くにたち蟄居日記 -110ページ目

どうせいつかは死ぬんだから

 仕事等で色々と悩む場面のおまじないとして僕は「どうせいつかは死ぬんだから」という言葉を愛用している。
 
 小学二年生の時に成績が落ちたことがあった。小学校だから「よく出来ました」「出来ました」「努力しましょう」の三段階の評価程度だが、確か二学期に、大きく成績が落ち込んだことがある。
 当然親にも怒られたわけだが、それ以上に自分としてどうして成績が落ちたのかが不思議でならなかった。考えた結論として次の学期も成績が悪かったら自殺しようというものだった。
 
 幸い、僕は生き延びることになり、気が付くと中年になったわけだ。
 
 今振り返って小学二年生が成績不振で自殺を考えるというのもいささか気持ちが悪いが、「自殺しよう」と思った瞬間に妙に肩の荷が降りたことを覚えている。あの時の僕にとって、死とは安らぎだったわけだ。
 
 それ以来、自分が死ぬことに対する意識がいささか変わったような気がしている。そもそも個体としての最大な不幸が自らの死なのだと思うが、その死が「不可避」であることも確かだ。不死を求めた人も多かったろうが、成功した人はいない。
 最大不幸が不可避であるなら、目の前の問題などは既に大したことではない。そのように考えてしまうと案外物事を考えることが楽になる。それが僕のおまじないである。

「サヨナライツカ」 辻仁成

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会社の同僚がバンコク出張の際にバンコクで買ってきた。それをお借りしてインドネシアで読了したところだ。

 結論的に言うと、第二部が残念だ。第一部の沓子の性格の造形が、二十五年後の沓子のそれと全く異なっている点に違和感を覚える。第一部では破綻していながらも、ある種のリアリティーが有った。リアリティーとは「こういう人もいるかもしれない」という意味ではない。「こういう魔女がいたら魅力的だろうな」という意味で、小説の主人公としてのリアリティーである。
 
 一方第二部の沓子はどうか。

 第一部の「破綻」が無くなり、なんとも尻すぼみな良い人になってしまっている。第一部の彼女の魅力はある種のダークサイドに有ったわけだが、その「毒」が消え去っている点が詰らないのだ。「魔女の話」であったのが「純愛の話」に変わってしまっている。魔女が二十五年を経て善人になる話とは、基本的には面白くないと僕は思う。逆の方が面白い。善人が二十五年掛けて魔女になる話だったら興味が沸く。その場合の主人公は言うまでもなく光子になるわけだが。


 そう、光子はどうなのかということだ。第一部での光子はある種の魔女だったのかもしれない。豊のバンコクでの御乱行も光子の耳に届いていてもおかしくない設定だ。もし光子が知っていて二十五年知らん顔していたという話も展開が色々と想像される。本書の展開がやや平坦なのも光子の造形が薄いからではないかと思う。


 本書は評判になり、映画になったと聞く。本書のレビューを拝読することはなかなか楽しい。賛否両論がとびかうレビューはいつも勉強になるからだ。

「八日目の蝉」 角田光代

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 この小説は「名前」の話だと読んだ。

 主人公は「薫」「リベカ」「恵理菜」という3つの名前を持ってしまうことになる。第一章は、突き詰めると主人公が3つの名前を持つ経緯だ。

 名前とは何か。考えて見ると、「名前を付ける」という風習は人類に古来から普遍的に存在する奇妙な習慣と言える。動物たちが名前を持っているとは思えない。名前が出来た瞬間に「個人」というものが誕生したのだと思う。
 従い名前とはアイデンディティである。我々が初対面の人にはまず名乗るのもそれがアイデンディティだからだ。


 3つの名前には、それに絡む社会関係がある。「薫」とは誘拐犯にして育ての親との親子関係、「リベカ」とはエンジェルホームという閉鎖された社会、「恵理菜」には産みの親との家庭関係である。主人公の悲劇は、そのような3つのばらばらなアイデンディティを抱え込まされた点に尽きる。


 名前は自分で付けるものではない。他者から付けられるものである。3つの名前も全て付けられたものだ。つまり、3つの社会関係は他者から押しつけられたものである。その中で主人公はどれが自分の「本名」なのかも分からない。つまりどれが本当の自分なのかが解らない。これは考えて見ると怖ろしい話だ。


 自分が解らない主人公は妊娠という形で、更に体内に他者を抱え込むことになる。この他者を認めることで主人公は漸く「自分はこの子の母親である」というアイデンディティを獲得することになると僕は思う。「自分の母親が誰なのか解らない」という不安定な状態から「自分はこの子の母親である」であるという確固たる状態に移るという予感が本書のラストを飾る。それこそが蝉にとっての「八日目」なのだろうか。


 本書を、母親になることが出来ない男性が読むことは本来難しい。そう思いながら読み続けたが、「名前」という切り口で考えた場合、すとんと腑に落ちる思いがした。

国民が不在なのかもしれないとちょっと思って

 管直人という方の「辞任する・しない」という騒ぎを見ていてなんだか不思議な思いがした。
 
 新聞を読む限り、管首相は鳩山前首相に、辞任すると約束することで、内閣不信任案を乗り切ったそうだ。一方、乗り切った途端に「直ぐには辞めない」と言いだして問題になったらしい。
 
 管首相がどんな約束をしたのかは藪の中だ。なぜなら管首相が約束した相手は僕ら国民ではないからである。永田町というミクロコスモスの中で行われた約束の中身など分かるわけもない。
 
 国民不在の政治という言葉がある。
 
 元々は政治家が国民を忘れて政争にうつつを抜かしているということを表しているのだろう。但しもしかしたら「国民が不在で政治だけがある」という意味もあるのかもしれない。
 
 海外からは
 
 「日本国民は、なんで自国のかような政治状況を許しているのだろうか」
 
 と思われているかもしれないのだ。つまり「日本国民とは政治的には不在な人達なのではないか」という意味で。

「セゾン文化は何を夢みた」 永江朗

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 かつてセゾングループという企業が、日本の一部の文化をリードしていた時代があった。文化を担ったものが芸術家個人や芸術家集団ではなく、営利企業であった点が画期的だった。


 本書では「セゾン文化はこうだった」という結論は出ていない。むしろ一人一人が全く異なる「セゾン文化」を持っていたような印象が強い。そういう意味ではセゾン文化は水族館で見るイワシの群れみたいなものかもしれない。遠くから見ると「群れ」という形を持っているが、近くで見ると一匹一匹の魚が独立して泳いでいる。そんな風景だ。


 会社としてのセゾングループはバブル崩壊の中で崩れたが セゾン文化は現在も色々な形で、その遺跡が残っている。無印良品は好例だ。


 オーナーの堤清二はノンブランドを夢見て無印良品を立ち上げたと語っている。1980年に始まった無印良品は、2011年の現在では明らかに「無印良品」という「ブランド」になっている。
 無印良品が何故ブランド足りえたかに関しては興味深い。堤が本書でも言っている「自立した消費者」が産まれたかのようにも見えるが、そもそも「ブランドに依存しない消費者」が無印良品というブランドを育てたとしたら、それは堤が意図したことなのだろうか。
 

 この三十年間日本の流通業は淘汰と再編の歴史だった。セゾングループも再編される側に廻った。但し、セゾングループが歴史の中で光芒を放つとしたら、かつて一営利企業が「夢みた」ものが、今なお晩鐘の残響のように響いている点にある。

 営利と文化が両立すると思わせる時代があった。営利と文化を同時に解す人間が産まれてきたと思わせる時代があった。それは結局誤解だったのかもしれない。但し、今後またセゾングループのような企業が出てくる可能性も否定できない。セゾングループの黄昏にも、まだ将来への夢は残っているように僕には思える。

「荒廃する世界のなかで」 トニー・ジャット

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 サッチャーやレーガン以来の価値観であった新自由主義が何を齎してきたのかということはだんだん僕らにも見えるようになってきている。

 一億総中流社会という言葉はある時期の日本を言い表していた。僕の記憶している限り、いささかの皮肉が込められた言葉だったと思う。中流という言葉の中途半端さが皮肉を呼んだのかもしれない。しかし、今となってみると、「中流」はともかくとして「一億総」という部分に実は安定した社会を維持出来てきた鍵があったということなのだろう。一億総中流社会とは実は良い時代だったのではないか。


 本書の基本線は「社会の中で不平等、格差が広がった場合には、結果としてその社会を壊してしまう」という点だ。新自由主義が「自己責任と自助努力」という呪いと共に、徹底的に個人のメリットを追求した点に対する著者の最も強い反論がそこにある。
 「自己責任と自助努力」という言葉を謳歌した連中はリーマンショックの際に、皮肉にも国に救済された。too big to failという仕掛けまで用意していた連中の賢さには感心するしかない。


 Winner takes allという言葉がある。敗者には何も残らないわけだ。敗者は退場せよと言われる。しかし、どこに退場させるのかということだ、社会から退場させようということなのだろうか?その延長上が本書にも出てくるゲートコミュニティーでしかない。勝者が住める場所はゲートで閉じられた狭い場所になってしまうのだろう。なぜなら勝者の数は少なく、圧倒的多数が敗者であるのだから。

 本書を読んで勉強になったことは世界は「大きな政府」と「小さな政府」の間を振り子のように動いてきているという歴史を持つということだ。新自由主義が横行したリーマンショックまでの流行は「小さな政府」である。震災後の日本はとりあえず「大きな政府」を志向せざるを得ないだろう。それほどまでの、この振り子の振幅は大きく、かつ揺れも早い。

 その「早い揺れ」の中で、そもそもの人間の社会というものはどうあるべきなのかを語るのが本書である。本書が説く社会民主主義は格差を減らし、平等を志向する哲学だ。それが本当に動物としての人間のあるべき姿なのかどうかはまだ結論は出ていないとは思う。但し、震災と原発問題を抱えた日本という特異な地点から見て、現段階では非常に魅力的な言説であることは確かだ。少なくとも最近の日本で「勝ち組、負け組」という言葉は聞かなくなったと思う。

 但し、繰り返すが、それが本当に人間の本性なのかどうかは分からない。

政治生活においても消費者となってしまったのです。

 
 「今ではもう、政治運動というものはありません。(中略) わたしたちは経済生活においてと同様、
 
 政治生活においても 消費者になってしまったのです。」
 
                      --「荒廃する世界のなかで」 トニー・ジャット ーー
 
 
 この「消費者」という言葉をどう理解すべきかと考えている。
 
 最近の日本で「政治」とは「消費されるもの」になっているという気がしている。小泉劇場ではないが、一種の見世物化してような気がしてならない。過去数年の選挙の「ドラマチック」な展開は、まさに「ドラマ」という形で「消費」されているとは言えないだろうか。

ゴジラ と オキシジェンデストロイヤー

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 5月31日の日経新聞の「経済教室」にて、松本絃京大総長が以下と書いている。
 
「科学とは、何ができるか、なぜ起こるのか、どうなっているのかを明らかにするためにある。一方、政治は、何をするかという意思を実現するのが役割であろう。what we can doをつかさどる科学と、what we will doを担う政治を混同してはいけない。」
 
 これは今回の原発事故に関する記事である。
 
 読んで思ったのは、「ではwhat we must/must not do」という点は誰が担うのかということだ。
 
 普通に考えるとwhat we will doを考えるに当たって、what we must/must not doを前提とすべきであろうから、従い、what we must/must not doも政治が担うべきということだろう。厳密に言うとwhat we will doを政治が決めて、what we doを政府が担うということなのかもしれない。
 但し、いずれにせよ、what we must /must not doとは本来倫理、哲学の問題であり、その部分まで政治に担わせるべきかという議論はあるべきだと思う。
 
 一方科学がwhat we must/must not doという問題にどこまでcommitすべきなのかということも考えた。
 
 ここで思い出したのは映画「ゴジラ」である。
 
 今回の福島第一原発をゴジラに見立てる向きも多い。確かにコントロール不能になっている原子力という姿は正しくゴジラである。
 
 映画「ゴジラ」では、僕の記憶が正しければ、ある科学者が作り上げたオキシジェンデストロイヤーという薬品でゴジラは死ぬ結末となっている。かつ、その科学者も同時に死を選んでいる。死を選ぶ理由としては、自分が生きているとかならずこの悪魔の薬品を軍事産業が狙ってくるからだということだったと思う。つまり、その薬品を新しい核兵器になぞらえて、それを科学者が自分の生命と引き替えに、葬り去るという話だろう。
 
 この科学者はwhat we must not doという部分に踏み込んだことになる。その姿は感動的であるわけだが、それが正しかったかどうかという点では賛否両論を呼ぶだろう。科学はwhat we can doの地点に留まっているべきだという意見から考えると、その科学者は正しくないことをしたということになるに違いない。
 
 新しい科学や技術には毒がある。その毒を解毒するすべをもたないまま僕らは見切り発車で物事を進めている面があると思う。それどころか毒を毒だと認識することすら時として難しい。そうした中でwhat we must/must not doを考えることは本当に難しくなってきている。
 
 イリイチは「高度産業社会は専門家ばかりだ」と言ったらしい。新聞で原発の記事を読んでも正確に理解することは既に難しいではないか。そういう不可知が広がる中で誰が・いつ・どのようにwhat we must/must not doを考えるのかという事は喫緊の課題ではないだろうか。

プランニング

 
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 「 プランニングが最も称賛され唱道されたのは、政治の両極端でした。
 
   左翼では、プランニングこそソビエト連邦の偉大なる成果と考えられ
 
   右翼では、ヒトラーやムッソリーニ、そしてその他のファシスト亜流も、トップダウンの
 
   プランニングを実行したのであり、彼らの魅力もそこにあったと、信じられています。 」
 
 
                             -- 「荒廃する世界のなかで」 トニージャット  80頁 --
 
 
 いわゆる「大きな政府」という発想は人類が基本的に持つ考え方ということなのだろう。この「大きな政府」への反動が、「小さな政府」となり、新自由主義へと繋がる。
 
 ところが「災害」が起きるとまた「大きな政府」が戻って来るわけだ。リーマンショックも東日本大震災も「災害」という点では通底している。
 

福島第一原発 注水問題

 福島原発の注水を巡る騒動がこの一週間の大きな話題だった。
 
 「言った言わない」であるとか「再臨界の可能性はゼロではないと言っただけだ」であるとか泥仕合を繰り返したあげく、実際には現場の所長の独断で注水は中断されなかったという結末となった。この結末が本当なのか、またもや何かの調整なのかは本日段階では知るよしもない。但し いずれにせよ政府や東電の発信する情報の信ぴょう性がまた下がったということだ。
 
 東電は吉田という所長への処分を考えているという。普通に考えると当然だろう。あの状況で命令系統を逸脱した行為は懲戒免職級である。権限規定では所長の判断に任されているらしいが、状況は既に一介の民間会社である東電の社内規定に任されていなかったことは明白だ。
 
 じゃあ 東電は本当に処分するのか。
 
 管首相は所長の権限規定内として処分をしなくても良いと発言したらしい。民間企業の社内規定に首相が踏みこむことの正当性は検証されるべきだ。東電の社内規定が政府管轄だったのかもしれないが、それにしても首相が発言すべき内容とも思われない。
 
 皆さん後ろめたいのでしょう。「注水を止めたことがまずかった」という前提のもとで責任の押し付け合いをしていたのがここ一週間である。ババ抜きを必死にやっていたが、ババが無かったという間抜けな話なのだと思う。
 
 僕が一番怖いと思うのは、今回の話が吉田所長の個人的な美談で終わってしまう点にある。国の存亡を掛けた状況の中で、誰かの個人的な功罪に集約してしまうことは議論を矮小化するだけだ。逆に言うと吉田美談の陰に何を隠そうとしているのかを冷静に見て行く必要があるということだと思う。
 
 それにしても原発関係でしっかりと顔が見える方は、この吉田という方だけのような気がする。少なくともこの方は、まさにその原発現場で指揮を執っていると聞く。彼の独断は自身と部下の命を左右する。その中で、東京からの指示を無視したとしたら、それは少なくとも自分と部下の生命を掛けた判断だったということは言える。自分と部下の生命を掛けて判断している方が今の日本に何人いるのだろうか。