くにたち蟄居日記 -111ページ目

「世界」6月号  ソフトバンク 孫社長の論文を読んで

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 ソフトバンクの孫社長の論文を興味深く読んだ。

 孫社長の記事を読むことは前からあったが、大概それは「日経ビジネス」といった経済関係の週刊誌であった。「世界」という月刊誌で孫社長を読んだことは僕の少ない経験の中では初めてのことである。

 一読した印象としては「やはり孫社長という方はビジネスの嗅覚が鋭いな」という点である。
 「ビジネスの嗅覚」というと、言葉の響きは悪いかもしれないが、僕は決して悪意をこめているわけではない。そもそも人間のあらゆる所業は「ビジネス」と表現してもさほどに外れていないと僕は考えている。従い「動物的嗅覚」という言い方も出来るかもしれない。

 孫社長が嗅ぎつけているのは「エネルギーのパラダイムシフト」ということだ。原子力を衰退しつつあるエネルギーと判断し、その代替エネルギーをどうするかが今後のビジネスになると確信している姿がはっきりと見えてきている。
 勿論、かような考え方は孫社長だけではなく、多くの学者や企業が今まさに考えていることだ。その意味では特に読んでいて驚くものではない。

 僕が興味を持つとしたら、孫社長という希代の起業家が、岩波書店の「世界」というメディアでビジネスを語るという「嗅覚」である。「センス」と言っても良いかもしれない。同じ論文を「日経ビジネス」に載せた場合とどのような反響の違いがあるのかと考えることは興味深い。

 孫社長はエネルギーパラダイムシフトの根拠として発電コストをまず主張している。但し、その一方でパラダイムシフトには「経済原理」だけでは物足りないと考えているのかもしれない。原動力として、「エネルギー哲学の転換」が不可欠だと孫社長が考えているとしたら、本論文を経済紙ではなく「世界」に載せてきたことも理解出来る気がする。

「そして誰もいなくなった」 ルネ・クレール監督

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 まだ十代初めの頃に新聞の広告で本作の公開を見た。今調べてみると1976年に岩波ホールで上映された際の広告だったようだ。その段階で原作を読んでいたので観たいと思っていたが、結局果たせなかった。鑑賞したのは2011年の今年である。三十五年ぶりに思いを達することが出来て感慨深い。


 DVDの解説にはクリスティー映画の最高傑作とある。僕が鑑賞したクリスティ映画は「ナイル殺人事件」、「オリエント急行殺人事件」、1974年に再度作られた「そして誰もいなくなった」と本作だが、その4つの中で考えるなら、確かに本作が一番良く出来ている。ナイルとオリエントは豪華な映画で僕も十分好きではあるが、いささかオールスター気味で緩い部分は否めない。その中で、本作の切れの良さは際立つ。


 結末については色々な論と意見がある点は原作の大ファンの僕にとっては良く分かる。クリスティ自身が本と戯曲で2通りの結末を用意していたという点は今回初めて知った。少なくとも戯曲の場合には、本作のような結末にせざるを得ない点は確かだろう。これはこれで悪くないということが観終わった後の感想だ。


 それにしても、時折思うのだが、古い映画には切れ味が良いものが多い。

 現代のCGやSFX等の技術的な面での進歩には感心する。一方、話が冗長であったり、無駄なエピソードが多かったりするものも多い。やはり、これは素直に脚本の差だ。現代の映画がどのくらい脚本に手間と金を掛けているのかに関しては知見が無いが、観ている限り、首を傾げることも多い。

 CGやSFXが無かった事で脚本を磨きに磨いたのが昔だったのかもしれない。勿論古い映画でも脚本が雑な作品も山ほどあったろう。そういう作品は長い年月できちんと淘汰されたはずだ。本作は1945年製作だが、六十六年経った現在にも生き残っているという事実は重い。

「元気」とは 貰うものなのか なるものなのか

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May 2011 at Kunitachi
 
 「元気を貰う」という言葉使いがある。
 
 わりと最近使われるようになった言葉だ。僕の記憶ではマラソンの高橋尚子が使っているのを聞いたことが最初である。勿論、彼女の造語というわけでもないだろうからその前に誰かが言いだしたのだろう。
 
 
 僕としては「元気」とは「成る」もので「貰ったり上げたり」するものではない。「元気にさせて貰った」という言葉あたりが、言葉使いとしては 僕にとっては限界である。
 勿論、これは僕個人の感覚に過ぎないのだが。
 
 
 「元」という言葉は、白川静「字統」によると「人の首の部分を丸く大きな形で示した人の全身形」ということらしい。
 「気」については「風気・気力・気質などの人の性情にもとづくところの意があり」となっている。「天気」であるとか「気配」というような言葉も考えてみると、何か目には見えないが、一種のエネルギーのようなものを感じる。
 
 ということで「元気」とは人間の精神が持つ一種の力というようなことになるのだろうか。それも「全身形」を表す「元」が付いていることで、全身全霊というような雰囲気すら出てくるではないか。
 
 「元気」とはそういう引き締まった精神がほとばしるような状態なのだろうなと改めて思っているところだ。それを人から貰ったり上げたりすることが可能なのかどうかをぼんやりと考えているところだ。言葉としては違和感があるが、元気を「貰ったり上げたり」するという概念自体には良い響きはあるような気もしている。
 
 
 
 
 
 

「西の魔女が死んだ」  梨木 香歩

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 娘から借りて読んだ。

 この短い話は色々な謎を残したまま終わってしまう。

  ゲンジという人はどういう人なのか。

  魔法とは何なのか。

  そもそも魔女とは何なのか。


 それらは意味ありげに物語を横切りながら、決してこれだという解き明かしを出してくれない。謎が謎として残るだけに余韻も深い。読む人に結論が委ねられている。読む人が一人一人自分なりの解き明かしをするしかない。逆に言うと読む人の数だけ答えがあるということなのだろう。

 本作は非常に陳腐に言ってしまうと、ある少女が成長するに当たって経てきた「通過儀礼」の話だ。社会から一旦脱落した主人公が、不思議な空間と時間を経て、社会に戻って来る話だ。主人公が不思議な空間と時間の中で学ぶことは「自分で物事を決める」というシンプルなものである。それを「魔女訓練」と呼んでいるわけだが、考えてみると「自分で物事を決める」ということは確かに難題である。これは年齢をいくら重ねても難題で有り続けることは、自分の歴史と現状を考えても良く分かる。

 主人公は自分の意志として、社会に戻ることを決めた。その結果としておばあちゃんに会う機会を失った。西の魔女であるおばあちゃんにとっては、その展開は十分予見出来ていたはずだ。であればこそ本作のラストシーンの魔法が理解出来るような気がする。
 
 どう僕が「理解したのか」については、謎解きをやらない本書に準じて説明しないことにする。

国立の仏蘭西料理屋「GRAS」

 
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 半年振りに訪れた。
 
 小さい店だが、実に美味しいと毎回感動してしまう。御夫婦でおやりになっている。国立に来てもう10年経ったという。僕も2012年に国立に越してきたので同じようなものだ。

国立にて

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 久しぶりに国立に帰った。
 

「理性の限界」 高橋昌一郎

震災を踏まえて本書を読んだ。
 
 今回の震災で最も良く使われる言葉に「想定」がある。「想定外だった」という言い訳があり、「想定内であるべきだった」という反論だが、両者に共通している事は「想定」自体は基本的には可能であるという点だ。
 
「想定外」という意味は「ある一定の与件」の元での「想定」というものが有り、その与件を超えたから問題が起きたという事だ。従い与件自体が間違っていたからしょうがないというロジックになる。与件の不備に関しては国の基準の不備という流れになっていく。
 
 一方「想定内であるべきだ」という論理は、その与件自体が本来想定可能でありながら、それを怠った為に災害が起こったというものだ。
 この二つの議論は不毛ながらも 噛み合っているように見えるのは両者が「人間は想定しうる」という点では一致している点にある。
 
 それに対して本書は「そもそも人間の想定力には限界がある」という問題提起をしているように読んだ。本書で展開される様々な不可能性・不確定性・不完全性を読んでいる内に、今の原発事故を巡る議論に違和感を覚えた。「人間には想定など不可能だ」という前提に立ったとしたら、与件云々といった有る意味では矮小された議論ではなく、「原子力を平和利用する能力が人間にあるのか」という方向性の議論がもう少し大きくなされるべきではないか。
 
 一方、「想定には限界がある」という議論が無力感に向かうことも本書の真意ではないだろう。
 
本書に登場する歴史上の人は限りない能力と情熱で「能力に限界がある」ということに挑んできた人たちだ。彼らには「限界があること」は見えていても、「限界地点」に関しては、出来るだけ遠くにそれを置こうとしてきているように読めた。
 
 では、それを震災に引きつけてどう読めば良いのか。
 
 作者は260-261頁で「感受性」を訴えている。何かに驚きや感動を覚える事の大切さを説いている。これは、そのまま今回の原子力関係者に投げることが出来る強い言葉だ。彼らが無表情で繰り返す「想定」という言葉の中から「欠けている感受性」が見えて来ていないだろうか。「想定できないもの」が外部からやってくるという感受性を忘れてはいなかったろうか。
 
 以上が読後感だ。著者が意図した読み方と全く違うと僕は思う。しかし、今置かれた環境下で読んだことでそうなったということだ。優れた書物には各々の時代に応じて様々な読まれ方がある。難しい一冊ではあったが、大変勉強になった。

パンドラの箱

 今回の震災に関連して議論されている議題の多さと広さに驚いている。
 
日本の原子力行政や原子力自体への問題提起。危機管理のあり方。民主党政治の是非。製造業のサプライチェーンマネジメント。食料問題。電気問題。東京一極集中の是非。経済成長を前提とした人類のあり方への疑問。
 
他にもいくらでも枚挙のいとまは無いだろう。
 
 
これらの問題はいずれも以前から議論は有った。但し、現在ここまで議論を深化させたものは外からやってきた大災害である。
 
僕らには問題は見えていたはずだ。但し、それを見たくないという気持ちも強かったということだろう。人間は自分の見たいものしか見ないとはカエサルの言葉らしいが、まさしくそれが僕らだった。結局見たくない僕らの目をこじ開けたものは震災という暴力
だったということだ。
 
震災は見えにくかった問題を一気に可視化する力がある。机の中に隠していた問題を全て机上に出してしまう強制力を持つ。それが今回はっきりと感じた点だ。
 
 
机の上で投げ出された問題群はグロテスクなものばかりかもしれない。但し、そこでそのグロテスクさを直視する力が、今求められている僕らの視線の強さである。パンドラの箱は開かれてしまったのだ。出てくるものを見ていくしかない。パンドラの箱の最後に出てくるものは「希望」だとギリシャ神話は語っている。今回の箱には何が入っているのだろうか。

不幸な予言者 「世界」5月号

 雑誌「世界」五月号を ゆっくり読んでいるところだ。
 
 今回の震災は今なお「進行中の震災」である。原発事故の行方がどうなるのかは誰にも見えない。東電が工程表なるものを提出してきたが、その実現性に対しては色々な条件が付いているようだ。問題に対して、対策を練り、アクションプランを練ることは死活的に重要だ。但し、それが実行されうるかどうかはまた別問題である。なにしろ、今回の事態は人類にも初めての状況だ。今後を「想定」することの困難さは想像するにかたくない。
 
 「世界」は渾身の特集を組んだと思う。従来から原子力に警鐘を鳴らしてきた同誌は、不幸の予言が当たってしまった予言者と言えるかもしれない。
 本誌でデュピュイという方が以下の通り書いている。
 
 「不幸の予言者が聞く耳を持たれないのは、彼の言葉が、たとえ知識や情報をもたらすものだったとしても、その言葉を向けられた人々の信のシステムに入らないからである。」
 
 これはまさしく「世界」自身を言っている言葉のようにも読める。
 
 
 冒頭の通り 原発問題は「今なお進行中」である。「世界」の原発特集は今回が終わりではない。いや、むしろ始まりということなのだと思う。同誌が今立っている地点とは、遠い未来へと続く長く厳しい道の出発点にしか過ぎないのかもしれない。
 
 今回の不幸な予言は僕らの「信のシステム」に入ったのだろうか。想定以上の津波は有り得ること、原発の安全神話が崩壊したこと、については「信のシステム」に入ったのではないか。但し、それから先の「ポスト3.11」という世界に関して、どのくらい「信のシステム」に入っているのかは覚束ない。何より「ポスト3.11」世界がどのようなものかについて地図も羅針盤も何もないからだ。僕らにとっても、日本にとっても、世界にとっても。
 
その意味では新しい予言者すら登場していないという状況が現在である。見えてこない「ポスト3.11」に目を凝らすことは僕らの義務でもあるのだ。

「災害ユートピア」 レベッカ ソルニット

 東日本大震災を念頭に置いて本書を読んだ。
 
 今回の震災において、日本人の冷静な対応ぶりが世界で評判となった。しかし、本書を読む限り、震災時の市民の互助利他的な対応は日本の特許ではない。本書で展開される世界各国での同様の対応には人類が持つ「社会資本」というものが見える。新自由主義や経済合理性からでは理解できない人間の一つの強さがそこにある。「自分にとっての最適な経済活動」を本能的に取る動物が人間だという考え方から、今回の震災時の市民の対応は説明不能である。
 
 
 一方、災害時のエリートが見せるパニックという視点は大いに勉強になった。
 
エリートから見ると、災害とは自分の既得権=権力が失われる重大な危機であり、パニックを起こすという図式は今回の震災からも見えてくる。
 
特に福島原発を巡る各種混乱は、このエリートパニックという観点で見ると良く理解出来る。原発関連のエリートにとって救助すべき対象は退避している福島県民や農水産業を含む環境問題ではない。それは「自分の地位」なのではないかと感じてしまう場面が多くないか。
 
但し、現場の「エリート」がパニックを起こしているか。具体的には自衛隊、警察の方を意味するわけだが、メディアを見ている限り、今回の震災で彼らが暴挙を働いたという話はない。これは本書が最後に大きく取り上げているニューオリンズのハリケーンカトリーナの事例と大きく違っている。世界が称賛しているのは、案外現場エリートの沈着な対応なのかとすらちょっと考えた程だ。
 
 
日本の社会は閉塞している。赤木智彦という論者は「戦争になる方が良い」とすら語った。戦争になれば、今の固定化された社会が液状化し、弱者のチャンスが来る可能性が、現在より大きくなるだろうという期待だ。
 
今回の震災は戦争ではない。しかし、日本の社会を液状化させる可能性は秘めている。災害を奇貨と出来るかどうか。それこそが震災が起きてしまった日本の力である。
 
 
人間は災害をきっかけに成長してきた。それも本書のメッセージだ。日本は災害が多い国だ。災害が多かったからここまで成長してきたのかもしれない。であるなら、今回の災害をどう克服するのか。それが本書を読みながら絶えず突き付けられた質問であった。