに聞く。成功した後なら何とでも
言えるのだろうな。但し、何が「成功」なのだろうかと考える感受性が時に有っても良いのではなかろうか。
 
 「成功」とは「功を成す」という意味なのだろう。
 
 「功」とは何なのか。白川静「字統」によると、「工は工作の具、力は鋤」とある。どうやら農作業の話らしい。豊作を迎えることが成功というわけか。なるほど、そう言われると分かりやすい。「豊作の秘訣は豊作になるまで続けることです」と言い変えてしまえば、くだんの言葉も味わいが出てくる。
 
 まこと、農業くらい人間臭いものはないわけだ。
 
 Do it well, or do it again
 
  考えてみると、社会人になってからは、この言葉の連続だったんじゃないか。そんなふうにも思ってしまう。他人にも、これを強いてきた自分というものもあるような気がする。
 
 それで良いのか 良かったのだか。
    

ドラマ「火の魚」  原田芳雄追悼番組

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 NHKで原田芳雄追悼番組「火の魚」を観た。前から観たいと思っていた作品だったが、期待以上であった。
 
 原田はこの作品の前に癌の手術を受けている。自身が死に向き合ったであろう後に本作を作ることに際してどのような心境だったのかを思い測ることは難しい。但し、これほどの傑作に出る機会を得たことは幸せだったのではあるまいか。
 
 一方相手役の尾野真千子である。河瀬直美のいくつかの作品で強い印象を受けていたが、まだそれほど知られた女優ではないと僕は思っていた。それだけに本作の尾野を観て「やられた」と思った方は多いに違いないであろうことにはいささか快哉を覚える。彼女の素晴らしい丁寧語は脚本家の手柄なのであろうが、それを平然とこなす尾野の存在感は際立っている。完全に原田を喰ってしまっていると言って良い。原田も晩年にかような相手役を得たことは幸運だったと言って良い。
 
 それにしても原田も鬼籍に入ってしまった。ツィゴイネルワイゼンからの彼のファンであった僕として寂しいが、それでもある時代に彼と同じ時代の空気を吸っていたことには感謝するしかない。

怒るということ

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 Two things a man should never be angry at :  what he can help , and what he can not help
 
  怒ってはいけないことは二つ。避けられる事と避けられない事。
 
 
 一瞬読んで意味が分からなかった。世の中には「避けられる事」と「避けられない事」の二つ以外になにがあるのだろうか。もしそれ以外にはないとしたら、要は、「何に対しても怒るな」ということなのか。
 
 「怒る」ということを再度考える。僕にとっては「怒る事」にはエネルギーが要る。怒る事自体は易しい。僕はもともと短気なので、直ぐに怒る方である。但し、怒っていると疲れることも確かだ。だからエネルギーが必要なのだ。
 
 一方怒る事をやめたらどうなのかということだ。
 
 自分が全く怒らなくなったことを想像してみる。それはそれで人格者なのかもしれない。但し、怒らない自分というものがあったとしたら、全く馴染めない。そんな僕にとって、上記のことわざは理解を絶している。もっと言うと間違っていると思うのだ。
 
 今の日本を見ていると日本人は人格者だと思う。あれだけ怒ってしかるべきことがありながら、余り怒っていないのが今の日本人ではなかろうか。
 
 
 

勉強は悪人をいっそう悪人にする

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 Learning makes a good man better, and an ill man worse
 
 勉強は善人をいっそう善人にし、悪人をいっそう悪人にする。
 
 illという言葉の意味をまず調べた。病気という意味だけではなく 邪悪というような意味があるようだ。goodの後だからbadかと思ったがillである。Badとillの差が分からない。米国と英国の違いかもしれないが。
 
 それにしても勉強は悪人をいっそう悪人にするとはどういう意味なのだろうか。小さい頃から「勉強しなさい」と言われてきた僕としては、実は悪の道を歩くリスクもあったのだろうか。
 
 ここで思い出すのがダースベイダーである。
 
 スターウォーズのジェダイの騎士の話を見ていると、修行すること=勉強することが必ずしも善の道を約束しているわけではないことが分かる。ダースベイダーは優秀な「学び手」であったわけだ。学んだ末に悪の道に落ちてしまう。学んだだけに悪の力も大きい。そんな話だ。
 
 スターウォーズという映画が何故そのような哲学を取ったのだろうかと考えることは楽しい。スターウォーズは宇宙を駆け巡るスペースオペラでは収まらない「暗さ」を持っているところが、凡百のSF映画との違いだ。これは作ったジョージルーカスという方の資質から来ている。彼の作品である「アメリカングラフィティ」を見れば、彼のナイーブさが分かるというものだ。
 
 ルーカスが考えた「悪の哲学」は、この冒頭のことわざのような考え方の延長線上にあると僕は思う。僕にはまだ見えていないが、Learning makes an ill man worseという考え方が西欧の中にある可能性が高い。「学ぶこと」には、ある種の「暗さ」と「邪悪」なものがあるということなのだろうか。

僕は 蚊は 馬鹿だと思う

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 インドネシアという熱帯に住んでいると蚊に一年中刺される。見ていてもさっと飛んできて、足にとまった瞬間にもう血を吸い始めている。その早業にはいつも感心するばかりだ。といっても、当地の蚊はデング熱やマラリアを媒介する害虫である。感心している場合ではないのだ。
 
 「物事には理由がある」と考えることで色々な妄想を楽しむことは出来る。「何故蚊にさされるとかゆいのか」と考えることは休日の良い暇つぶしだ。答えは簡単だ。「蚊にさされたらかゆくなるように人間側が自分を変えたから」というものだ。
 
 蚊にさされてもかゆくなかったら、(そして羽音がいやでなかったら)蚊に刺されることはあまり気にならなくなるはずだ。献血だとでも考えてしまえば、なんてことはないわけだ。蚊取り線香でボヤが起きるというようなことも無くなる。それで良いはずだ。
 
 といって、それで良いと、僕らはあっというまにデング熱やらマラリアに悩まされることになる。そう、献血程度なら良いが、病気になってしまうわけだ。
 
 ということで人間は自分で考えた末、蚊にさされたらかゆくなることに決めたのだと思う。
 
 僕は蚊は馬鹿だと思う。なぜ、そんな人間の決定に反応して、「かゆくない」蚊に進化しないのかが不思議だ。ムヒやキンカンを作っている製薬会社に真剣に人生相談に行く蚊があってもよいはずなのだ。「どうか、刺しても相手がかゆくならないように私を変えてください」と教えを請いに行っても良いではないか。
 
 そうして、そちらの方が、製薬会社も儲かりそうだ。なにせ顧客の数は人間の比ではないだろう。蚊の後にはブヨだとか水虫菌であるとか、同じ「人生相談」を待っている新規顧客も待っていそうではないか。

大きな声の人

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  In too much dispute, truth is lost
 
 過度に論争すると真実は失われる という意味らしい。
 
 
 論争になると、論争に勝つことだけが目的となってしまいがちだ。自分の主張が正しいかどうか等はどこかに
行ってしまい、相手を論破することだけを考えてしまう。本末転倒な話である。友人間、家庭内、会社の中でもそんな議論は山ほどある。ディベート技術なぞがその最たるものだ。
 
 とまで書いてみて、ちょっと違和感が残った。
 
 そもそも、真実とは何かという点を慎重に精査しないと、このことわざに騙されるのではないのか。
 
 何が真実なのか。これは人類開闢以来の一大テーマである。そもそも真実があるかどうかもわからないまま、「とりあえず真実はあることにしよう」と決めて、「それではその真実とは何か」と探してきたのが人間の歴史だと言いきっても構わないのではないか。
 
 とりあえず現段階までに色々な真実らしきものは見つかった。但し「らしきもの」であることも確かなのだ。明日には反証が見つかって、今日の真実が崩れ去る可能性は常に否定できない。またそれを否定しないところが正しい科学的態度なのだと、僕は思う。
 
 終わりなき「真実らしき」ものを見つけようとする作業は、過度な論争と、どこが違うのだろうか。お互いに真実らしきものは見つけられるかもしれない。「声の大きな人」の議論がしばしば勝つのは、「大きな声で語られる」真実らしきものが、真実らしく見えるからだ。
 
 じゃあ、僕らは常に「大声の議論」の中にいるのだろうか。そうだ、と答えておく方が無難な気がする。「語りえないことには口をつぐんでなければならない」というような慎ましい態度を全ての人に期待することなどはきっと不可能なのだろうから。